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辺境に追放されても薬の勉強はやめません
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王都の朝は、いつもせわしない。
石畳の通りを行商人の荷車が音を立てて進み、市場では野菜売りの声が響き渡る。その喧騒の中心部、貴族街の一角に、クレメント薬師家の屋敷はあった。代々王宮に仕える薬師の名門として、三百年の歴史を誇る一族だ。
屋敷の奥、薬草園に面した作業場で、リディアは朝から薬草の選別作業をしていた。
小柄な体を屈めて、乾燥させた薬草の葉を一枚ずつ丁寧に確認する。変色しているものはないか、虫食いの跡はないか。父に教わった通り、慎重に、誠実に。
「まだそんなことやってるの?」
背後から聞こえた声に、リディアは手を止めた。
振り向くと、姉のセレスティアが戸口に立っていた。金色の髪を優雅に結い上げ、深紅のドレスに身を包んでいる。その美貌は王都中に知れ渡っており、「薬師家の薔薇」と讃えられていた。
「おはよう、お姉様」
「その呼び方、やめてって言ってるでしょ。もう宮廷薬師なんだから、セレスティア様、でいいわ」
セレスティアは鼻で笑った。
「それより、父上がお呼びよ。書斎にいらっしゃい」
リディアは慌てて手を洗い、エプロンを外して姉の後を追った。
父、グレゴール・クレメントは書斎の椅子に深く腰掛け、難しい顔で二人を見つめていた。白い髭を蓄えたその顔には、深い皺が刻まれている。
「リディア」
「はい、父上」
「お前を、辺境のアルトハイム村に派遣することにした」
リディアの心臓が、大きく跳ねた。
「辺境……ですか?」
「ああ。村の薬師が高齢で引退するそうだ。後任が必要になる」
「でも、私はまだ修行中で——」
「お前にできることは、もうこの屋敷にはない」
父の言葉は冷たかった。
セレスティアが優雅に微笑む。
「リディア、あなたには才能がないの。いくら勉強しても、宮廷薬師になれるような腕じゃない。父上も私も、ずっと気を遣ってきたのよ」
「お姉様……」
「辺境なら、簡単な風邪薬や湿布くらいで済むでしょう? あなたにぴったりじゃない」
リディアは唇を噛んだ。
確かに、姉のような華々しい才能はない。複雑な調合を一度で成功させることも、珍しい薬草の名前を即座に答えることもできない。
でも、それでも——。
「父上、もう少しだけ、修行の時間を——」
「決定事項だ。来週には出発してもらう」
グレゴールは書類に目を落とした。
「支度をしておきなさい。以上だ」
リディアは深く頭を下げ、書斎を後にした。
廊下を歩きながら、涙が溢れそうになるのを必死で堪える。
自分の部屋に戻ると、リディアは窓辺に立った。
王都の街並みが眼下に広がっている。生まれてからずっと、この景色を見てきた。ここが自分の居場所だと信じて、薬師として生きることを夢見てきた。
でも、もうこの街にはいられない。
棚に並んだ薬草学の本を見つめる。
父や、すでに亡くなった母が使っていた古い書物たち。ページの端は擦り切れ、余白には無数の書き込みがある。リディアは何度も何度も読み返し、一文字たりとも見逃すまいと必死に学んできた。
「才能がない、か……」
姉の言葉が胸に突き刺さる。
確かに、セレスティアのように鮮やかな手つきで薬を調合することはできない。でも、リディアには別の強みがあると信じていた。
丁寧さ。誠実さ。そして、諦めない心。
「辺境でも、できることはある」
リディアは拳を握った。
追放されたも同然の状況だけれど、腐ってはいけない。どこに行っても、薬師は薬師だ。人々を癒し、苦しみを和らげる。それが自分の道なのだから。
一週間後、リディアは王都を発つ馬車に揺られていた。
荷台には、自分の私物と、最低限の薬草や調合器具が積まれている。父は必要最小限のものしか持たせてくれなかった。予算がないと言っていたが、本音は違うだろう。期待していないのだ。
