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シマの風邪が治った日、空に暗雲が立ち込めた。
午後から降り始めた雨は、夕方には本格的な嵐に変わった。稲妻が空を切り裂き、雷鳴が大地を揺らす。窓を叩く雨音は、まるで無数の拳が家に侵入しようとしているかのようだった。
セレスティアは暖炉に火を入れ、リビングで縮こまっていた。
こんな嵐は初めてだった。王都にも雨は降るが、これほど激しいものは記憶にない。屋敷は軋み、風が隙間から入り込んでくる。
庭の猫たちは、嵐が来る前に姿を消していた。おそらくどこかに避難しているのだろう。野良猫として生きてきた彼らは、天候の変化に敏感だ。
ただ一匹、ミケだけが心配だった。
あの人間嫌いの三毛猫は、他の猫たちと一緒にいるだろうか。それとも、どこかで一人ぼっちで震えているのだろうか。
窓の外を見つめても、雨で何も見えない。
祈るような気持ちで、セレスティアは暖炉の前に座っていた。
激しいノックの音がしたのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
こんな嵐の中、誰が。
不安を感じながら玄関を開けると、そこにはずぶ濡れのノアが立っていた。
黒い髪が顔に張り付き、服は完全に水を吸って重そうに垂れ下がっている。その腕には、段ボール箱が抱えられていた。
「ノアさん!? こんな嵐の中、何を……」
「入れてくれ」
ノアの声は、いつもより切迫していた。
セレスティアは慌てて道を開け、ノアを中に入れた。
リビングに入ると、ノアは段ボール箱をそっとテーブルの上に置いた。中を覗いたセレスティアは、息を飲んだ。
子猫だ。
生まれて間もない、小さな子猫が三匹。古いタオルの上で、弱々しく身を寄せ合っている。目はまだ開いていない。
「川辺で見つけた」
ノアが低い声で言った。
「誰かが捨てたんだ。箱ごと、川に流れかけていた」
セレスティアは胸が締め付けられた。
生まれたばかりの子猫を、こんな嵐の夜に川に捨てる人間がいる。その残酷さが信じられなかった。
「助かるんですか」
「分からない」
ノアは正直に答えた。
「体温が下がっている。このままでは危ない。温めて、ミルクを与えなければ」
「私に、何かできることは」
「うちにはもう場所がない。十三匹でいっぱいだ」
ノアがセレスティアを見た。
いつもの無愛想な目ではない。必死さと、そしてかすかな懇願が見える。
「手伝ってくれ」
セレスティアは迷わず頷いた。
「分かりました。何をすればいいですか」
「まず、温める。暖炉の近くに箱を置け。それと、湯たんぽか、温めた布がいる」
「すぐに用意します」
セレスティアは飛ぶように動いた。
台所で湯を沸かし、布を温める。祖母の寝室から見つけた古い湯たんぽに湯を入れ、タオルで包む。段ボール箱を暖炉の近くに移し、中に湯たんぽを入れた。
その間、ノアは子猫たちを一匹ずつ診察していた。
「三匹とも衰弱しているが、致命的ではない。温めれば持ち直す可能性がある」
「ミルクは、どうすれば」
「猫用のミルクがいるが……」
ノアが自分の鞄を探った。中から、小さな哺乳瓶と粉ミルクの缶を取り出す。
「持ってきた。湯で溶いて、人肌より少し温かいくらいにしてくれ」
「分かりました」
ミルクを作る手が震えていた。
この小さな命が、自分の手にかかっている。
粉ミルクを湯に溶かし、温度を確かめる。熱すぎず、冷たすぎず。哺乳瓶に入れ、ノアに渡した。
ノアは一匹目の子猫を抱き上げた。
手のひらにすっぽり収まるほど小さな体。目を閉じたまま、か細い声で鳴いている。
ノアが哺乳瓶の先を子猫の口元に近づけると、子猫は本能的に吸い付いた。
「飲んでる……」
セレスティアは安堵の声を漏らした。
「一匹ずつ、順番に飲ませる」
ノアが言った。
「一度に大量に飲ませると、吐いてしまう。少しずつ、時間をかけて」
二人で交代しながら、三匹の子猫にミルクを与えた。
最初の子猫は比較的元気で、すぐにミルクを飲み干した。二匹目は少し弱っていたが、根気よく続けると飲み始めた。
