私に用はないのでしょう?

たくわん

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婚約破棄された商人の娘、異国の商人に拾われる

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港から吹く潮風が、ソフィアの栗色の髪を揺らした。彼女は交易都市ヴェネツィアーナの中心部にある、父の商会の窓辺に立っていた。眼下には活気ある市場が広がり、商人たちの声が響いている。石畳の通りには色とりどりの商品が並び、異国の香辛料の香りが風に乗って漂ってくる。

二十二歳のソフィアは、この街で三代続く「ロッシ商会」の一人娘だった。幼い頃から帳簿を読み、数字を扱うことが好きだった彼女は、父から商売の基礎を学び、いつかこの商会を継ぎたいと密かに願っていた。

祖父の代から積み重ねてきた信用と実績。誠実な取引で知られるロッシ商会は、決して大きくはないが、堅実な経営で街の人々から信頼されていた。ソフィアは、その伝統を守り、さらに発展させたいと考えていた。

しかし、そんな彼女の人生は、三年前に決まった政略結婚によって大きく変わろうとしていた。

相手は、この街で最大の商会「フィオーレ商会」の御曹司、マルコ・フィオーレ。端正な顔立ちと社交的な性格で知られる青年だった。社交界では常に注目の的で、華やかなパーティーを開催することで有名だった。二つの商会が結びつけば、ヴェネツィアーナ随一の勢力となる。両家にとって、これ以上ない縁談だった。

ソフィアは恋愛感情こそなかったものの、マルコとの結婚を受け入れていた。彼女は実務に長け、マルコは社交に長ける。良い組み合わせだと思っていた。婚約期間中、マルコは時折ロッシ商会を訪れたが、二人が深く語り合うことはなかった。マルコは常に社交の話ばかりで、ソフィアが興味を持つ商売の実務には関心を示さなかった。

それでも、ソフィアは自分なりに前向きに考えようとしていた。結婚後は、自分が実務を担当し、マルコが対外的な顔となる。そうすれば、うまくいくのではないか。そう信じていた。

だが、運命は残酷だった。

「ソフィア、お前との婚約は解消させてもらう」

ロッシ商会の応接室で、マルコは冷たく言い放った。彼の隣には、見たこともないほど華やかな美女が立っていた。金髪に碧眼、絹のドレスに身を包んだ彼女は、まるで絵画から抜け出したような美しさだった。宝石を散りばめたネックレスが、窓から差し込む光を受けて煌めいている。

「こちらはイザベラ・モンテベルデ。南方の大貴族の令嬢だ。彼女と結婚することにした」

ソフィアは言葉を失った。応接室の空気が凍りついたように感じた。

「待って、マルコ。婚約は両家で決めたことよ。あなたの一存で破棄できるものではないわ」

「うちの父も了承済みだ。正直に言えば、お前は地味すぎる。社交の場でも隅に座って帳簿ばかり見ている。笑顔も少ないし、会話も面白くない。商人の妻には、もっと華やかさが必要なんだ。イザベラは社交界の花形で、各地に人脈を持っている。彼女と結婚すれば、フィオーレ商会はさらに発展する」

マルコの言葉は、ソフィアの心に鋭く突き刺さった。確かに自分は社交的ではない。華やかなドレスよりも、実用的な服を好む。パーティーよりも、静かな事務所で数字と向き合う方が好きだ。でも、それがそんなに悪いことなのだろうか。

イザベラが優雅に微笑んだ。

「ソフィア様、お気を悪くなさらないでくださいね。これも商売ですもの。より良い条件の取引があれば、そちらを選ぶのは当然でしょう? あなたも商人の娘なら、理解できるはずですわ」

その言葉の裏に潜む嘲りを、ソフィアは見逃さなかった。イザベラの碧い瞳には、明確な優越感が浮かんでいた。

「それに、マルコはこうおっしゃっていましたわ。『ソフィアは真面目だが、妻としての魅力に欠ける』と。私もそう思いますの。女性は、もっと華やかに、男性を立てるべきですわ」

「イザベラ、その辺にしておけ」

マルコが言ったが、その声には彼女を止める真剣さはなかった。むしろ、どこか満足げにさえ見えた。

ソフィアは立ち上がった。震える手を握りしめ、必死で平静を保とうとした。

「わかりました。婚約破棄、承諾します。どうぞお幸せに」

それだけ言うと、ソフィアは応接室を出た。廊下に出た瞬間、膝が震えた。壁に手をついて、深呼吸をする。涙が溢れそうになるのを、必死で堪えた。

帰宅したソフィアは、父のアントニオに報告した。初老の商人は、深い皺を刻んだ額に手を当てて嘆息した。

「そうか...フィオーレ家からも正式な通告があった。どうやら本気らしい」

「お父様、これからどうすれば」

「大丈夫だ、ソフィア。うちの商会は独力でもやっていける。お前に辛い思いをさせて、すまなかった」

父は娘の肩を抱いた。

「お前は何も悪くない。真面目で誠実で、商人として立派な資質を持っている。それを認めない男は、こちらから願い下げだ」

父の温かい言葉に、ソフィアはようやく涙を流した。

しかし、父の言葉とは裏腹に、状況は悪化の一途をたどった。

婚約破棄の噂は瞬く間に街中に広がった。「ソフィア・ロッシは地味で魅力がない」「帳簿しか見ていない商人娘」「女性らしさに欠ける」という悪評が、社交界に流れた。それは単なる個人的な評判に留まらず、商会の信用にも影響を及ぼし始めた。

