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あなたの決断を尊重いたします
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春が来た。雪解けと共に、領地には新しい命が芽吹いていた。そして、エレノアとリオンの結婚式が執り行われた。
式は、グレイハウン領とエヴァンス領の境界にある小さな教会で行われた。王都の大聖堂のような豪華さはないが、温かさに満ちていた。
新郎新婦の周りには、両領地の住民たちが集まっていた。子供たちは花を撒き、老人たちは祝福の言葉を述べる。エレノアの両親も王都から駆けつけ、涙を流しながら娘を見守っていた。
「エレノア・ヴァンス、あなたはリオン・エヴァンスを夫として、喜びも悲しみも共に分かち合い、生涯愛し続けることを誓いますか」
「誓います」
エレノアの声は、教会に響いた。
「リオン・エヴァンス、あなたはエレノア・ヴァンスを妻として、喜びも悲しみも共に分かち合い、生涯愛し続けることを誓いますか」
「誓います」
リオンの声は力強かった。
「では、神の御名において、二人を夫婦と認めます」
二人は口づけを交わし、会場から大きな拍手が沸き起こった。
式の後の祝宴は、村の広場で開かれた。長いテーブルが並べられ、料理と酒が振る舞われる。音楽が奏でられ、人々は踊り、笑い、祝福の言葉を述べ合った。
エレノアの父が、リオンの手を取った。
「リオン伯爵、娘をよろしく頼む」
「必ず幸せにします」
リオンの誓いに、父は満足そうに頷いた。
「エレノアは幼い頃から、少し変わった子でした。花よりも帳簿を、舞踏会よりも領地視察を好んだ。社交界では浮いていましたが…あなたはそんな娘の真価を見抜いてくださった」
「いえ、私こそエレノアに救われました。彼女は私の人生に光をもたらしてくれたのです」
母もエレノアを抱きしめた。
「幸せそうね、エレノア」
「はい、母上。私は今、本当に幸せです」
祝宴は夜遅くまで続いた。リオンがエレノアの手を取り、踊りの輪の中へと導く。
「あなたは美しい、エレノア」
「リオン…」
「王都の社交界は、あなたの本当の美しさを見ることができなかった。でも私には見える。あなたの知性、誠実さ、そして優しさ。それが何よりも美しい」
エレノアは幸せで胸が一杯になった。かつて、アーサーは彼女の外見や社交性ばかりを気にした。でもリオンは、彼女の内面を愛してくれる。
その夜、二人は新居となる領主館に入った。二つの領地は正式に統合され、リオンとエレノアが共同で統治することが決まっていた。
「これから私たちの人生が始まるのね」
「ええ。共に、この土地を豊かにしていきましょう」
二人は窓から、月明かりに照らされた領地を見つめた。
それから数ヶ月、領地はさらなる発展を遂げた。木材加工工房に加えて、織物工場も建設された。農業技術の向上により、収穫高は三年前の二倍に達した。道路網が整備され、他の領地との交易も盛んになった。
グレイハウン=エヴァンス領の名は、辺境でありながら模範的な統治の例として、王国中に知られるようになった。学者や他領地の領主たちが視察に訪れ、エレノアとリオンの手法を学んでいった。
一方、王都では公爵家の凋落が加速していた。
アーサーの事業失敗は続き、借金は雪だるま式に増えていった。彼は必死に資金を集めようとしたが、もはや誰も公爵家を信用しなくなっていた。
「アーサー様、もう限界です。領地の一部を売却しなければ…」
執事の進言に、アーサーは頭を抱えた。
「分かっている。分かっているんだ…」
彼の心には、エレノアの顔が浮かんでいた。彼女が何度も忠告してくれたことを、今になって理解した。財政管理の重要性、無謀な投資の危険性、実務能力の必要性。全てを、彼は軽視していた。