問題は三匹目だった。
一番小さな子猫は、哺乳瓶を近づけても反応しない。目を閉じたまま、ぐったりとしている。
「この子、飲んでくれません」
セレスティアの声が震えた。
ノアが子猫を受け取り、口元を確認した。
「弱りすぎて、吸う力がない」
「どうすれば……」
「スポイトがいる」
ノアは鞄を探ったが、首を横に振った。
「持ってきていない。くそ」
「待ってください」
セレスティアは立ち上がり、祖母の書斎に走った。
確か、インク瓶の横にスポイトがあった。祖母が薬を測るのに使っていたもの。
探し回り、ようやく見つけて戻ると、ノアがわずかに目を見開いた。
「……あったのか」
「祖母のものです」
ノアはスポイトを消毒し、ミルクを吸い上げた。子猫の口元にスポイトの先を当て、少しずつミルクを垂らす。
子猫の小さな舌が動いた。
「飲んでる」
セレスティアは祈るように見守った。
ノアは根気よく、一滴ずつミルクを与え続けた。その手つきは驚くほど優しく、繊細だった。
深夜を過ぎ、子猫たちは安定してきた。
三匹とも暖かい箱の中で、身を寄せ合って眠っている。弱っていた三匹目も、少しずつ体温が戻ってきたようだった。
「峠は越えた」
ノアがようやく言った。
「朝まで温め続ければ、おそらく大丈夫だ」
セレスティアは脱力して、椅子に沈み込んだ。
「よかった……本当によかった……」
ふと、ノアを見ると、彼はまだ濡れた服のままだった。
「ノアさん、着替えは……」
「いい。乾く」
「駄目です、風邪をひきます」
セレスティアは立ち上がり、祖母の部屋から乾いたタオルと、祖父が昔着ていたという大きなシャツを持ってきた。
「これを使ってください」
ノアは一瞬躊躇したが、やがて受け取った。
「……すまない」
彼が隣の部屋で着替えている間、セレスティアは台所でお茶を淹れた。
戻ってきたノアは、少し滑稽な姿だった。彼には大きすぎるシャツが、だぶだぶに余っている。
でも、その姿を笑う気にはなれなかった。
嵐の中を走り回り、捨てられた子猫を救い、濡れ鼠になりながらここまで来てくれた人。
「お茶、どうぞ」
「ああ」
二人で暖炉の前に座り、温かいお茶を飲んだ。
窓の外では、まだ雨が降り続いている。しかし、嵐のピークは過ぎたようだった。雷鳴も遠ざかり、雨音も少し穏やかになっている。
しばらく無言が続いた。
でも、気まずい沈黙ではなかった。同じ目的のために力を合わせた後の、心地よい疲労感。
「……ありがとう」
ノアがぽつりと言った。
セレスティアは驚いて顔を上げた。
「え?」
「助かった。一人では無理だった」
その言葉は、ノアにとって精一杯の感謝なのだろう。
セレスティアは微笑んだ。
「私こそ、ありがとうございます。こんな嵐の夜に、子猫たちを助けに行くなんて」
「放っておけなかった」
ノアは箱の中の子猫たちを見つめた。
「こいつらには、何の罪もない。人間の都合で捨てられて、死にかけて……」
その声には、静かな怒りと、深い悲しみが込められていた。
「人間は残酷だ」
「でも」
セレスティアは言った。
「ノアさんも人間です。こうして子猫たちを助けてくれる人間もいます」
ノアはセレスティアを見た。
「……お前も、な」
「私?」
「お前も、断らなかった。こんな面倒なことを」
セレスティアは首を横に振った。
「面倒なんかじゃありません。この子たちを放っておけないのは、私も同じです」
ノアは何か言いかけて、口を閉じた。
代わりに、小さく息を吐いた。
夜が更け、二人は交代で子猫たちを見守った。
二時間おきにミルクを与え、体温を確認し、様子を観察する。地道な作業だが、命を守るためには欠かせない。
ノアが仮眠を取っている間、セレスティアは一人で子猫たちを見守った。
三匹の小さな命が、規則正しく呼吸している。
こんなに小さな体なのに、こんなに必死に生きようとしている。
涙が滲んだ。
王都にいた頃、命について真剣に考えたことがあっただろうか。
着飾ることや、社交辞令や、見栄えのいい婚約者。そんなことばかり気にして、本当に大切なことから目を背けていた。
でも今は違う。
この小さな命を守ることが、今の自分にとって一番大切なことだ。
