幻想世界のセラピスト ~言の音の呪いと聖賢の乙女~

鈴片ひかり

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サマリー5 騎士の鎧と歯茎弾き音

黒霧の手、再び

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 日々の訓練効果は、一週間ほどすると現れてくる。

この状態は、表に出る段階に努力が蓄積したことであって急に改善したわけではない。

人間が知覚認識できる訓練成果の積み上げに達したということだ。

クライグの根気強く辛い訓練が実を結び、舌尖挙上がスムーズに負担なくできるようになっていた。

「よくがんばったねクライグ君。これが本当に改善につながるのかっていう手応えが掴めない中、すごいよ」

クライグはしばしの間、照れて頭を掻いていたが、徐々に表情が崩れ堪えきれず泣き出した。

「先生とフィーネ様だけなんだ。おての話をわたわず、真正面かた聞いてくてたのってさ。話を聞いてもたうのって、こんなにうてしいことだったんだな。騎士団のてんちゅうは、毎回ばかにすとぅんだよ、お子様言葉って、たいへんでちゅねーって」

「でも、バカにせず寄り添ってくれた友達もいたんだろ?」

「そうなんだよ! あいつたがいたかた、がんばてたんだ! 魔法剣術なしで、おては今戦ってとぅ。剣術大会は たいげつ(来月)なんだ、そこでじつとょくであいつたを倒す!」

涙を拭き、クライグは光平の手を握る。

「先生、おえまけねえかた!」

「じゃあ次のステップに移ろう、だけど僕の訓練プログラムに従うこといいね?」

「分かった! 騎士の誇ちにかけて!」

辛かっただろう。

屈辱だっただろう。

ぱっと見は子供の遊びに見えるような訓練の一挙手一投足に、光平は魂を込めるように発声発語の状態を認識させフィードバックし、クライグは力みすぎないよう注意しながらついてきた。

「今度は短く、正確に言ってみよう」

光平  :うーあー
クライグ:うーあー

勝負どころが来た。光平の意識が集中力がいつになく高まっていく。

「次は舌の先を上の歯の裏側につけてみよう」

この時のために用意していた見やすい図柄と着色した解剖図を示してみる。

問題ない。

ちゃんと舌が挙上している。

「そういいよ、そのまま舌をつけたまま続いてね」

光平  :うー あー
クライグ:うー あー

あえて音のタイミングをずらしておくが、運動神経の良いクライグはちゃんとタイミングまできちんと真似してくれていた。だからこそ、この数コンマ一秒のやりとりは闘いにも等しい踏み込みなのだ。

「次は少し短くするよ」

こくんと頷くクライグの表情が、勝負所を感じ取っている。

光平  :うーあー
クライグ:うー・あー

「いいぞその調子!」

気持ち、感覚を詰めての誘導。

光平  :うーあー
クライグ:うーあー

「うまい! リラックスしてもう一度 舌先を歯の裏につけることを意識してみよう」

やや舌に緊張が見られたため、ここで緩急をつけておく。

そう、このタイミングこそ重要だ。

光平  :うーあー
クライグ:うーrあー

「いいね! 同じ感じで繰り返そう」

フィーネが自分と同じ状況になりつつあることを感じ取り、必死に記録をとっている。

光平  :うーrあー
クライグ:うーrあー
     うーらー
     うーらー

「よし、その音を後10回やってみよう」

「はい先生!」

クライグは完全に舌尖挙上を改善させ、r音の表出に成功した。

口を開けた状態で舌先を上の歯の裏につけながら、「うーあー」と連続で発音すると「あー」のときに舌先が自然と下がる現象が起きる。

この下がる状態が弾きであり、歯茎弾き音が生成されるのだ。

r音が構音されるには、舌尖挙上能力が十分に育っていることが条件となり、この基礎を徹底的に光平は指導した。

次は、単音レベルでの練習と無意味音節、単語練習に向けての準備、になるはずであった。

「先生、お、お、うぇ お、rえ おれ……あっ!」

クライグの全身から黒い煙が漏れ出すように滲み出てきた。

 突如訪れた解呪の兆し。光平とフィーネの安堵にも似た黒霧現象放出の余韻に、引き攣りのような違和感が差し込まれていく。

クライグの体から漏れ出した黒い霧が彼の頭上で形を成していくのだ。

「せ、先生!? これって!?」

「フィーネさんのときと似てる、いや形が違う!? あの時は首を絞めるように見えていたけど」

骨ばって爪の伸びた不気味な二つの黒霧の手が、邪悪な波動を迸らせながら恨みを持って頭を押さえつけているようであった。

苦しむクライグは剣を手に持つと、転がるように外へと躍り出る。

玄関前広場には幸運なことに人はいなかったが、クライグは剣を抜き地面に突き刺し魂の叫びを発したのだ。

「言の音の呪いよ! 我、クライグ・ベスタール! ショーン・ベスタールの息子なり! 忌まわしき呪いよ、俺の体から出て行け! 朽ちろ邪悪な呪いめ! でていきやがれええ!」