そして気づいた。自分が本当に必要としていたのは、リディアのような華やかさではなく、エレノアのような実直さだったのだと。
アーサーはエレノアに何度も手紙を送った。謝罪と助力の懇願。だが、返事は一度も来なかった。
ある日、社交界の集まりで、アーサーは偶然、エレノアの母に会った。
「奥様、エレノアは…お元気でしょうか」
母は冷たい目でアーサーを見た。
「ええ、とても。辺境で幸せな生活を送っております」
「私は…私は彼女を失って初めて、彼女の価値に気づきました。もし可能なら…」
「アーサー様」
母の声は厳しかった。
「娘は過去を振り返っておりません。あなたが彼女を捨てた時、娘は泣きました。でも、それは最後の涙でした。今の娘には、心から彼女を愛し、尊敬してくれる夫がいます。どうか、そっとしておいてください」
アーサーは何も言えなかった。自分には、もうエレノアに手を差し伸べる資格などないのだと悟った。
一年後、エレノアに第一子が生まれた。男の子で、名をエドワードと名付けた。
「リオン、見て。私たちの息子よ」
エレノアは疲れた顔で微笑んだ。リオンは赤ん坊を抱き上げ、優しく見つめた。
「エレノア、ありがとう。君は私に全てを与えてくれた」
赤ん坊の誕生を祝うため、領地中から人々が集まった。贈り物が山のように届き、祝福の言葉が絶えなかった。
「奥様、赤ちゃんは領地の希望ですよ」
村の長老が言う。エレノアは頷いた。
「この子が大きくなる頃には、もっと豊かな土地にしてあげたいわ」
エレノアとリオンは、さらに領地の発展に力を注いだ。学校を建て、子供たちに教育を施した。診療所を設け、医師を招いた。橋を架け、貯水池を造り、灌漑設備を整えた。
二人の統治は、単なる経済発展だけではなく、人々の生活の質を向上させることを目指していた。そして、その努力は確実に実を結んでいった。
三年後、国王自らがグレイハウン=エヴァンス領を視察に訪れた。これは極めて異例のことで、領地の成功が王国全体に認められた証だった。
「リオン伯爵、エレノア伯爵夫人。あなた方の統治は見事だ。辺境でありながら、これほどの繁栄を実現するとは」
国王は満足そうに頷いた。
「陛下、これは私たち二人だけの力ではありません。住民たちの協力と努力の賜物です」
エレノアの言葉に、国王は感心した。
「謙虚でもある。これからも、王国の模範として頑張ってほしい」
視察の後、国王は二人に褒賞を与えた。リオンには公爵位が、エレノアには女伯爵の称号が授けられた。だが、二人にとって最も嬉しかったのは、住民たちの幸せそうな顔だった。
その頃、王都では大きな事件が起きていた。ブレイク公爵家の破産である。
アーサーはあらゆる手段を尽くしたが、もはや立て直すことはできなかった。莫大な借金を抱え、領地の大半を売却し、王都の屋敷さえも手放さざるを得なくなった。
公爵位は剥奪され、アーサーは平民に落ちた。かつて華やかな社交界の中心にいた彼は、今や誰からも顧みられない存在となった。
ある雨の日、アーサーは小さな宿屋に身を寄せていた。窓の外を見つめながら、彼は過去を振り返った。
もし、エレノアと結婚していたら。彼女の忠告に耳を傾けていたら。見栄や華やかさではなく、実務と誠実さを重んじていたら。
全てが、違っていたかもしれない。
でも、もう遅い。エレノアは遠い辺境で、幸せな人生を歩んでいる。自分には、その幸せを祝福することしかできない。
「エレノア…君は正しかった。全てにおいて」
アーサーは小さく呟いた。
数年後、王都で大きな会議が開かれた。王国の統治改革について議論する場で、各地の領主たちが集まっていた。
エレノアとリオンも招待され、久しぶりに王都を訪れた。今や公爵となったリオンと、女伯爵の称号を持つエレノア。二人は王国でも有数の実力者として認められていた。
会議の休憩時間、エレノアは王都の街を歩いた。五年ぶりの王都。かつての屈辱の場所。