そして、それは単なる噂話では終わらなかった。

ロッシ商会の取引先が、次々と契約を打ち切り始めたのだ。

「これは...おかしい」

ソフィアは帳簿を見つめながら呟いた。契約解除の理由は様々だったが、どれも不自然だった。長年取引のあった織物商が、突然「他に良い条件の商会が見つかった」と去っていく。香辛料の仕入れ先が、「輸送路の都合で取引を縮小する」と言ってくる。どの理由も、表面的には筋が通っているように見えるが、全体を見ると明らかに異常だった。

「フィオーレ商会の仕業ね」

ソフィアは確信した。マルコの父、もしくはマルコ自身が、ロッシ商会を潰しにかかっているのだ。婚約破棄だけでは飽き足らず、商売敵として排除するつもりなのだろう。

おそらく、取引先に圧力をかけているのだ。「ロッシ商会と取引を続けるなら、フィオーレ商会との関係を見直す」と。街で最大の商会であるフィオーレと、中規模のロッシ。どちらを選ぶかは明白だった。

商会の収入は三ヶ月で半減した。従業員の給料を払うのもままならない状況になりつつあった。父は必死で新しい取引先を探したが、フィオーレ商会の影響力は街全体に及んでいた。

「ソフィア様、申し訳ありません」

ある日、長年働いてくれていた番頭が頭を下げた。

「私には養うべき家族がおります。このままでは...他の商会に移らせていただきたいのですが」

「わかりました。あなたを責めることはできません。今までありがとうございました」

ソフィアは笑顔で答えたが、心の中では絶望が広がっていた。優秀な従業員が次々と去っていく。残ったのは、老いた父と、ソフィア本人と、数人の若い従業員だけだった。

ある雨の日、ソフィアは港の倉庫で一人、在庫の確認をしていた。湿った木箱の匂いと、遠くで鳴る雷の音。倉庫の中は薄暗く、ランプの明かりだけが頼りだった。

在庫は減る一方だ。新しい仕入れができない。このままでは、半年も持たないかもしれない。

婚約は破棄され、商会は傾き、街での評判は地に落ちた。これからどうすればいいのか。

ソフィアは木箱に腰を下ろし、顔を両手で覆った。もう、限界だった。

「すみません、ロッシ商会の方ですか」

振り返ると、見知らぬ青年が立っていた。

濡れた黒髪、引き締まった体格、そして鋭い灰色の瞳。彼は旅装束に身を包み、大きな荷物を背負っていた。年齢はソフィアと同じくらいだろうか。整った顔立ちだが、社交界の貴族のような華やかさではなく、実務を重ねた者特有の真剣さがあった。

「はい、私がソフィア・ロッシです。どなたですか」

ソフィアは立ち上がり、警戒しながら尋ねた。

「アレクセイ・ノヴァコフと申します。東方のスラヴィア国から来た商人です」

青年は丁寧に頭を下げた。その所作は洗練されていて、きちんとした教育を受けていることがわかった。

「スラヴィア国から? 随分と遠いところから」

「はい。新しい交易路を開拓するため、この街に来ました。取引先を探しているのですが、あなたの商会について聞きました。もしよろしければ、お話を伺いたいのですが」

ソフィアは警戒した。今のロッシ商会と取引したがる商人など、いるはずがない。街中で悪評が流れているのに、わざわざ声をかけてくるとは。何か裏があるのではないか。詐欺か、あるいは何か企んでいるのか。

「今、うちの商会は...良い状態ではありません。他をあたった方がよろしいかと」

「いえ、だからこそお話ししたいのです」

アレクセイは真剣な表情で言った。

「私は街の噂を聞きました。あなたが婚約を破棄され、商会が困難に直面していると。しかし、同時にこうも聞きました。ソフィア・ロッシは、この街で最も数字に強く、誠実な商人だと」

ソフィアは目を見張った。

「誰がそんなことを」

「港の労働者たちです。彼らは正直ですよ。商人の本当の姿を見ていますから。あなたは従業員に公正な賃金を払い、約束は必ず守り、帳簿に一切の不正がない。貨物の扱いも丁寧で、損害が出れば必ず補償する。そういう商人と、私は取引がしたい」

アレクセイは一歩近づいた。

「社交界での評判など、実務には関係ありません。大切なのは、信頼できるかどうかです。私は、あなたのような商人を探していました」

雷鳴が轟いた。アレクセイの言葉は、長い暗闇の中の一筋の光のように思えた。

「...事務所でお話ししましょう」

ソフィアは初めて、かすかに微笑んだ。

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