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第五章 氷解と永遠の誓い
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三年後、北方。
秋の陽射しが、ノルトハイム公爵邸の庭を金色に染めていた。
かつて荒涼としていた庭は、今は花で溢れている。リーゼが少しずつ植え替え、育てた花々が季節ごとに咲き誇る。アルヴィンの母が最初に植えた氷花も、庭の一角で凛と咲いていた。
「お母様、見てください。今年もきれいに咲きましたよ」
リーゼは氷花に話しかけた。あの頃と同じように。枯れかけた花に語りかけていた少女は、今はこの屋敷の女主人として、同じことを続けている。
「リーゼ」
背後からアルヴィンの声がした。振り返ると、彼は腕に小さな包みを抱えていた。
いや、包みではない。
毛布に包まれた赤ん坊だった。
「起きたぞ。腹が減ったらしい」
黒髪の赤ん坊が、大きな目を開けてリーゼを見つめている。瞳の色は母親譲りの温かな茶色。だが顔立ちの端正さは、紛れもなくアルヴィンの血だった。
「あら、もう起きたの。よく寝る子だと思ったのに」
リーゼが赤ん坊を受け取ると、小さな手がリーゼの指を握った。たまらなく愛おしくて、胸が熱くなる。
「エリアス」
アルヴィンが息子の名を呼んだ。北方の古い言葉で「光」を意味する名前。リーゼが選び、アルヴィンが頷いた名前だった。
「この子にも、結界の力があるだろうか」
「さあ。でもこの子がどんな力を持っていても、私たちは愛しますよ」
「当然だ」
アルヴィンが短く答えた。だがその目は、妻と息子を見つめる時だけ別人のように温かい。氷の公爵という渾名は、もはや形骸化していた。
この三年で、北方は大きく変わった。
境界壁の結界は完全に修復され、魔物の脅威は過去のものになった。安全が確保されたことで交易路が開かれ、南方との物流が活発になった。ヴィンターフェルトは小さな交易都市として成長し、人口は二倍に増えた。エーデルヴァイスの村にも新しい家が建ち始めている。
リーゼは結界の維持管理に加え、領地の医療にも力を注いでいた。癒やしの力を活かして各地の集落を巡回し、病人や怪我人の治療にあたる。北方の聖女と呼ばれることには慣れたが、リーゼにとっては、目の前の人を助けられることが何よりの喜びだった。
アルヴィンは相変わらず寡黙な領主だったが、リーゼが来てから人当たりが柔らかくなったとハインリヒは言う。
「笑う回数が月に一回から週に三回に増えました。驚異的な成長率です」
「俺は月に一回も笑っていなかったぞ」
「年に一回でしたか。失礼」
「黙れ、ハインリヒ」
このやり取りも、三年間変わらない日常だった。
昼下がり、リーゼはエリアスを抱いて屋敷の前に出た。
秋の風が心地よい。紅葉した木々の葉が風に舞い、エリアスが小さな手でそれを掴もうとしている。
エルザが隣に来て、エリアスに微笑みかけた。
「エリアス坊ちゃまは、今日もお元気ですねえ」
「エルザさん、今日のお昼は何でしたっけ」
「坊ちゃまには南瓜のすり潰しを。リーゼ様とアルヴィン様には鹿肉の煮込みをご用意しています」
「ありがとうございます。いつも本当に」
「何を今更。これが私の仕事であり、喜びですよ」
エルザの笑顔は三年前と変わらない。この人がいなければ、今の自分はない。リーゼは改めてそう思った。
ハインリヒが門の方から歩いてきた。
「リーゼ様、お客様ですよ」
「お客様?」
門の前に一台の馬車が停まっていた。降りてきたのは、一人の女性。
リーゼは目を見開いた。
「姉様」
グレーテルだった。東方の街で裁縫の仕事を始めたと聞いていたが、実際に会うのはあの王都以来だ。
グレーテルは少し痩せたが、顔色は良かった。何より、目の色が違う。かつてのような冷たさはなく、穏やかな光が宿っている。
「リーゼ。お邪魔じゃなかったかしら」
「とんでもない。来てくれたんですね」
「手紙に、いつか遊びに来てと書いてあったでしょう。遅くなったけれど」