明け方、雨が止んだ。
窓から差し込む薄明かりの中、子猫たちは元気そうに身じろぎしていた。
「良くなってる」
起きてきたノアが、子猫たちを診察して言った。
「体温も安定した。もう大丈夫だ」
セレスティアは安堵のあまり、思わず涙ぐんだ。
「よかった……本当によかった……」
ノアはセレスティアを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「泣き虫だな」
「だって……」
「悪い意味じゃない」
ノアは窓の外を見た。雨上がりの空に、朝日が差し込み始めている。
「こいつら、しばらくここで預かってもらえるか」
「もちろんです」
「二時間おきにミルクをやって、様子を見てくれ。何かあったら、すぐに呼べ」
「分かりました」
ノアは立ち上がり、借りていたシャツを脱いだ。自分の服はまだ完全には乾いていなかったが、それでも羽織った。
「乾いてから帰ればいいのに」
「患者が待ってる。村の誰かが体調を崩してるかもしれない」
嵐の後は、体調を崩す人が増える。医師として、のんびりしている暇はないのだろう。
玄関で見送る時、セレスティアは言った。
「ノアさん」
「何だ」
「本当に、ありがとうございました」
ノアは振り返らなかった。
「……お前こそ」
それだけ言って、彼は朝日の中を歩いていった。
セレスティアは、その背中が見えなくなるまで見送った。
リビングに戻り、子猫たちの箱を覗き込んだ。
三匹は身を寄せ合い、安らかに眠っている。
「おはよう」
セレスティアは小さく声をかけた。
「これからよろしくね」
子猫たちが目を覚まし、自分の足で歩き回れるようになる日が来るのだろう。その時、この子たちはどんな性格になるのだろう。
楽しみだった。
そして、ふと気づいた。
ノアと一緒に過ごした一晩が、不思議と心地よかったことに。
あの無愛想な医師と、言葉少なに同じ目標に向かって働いた時間。
それは、社交界のどんな華やかな夜会よりも、充実していた。
窓の外で、鳥が鳴いた。
新しい一日が始まる。
セレスティアは微笑んで、子猫たちのためのミルクを作り始めた。
午後から降り始めた雨は、夕方には本格的な嵐に変わった。稲妻が空を切り裂き、雷鳴が大地を揺らす。窓を叩く雨音は、まるで無数の拳が家に侵入しようとしているかのようだった。
セレスティアは暖炉に火を入れ、リビングで縮こまっていた。
こんな嵐は初めてだった。王都にも雨は降るが、これほど激しいものは記憶にない。屋敷は軋み、風が隙間から入り込んでくる。
庭の猫たちは、嵐が来る前に姿を消していた。おそらくどこかに避難しているのだろう。野良猫として生きてきた彼らは、天候の変化に敏感だ。
ただ一匹、ミケだけが心配だった。
あの人間嫌いの三毛猫は、他の猫たちと一緒にいるだろうか。それとも、どこかで一人ぼっちで震えているのだろうか。
窓の外を見つめても、雨で何も見えない。
祈るような気持ちで、セレスティアは暖炉の前に座っていた。
激しいノックの音がしたのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
こんな嵐の中、誰が。
不安を感じながら玄関を開けると、そこにはずぶ濡れのノアが立っていた。
黒い髪が顔に張り付き、服は完全に水を吸って重そうに垂れ下がっている。その腕には、段ボール箱が抱えられていた。
「ノアさん!? こんな嵐の中、何を……」
「入れてくれ」
ノアの声は、いつもより切迫していた。
セレスティアは慌てて道を開け、ノアを中に入れた。
リビングに入ると、ノアは段ボール箱をそっとテーブルの上に置いた。中を覗いたセレスティアは、息を飲んだ。
子猫だ。
生まれて間もない、小さな子猫が三匹。古いタオルの上で、弱々しく身を寄せ合っている。目はまだ開いていない。
「川辺で見つけた」
ノアが低い声で言った。
「誰かが捨てたんだ。箱ごと、川に流れかけていた」
セレスティアは胸が締め付けられた。
生まれたばかりの子猫を、こんな嵐の夜に川に捨てる人間がいる。その残酷さが信じられなかった。
「助かるんですか」
