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その日は、いつもより早く市場に着いた。
エリーゼは東の広場で、アレックスを待っていた。約束の時間を過ぎても、彼は現れない。
さらに一時間待っても、来なかった。
「どうしたのだろう」
不安が込み上げてくる。こんなことは初めてだった。
結局、その日アレックスは現れなかった。
翌日も、その翌日も。
一週間が過ぎた。
エリーゼは毎日市場に通ったが、アレックスの姿はなかった。
「何かあったのだろうか」
心配と寂しさで、胸が押し潰されそうだった。
あの優しい笑顔も、知的な会話も、もう二度と味わえないのだろうか。
屋敷での日々が、また灰色に戻っていった。
「エリーゼ、何をぼんやりしているの! さっさと掃除をしなさい!」
継母の叱責も、義姉たちの意地悪も、以前より辛く感じた。
アレックスとの時間があったからこそ、耐えられていたのだと気づく。
その日の夜、セバスチャンが屋根裏部屋を訪ねてきた。
「お嬢様、少しよろしいでしょうか」
「はい、セバスチャン」
「実は、お伝えすべきかどうか迷ったのですが……」
セバスチャンは深刻な表情をしていた。
「隣国ヴェルディア王国との国境で、小さな武力衝突があったようです」
「え?」
「すぐに鎮圧されたようですが、王族の方々は皆、緊急で宮殿に召還されたとか」
「王族……」
エリーゼの胸に、嫌な予感が走った。
「お嬢様がお会いしていた方は、商人だとおっしゃっていましたね」
「はい」
「本当に、そうでしょうか」
セバスチャンの言葉に、エリーゼは息を呑んだ。
「まさか……」
「私も確証はありません。ですが、あの方の立ち居振る舞い、教養の深さ、そして何より、お嬢様に向けられたあの真摯な眼差し」
セバスチャンは静かに続けた。
「ただの商人とは思えませんでした」
「では、アレックス様は……」
「もしかすると、ヴェルディア王国の方かもしれません」
エリーゼは椅子に座り込んだ。
全てが繋がった。幅広い教養、品のある立ち居振る舞い、各国を「視察」していると言っていたこと。
「もし本当に王族の方だとしたら……」
エリーゼの声が震えた。
「私のような者が、恋をするなど……」
「お嬢様」
セバスチャンは優しく言った。
「あの方は、お嬢様を一人の女性として愛されていました。身分など、関係なかったはずです」
「でも……」
涙が溢れた。
どうりで、彼は自分に優しかったのだ。王族として、多くの人を見てきた彼にとって、エリーゼの苦境など、哀れに映ったのかもしれない。
「私は、勘違いしていたのです」
「お嬢様、そうではないと思います」
「では、なぜ何も言わずに去ったのですか」
「緊急の召還だったのでしょう。お嬢様に別れを告げる時間もなかったのだと」
だが、エリーゼの心は冷えていった。
身分違いの恋。それは最初から、叶うはずのないものだった。
数日後、街は大きな話題で持ちきりだった。
「聞いた? ヴェルディア王国の第一王子殿下が、この街に来ていたらしいわよ」
「変装して市場を視察されていたんですって」
「まあ、なんて素敵な王子様なのかしら」
市場で買い物をしていたエリーゼは、その会話を耳にして立ち止まった。
「アレクシス王子様って言うのよ。金髪で、とてもハンサムなんですって」
「アレクシス……」
エリーゼの口から、小さく名前が漏れた。
アレックス。それは、アレクシスの愛称だったのだ。
「やはり……」
全てが確信に変わった。
自分が恋をした相手は、隣国の王子だった。
「なんて、愚かだったのだろう」
エリーゼは唇を噛んだ。
使用人同然の扱いを受けている没落令嬢と、王国の第一王子。その差は、天と地ほども離れている。
屋敷に戻ると、エリーゼは屋根裏部屋に閉じこもった。
「お母様……」
母のペンダントを握りしめる。
「私は、分不相応な恋をしてしまいました」
涙が止まらなかった。
あの優しい笑顔も、心温まる会話も、全ては一時の夢だった。
王子はきっと、もう自分のことなど忘れているだろう。
宮殿での華やかな生活に戻り、数多くの美しい貴族の令嬢たちに囲まれて。
「忘れなければ」
エリーゼは自分に言い聞かせた。
「忘れなければ、また前を向いて生きていける」
だが、心は簡単には納得しなかった。