だが、今の彼女には何の感慨もなかった。ただ、懐かしいという感覚だけがあった。
ふと、見覚えのある姿が目に入った。アーサーだった。質素な服を着て、商店の前で働いている。かつての面影はあるが、随分と痩せて老けていた。
エレノアは近づくべきか迷った。だが、足は自然と彼の方へ向かっていた。
「アーサー様」
声をかけると、アーサーは振り返った。彼は一瞬、誰か分からない様子だったが、すぐにエレノアだと気づいた。
「エレノア…いや、公爵夫人」
「エレノアで構いません」
二人は少し離れた場所に移動し、立ち話をした。
「君は…美しくなったね。いや、美しさがようやく表に現れたというべきか」
アーサーの声には、羨望も怨恨もなかった。ただ、静かな諦念があった。
「アーサー様、あの時婚約を破棄してくださって、感謝しています。おかげで私は本当の幸せを見つけることができました」
「皮肉だな。私は全てを失い、君は全てを手に入れた」
「いいえ」
エレノアは首を振った。
「私が手に入れたのは、私を必要としてくれる人と、私の力を発揮できる場所。それだけです。でも、それが私にとっての全てでした」
「君は昔から賢かった。私が気づかなかっただけで」
アーサーは苦笑した。
「エレノア、一つだけ聞いていいか。君は私を恨んでいるか」
エレノアは少し考えてから答えた。
「いいえ。恨んではいません。あなたは自分の心に正直だっただけです。そして、その結果がこうなっただけ。人生とは、そういうものでしょう」
「寛大だな、君は」
「違います。私はただ、前を向いて生きているだけです」
二人はしばらく黙っていた。
「では、お元気で」
エレノアは別れを告げた。アーサーは深く頷いた。
「君も。いや、君はもう十分に幸せそうだ。その幸せを、大切にしてほしい」
エレノアは微笑んで、その場を後にした。振り返ることなく。
会議が終わり、リオンが彼女を迎えに来た。
「どうでした?王都は」
リオンが尋ねる。エレノアは夫の手を握った。
「やはり、私たちの領地が一番です。早く帰りましょう」
馬車が王都を離れ、北東へと向かう。窓の外には広がる森と畑、そして小さな村々。かつては荒れ果てていたこの土地も、今では緑豊かで人々の笑顔に満ちている。
「リオン、私たち、まだまだやることがたくさんあるわね」
「ええ。でも、君となら何でもできる」
二人は手を繋いだまま、故郷へと帰っていく。
夕暮れ時、領地に到着した二人を、住民たちが温かく迎えた。子供たちが駆け寄り、老人たちが手を振る。
「お帰りなさいませ、公爵様、奥様」
エレノアは馬車を降り、領主館を見上げた。かつて荒れ果てていた建物は、今では美しく修復され、庭には花が咲き誇っている。
「ただいま」
彼女は小さく呟いた。ここが彼女の居場所。ここが彼女の家。そしてここには、彼女を心から愛し、必要としてくれる人々がいる。
息子のエドワードが、乳母に抱かれて玄関に現れた。
「ママ!パパ!」
三歳になった息子は、両親に駆け寄ってきた。エレノアは息子を抱き上げた。
「エドワード、お利口にしていた?」
「うん!ママとパパが帰ってくるの、待ってたよ」
リオンが二人を抱きしめた。
「これからも、一緒に」
「ええ、これからも」
三人は並んで館へと歩いていく。その背中には、確かな絆と未来への希望が宿っていた。
その夜、エレノアは書斎で日記を綴った。
「今日、久しぶりに王都を訪れた。そして、かつての婚約者に会った。彼は全てを失い、私は全てを得た。でも、それは運命の皮肉ではなく、必然だったのだと思う。人は、自分の選択の結果を生きる。私は辺境を選び、実務を選び、リオンを選んだ。その結果が、今の幸せだ」
「婚約破棄は、私にとって終わりではなく始まりだった。社交界の虚飾から解放され、本当の自分を見つけることができた。そして、本当の愛を知ることができた」
