私に用はないのでしょう?

たくわん

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あなたの決断を尊重いたします

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春の社交シーズンが終わりを告げようとしていた午後、エレノア・ヴァンスは王都の大聖堂前に立っていた。彼女の手には一通の書簡が握られている。公爵家のアーサー・ブレイクからの、婚約破棄を告げる冷たい文面だった。

五年間。彼女が婚約者として過ごしてきた歳月は、たった一枚の紙切れで無に帰した。

理由は明白だった。三ヶ月前、社交界に突如現れた平民出身の美少女、リディア・ローズ。亜麻色の髪と翡翠の瞳を持つ彼女は、その愛らしさと無垢な笑顔で瞬く間に貴族たちの心を掴んだ。アーサーもその一人だった。

書簡には、こう綴られていた。「エレノア、君は素晴らしい女性だ。だが、私の心はもう君にはない。真実の愛とは、身分や約束を超えるものだと気づいた。リディアこそが私の運命の人だ。君の幸せを祈っている」

運命の人。五年間、婚約者として共に過ごした自分ではなく、三ヶ月前に現れた少女が。エレノアは静かに息を吐いた。怒りも悲しみも、不思議と湧いてこない。ただ、空虚な感覚だけがあった。

「エレノア様、どうなさいましたか」

侍女のマリアが心配そうに声をかける。エレノアは静かに首を横に振った。

「何でもないわ。帰りましょう」

屋敷に戻ると、すでに噂は広まっていた。使用人たちの同情の眼差しが痛い。父ヴァンス子爵は書斎に籠もったきり出てこない。母は寝室で泣き崩れているという。

エレノアは自室に入り、鏡の前に立った。映るのは栗色の髪に灰色の瞳、整った顔立ちではあるが華やかさには欠ける二十二歳の女性。彼女は幼い頃から学問を好み、領地経営や会計に興味を持っていた。社交界では「堅苦しい」「つまらない」と陰口を叩かれることもあった。

アーサーとの婚約は、十七歳の時に両家で決められたものだった。当時、エレノアは公爵家との縁組に喜びを感じていた。アーサーは優しく、教養もあり、理想的な夫になると思っていた。だが、年月が経つにつれ、二人の間には埋めがたい溝が生まれていた。

エレノアが領地経営の話をすれば、アーサーは退屈そうに話題を変えた。会計帳簿に興味を示せば、「女性らしくない」と眉をひそめた。社交パーティーで詩や音楽の話題についていけないエレノアを、アーサーは次第に疎ましく思うようになっていた。

そこにリディアが現れた。彼女は詩を愛し、歌声は天使のようで、社交の才に溢れていた。アーサーにとって、理想の女性だったのだろう。

翌日の社交界は地獄だった。

「あら、エレノア様。お気の毒に」
「アーサー様も、やはりお若い方がお好みなのね」
「身分にこだわりすぎたのが仇になったのかしら」

婦人たちの甘い言葉の裏に隠された悪意。エレノアは微笑みを絶やさず、一つ一つに応じた。だが、アーサーとリディアが腕を組んで現れた瞬間、会場中の視線が彼女に集中した。

リディアは純白のドレスに身を包み、アーサーの腕に寄り添っている。二人は絵に描いたような美しいカップルだった。会場がざわめく。

「エレノア」

アーサーが近づいてくる。彼の隣でリディアが申し訳なさそうに俯いている。

「私も辛い決断だったのだ。だが、心は正直でなければならない。君は素晴らしい女性だが、リディアこそが私の運命の相手なのだ」
「アーサー様、私は…」

リディアが小さな声で割って入る。

「エレノア様には本当に申し訳なく思っています。でも、愛は理性では制御できないもので…」

エレノアは二人を見つめた。リディアの翡翠の瞳には涙が浮かんでいる。アーサーは彼女を守るように肩を抱いている。

「お幸せに、アーサー様。あなたの決断を尊重いたします」

エレノアの声は穏やかだった。周囲がどよめく。もっと激しく抗議するか、泣き崩れるかと期待していた貴婦人たちは、肩透かしを食らった表情だった。

「エレノア…君は本当に強い女性だ」

アーサーが言う。だが、その言葉にはどこか安堵の色が混じっていた。面倒な場面にならずに済んだという安堵。エレノアはそれを敏感に感じ取った。

パーティーが終わり、馬車で帰る途中、エレノアは初めて涙を流した。悲しみではない。怒りでもない。ただ、五年間という時間が無駄だったという虚無感に襲われたのだ。

その夜、父が書斎に彼女を呼んだ。疲れ切った表情の父は、重々しく口を開いた。

「エレノア、お前には辛い話だが…公爵家との婚約破棄により、我が家の立場は著しく悪化した。他家との縁談も難しくなるだろう」

エレノアは予想していた。婚約破棄された女性は、何かしらの欠陥があると見なされる。それが社交界の残酷な現実だった。

「それで…お前に頼みがある」

父は地図を広げた。王国の北東、辺境に位置する小さな領地が示されている。

「我が家には、亡き伯母から相続した辺境の領地がある。グレイハウン領という。この数年、管理を怠っていたため荒廃しているのだが…お前にその再建を任せたい。当面、王都を離れた方が良いだろう」

