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秋の冷たい風が頬を撫でた。エリーゼは粗末なマントを身に纏い、街へと向かう道を歩いていた。
「市場で最高級の絹糸を買ってきなさい。ロザリンドのドレスの刺繍に使うから。それから、香水も。一番高いやつよ」
継母に渡された買い物リストには、贅沢品がずらりと並んでいた。重い荷物を持って帰ることになるだろう。だが、エリーゼにとっては、屋敷を出られる貴重な機会だった。
街は活気に満ちていた。商人たちの呼び声、買い物客の笑い声、子供たちの遊ぶ声。エリーゼは久しぶりの外の空気を深く吸い込んだ。
粗末な服装をしているが、エリーゼの立ち居振る舞いには、どこか気品が滲み出ていた。背筋を伸ばし、顎を少し上げて歩く姿は、使用人のそれではなかった。
「お嬢さん、新鮮な林檎はいかが?」
「いえ、結構です」
丁寧に断る言葉遣いに、商人は少し驚いた様子だった。
市場で買い物を済ませ、重い荷物を抱えて帰路につこうとした時、突然悲鳴が上がった。
「危ない!」
振り向くと、制御を失った馬車が猛スピードで突っ込んでくる。その先には、道路で遊んでいた小さな男の子がいた。
周囲の人々は動けずにいる。
エリーゼは荷物を投げ出し、走った。
男の子を抱き上げ、道路の脇に飛び込む。馬車は轟音を立てて、すぐ横を通り過ぎていった。
「大丈夫?」
男の子を確認すると、幸い怪我はないようだった。だが、エリーゼ自身は石畳に激しく打ちつけられ、腕と膝を擦りむいていた。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
男の子の母親らしき女性が駆け寄ってきた。涙を流しながら、息子を抱きしめる。
「息子を助けてくださって……何とお礼を言えば」
「いえ、無事でよかったです」
エリーゼは微笑んだ。痛みはあったが、子供が助かったのなら、それで十分だった。
「怪我をしていらっしゃる。手当てを」
「大丈夫です。これくらい」
立ち上がろうとしたが、膝の痛みで思わずよろめいた。
「お待ちください」
落ち着いた男性の声が聞こえた。
振り向くと、そこには見知らぬ男性が立っていた。
質素だが上質な服を着た、背の高い青年だった。金色の髪と深い青の瞳。整った顔立ちには、知性と優しさが宿っている。
「怪我をされている。手当てをさせてください」
「いえ、本当に大丈夫ですので……」
「いや、そうはいかない。あなたは勇敢にも子供を救った。その怪我を放っておくわけにはいかない」
男性はそう言うと、近くの店に声をかけた。
「すみません、少し場所を借りられますか」
店主は男性の雰囲気に圧倒されたのか、すぐに奥の部屋を案内した。
エリーゼは椅子に座らされ、男性が自ら手当てをしてくれた。
「痛みますか?」
「少し……でも、大丈夫です」
丁寧に傷を洗い、薬を塗る。その手つきは慣れたもので、優しかった。
「あなたの行動は、本当に勇敢でした」
「いえ、当然のことをしただけです」
「当然のこと、か」
男性は微笑んだ。
「多くの人が立ち尽くしていた中で、あなただけが動いた。それは簡単なことではない」
「……ありがとうございます」
手当てが終わり、エリーゼは立ち上がった。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「エリーゼです」
「エリーゼ。美しい名前ですね」
男性は柔らかく微笑んだ。
「私はアレックスと申します。商人をしております」
「アレックス様、お世話になりました」
「いえ、当然のことをしただけですよ」
エリーゼの言葉を繰り返し、アレックスは笑った。
「ところで、その荷物はどうされました?」
「あ……」
エリーゼは慌てて外に出た。投げ出した荷物が、道路に散らばっている。幸い、絹糸も香水の瓶も無事なようだった。
「お手伝いしましょう」
アレックスも一緒に荷物を拾い集めてくれた。
「随分と重い荷物ですね。お一人で持って帰られるのですか」
「はい」
「それは大変だ。よろしければ、お送りしましょうか」
「いえ、そこまでしていただくわけには」
「遠慮なさらず。怪我もされているのですから」
アレックスは荷物の半分を持ち、エリーゼと並んで歩き始めた。
「あなたは、この街の方ですか」
「はい。生まれてからずっと」
「私は隣国から来ました。この街の市場を視察に」
「商人の方なのですね」
「ええ。様々な国を回って、商売をしています」
二人は歩きながら、様々なことを話した。
アレックスは知識が豊富で、話していて飽きなかった。文学や歴史、音楽のことまで、幅広い教養を持っている。
「エリーゼは、本を読まれますか」
「はい、読むのが好きです。最近は……」
エリーゼは少し躊躇したが、続けた。
「最近は古典詩を読んでいます。母が好きだったので」
「素晴らしい。古典詩は人間の本質を映す鏡ですからね。どの詩人がお好きですか」