 これが騎士の体力であり精神力なのかと舌を巻いたが、頭上から襲い掛かる見えない力に圧し潰されそうになりながらも耐えていた。

「フィーネさんのときは体から溢れる白い炎が黒霧を焼いていったんだけど、よし無理やり引き剥がす!! 待っててクライグ君!」

フィーネが止める声が聞こえたが、光平の頭には待つという選択肢がなかった。

一切の躊躇なく頭にある黒霧の手を掴むと、えいやっと引き剥がし始めていく。

びりっとした痛みが手から伝わるが、徐々に黒霧の手が荒い息で耐えるクライグから離れ始めていた。

「せ、先生、クライグさん、わ、私どうすれば……」

(フィーネ……フィーネ)
「え?」

どこからともなく、頭の中に、心の中から広がる暖かく優しい女性の声。

(今こそ 聖なる奇跡と魔導の力を 一つに…… 聖賢の力を)

「せ、聖賢……っ!? まさかあのことなの!?」

目の前では黒霧の手の圧力に耐える若い騎士と、命がけで引き剥がそうとしていた愛しき人の姿。

 なんていうことなのだろう、あの人は魔力も持たない人の身でありながら黒い手をほぼ剥がしかけているではないか!

だがこれならいける、いや二人を守るため、私にしかできないことをやってみせる! 

そう覚悟したフィーネの口からは、いまだかつて誰も詠唱したこともない未知の呪文が詠唱されていた。

「大地を祝福する女神の力よ! 深淵なる魔導の灯よ! 二つを持って一つと為す……」

フィーネの両手に眩く光る神聖な光と、激し燃え盛る烈火の炎が左右それぞれの手に現れた。

そのとき、クライグが倒れ込み、ぐっと引き剥がされた黒い手が宙で蠢きながら獲物を探し再びぐわっと手をもぞもぞと動かしている。

光平は手を抑えながら、フィーネのやろうとしていることを視認し後ろに飛び下がってから力強く頷いた。

「聖賢魔法! ホーリィフレイム!」

眩く輝く白い炎の渦が襲い掛かろうとしたフィーネに向かって来た黒霧の手を飲み込み、焼き尽くしていく。
悲鳴にならない悲鳴のような断末摩の悶えが数秒で消え去っていく。

フィーネは手の痛みに耐える光平を助け起こすと、クライグはふぅと息を付き光平に向けて微笑んだ。

やはりクライグにはあの黒い手は認識できていないようであり、最初に説明した解呪現象である黒い霧が出たと思っているようであった。

「先生、俺が本当に言の音の呪いを打ち破ったかちゃんと見ていてくれ!」

広場に飛び出したクライグは、剣を構えると静かに呪文を唱え始める。
「リーシュベルード、フォグアルリータ! 炎の剣よ!」

紅蓮の炎が刀身から噴き出し、夕暮れの赤い空と同調しているかのような輝きを放っている。

「おおおおお! 炎の魔剣、やったぞおおおお! やったやったんだ俺はあああ!」

クライグは勝利の雄たけびをあげながら、込み上げる涙を拭おうともしなかった。

辛く苦しい訓練に耐え抜き、見事呪いを打ち破った男の背中はかっここいいものだ、クライグの勇気を心から称えたい。

ほぼ痺れが消えたらしい光平はフィーネに優しく大丈夫だよと微笑んだ。見た目に怪我はないし大丈夫だろうと思うが、邪悪な波動はもう感じられなかった。

 そして炎を収めるとクライグは光平の元で膝をついた。

「光平先生、あなたは私の恩人だ。命の恩人だ。あのままなら潔く死のうと思っていたほどだ。でも、こうして俺はみんなに助けられ呪いを打ち破り魔法を取り返すことが出来た。あなたが危機の際には身命を賭してお守りすることを我が剣に誓う!」

「あはは、う、うれしいけど、僕はクライグ君の剣術理論とか子供の頃の冒険譚とかもっと聞きたいな。お酒とか飲みながらね」

「くっくぅ……先生、あんたって人は!」

「クライグさん、これで私とあなたは言の音の呪いを打ち破った戦友です。よろしくお願いしますね」

「は、はい! 聖賢の乙女と戦友など騎士の誉れであります!」

「じゃあちょうど作っておいたあれ、一緒に食べようか。戦勝記念だ」

「あれ? あれってなんですか兄貴!」

「先生から兄貴? まったく忙しい人ねクライグさんは」
大好きな人が尊敬に値する騎士に兄貴と呼ばれる光景は、なんともフィーネの心に気持ちよかった。

光平の味方が増えるのは何よりのこと。彼は騎士団でも評判が高く、学院女子の間でも人気の高かった男性だ。

ややお調子者ではあるが、絶対に光平を裏切らないだろう。

しょうがないから、今日は私のプリンをクライグに譲ってやろう、そう決意したフィーネだった。




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