「これからも、この土地と人々のために尽くしていきたい。リオンと共に、息子と共に、新しい未来を創っていきたい」
エレノアはペンを置き、窓の外を見た。月明かりに照らされた領地が、静かに眠っている。
「ありがとう」
彼女は小さく呟いた。この幸せを与えてくれた全てに。そして、婚約を破棄してくれたアーサーにも。
(完)
式は、グレイハウン領とエヴァンス領の境界にある小さな教会で行われた。王都の大聖堂のような豪華さはないが、温かさに満ちていた。
新郎新婦の周りには、両領地の住民たちが集まっていた。子供たちは花を撒き、老人たちは祝福の言葉を述べる。エレノアの両親も王都から駆けつけ、涙を流しながら娘を見守っていた。
「エレノア・ヴァンス、あなたはリオン・エヴァンスを夫として、喜びも悲しみも共に分かち合い、生涯愛し続けることを誓いますか」
「誓います」
エレノアの声は、教会に響いた。
「リオン・エヴァンス、あなたはエレノア・ヴァンスを妻として、喜びも悲しみも共に分かち合い、生涯愛し続けることを誓いますか」
「誓います」
リオンの声は力強かった。
「では、神の御名において、二人を夫婦と認めます」
二人は口づけを交わし、会場から大きな拍手が沸き起こった。
式の後の祝宴は、村の広場で開かれた。長いテーブルが並べられ、料理と酒が振る舞われる。音楽が奏でられ、人々は踊り、笑い、祝福の言葉を述べ合った。
エレノアの父が、リオンの手を取った。
「リオン伯爵、娘をよろしく頼む」
「必ず幸せにします」
リオンの誓いに、父は満足そうに頷いた。
「エレノアは幼い頃から、少し変わった子でした。花よりも帳簿を、舞踏会よりも領地視察を好んだ。社交界では浮いていましたが…あなたはそんな娘の真価を見抜いてくださった」
「いえ、私こそエレノアに救われました。彼女は私の人生に光をもたらしてくれたのです」
母もエレノアを抱きしめた。
「幸せそうね、エレノア」
「はい、母上。私は今、本当に幸せです」
祝宴は夜遅くまで続いた。リオンがエレノアの手を取り、踊りの輪の中へと導く。
「あなたは美しい、エレノア」
「リオン…」
「王都の社交界は、あなたの本当の美しさを見ることができなかった。でも私には見える。あなたの知性、誠実さ、そして優しさ。それが何よりも美しい」
エレノアは幸せで胸が一杯になった。かつて、アーサーは彼女の外見や社交性ばかりを気にした。でもリオンは、彼女の内面を愛してくれる。
その夜、二人は新居となる領主館に入った。二つの領地は正式に統合され、リオンとエレノアが共同で統治することが決まっていた。
「これから私たちの人生が始まるのね」
「ええ。共に、この土地を豊かにしていきましょう」
二人は窓から、月明かりに照らされた領地を見つめた。
それから数ヶ月、領地はさらなる発展を遂げた。木材加工工房に加えて、織物工場も建設された。農業技術の向上により、収穫高は三年前の二倍に達した。道路網が整備され、他の領地との交易も盛んになった。
グレイハウン=エヴァンス領の名は、辺境でありながら模範的な統治の例として、王国中に知られるようになった。学者や他領地の領主たちが視察に訪れ、エレノアとリオンの手法を学んでいった。
一方、王都では公爵家の凋落が加速していた。
アーサーの事業失敗は続き、借金は雪だるま式に増えていった。彼は必死に資金を集めようとしたが、もはや誰も公爵家を信用しなくなっていた。
「アーサー様、もう限界です。領地の一部を売却しなければ…」
執事の進言に、アーサーは頭を抱えた。
「分かっている。分かっているんだ…」
彼の心には、エレノアの顔が浮かんでいた。彼女が何度も忠告してくれたことを、今になって理解した。財政管理の重要性、無謀な投資の危険性、実務能力の必要性。全てを、彼は軽視していた。
そして気づいた。自分が本当に必要としていたのは、リディアのような華やかさではなく、エレノアのような実直さだったのだと。