「分からない」
ノアは正直に答えた。
「体温が下がっている。このままでは危ない。温めて、ミルクを与えなければ」
「私に、何かできることは」
「うちにはもう場所がない。十三匹でいっぱいだ」
ノアがセレスティアを見た。
いつもの無愛想な目ではない。必死さと、そしてかすかな懇願が見える。
「手伝ってくれ」
セレスティアは迷わず頷いた。
「分かりました。何をすればいいですか」
「まず、温める。暖炉の近くに箱を置け。それと、湯たんぽか、温めた布がいる」
「すぐに用意します」
セレスティアは飛ぶように動いた。
台所で湯を沸かし、布を温める。祖母の寝室から見つけた古い湯たんぽに湯を入れ、タオルで包む。段ボール箱を暖炉の近くに移し、中に湯たんぽを入れた。
その間、ノアは子猫たちを一匹ずつ診察していた。
「三匹とも衰弱しているが、致命的ではない。温めれば持ち直す可能性がある」
「ミルクは、どうすれば」
「猫用のミルクがいるが……」
ノアが自分の鞄を探った。中から、小さな哺乳瓶と粉ミルクの缶を取り出す。
「持ってきた。湯で溶いて、人肌より少し温かいくらいにしてくれ」
「分かりました」
ミルクを作る手が震えていた。
この小さな命が、自分の手にかかっている。
粉ミルクを湯に溶かし、温度を確かめる。熱すぎず、冷たすぎず。哺乳瓶に入れ、ノアに渡した。
ノアは一匹目の子猫を抱き上げた。
手のひらにすっぽり収まるほど小さな体。目を閉じたまま、か細い声で鳴いている。
ノアが哺乳瓶の先を子猫の口元に近づけると、子猫は本能的に吸い付いた。
「飲んでる……」
セレスティアは安堵の声を漏らした。
「一匹ずつ、順番に飲ませる」
ノアが言った。
「一度に大量に飲ませると、吐いてしまう。少しずつ、時間をかけて」
二人で交代しながら、三匹の子猫にミルクを与えた。
最初の子猫は比較的元気で、すぐにミルクを飲み干した。二匹目は少し弱っていたが、根気よく続けると飲み始めた。
問題は三匹目だった。
一番小さな子猫は、哺乳瓶を近づけても反応しない。目を閉じたまま、ぐったりとしている。
「この子、飲んでくれません」
セレスティアの声が震えた。
ノアが子猫を受け取り、口元を確認した。
「弱りすぎて、吸う力がない」
「どうすれば……」
「スポイトがいる」
ノアは鞄を探ったが、首を横に振った。
「持ってきていない。くそ」
「待ってください」
セレスティアは立ち上がり、祖母の書斎に走った。
確か、インク瓶の横にスポイトがあった。祖母が薬を測るのに使っていたもの。
探し回り、ようやく見つけて戻ると、ノアがわずかに目を見開いた。
「……あったのか」
「祖母のものです」
ノアはスポイトを消毒し、ミルクを吸い上げた。子猫の口元にスポイトの先を当て、少しずつミルクを垂らす。
子猫の小さな舌が動いた。
「飲んでる」
セレスティアは祈るように見守った。
ノアは根気よく、一滴ずつミルクを与え続けた。その手つきは驚くほど優しく、繊細だった。
深夜を過ぎ、子猫たちは安定してきた。
三匹とも暖かい箱の中で、身を寄せ合って眠っている。弱っていた三匹目も、少しずつ体温が戻ってきたようだった。
「峠は越えた」
ノアがようやく言った。
「朝まで温め続ければ、おそらく大丈夫だ」
セレスティアは脱力して、椅子に沈み込んだ。
「よかった……本当によかった……」
ふと、ノアを見ると、彼はまだ濡れた服のままだった。
「ノアさん、着替えは……」
「いい。乾く」
「駄目です、風邪をひきます」
セレスティアは立ち上がり、祖母の部屋から乾いたタオルと、祖父が昔着ていたという大きなシャツを持ってきた。
「これを使ってください」
ノアは一瞬躊躇したが、やがて受け取った。
「……すまない」
彼が隣の部屋で着替えている間、セレスティアは台所でお茶を淹れた。
戻ってきたノアは、少し滑稽な姿だった。彼には大きすぎるシャツが、だぶだぶに余っている。
でも、その姿を笑う気にはなれなかった。
嵐の中を走り回り、捨てられた子猫を救い、濡れ鼠になりながらここまで来てくれた人。
「お茶、どうぞ」
「ああ」
二人で暖炉の前に座り、温かいお茶を飲んだ。
