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第一章 黒猫の恋
第5話 今月も営業部全体MTGがやってきた
しおりを挟むあの悪夢のような出来事があった全体MTGから1ヶ月、今月も営業部全体MTGの日がやってきた。
あれから、ジャケットの人は未だに見つかっていない。
この1ヶ月間で内線でかかってきた人達の中にはいなかったので、もしかしたら私は関わったことの無い人なのかもしれないな、とも思ったけれど、何とか探し出して御礼だけでもしたいと考えている間に、あっという間に1ヶ月が過ぎてしまっていた。
借りたハンカチだけでなく、お礼で新しいハンカチも用意していつ出会ってもいいようにカバンに忍ばせて持ち歩いているのだが、そんなチャンスは訪れず……
ならば、今日の全体MTGであればもしかしたら会えるかもしれない、という僅かな希望にかけて、私は前回と同様最後尾の一番角の席に座った。
ジャケットの人がまたこの席に座る確証なんてない。
それなのに、些細な可能性に縋るなんてらしくないとはわかっているのだが、他に可能性はないのだから仕方がない。
今日も夕暮れ時の空は綺麗で、吸い込まれそうになる。
そんな空を眺めながら私はジャケットの人を思った。
あの日、心が粉々に砕け散った私は心地の良い声のトーンと背中を撫でてくれた手の優しさにどれだけ救われたか。
元恋人の心無い仕打ちで傷つき疲弊しきった私には、あのたった一度の邂逅が、熱砂の砂漠で漸く見つけたたった一つのオアシスのように、癒しと安らぎを与えてくれた。
だから、どうしてもジャケットの人の名前が知りたかったし、それから話がしたかった。
そして、もっとその人を深く知ってみたいと思った。
空が夕焼け色から黄昏色に変わると、そろそろ会議が始まる。
私は相変わらず空を眺めながら、手持ち無沙汰で手元のペンをクルクルと弄びつつその時を待った。
やがて時間になり、会議の開会が宣言され会議が始まった。
しかし、会議が始まってもジャケットの人は現れなかった。
同じ席に座るとか、都合のいいこと起こらないよなぁ…
よくあるドラマや恋愛小説のような奇跡みたいなことなんて現実では起こるはずもない、私は自分の甘い考えに嘲笑すると小さく溜息をついた。
◇◇◇
今日のアジェンダの主なトピックスは、4月入社の新卒社員の配属についてだった。
まず、新卒社員は2ヶ月の全体新人研修の後、配属先が決まる。
それから更に配属先で1ヶ月OJTを経て正式配属となるため、予め、研修に割ける役職者やOJTにつける社員などの選定を行わなければならない。
新人研修の後、どのくらい残るかにもよるが、今年の営業部への配属予定人数は150名前後。
第一営業部の配属予定は約50名、各課10名ずつの分配になり、1~5課合同で午前中営業研修をして午後からOJTとなる。
研修担当の役職者は、研修期間の1ヶ月間はほぼ研修と資料作成に追われ、業務後も、新卒社員達の質問攻めに合うため、通常業務が滞る。そのため、新規の案件はほとんど回せない。
また、既存の仕事の中でも、他の人に割振る物を選別し、担当も選定しなければならない。
そして、選ばれたOJT担当の仕事もある程度調整しなければならないしで、やることは盛りだくさんだ。
本来であればサブマネージャーとして、選定の中心にいなければならなかったが、如何せん今日は末席にいるため話の流れが掴めない。
あー…今日はマネージャー席に行かなきゃダメな会議だったなぁ…
流石にこの時ばかりは、この席を選択したことを深く後悔をした。とはいえ、もう始まってしまってからの席移動は出来ない。
こうなっては仕方がないので、後日開かれる第一営業部の部会で色々聞けばいいか、などと高を括っていた。
が、しかし、何やら話の雲行きがだんだんと怪しくなってきた。
なんと、第一営業部の研修担当に私の名前が上がったのだ。
ちょっと待て、それは私には荷が重い。
確かに、営業成績は良い方だ。それは認める。
だがしかし、名プレイヤーは名監督にはなれないという言葉があるだろう。
私は名プレイヤーであって、名監督ではないし、なれないのだ。
というのも……
以前新卒のOJT担当になった時、担当した女の子の育成に失敗した経験があるのだ。
「みんな、仲原さんみたいに出来ると思ったら大間違いです!」
その痛烈な一言に、当時とても凹んだ事を思い出した。
その女の子に営業の素質があったから、ちょっと厳しい指摘をしただけで泣かれこの一言である。
おだてて甘やかしてやらないとダメだったのだろうか。