グレーテルの視線が、リーゼの腕の中のエリアスに留まった。
「まあ……この子が」
「エリアスです。姉様、抱いてみますか」
グレーテルはおずおずとエリアスを受け取った。小さな命の重みに、目が潤んだ。
「可愛い……。リーゼに似ているわ」
「アルヴィン様に似ていると皆さんおっしゃるんですけどね」
「目元はあなたよ。優しい目をしている」
姉妹は顔を見合わせ、笑った。ぎこちないけれど、温かい笑い。壊れかけた関係が、少しずつ繋ぎ直されていく。
夕暮れ、客人を見送った後、リーゼはエリアスを寝かしつけて屋敷の外に出た。
アルヴィンが門の前に立っていた。夕焼けを背にした長身のシルエット。結婚して三年経っても、この人の後ろ姿を見るたびに胸が高鳴る。
「姉は帰ったか」
「ええ。また来ると言っていました」
「そうか」
二人は並んで歩き出した。屋敷の裏手、雪解けの季節に花が咲く丘。今は紅葉の絨毯が広がっている。
丘の上に立つと、ノルトハイム領の全景が見渡せた。夕日に照らされた平原、点在する集落の灯り、そして遥か北に聳える境界壁。結界の光が壁に沿って静かに脈動している。
「美しいな」
アルヴィンが呟いた。
「はい」
リーゼはアルヴィンの腕に手を添えた。
あの舞踏会の夜から、ここまで来た。捨てられ、傷つき、それでも歩き続けて、今ここに立っている。隣にはこの人がいて、屋敷にはエリアスが眠っていて、温かい人たちが待っている。
失ったものは多かった。でも得たものはもっと多かった。
「アルヴィン様」
「何だ」
「幸せです」
短い言葉だったが、それが全てだった。
アルヴィンはリーゼの肩を引き寄せた。無言のまま。だがその腕の力強さが、全ての答えだった。
夕日が沈み、空が紫から紺に変わっていく。最初の星が灯り、やがて満天の星が北方の空を埋め尽くした。
かつて捨てられた聖女は、誰よりも愛される公爵夫人になった。
そしてこれからも、この北の大地で、愛する人と共に生きていく。
長い冬の先に、必ず春は来る。
それを教えてくれたのは、あの人の温かい手だった。
秋の陽射しが、ノルトハイム公爵邸の庭を金色に染めていた。
かつて荒涼としていた庭は、今は花で溢れている。リーゼが少しずつ植え替え、育てた花々が季節ごとに咲き誇る。アルヴィンの母が最初に植えた氷花も、庭の一角で凛と咲いていた。
「お母様、見てください。今年もきれいに咲きましたよ」
リーゼは氷花に話しかけた。あの頃と同じように。枯れかけた花に語りかけていた少女は、今はこの屋敷の女主人として、同じことを続けている。
「リーゼ」
背後からアルヴィンの声がした。振り返ると、彼は腕に小さな包みを抱えていた。
いや、包みではない。
毛布に包まれた赤ん坊だった。
「起きたぞ。腹が減ったらしい」
黒髪の赤ん坊が、大きな目を開けてリーゼを見つめている。瞳の色は母親譲りの温かな茶色。だが顔立ちの端正さは、紛れもなくアルヴィンの血だった。
「あら、もう起きたの。よく寝る子だと思ったのに」
リーゼが赤ん坊を受け取ると、小さな手がリーゼの指を握った。たまらなく愛おしくて、胸が熱くなる。
「エリアス」
アルヴィンが息子の名を呼んだ。北方の古い言葉で「光」を意味する名前。リーゼが選び、アルヴィンが頷いた名前だった。
「この子にも、結界の力があるだろうか」
「さあ。でもこの子がどんな力を持っていても、私たちは愛しますよ」
「当然だ」
アルヴィンが短く答えた。だがその目は、妻と息子を見つめる時だけ別人のように温かい。氷の公爵という渾名は、もはや形骸化していた。
この三年で、北方は大きく変わった。
境界壁の結界は完全に修復され、魔物の脅威は過去のものになった。安全が確保されたことで交易路が開かれ、南方との物流が活発になった。ヴィンターフェルトは小さな交易都市として成長し、人口は二倍に増えた。エーデルヴァイスの村にも新しい家が建ち始めている。