窓の外では、まだ雨が降り続いている。しかし、嵐のピークは過ぎたようだった。雷鳴も遠ざかり、雨音も少し穏やかになっている。
しばらく無言が続いた。
でも、気まずい沈黙ではなかった。同じ目的のために力を合わせた後の、心地よい疲労感。
「……ありがとう」
ノアがぽつりと言った。
セレスティアは驚いて顔を上げた。
「え?」
「助かった。一人では無理だった」
その言葉は、ノアにとって精一杯の感謝なのだろう。
セレスティアは微笑んだ。
「私こそ、ありがとうございます。こんな嵐の夜に、子猫たちを助けに行くなんて」
「放っておけなかった」
ノアは箱の中の子猫たちを見つめた。
「こいつらには、何の罪もない。人間の都合で捨てられて、死にかけて……」
その声には、静かな怒りと、深い悲しみが込められていた。
「人間は残酷だ」
「でも」
セレスティアは言った。
「ノアさんも人間です。こうして子猫たちを助けてくれる人間もいます」
ノアはセレスティアを見た。
「……お前も、な」
「私?」
「お前も、断らなかった。こんな面倒なことを」
セレスティアは首を横に振った。
「面倒なんかじゃありません。この子たちを放っておけないのは、私も同じです」
ノアは何か言いかけて、口を閉じた。
代わりに、小さく息を吐いた。
夜が更け、二人は交代で子猫たちを見守った。
二時間おきにミルクを与え、体温を確認し、様子を観察する。地道な作業だが、命を守るためには欠かせない。
ノアが仮眠を取っている間、セレスティアは一人で子猫たちを見守った。
三匹の小さな命が、規則正しく呼吸している。
こんなに小さな体なのに、こんなに必死に生きようとしている。
涙が滲んだ。
王都にいた頃、命について真剣に考えたことがあっただろうか。
着飾ることや、社交辞令や、見栄えのいい婚約者。そんなことばかり気にして、本当に大切なことから目を背けていた。
でも今は違う。
この小さな命を守ることが、今の自分にとって一番大切なことだ。
明け方、雨が止んだ。
窓から差し込む薄明かりの中、子猫たちは元気そうに身じろぎしていた。
「良くなってる」
起きてきたノアが、子猫たちを診察して言った。
「体温も安定した。もう大丈夫だ」
セレスティアは安堵のあまり、思わず涙ぐんだ。
「よかった……本当によかった……」
ノアはセレスティアを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「泣き虫だな」
「だって……」
「悪い意味じゃない」
ノアは窓の外を見た。雨上がりの空に、朝日が差し込み始めている。
「こいつら、しばらくここで預かってもらえるか」
「もちろんです」
「二時間おきにミルクをやって、様子を見てくれ。何かあったら、すぐに呼べ」
「分かりました」
ノアは立ち上がり、借りていたシャツを脱いだ。自分の服はまだ完全には乾いていなかったが、それでも羽織った。
「乾いてから帰ればいいのに」
「患者が待ってる。村の誰かが体調を崩してるかもしれない」
嵐の後は、体調を崩す人が増える。医師として、のんびりしている暇はないのだろう。
玄関で見送る時、セレスティアは言った。
「ノアさん」
「何だ」
「本当に、ありがとうございました」
ノアは振り返らなかった。
「……お前こそ」
それだけ言って、彼は朝日の中を歩いていった。
セレスティアは、その背中が見えなくなるまで見送った。
リビングに戻り、子猫たちの箱を覗き込んだ。
三匹は身を寄せ合い、安らかに眠っている。
「おはよう」
セレスティアは小さく声をかけた。
「これからよろしくね」
子猫たちが目を覚まし、自分の足で歩き回れるようになる日が来るのだろう。その時、この子たちはどんな性格になるのだろう。
楽しみだった。
そして、ふと気づいた。
ノアと一緒に過ごした一晩が、不思議と心地よかったことに。
あの無愛想な医師と、言葉少なに同じ目標に向かって働いた時間。
それは、社交界のどんな華やかな夜会よりも、充実していた。
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