御者台の男が声をかけてくる。
「嬢ちゃん、アルトハイム村は初めてかい?」
「ええ、初めてです」
「そうかい。まあ、悪い場所じゃないよ。人は少ないし、何もない村だけどな。ただ……」
男は言葉を濁した。
「ただ?」
「近くに、公爵様の屋敷があるんだ。イーサリアス公爵って、聞いたことあるかい?」
リディアは首を傾げた。
「いえ……」
「まあ、そうだろうな。あの方は、もう十年以上も屋敷に籠もりきりでね。『呪われた公爵』って、皆が呼んでる」
「呪われた?」
「ああ。原因不明の病で、体が少しずつ衰弱していくんだとさ。王都から名医を何人も呼んだけど、誰も治せなかった。それで、人に会うのをやめちまったんだ」
御者は肩をすくめた。
「まあ、村人には関係ない話だけどな。嬢ちゃんも、関わらない方がいいよ」
リディアは黙って頷いた。
でも、心の中で何かが引っかかる。
原因不明の病——。
王都の名医たちが治せなかった病——。
もしかしたら、薬草の組み合わせが間違っていたのかもしれない。あるいは、診断そのものが……。
「考えても仕方ないわ」
リディアは首を振った。
自分は追放された、才能のない薬師だ。名医たちができなかったことを、自分ができるはずがない。
馬車は山道を登り始めた。
木々が鬱蒼と茂り、日光を遮る。空気が少しずつ冷たくなっていく。
やがて、小さな村が見えてきた。
石造りの家が二十軒ほど、寄り添うように並んでいる。畑では村人たちが作業をしており、子供たちが走り回っている。
「着いたよ。アルトハイム村だ」
御者が馬車を止めた。
リディアは荷物を降ろし、深呼吸をした。
ここが、新しい生活の始まりだ。
村の中心に、古い石造りの建物があった。看板には「薬師の家」と書かれている。
扉を開けると、白髪の老人が椅子に座っていた。
「あんたが、新しい薬師かね?」
「はい。リディア・クレメントと申します」
「ほう、クレメント家の。それは心強い」
老人——前任の薬師、バルトロメウスは優しく微笑んだ。
「まあ、この村は平和だからね。大した怪我も病気もない。簡単な風邪薬と、たまに捻挫の湿布を作れば十分だよ」
「承知しました」
「薬草は裏の畑で育ててる。引き継ぎは今日中に終わらせよう。明日には、わしは息子の家に行くからね」
バルトロメウスは立ち上がり、リディアに薬草畑を案内した。
種類は多くない。基本的な風邪薬や傷薬に使う薬草だけだ。
「これで、十分なんですか?」
「十分さ。この村にはね」
リディアは複雑な気持ちで頷いた。
王都では、何百種類もの薬草を扱っていた。珍しい病気や貴族の美容のための特別な調合も学んできた。
でも、ここでは必要ない。
「才能がない自分には、ちょうどいいのかもしれない」
そう自分に言い聞かせた。
夕方、バルトロメウスが最後の荷物をまとめていると、扉が勢いよく開いた。
「薬師様! 薬師様!」
息を切らせた若い男が飛び込んできた。
「どうした、トマス?」
「公爵様の屋敷から使いが! 薬師を至急呼んでくれって!」
バルトロメウスの顔が曇った。
「また、か……。わしが行っても、何もできんのだが」
「でも!」
「新しい薬師が来たんだ。この子に任せよう」
バルトロメウスはリディアを見た。
「無理はせんでいいよ。行って、診るだけでいい。何もできなくても、誰も責めやしない。あの方の病は、誰にも治せないんだから」
リディアは息を呑んだ。
呪われた公爵——イーサリアス公爵。
御者が話していた、原因不明の病に苦しむ貴族。
「わかりました。行きます」
リディアは薬箱を手に取った。
何ができるかわからない。
でも、苦しんでいる人がいるなら、薬師として向かわなければならない。
それが、自分の道なのだから。
トマスに案内され、リディアは森の中の小道を歩いた。
木々の間から、大きな屋敷が見えてくる。
石造りの重厚な建物。でも、窓という窓に厚いカーテンが引かれ、庭は荒れ果てている。
まるで、世界から切り離されたような——。