一方、ヴェルディア王国の宮殿では。
「アレクシス、お前はずっと上の空だな」
国王が、息子に声をかけた。
「申し訳ございません、父上」
第一王子アレクシスは、深々と頭を下げた。
「国境の問題は解決した。だが、お前の心の問題は解決していないようだ」
「……」
「街で会った娘のことか」
アレクシスは驚いて顔を上げた。
「隠し立てはできんぞ。お前の護衛から全て報告を受けている」
「では……」
「アルトハイム家の令嬢、エリーゼ・フォン・アルトハイム。母親を亡くし、継母に虐げられているという」
国王は資料を開いた。
「調査させた。その娘が受けている仕打ちは、許しがたいものだ」
「父上……」
「お前は、その娘をどう思っている」
アレクシスは真剣な眼差しで答えた。
「彼女を、妃に迎えたいと思っています」
「ほう」
「彼女は知性があり、優しく、そして何より強い。どんな苦境にあっても品位を失わない。そんな女性は、他にいません」
「愛しているのだな」
「はい」
アレクシスは迷いなく答えた。
「では、迎えに行け」
「父上!」
「お前が選んだ女性だ。私も会ってみたい」
国王は微笑んだ。
「ただし、娘の意思を確認せよ。強制ではいけない」
「もちろんです」
アレクシスの顔が、輝いた。
「すぐに準備を」
「待て」
国王が止めた。
「正式な求婚だ。相応の準備が必要だ。三日後、使節団を率いて行け」
「ありがとうございます、父上」
アレクシスは深く頭を下げた。
ようやく、エリーゼに会える。
そして、全てを話せる。
自分の正体も、彼女への想いも。
「エリーゼ、待っていてください」
アレクシスは窓の外を見つめた。
彼女のいる街の方角を。
同じ頃、エリーゼは屋根裏部屋で泣いていた。
「もう、会えない」
諦めようとしていた。
だが、運命は、二人を引き離すことを許さなかった。
三日後、アルトハイム家の屋敷に、大きな転機が訪れることになる。
エリーゼの人生を、完全に変える出来事が。
その時、エリーゼはまだ知らなかった。
自分の恋が、決して一方通行ではなかったことを。
アレクシス王子もまた、同じように自分を想っていてくれたことを。
運命の歯車が、大きく動き始めていた。
エリーゼは東の広場で、アレックスを待っていた。約束の時間を過ぎても、彼は現れない。
さらに一時間待っても、来なかった。
「どうしたのだろう」
不安が込み上げてくる。こんなことは初めてだった。
結局、その日アレックスは現れなかった。
翌日も、その翌日も。
一週間が過ぎた。
エリーゼは毎日市場に通ったが、アレックスの姿はなかった。
「何かあったのだろうか」
心配と寂しさで、胸が押し潰されそうだった。
あの優しい笑顔も、知的な会話も、もう二度と味わえないのだろうか。
屋敷での日々が、また灰色に戻っていった。
「エリーゼ、何をぼんやりしているの! さっさと掃除をしなさい!」
継母の叱責も、義姉たちの意地悪も、以前より辛く感じた。
アレックスとの時間があったからこそ、耐えられていたのだと気づく。
その日の夜、セバスチャンが屋根裏部屋を訪ねてきた。
「お嬢様、少しよろしいでしょうか」
「はい、セバスチャン」
「実は、お伝えすべきかどうか迷ったのですが……」
セバスチャンは深刻な表情をしていた。
「隣国ヴェルディア王国との国境で、小さな武力衝突があったようです」
「え?」
「すぐに鎮圧されたようですが、王族の方々は皆、緊急で宮殿に召還されたとか」
「王族……」
エリーゼの胸に、嫌な予感が走った。
「お嬢様がお会いしていた方は、商人だとおっしゃっていましたね」
「はい」
「本当に、そうでしょうか」
セバスチャンの言葉に、エリーゼは息を呑んだ。
「まさか……」
「私も確証はありません。ですが、あの方の立ち居振る舞い、教養の深さ、そして何より、お嬢様に向けられたあの真摯な眼差し」
セバスチャンは静かに続けた。
「ただの商人とは思えませんでした」
「では、アレックス様は……」
「もしかすると、ヴェルディア王国の方かもしれません」
エリーゼは椅子に座り込んだ。
全てが繋がった。幅広い教養、品のある立ち居振る舞い、各国を「視察」していると言っていたこと。
「もし本当に王族の方だとしたら……」
エリーゼの声が震えた。
「私のような者が、恋をするなど……」
「お嬢様」
セバスチャンは優しく言った。