「ヴェルギリウスの作品が好きです」
「おお、『アエネイス』ですか」
アレックスの目が輝いた。
「運命に翻弄されながらも、使命を全うしようとするアエネイアスの姿には、心を打たれますね」
「はい。特に、故郷を失いながらも前を向いて進む姿に、勇気をもらいます」
エリーゼの言葉に、アレックスは優しい眼差しを向けた。
「あなたもまた、何か困難に直面しているのですか」
「……少し」
エリーゼは曖昧に答えた。
「でも、いつか必ず乗り越えられると信じています」
「その強さが、先ほどの勇敢な行動に繋がったのでしょうね」
屋敷が見えてきて、エリーゼは足を止めた。
「ここまでで結構です。ありがとうございました」
「ここがあなたの……」
アレックスは立派な屋敷を見上げた。貴族の邸宅だ。
「使用人の方なのですね」
エリーゼは答えなかった。否定もできないし、肯定もしたくなかった。
「では、これで」
「待ってください、エリーゼ」
アレックスが呼び止めた。
「また、お会いできますか」
エリーゼは驚いて振り向いた。
「え?」
「あなたと話していると、とても心が落ち着くのです。もっと、いろいろなことを語り合いたい」
「でも、私は……」
「明日、同じ時間にあの市場の東の広場にいます。もしよろしければ、いらしてください」
アレックスは微笑んで、立ち去った。
エリーゼは呆然と、その後ろ姿を見送った。
胸が高鳴っている。こんな感覚は初めてだった。
「お帰りが遅いじゃないの!」
屋敷に入ると、すぐに継母の叱責が飛んできた。
「申し訳ございません。市場が混んでおりまして」
「言い訳はいいから、さっさと荷物を渡しなさい」
荷物を渡すと、継母は中身を確認した。
「傷だらけじゃない! これ、どうしたの!」
「道で転んでしまいまして……」
「使えない子ね。本当に」
エリーゼは黙って頭を下げた。
だが、心の中では、アレックスとの出会いを思い返していた。
あの優しい眼差し。知的な会話。そして、「また会いたい」という言葉。
屋根裏部屋に戻ると、エリーゼは窓辺に座った。
「明日、行ってもいいのだろうか」
小さく呟く。
理性では、危険かもしれないと告げている。だが、心は強く、もう一度会いたいと叫んでいた。
母のペンダントを握りしめる。
「お母様なら、何と言うだろう」
きっと、母は微笑んで言うだろう。
「あなたの心に従いなさい」と。
エリーゼは決めた。
明日、もう一度あの広場に行こう。
初めて、自分の意志で選んだ道。
それがどこに続いているのか、まだ分からない。
だが、胸の高鳴りが、これが正しい選択だと教えていた。
窓の外の星が、祝福するように瞬いていた。
「市場で最高級の絹糸を買ってきなさい。ロザリンドのドレスの刺繍に使うから。それから、香水も。一番高いやつよ」
継母に渡された買い物リストには、贅沢品がずらりと並んでいた。重い荷物を持って帰ることになるだろう。だが、エリーゼにとっては、屋敷を出られる貴重な機会だった。
街は活気に満ちていた。商人たちの呼び声、買い物客の笑い声、子供たちの遊ぶ声。エリーゼは久しぶりの外の空気を深く吸い込んだ。
粗末な服装をしているが、エリーゼの立ち居振る舞いには、どこか気品が滲み出ていた。背筋を伸ばし、顎を少し上げて歩く姿は、使用人のそれではなかった。
「お嬢さん、新鮮な林檎はいかが?」
「いえ、結構です」
丁寧に断る言葉遣いに、商人は少し驚いた様子だった。
市場で買い物を済ませ、重い荷物を抱えて帰路につこうとした時、突然悲鳴が上がった。
「危ない!」
振り向くと、制御を失った馬車が猛スピードで突っ込んでくる。その先には、道路で遊んでいた小さな男の子がいた。
周囲の人々は動けずにいる。
エリーゼは荷物を投げ出し、走った。
男の子を抱き上げ、道路の脇に飛び込む。馬車は轟音を立てて、すぐ横を通り過ぎていった。
「大丈夫?」
男の子を確認すると、幸い怪我はないようだった。だが、エリーゼ自身は石畳に激しく打ちつけられ、腕と膝を擦りむいていた。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
男の子の母親らしき女性が駆け寄ってきた。涙を流しながら、息子を抱きしめる。
「息子を助けてくださって……何とお礼を言えば」
「いえ、無事でよかったです」
エリーゼは微笑んだ。痛みはあったが、子供が助かったのなら、それで十分だった。
「怪我をしていらっしゃる。手当てを」
「大丈夫です。これくらい」
立ち上がろうとしたが、膝の痛みで思わずよろめいた。
「お待ちください」
落ち着いた男性の声が聞こえた。
振り向くと、そこには見知らぬ男性が立っていた。
質素だが上質な服を着た、背の高い青年だった。金色の髪と深い青の瞳。整った顔立ちには、知性と優しさが宿っている。
「怪我をされている。手当てをさせてください」
「いえ、本当に大丈夫ですので……」
「いや、そうはいかない。あなたは勇敢にも子供を救った。その怪我を放っておくわけにはいかない」