「ここが、公爵様の屋敷です」
トマスは門の前で立ち止まった。
「僕は、ここまでしか……」
「ありがとう。一人で大丈夫です」
リディアは門を押し開けた。
軋んだ音を立てて、門がゆっくりと開く。
荒れた庭を抜け、玄関の扉を叩く。
しばらくして、初老の執事が現れた。
「薬師様ですね。どうぞ、こちらへ」
執事に導かれ、リディアは暗い廊下を進んだ。
燭台の明かりだけが頼りで、足元がよく見えない。
やがて、重厚な扉の前で執事が立ち止まった。
「公爵様は、こちらに」
扉が開かれる。
部屋の中は、さらに暗かった。
窓は完全に閉ざされ、ベッドの周りにだけ、かすかな明かりがある。
そして、ベッドに横たわる人影。
リディアは息を呑んだ。
それは、信じられないほど美しい男だった。
銀色の髪、彫刻のように整った顔立ち。でも、その肌は病的なまでに白く、唇には血の気がない。
「また、薬師か……」
男——イーサリアス公爵は、疲れ切った声で呟いた。
「もう何人目だ。誰も、この病を治せはしない」
「イーサリアス公爵様、ですね?」
リディアは、ベッドに近づいた。
「僭越ながら、診察をさせていただけますか?」
「好きにしろ。どうせ、無駄だ」
公爵は目を閉じた。
リディアは震える手で、公爵の手首を取った。
脈を診る。
弱い。とても弱い。
でも、不規則ではない。
「症状を、教えていただけますか?」
「……体が、日に日に衰弱していく。食事も喉を通らない。痛みはないが、力が入らない」
「いつから、ですか?」
「三年前だ。突然、始まった」
リディアは公爵の顔色を見た。唇の色、目の下の隈。
そして——。
「失礼します」
リディアは公爵の首元を確かめた。
そこに、わずかな発疹があった。
小さく、見落としやすい。でも、確かにある。
リディアの心臓が、速く打ち始めた。
この症状——。
どこかで読んだことがある。
母の古い医学書に——。
「もしかして……」
リディアは薬箱を開けた。
手が震える。
でも、やらなければ。
これが、自分の最初の仕事なのだから。
石畳の通りを行商人の荷車が音を立てて進み、市場では野菜売りの声が響き渡る。その喧騒の中心部、貴族街の一角に、クレメント薬師家の屋敷はあった。代々王宮に仕える薬師の名門として、三百年の歴史を誇る一族だ。
屋敷の奥、薬草園に面した作業場で、リディアは朝から薬草の選別作業をしていた。
小柄な体を屈めて、乾燥させた薬草の葉を一枚ずつ丁寧に確認する。変色しているものはないか、虫食いの跡はないか。父に教わった通り、慎重に、誠実に。
「まだそんなことやってるの?」
背後から聞こえた声に、リディアは手を止めた。
振り向くと、姉のセレスティアが戸口に立っていた。金色の髪を優雅に結い上げ、深紅のドレスに身を包んでいる。その美貌は王都中に知れ渡っており、「薬師家の薔薇」と讃えられていた。
「おはよう、お姉様」
「その呼び方、やめてって言ってるでしょ。もう宮廷薬師なんだから、セレスティア様、でいいわ」
セレスティアは鼻で笑った。
「それより、父上がお呼びよ。書斎にいらっしゃい」
リディアは慌てて手を洗い、エプロンを外して姉の後を追った。
父、グレゴール・クレメントは書斎の椅子に深く腰掛け、難しい顔で二人を見つめていた。白い髭を蓄えたその顔には、深い皺が刻まれている。
「リディア」
「はい、父上」
「お前を、辺境のアルトハイム村に派遣することにした」
リディアの心臓が、大きく跳ねた。
「辺境……ですか?」
「ああ。村の薬師が高齢で引退するそうだ。後任が必要になる」
「でも、私はまだ修行中で——」
「お前にできることは、もうこの屋敷にはない」
父の言葉は冷たかった。
セレスティアが優雅に微笑む。
「リディア、あなたには才能がないの。いくら勉強しても、宮廷薬師になれるような腕じゃない。父上も私も、ずっと気を遣ってきたのよ」
「お姉様……」
「辺境なら、簡単な風邪薬や湿布くらいで済むでしょう? あなたにぴったりじゃない」