リーゼは結界の維持管理に加え、領地の医療にも力を注いでいた。癒やしの力を活かして各地の集落を巡回し、病人や怪我人の治療にあたる。北方の聖女と呼ばれることには慣れたが、リーゼにとっては、目の前の人を助けられることが何よりの喜びだった。
アルヴィンは相変わらず寡黙な領主だったが、リーゼが来てから人当たりが柔らかくなったとハインリヒは言う。
「笑う回数が月に一回から週に三回に増えました。驚異的な成長率です」
「俺は月に一回も笑っていなかったぞ」
「年に一回でしたか。失礼」
「黙れ、ハインリヒ」
このやり取りも、三年間変わらない日常だった。
昼下がり、リーゼはエリアスを抱いて屋敷の前に出た。
秋の風が心地よい。紅葉した木々の葉が風に舞い、エリアスが小さな手でそれを掴もうとしている。
エルザが隣に来て、エリアスに微笑みかけた。
「エリアス坊ちゃまは、今日もお元気ですねえ」
「エルザさん、今日のお昼は何でしたっけ」
「坊ちゃまには南瓜のすり潰しを。リーゼ様とアルヴィン様には鹿肉の煮込みをご用意しています」
「ありがとうございます。いつも本当に」
「何を今更。これが私の仕事であり、喜びですよ」
エルザの笑顔は三年前と変わらない。この人がいなければ、今の自分はない。リーゼは改めてそう思った。
ハインリヒが門の方から歩いてきた。
「リーゼ様、お客様ですよ」
「お客様?」
門の前に一台の馬車が停まっていた。降りてきたのは、一人の女性。
リーゼは目を見開いた。
「姉様」
グレーテルだった。東方の街で裁縫の仕事を始めたと聞いていたが、実際に会うのはあの王都以来だ。
グレーテルは少し痩せたが、顔色は良かった。何より、目の色が違う。かつてのような冷たさはなく、穏やかな光が宿っている。
「リーゼ。お邪魔じゃなかったかしら」
「とんでもない。来てくれたんですね」
「手紙に、いつか遊びに来てと書いてあったでしょう。遅くなったけれど」
グレーテルの視線が、リーゼの腕の中のエリアスに留まった。
「まあ……この子が」
「エリアスです。姉様、抱いてみますか」
グレーテルはおずおずとエリアスを受け取った。小さな命の重みに、目が潤んだ。
「可愛い……。リーゼに似ているわ」
「アルヴィン様に似ていると皆さんおっしゃるんですけどね」
「目元はあなたよ。優しい目をしている」
姉妹は顔を見合わせ、笑った。ぎこちないけれど、温かい笑い。壊れかけた関係が、少しずつ繋ぎ直されていく。
夕暮れ、客人を見送った後、リーゼはエリアスを寝かしつけて屋敷の外に出た。
アルヴィンが門の前に立っていた。夕焼けを背にした長身のシルエット。結婚して三年経っても、この人の後ろ姿を見るたびに胸が高鳴る。
「姉は帰ったか」
「ええ。また来ると言っていました」
「そうか」
二人は並んで歩き出した。屋敷の裏手、雪解けの季節に花が咲く丘。今は紅葉の絨毯が広がっている。
丘の上に立つと、ノルトハイム領の全景が見渡せた。夕日に照らされた平原、点在する集落の灯り、そして遥か北に聳える境界壁。結界の光が壁に沿って静かに脈動している。
「美しいな」
アルヴィンが呟いた。
「はい」
リーゼはアルヴィンの腕に手を添えた。
あの舞踏会の夜から、ここまで来た。捨てられ、傷つき、それでも歩き続けて、今ここに立っている。隣にはこの人がいて、屋敷にはエリアスが眠っていて、温かい人たちが待っている。
失ったものは多かった。でも得たものはもっと多かった。
「アルヴィン様」
「何だ」
「幸せです」
短い言葉だったが、それが全てだった。
アルヴィンはリーゼの肩を引き寄せた。無言のまま。だがその腕の力強さが、全ての答えだった。
夕日が沈み、空が紫から紺に変わっていく。最初の星が灯り、やがて満天の星が北方の空を埋め尽くした。
かつて捨てられた聖女は、誰よりも愛される公爵夫人になった。
そしてこれからも、この北の大地で、愛する人と共に生きていく。
長い冬の先に、必ず春は来る。
それを教えてくれたのは、あの人の温かい手だった。
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