アーサーはエレノアに何度も手紙を送った。謝罪と助力の懇願。だが、返事は一度も来なかった。
ある日、社交界の集まりで、アーサーは偶然、エレノアの母に会った。
「奥様、エレノアは…お元気でしょうか」
母は冷たい目でアーサーを見た。
「ええ、とても。辺境で幸せな生活を送っております」
「私は…私は彼女を失って初めて、彼女の価値に気づきました。もし可能なら…」
「アーサー様」
母の声は厳しかった。
「娘は過去を振り返っておりません。あなたが彼女を捨てた時、娘は泣きました。でも、それは最後の涙でした。今の娘には、心から彼女を愛し、尊敬してくれる夫がいます。どうか、そっとしておいてください」
アーサーは何も言えなかった。自分には、もうエレノアに手を差し伸べる資格などないのだと悟った。
一年後、エレノアに第一子が生まれた。男の子で、名をエドワードと名付けた。
「リオン、見て。私たちの息子よ」
エレノアは疲れた顔で微笑んだ。リオンは赤ん坊を抱き上げ、優しく見つめた。
「エレノア、ありがとう。君は私に全てを与えてくれた」
赤ん坊の誕生を祝うため、領地中から人々が集まった。贈り物が山のように届き、祝福の言葉が絶えなかった。
「奥様、赤ちゃんは領地の希望ですよ」
村の長老が言う。エレノアは頷いた。
「この子が大きくなる頃には、もっと豊かな土地にしてあげたいわ」
エレノアとリオンは、さらに領地の発展に力を注いだ。学校を建て、子供たちに教育を施した。診療所を設け、医師を招いた。橋を架け、貯水池を造り、灌漑設備を整えた。
二人の統治は、単なる経済発展だけではなく、人々の生活の質を向上させることを目指していた。そして、その努力は確実に実を結んでいった。
三年後、国王自らがグレイハウン=エヴァンス領を視察に訪れた。これは極めて異例のことで、領地の成功が王国全体に認められた証だった。
「リオン伯爵、エレノア伯爵夫人。あなた方の統治は見事だ。辺境でありながら、これほどの繁栄を実現するとは」
国王は満足そうに頷いた。
「陛下、これは私たち二人だけの力ではありません。住民たちの協力と努力の賜物です」
エレノアの言葉に、国王は感心した。
「謙虚でもある。これからも、王国の模範として頑張ってほしい」
視察の後、国王は二人に褒賞を与えた。リオンには公爵位が、エレノアには女伯爵の称号が授けられた。だが、二人にとって最も嬉しかったのは、住民たちの幸せそうな顔だった。
その頃、王都では大きな事件が起きていた。ブレイク公爵家の破産である。
アーサーはあらゆる手段を尽くしたが、もはや立て直すことはできなかった。莫大な借金を抱え、領地の大半を売却し、王都の屋敷さえも手放さざるを得なくなった。
公爵位は剥奪され、アーサーは平民に落ちた。かつて華やかな社交界の中心にいた彼は、今や誰からも顧みられない存在となった。
ある雨の日、アーサーは小さな宿屋に身を寄せていた。窓の外を見つめながら、彼は過去を振り返った。
もし、エレノアと結婚していたら。彼女の忠告に耳を傾けていたら。見栄や華やかさではなく、実務と誠実さを重んじていたら。
全てが、違っていたかもしれない。
でも、もう遅い。エレノアは遠い辺境で、幸せな人生を歩んでいる。自分には、その幸せを祝福することしかできない。
「エレノア…君は正しかった。全てにおいて」
アーサーは小さく呟いた。
数年後、王都で大きな会議が開かれた。王国の統治改革について議論する場で、各地の領主たちが集まっていた。
エレノアとリオンも招待され、久しぶりに王都を訪れた。今や公爵となったリオンと、女伯爵の称号を持つエレノア。二人は王国でも有数の実力者として認められていた。
会議の休憩時間、エレノアは王都の街を歩いた。五年ぶりの王都。かつての屈辱の場所。
だが、今の彼女には何の感慨もなかった。ただ、懐かしいという感覚だけがあった。