リディアは唇を噛んだ。
確かに、姉のような華々しい才能はない。複雑な調合を一度で成功させることも、珍しい薬草の名前を即座に答えることもできない。
でも、それでも——。
「父上、もう少しだけ、修行の時間を——」
「決定事項だ。来週には出発してもらう」
グレゴールは書類に目を落とした。
「支度をしておきなさい。以上だ」
リディアは深く頭を下げ、書斎を後にした。
廊下を歩きながら、涙が溢れそうになるのを必死で堪える。
自分の部屋に戻ると、リディアは窓辺に立った。
王都の街並みが眼下に広がっている。生まれてからずっと、この景色を見てきた。ここが自分の居場所だと信じて、薬師として生きることを夢見てきた。
でも、もうこの街にはいられない。
棚に並んだ薬草学の本を見つめる。
父や、すでに亡くなった母が使っていた古い書物たち。ページの端は擦り切れ、余白には無数の書き込みがある。リディアは何度も何度も読み返し、一文字たりとも見逃すまいと必死に学んできた。
「才能がない、か……」
姉の言葉が胸に突き刺さる。
確かに、セレスティアのように鮮やかな手つきで薬を調合することはできない。でも、リディアには別の強みがあると信じていた。
丁寧さ。誠実さ。そして、諦めない心。
「辺境でも、できることはある」
リディアは拳を握った。
追放されたも同然の状況だけれど、腐ってはいけない。どこに行っても、薬師は薬師だ。人々を癒し、苦しみを和らげる。それが自分の道なのだから。
一週間後、リディアは王都を発つ馬車に揺られていた。
荷台には、自分の私物と、最低限の薬草や調合器具が積まれている。父は必要最小限のものしか持たせてくれなかった。予算がないと言っていたが、本音は違うだろう。期待していないのだ。
御者台の男が声をかけてくる。
「嬢ちゃん、アルトハイム村は初めてかい?」
「ええ、初めてです」
「そうかい。まあ、悪い場所じゃないよ。人は少ないし、何もない村だけどな。ただ……」
男は言葉を濁した。
「ただ?」
「近くに、公爵様の屋敷があるんだ。イーサリアス公爵って、聞いたことあるかい?」
リディアは首を傾げた。
「いえ……」
「まあ、そうだろうな。あの方は、もう十年以上も屋敷に籠もりきりでね。『呪われた公爵』って、皆が呼んでる」
「呪われた?」
「ああ。原因不明の病で、体が少しずつ衰弱していくんだとさ。王都から名医を何人も呼んだけど、誰も治せなかった。それで、人に会うのをやめちまったんだ」
御者は肩をすくめた。
「まあ、村人には関係ない話だけどな。嬢ちゃんも、関わらない方がいいよ」
リディアは黙って頷いた。
でも、心の中で何かが引っかかる。
原因不明の病——。
王都の名医たちが治せなかった病——。
もしかしたら、薬草の組み合わせが間違っていたのかもしれない。あるいは、診断そのものが……。
「考えても仕方ないわ」
リディアは首を振った。
自分は追放された、才能のない薬師だ。名医たちができなかったことを、自分ができるはずがない。
馬車は山道を登り始めた。
木々が鬱蒼と茂り、日光を遮る。空気が少しずつ冷たくなっていく。
やがて、小さな村が見えてきた。
石造りの家が二十軒ほど、寄り添うように並んでいる。畑では村人たちが作業をしており、子供たちが走り回っている。
「着いたよ。アルトハイム村だ」
御者が馬車を止めた。
リディアは荷物を降ろし、深呼吸をした。
ここが、新しい生活の始まりだ。
村の中心に、古い石造りの建物があった。看板には「薬師の家」と書かれている。
扉を開けると、白髪の老人が椅子に座っていた。
「あんたが、新しい薬師かね?」
「はい。リディア・クレメントと申します」
「ほう、クレメント家の。それは心強い」
老人——前任の薬師、バルトロメウスは優しく微笑んだ。
「まあ、この村は平和だからね。大した怪我も病気もない。簡単な風邪薬と、たまに捻挫の湿布を作れば十分だよ」
「承知しました」