事実上の追放だった。だがエレノアは頷いた。王都にいても屈辱に耐えるだけだ。むしろ、領地経営という実務に携われることに、小さな希望を感じていた。

「承知いたしました、父上」
「すまない、エレノア。だが、これが最善なのだ」

父の目にも涙が浮かんでいた。愛する娘を辺境に送ることの苦渋が滲んでいる。

「大丈夫です。私は…新しい人生を始めます」

エレノアは微笑んだ。それは、この数日で初めて見せた本物の笑顔だった。

一週間後、エレノアは最小限の荷物と侍女のマリア、そして数名の使用人を連れて王都を発った。母は泣きながら見送り、父は厳しい表情で頷いた。

「必ず成功させます」

エレノアの言葉に、父は初めて柔らかな表情を見せた。

「お前なら、できる。私はそう信じている」

馬車が動き出す。王都の華やかな街並みが遠ざかっていく。エレノアは振り返らなかった。前だけを見つめて。

三日間の馬車の旅は快適とは言えなかった。道は次第に荒れ、宿も粗末になっていく。だが、エレノアは文句を言わなかった。窓の外に広がる田園風景や森林を、興味深く眺めていた。

「奥様、本当に大丈夫でしょうか」

マリアが心配そうに尋ねる。彼女は十歳の時からエレノアに仕えている、忠実な侍女だった。

「大丈夫よ、マリア。むしろ、楽しみだわ。自分の力で何かを成し遂げられるかもしれない」
「奥様は昔から、そういう方でしたね」

マリアが微笑む。幼い頃、庭師の仕事を手伝いたがったエレノア。使用人たちと一緒に家計簿をつけたがったエレノア。彼女の興味は、常に実務の方に向いていた。

三日目の夕方、ようやくグレイハウン領に到着した。辿り着いたのは想像以上に寂れた領地だった。

村は小さく、家々は古びている。領主館も築百年を超える石造りの建物で、庭は雑草に覆われていた。だが、周囲の森は豊かで、小川が清らかな水を湛えている。遠くには山々が連なり、空気は澄んでいる。

「ここが…私たちの新しい家ね」

エレノアは馬車を降り、深呼吸をした。都会の喧騒とは違う、静かで穏やかな空気。悪くない、と彼女は思った。

領主館の扉を開けると、埃っぽい空気が漂っていた。家具には布がかけられ、長年使われていなかったことが分かる。だが、建物自体は頑丈で、修繕すれば十分に住めそうだった。

「まずは掃除からね」

エレノアは袖をまくった。使用人たちと共に、彼女自ら掃除を始める。貴族の令嬢が掃除をするなど前代未聞だが、エレノアは気にしなかった。ここでは、もう社交界の目を気にする必要はないのだから。

数日かけて館を清掃し、最低限の生活環境を整えた。その間、村人たちが何度か様子を見に来た。彼らは新しい領主に不安と期待を抱いているようだった。

一週間後、エレノアは村の集会所に村人全員を集めた。長老、農民、職人、商人。皆が不安そうな顔で彼女を見つめている。

「皆さん、初めまして。私はエレノア・ヴァンスと申します。この領地の新しい領主として参りました」

ざわめきが起こる。若い女性が領主とは、前例がないことだった。

「私は王都から来ました。社交界の華やかさではなく、この土地を豊かにすることに興味があります。そのために、皆さんの力を借りたい。まずは、この領地の現状を教えていただけませんか」

長老が前に出た。六十代半ばの、日焼けした顔の男性だった。

「領主様、我々は長年、まともな統治を受けておりません。税は重く、道は荒れ、若者は都市へ出ていきます。このままでは、村が消えてしまうでしょう」
「具体的に、どのような問題がありますか」

エレノアは手帳を取り出し、メモを始めた。その真剣な態度に、村人たちは驚いた。

「まず、税の徴収方法が古く、不公平です。豊作の年も凶作の年も同じ税率では、農民は苦しみます」
「道路が整備されておらず、商品の運搬が困難です」
「森の木材は豊富ですが、加工する技術がありません」
「水車が壊れたまま放置されています」

次々と問題が挙げられる。エレノアは全てを丁寧にメモした。

「分かりました。まず優先順位をつけて、一つずつ解決していきましょう。税制の改革、道路の整備、そして産業の振興。時間はかかりますが、必ずこの土地を豊かにします」

エレノアの言葉には力があった。村人たちの目に、少しずつ希望の光が灯り始める。

その夜、エレノアは領主館の書斎で、一日かけて集めた情報を整理した。問題は山積だが、解決不可能ではない。必要なのは、計画的なアプローチと忍耐力。そして、村人たちとの信頼関係だ。

翌日から、エレノアは精力的に動き始めた。朝は村を巡回し、農民や職人と話す。午後は会計帳簿を整理し、夜は改革案を練る。休む暇もないほどだったが、彼女は充実感を感じていた。

王都での屈辱的な日々とは違う。ここでは、彼女の能力が必要とされている。それが何より嬉しかった。
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