そして、その子には研修修了前に色々理由を付けて異動願いを出され、その子は総務部へ異動した。
その先は知らないが……
当時のマネージャーは私の所為ではない、と言ってくれたが、流石に自分の不甲斐なさと力不足に暫くは立ち直れなかった。
次の年には、担当した男の子に勘違いさせてしまって、危うくストーカーを育ててしまう所だった事も……
これは結構最近の話して、研修後も暫く大変だった事を覚えている。
というわけで、私程、研修担当に向いていない人材はいないと思われるため、是非ともお断り申し上げたいのだが残念ながら末席にいるわけでお断りすら出来ない。
こんな遠くから異議を申し立てることも出来ず、会議が進むに連れて、私が受け持つことがほぼ確定となってしまった。
もしかしたらジャケットの人に会えるかも♡
などと浮かれて末席に座った自分を心の底からぶん殴ってやりたい。
これは大変なことになってしまった、と頭を抱えて青くなっていると、不意に隣の椅子がギシッと音を立てた。誰かが座ったのだろう。
もしかしてジャケットの人かも、とも思ったが、今の私はそれどころではない。
決まりかけている研修担当をどうやって断るか、どうしたら断れるのか、いや、寧ろ他にもっと相応しい人はいないのかと、絶賛頭の中の人物ファイルを高速で確認中である。
うんうん唸る私の横で、不意に隣の人が笑った。
「ふふっ、今日は泣いてないと思ったら、今度は百面相?」
その時、ふわっと以前嗅いだことのある香りがした。
その声、その香り…
その心地よいバリトンボイス、心地のいい香り、間違いない。
探しても見つからなくて会いたかった人……あの人だ。
ぱっと振り向き、横にいる人物を確認する。
!!!!
思わず指さしてしまったその先には、頬杖をついてこちらを見ている、人好きのする笑顔をした男性がいた。
「ジャ、ジャケットの人!!!!」
年は私より少し年上だろうか。落ち着いた雰囲気で、ふわっとした猫毛をビジネスマンとして不快な印象を持たせていない程度にワックスで遊びを持たせていて、黒縁のセルフレームのメガネもお洒落でとてもよく似合っていて、寧ろ好印象だった。
「ふはっ、何それ?ジャケットの人?それって俺の事?」
失礼にもいきなり指を差されたことを気に留める様子もなく、私の吃驚した様子を見て隣の人は破顔した。
どこかで見た事はある…が名前がどうしても思い出せない。こんなイケメン、お知り合いなら絶対に忘れないはず。
いくら考えても人物ファイルに合致する人がいない…困った。
あ、でも、そんなことより御礼をしなくては、と思いなおし、私は徐ろに鞄をガサゴソと漁り始めると、隣の人は私のそんな様子を見て楽しそうにくつくつと喉を鳴らして笑った。
沢山の資料の中に埋もれてしまっていたらしく、なんとか底の方から綺麗にラッピングされた袋を取り出すと、私はその袋を隣の人に差し出した。
「あの、その節はお世話になりました。ハンカチお返しします。それと、先日のハンカチは汚してしまったので代わりも用意しました。受け取って貰えますか?」
私の思いがけない行動に隣の人は目を丸くした。
「あー、なんだ、そんな事全然気にしなくてよかったのに。」
「いえ、キチンとしたかったので…あの時は助かりました。本当にありがとうございました。」
「ふぅん。ちゃんとしてるんだね。じゃあ有難く頂戴するね。」
そう言うと隣の人は私から袋を受け取り、ありがとう、と私に笑顔を向けた。
あれ?この顔どこかで……
その笑顔にどこか既視感を感じたが、今日初めて会ったのだからきっと気の所為だろう。それよりも、折角お近づきになれたのだから、ついでに名前を聞いても失礼には当たらないだろうと思い、勇気を出してできるだけ丁寧に名前を尋ねてみた。
「あと、えと……すみません、今後仕事で関わるかもしれませんので、失礼ですが……お名前伺ってもよろしいですか?」
すると彼は一瞬瞠目すると、答える代わりに胸ポケットの名刺入れから名刺を差し出してきた。
「え?名刺……?」
何故名刺?と思いつつ、恐る恐る受け取った名刺に目を落とすと、途端に吃驚して目玉と心臓が飛び出そうになった。
第三営業部 3課マネージャー
猫実 弦
そこにはハッキリとそう書かれていた。
受け取った名刺を見て固まっている私を見て、猫実さんは楽しそうに笑う。
「俺の事知らないとか、逆にびっくりなんだけど。俺は君の事知ってるよ。仲原 名月さん。」
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