「薬草は裏の畑で育ててる。引き継ぎは今日中に終わらせよう。明日には、わしは息子の家に行くからね」
バルトロメウスは立ち上がり、リディアに薬草畑を案内した。
種類は多くない。基本的な風邪薬や傷薬に使う薬草だけだ。
「これで、十分なんですか?」
「十分さ。この村にはね」
リディアは複雑な気持ちで頷いた。
王都では、何百種類もの薬草を扱っていた。珍しい病気や貴族の美容のための特別な調合も学んできた。
でも、ここでは必要ない。
「才能がない自分には、ちょうどいいのかもしれない」
そう自分に言い聞かせた。
夕方、バルトロメウスが最後の荷物をまとめていると、扉が勢いよく開いた。
「薬師様! 薬師様!」
息を切らせた若い男が飛び込んできた。
「どうした、トマス?」
「公爵様の屋敷から使いが! 薬師を至急呼んでくれって!」
バルトロメウスの顔が曇った。
「また、か……。わしが行っても、何もできんのだが」
「でも!」
「新しい薬師が来たんだ。この子に任せよう」
バルトロメウスはリディアを見た。
「無理はせんでいいよ。行って、診るだけでいい。何もできなくても、誰も責めやしない。あの方の病は、誰にも治せないんだから」
リディアは息を呑んだ。
呪われた公爵——イーサリアス公爵。
御者が話していた、原因不明の病に苦しむ貴族。
「わかりました。行きます」
リディアは薬箱を手に取った。
何ができるかわからない。
でも、苦しんでいる人がいるなら、薬師として向かわなければならない。
それが、自分の道なのだから。
トマスに案内され、リディアは森の中の小道を歩いた。
木々の間から、大きな屋敷が見えてくる。
石造りの重厚な建物。でも、窓という窓に厚いカーテンが引かれ、庭は荒れ果てている。
まるで、世界から切り離されたような——。
「ここが、公爵様の屋敷です」
トマスは門の前で立ち止まった。
「僕は、ここまでしか……」
「ありがとう。一人で大丈夫です」
リディアは門を押し開けた。
軋んだ音を立てて、門がゆっくりと開く。
荒れた庭を抜け、玄関の扉を叩く。
しばらくして、初老の執事が現れた。
「薬師様ですね。どうぞ、こちらへ」
執事に導かれ、リディアは暗い廊下を進んだ。
燭台の明かりだけが頼りで、足元がよく見えない。
やがて、重厚な扉の前で執事が立ち止まった。
「公爵様は、こちらに」
扉が開かれる。
部屋の中は、さらに暗かった。
窓は完全に閉ざされ、ベッドの周りにだけ、かすかな明かりがある。
そして、ベッドに横たわる人影。
リディアは息を呑んだ。
それは、信じられないほど美しい男だった。
銀色の髪、彫刻のように整った顔立ち。でも、その肌は病的なまでに白く、唇には血の気がない。
「また、薬師か……」
男——イーサリアス公爵は、疲れ切った声で呟いた。
「もう何人目だ。誰も、この病を治せはしない」
「イーサリアス公爵様、ですね?」
リディアは、ベッドに近づいた。
「僭越ながら、診察をさせていただけますか?」
「好きにしろ。どうせ、無駄だ」
公爵は目を閉じた。
リディアは震える手で、公爵の手首を取った。
脈を診る。
弱い。とても弱い。
でも、不規則ではない。
「症状を、教えていただけますか?」
「……体が、日に日に衰弱していく。食事も喉を通らない。痛みはないが、力が入らない」
「いつから、ですか?」
「三年前だ。突然、始まった」
リディアは公爵の顔色を見た。唇の色、目の下の隈。
そして——。
「失礼します」
リディアは公爵の首元を確かめた。
そこに、わずかな発疹があった。
小さく、見落としやすい。でも、確かにある。
リディアの心臓が、速く打ち始めた。
この症状——。
どこかで読んだことがある。
母の古い医学書に——。
「もしかして……」
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手が震える。
でも、やらなければ。
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