「あの方は、お嬢様を一人の女性として愛されていました。身分など、関係なかったはずです」
「でも……」
涙が溢れた。
どうりで、彼は自分に優しかったのだ。王族として、多くの人を見てきた彼にとって、エリーゼの苦境など、哀れに映ったのかもしれない。
「私は、勘違いしていたのです」
「お嬢様、そうではないと思います」
「では、なぜ何も言わずに去ったのですか」
「緊急の召還だったのでしょう。お嬢様に別れを告げる時間もなかったのだと」
だが、エリーゼの心は冷えていった。
身分違いの恋。それは最初から、叶うはずのないものだった。
数日後、街は大きな話題で持ちきりだった。
「聞いた? ヴェルディア王国の第一王子殿下が、この街に来ていたらしいわよ」
「変装して市場を視察されていたんですって」
「まあ、なんて素敵な王子様なのかしら」
市場で買い物をしていたエリーゼは、その会話を耳にして立ち止まった。
「アレクシス王子様って言うのよ。金髪で、とてもハンサムなんですって」
「アレクシス……」
エリーゼの口から、小さく名前が漏れた。
アレックス。それは、アレクシスの愛称だったのだ。
「やはり……」
全てが確信に変わった。
自分が恋をした相手は、隣国の王子だった。
「なんて、愚かだったのだろう」
エリーゼは唇を噛んだ。
使用人同然の扱いを受けている没落令嬢と、王国の第一王子。その差は、天と地ほども離れている。
屋敷に戻ると、エリーゼは屋根裏部屋に閉じこもった。
「お母様……」
母のペンダントを握りしめる。
「私は、分不相応な恋をしてしまいました」
涙が止まらなかった。
あの優しい笑顔も、心温まる会話も、全ては一時の夢だった。
王子はきっと、もう自分のことなど忘れているだろう。
宮殿での華やかな生活に戻り、数多くの美しい貴族の令嬢たちに囲まれて。
「忘れなければ」
エリーゼは自分に言い聞かせた。
「忘れなければ、また前を向いて生きていける」
だが、心は簡単には納得しなかった。
一方、ヴェルディア王国の宮殿では。
「アレクシス、お前はずっと上の空だな」
国王が、息子に声をかけた。
「申し訳ございません、父上」
第一王子アレクシスは、深々と頭を下げた。
「国境の問題は解決した。だが、お前の心の問題は解決していないようだ」
「……」
「街で会った娘のことか」
アレクシスは驚いて顔を上げた。
「隠し立てはできんぞ。お前の護衛から全て報告を受けている」
「では……」
「アルトハイム家の令嬢、エリーゼ・フォン・アルトハイム。母親を亡くし、継母に虐げられているという」
国王は資料を開いた。
「調査させた。その娘が受けている仕打ちは、許しがたいものだ」
「父上……」
「お前は、その娘をどう思っている」
アレクシスは真剣な眼差しで答えた。
「彼女を、妃に迎えたいと思っています」
「ほう」
「彼女は知性があり、優しく、そして何より強い。どんな苦境にあっても品位を失わない。そんな女性は、他にいません」
「愛しているのだな」
「はい」
アレクシスは迷いなく答えた。
「では、迎えに行け」
「父上!」
「お前が選んだ女性だ。私も会ってみたい」
国王は微笑んだ。
「ただし、娘の意思を確認せよ。強制ではいけない」
「もちろんです」
アレクシスの顔が、輝いた。
「すぐに準備を」
「待て」
国王が止めた。
「正式な求婚だ。相応の準備が必要だ。三日後、使節団を率いて行け」
「ありがとうございます、父上」
アレクシスは深く頭を下げた。
ようやく、エリーゼに会える。
そして、全てを話せる。
自分の正体も、彼女への想いも。
「エリーゼ、待っていてください」
アレクシスは窓の外を見つめた。
彼女のいる街の方角を。
同じ頃、エリーゼは屋根裏部屋で泣いていた。
「もう、会えない」
諦めようとしていた。
だが、運命は、二人を引き離すことを許さなかった。
三日後、アルトハイム家の屋敷に、大きな転機が訪れることになる。
エリーゼの人生を、完全に変える出来事が。
その時、エリーゼはまだ知らなかった。
自分の恋が、決して一方通行ではなかったことを。
アレクシス王子もまた、同じように自分を想っていてくれたことを。
運命の歯車が、大きく動き始めていた。
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