ふと、見覚えのある姿が目に入った。アーサーだった。質素な服を着て、商店の前で働いている。かつての面影はあるが、随分と痩せて老けていた。
エレノアは近づくべきか迷った。だが、足は自然と彼の方へ向かっていた。
「アーサー様」
声をかけると、アーサーは振り返った。彼は一瞬、誰か分からない様子だったが、すぐにエレノアだと気づいた。
「エレノア…いや、公爵夫人」
「エレノアで構いません」
二人は少し離れた場所に移動し、立ち話をした。
「君は…美しくなったね。いや、美しさがようやく表に現れたというべきか」
アーサーの声には、羨望も怨恨もなかった。ただ、静かな諦念があった。
「アーサー様、あの時婚約を破棄してくださって、感謝しています。おかげで私は本当の幸せを見つけることができました」
「皮肉だな。私は全てを失い、君は全てを手に入れた」
「いいえ」
エレノアは首を振った。
「私が手に入れたのは、私を必要としてくれる人と、私の力を発揮できる場所。それだけです。でも、それが私にとっての全てでした」
「君は昔から賢かった。私が気づかなかっただけで」
アーサーは苦笑した。
「エレノア、一つだけ聞いていいか。君は私を恨んでいるか」
エレノアは少し考えてから答えた。
「いいえ。恨んではいません。あなたは自分の心に正直だっただけです。そして、その結果がこうなっただけ。人生とは、そういうものでしょう」
「寛大だな、君は」
「違います。私はただ、前を向いて生きているだけです」
二人はしばらく黙っていた。
「では、お元気で」
エレノアは別れを告げた。アーサーは深く頷いた。
「君も。いや、君はもう十分に幸せそうだ。その幸せを、大切にしてほしい」
エレノアは微笑んで、その場を後にした。振り返ることなく。
会議が終わり、リオンが彼女を迎えに来た。
「どうでした?王都は」
リオンが尋ねる。エレノアは夫の手を握った。
「やはり、私たちの領地が一番です。早く帰りましょう」
馬車が王都を離れ、北東へと向かう。窓の外には広がる森と畑、そして小さな村々。かつては荒れ果てていたこの土地も、今では緑豊かで人々の笑顔に満ちている。
「リオン、私たち、まだまだやることがたくさんあるわね」
「ええ。でも、君となら何でもできる」
二人は手を繋いだまま、故郷へと帰っていく。
夕暮れ時、領地に到着した二人を、住民たちが温かく迎えた。子供たちが駆け寄り、老人たちが手を振る。
「お帰りなさいませ、公爵様、奥様」
エレノアは馬車を降り、領主館を見上げた。かつて荒れ果てていた建物は、今では美しく修復され、庭には花が咲き誇っている。
「ただいま」
彼女は小さく呟いた。ここが彼女の居場所。ここが彼女の家。そしてここには、彼女を心から愛し、必要としてくれる人々がいる。
息子のエドワードが、乳母に抱かれて玄関に現れた。
「ママ!パパ!」
三歳になった息子は、両親に駆け寄ってきた。エレノアは息子を抱き上げた。
「エドワード、お利口にしていた?」
「うん!ママとパパが帰ってくるの、待ってたよ」
リオンが二人を抱きしめた。
「これからも、一緒に」
「ええ、これからも」
三人は並んで館へと歩いていく。その背中には、確かな絆と未来への希望が宿っていた。
その夜、エレノアは書斎で日記を綴った。
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「これからも、この土地と人々のために尽くしていきたい。リオンと共に、息子と共に、新しい未来を創っていきたい」
エレノアはペンを置き、窓の外を見た。月明かりに照らされた領地が、静かに眠っている。
「ありがとう」
彼女は小さく呟いた。この幸せを与えてくれた全てに。そして、婚約を破棄してくれたアーサーにも。
(完)
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