男性はそう言うと、近くの店に声をかけた。
「すみません、少し場所を借りられますか」
店主は男性の雰囲気に圧倒されたのか、すぐに奥の部屋を案内した。
エリーゼは椅子に座らされ、男性が自ら手当てをしてくれた。
「痛みますか?」
「少し……でも、大丈夫です」
丁寧に傷を洗い、薬を塗る。その手つきは慣れたもので、優しかった。
「あなたの行動は、本当に勇敢でした」
「いえ、当然のことをしただけです」
「当然のこと、か」
男性は微笑んだ。
「多くの人が立ち尽くしていた中で、あなただけが動いた。それは簡単なことではない」
「……ありがとうございます」
手当てが終わり、エリーゼは立ち上がった。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「エリーゼです」
「エリーゼ。美しい名前ですね」
男性は柔らかく微笑んだ。
「私はアレックスと申します。商人をしております」
「アレックス様、お世話になりました」
「いえ、当然のことをしただけですよ」
エリーゼの言葉を繰り返し、アレックスは笑った。
「ところで、その荷物はどうされました?」
「あ……」
エリーゼは慌てて外に出た。投げ出した荷物が、道路に散らばっている。幸い、絹糸も香水の瓶も無事なようだった。
「お手伝いしましょう」
アレックスも一緒に荷物を拾い集めてくれた。
「随分と重い荷物ですね。お一人で持って帰られるのですか」
「はい」
「それは大変だ。よろしければ、お送りしましょうか」
「いえ、そこまでしていただくわけには」
「遠慮なさらず。怪我もされているのですから」
アレックスは荷物の半分を持ち、エリーゼと並んで歩き始めた。
「あなたは、この街の方ですか」
「はい。生まれてからずっと」
「私は隣国から来ました。この街の市場を視察に」
「商人の方なのですね」
「ええ。様々な国を回って、商売をしています」
二人は歩きながら、様々なことを話した。
アレックスは知識が豊富で、話していて飽きなかった。文学や歴史、音楽のことまで、幅広い教養を持っている。
「エリーゼは、本を読まれますか」
「はい、読むのが好きです。最近は……」
エリーゼは少し躊躇したが、続けた。
「最近は古典詩を読んでいます。母が好きだったので」
「素晴らしい。古典詩は人間の本質を映す鏡ですからね。どの詩人がお好きですか」
「ヴェルギリウスの作品が好きです」
「おお、『アエネイス』ですか」
アレックスの目が輝いた。
「運命に翻弄されながらも、使命を全うしようとするアエネイアスの姿には、心を打たれますね」
「はい。特に、故郷を失いながらも前を向いて進む姿に、勇気をもらいます」
エリーゼの言葉に、アレックスは優しい眼差しを向けた。
「あなたもまた、何か困難に直面しているのですか」
「……少し」
エリーゼは曖昧に答えた。
「でも、いつか必ず乗り越えられると信じています」
「その強さが、先ほどの勇敢な行動に繋がったのでしょうね」
屋敷が見えてきて、エリーゼは足を止めた。
「ここまでで結構です。ありがとうございました」
「ここがあなたの……」
アレックスは立派な屋敷を見上げた。貴族の邸宅だ。
「使用人の方なのですね」
エリーゼは答えなかった。否定もできないし、肯定もしたくなかった。
「では、これで」
「待ってください、エリーゼ」
アレックスが呼び止めた。
「また、お会いできますか」
エリーゼは驚いて振り向いた。
「え?」
「あなたと話していると、とても心が落ち着くのです。もっと、いろいろなことを語り合いたい」
「でも、私は……」
「明日、同じ時間にあの市場の東の広場にいます。もしよろしければ、いらしてください」
アレックスは微笑んで、立ち去った。
エリーゼは呆然と、その後ろ姿を見送った。
胸が高鳴っている。こんな感覚は初めてだった。
「お帰りが遅いじゃないの!」
屋敷に入ると、すぐに継母の叱責が飛んできた。
「申し訳ございません。市場が混んでおりまして」
「言い訳はいいから、さっさと荷物を渡しなさい」
荷物を渡すと、継母は中身を確認した。
「傷だらけじゃない! これ、どうしたの!」
「道で転んでしまいまして……」
「使えない子ね。本当に」
エリーゼは黙って頭を下げた。
だが、心の中では、アレックスとの出会いを思い返していた。
あの優しい眼差し。知的な会話。そして、「また会いたい」という言葉。
屋根裏部屋に戻ると、エリーゼは窓辺に座った。
「明日、行ってもいいのだろうか」
小さく呟く。
理性では、危険かもしれないと告げている。だが、心は強く、もう一度会いたいと叫んでいた。
母のペンダントを握りしめる。
「お母様なら、何と言うだろう」
きっと、母は微笑んで言うだろう。
「あなたの心に従いなさい」と。
エリーゼは決めた。
明日、もう一度あの広場に行こう。
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