6 / 106
第一章 黒猫の恋
第6話 神出鬼没の猫さん現る
しおりを挟む「俺の事知らないとか、逆にびっくりなんだけど。俺は君の事知ってるよ。仲原 名月さん。」
名刺を見て固まってしまっている私に、ジャケットの人…猫実さんは悪戯っぽく笑った。
あの神出鬼没で中々出会えない猫さん、もとい、猫実さんが現実の目の前にいる。しかも、その猫実さんがジャケットの人。
営業部所属なら誰でも憧れるスーパー営業マンの猫実さんが私の会いたくてたまらなかった人だったという事実に驚愕と歓喜が同時に訪れた。突然の事に頭の情報処理が追いつかないし、吃驚し過ぎて声が出ない。
「ね、猫実……さん?」
辛うじて絞り出した第一声がこれである。
そんな私の様子に、会議中にも関わらず猫実さんは心底可笑しそうに笑う。
「はははっ…うん、仲原さん。この後、仕事が終わったら食事にでも行かない?」
そう言うと、ぽかんとしている私を横目に猫実さんはまたくつくつと楽しそうに笑った。
◇◇◇
先程まで会議室に居たはずだったのだか、今、何故か私は我社きってのスーパー営業マンと一緒に、小洒落た個室居酒屋で食事をするため向かい合わせで席に着いている。
どうしてこうなった?
全くもって意味不明である。
つい数時間前までは顔を合わせて言葉を交わしたこともなかったはずだし、殆ど…現実では接点もなかったはずだ。
……案件引き継ぎを除いては。
我社のトップ営業マンと顔を合わせたことがないとか、今思えばおかしな話ではあるのだが……
これが嘘のようなホントの話で何故かこの5年間一度も機会に恵まれなかったのだ。
いや、正確に言えば機会はあったのだが、その時の私に役職がなかった為上長が代わりに対応したり、役職付いてからは、事ある毎に相手が離席していたり私が外出だったりと何故か予定が合わなかったため、唯一の接点だった案件引き継ぎすらも基本メールと内線のみでの対応だった。
と、言う事なので、今まで一度も会う事もなかった私と猫実さんは、今日が殆ど初顔合わせみたいなものである。
そんな殆ど初めましてな人……しかも社内でもかなりの有名人に、誠治の件で泣き顔まで見られている。そして、恐れ多い事に差し入れとフォローまでして頂いた。
社内きっての有名人である、猫実マネージャーにだ。
そんな方と二人っきりで食事なんて気まず過ぎる。
しかもここは個室だ。
今の状況はまさに蛇に睨まれた蛙……いや、猫に睨まれた鼠……
私はこの状況に耐えられるのか?
考えれば考える程軽く頭が混乱してきて思わず白目になる。
しかし、そんな私の様子などどこ吹く風な猫実さんは、涼しい顔をしてドリンクメニューを眺めている。
「仲原さん、何飲む?」
そう言いながら、店員から受け取った熱いおしぼりを、広げて適温まで冷ましてから手渡してくる。流石、スーパー営業マンはやる事がスマート過ぎる。
女子なのに気が利かなくて申し訳ないと恐縮しつつ、猫実さんからおしぼりとドリンクメニューを受け取る。
メニューを一通りみて、ソフトドリンクにするかなぁ、と思ったが、流石にこの状況でソフトドリンクなんて、警戒してると思われて失礼だろうと思い、無難なカシスオレンジを選んだ。
「あ、じゃあカシオレで…お願いします。」
「了解。俺は生中。あと、サラダと枝豆。だし巻き玉子と冷やしトマト…」
猫実さんは、メニューからテキパキとドリンクとフードを数品注文を済ませると、胸ポケットからタバコを取り出し、テーブルに置いた。
「あ、タバコ大丈夫?」
「はい、どうぞ、お気になさらずです。」
「うん、ありがとう。じゃあ遠慮なく。」
そう言うと猫実さんはタバコを咥え火をつけた。ただそれだけなのに、その仕種が悔しいことに様になっていてとても格好よくて、不覚にもときめいてしまった。
かぁっと顔に熱が集まるのを感じて、慌てて下を向いて心を鎮めようと深く深呼吸をする。
その私の様子を見て、向かい側の猫実さんがふぅとタバコの煙を吐きながら可笑しそうに笑う。
「ん?いきなりどしたの?」
「あ…い、いえ、何でも……ないです…はい。」
「ふっ…そ?ならいいけど。」
そう言う猫実さんの横顔にまたときめいてしまった。
いちいちやることがかっこよすぎてツラい。
深呼吸のおかげで何とか気持ちは落ち着きを取り戻しつつあったのに、再び顔に熱が集まってきた。
きっと今の私の顔は真っ赤になっているに違いない。
落ち着いた個室居酒屋なので、照明が暗めなのが有難かった。
暫くするとトントンと扉を叩く音が聞こえ、ドリンクとフードが目の前に運ばれてきた。
私が手を出す暇もなく、猫実さんがさっさとサラダを手際よく取り皿にとりわけ、私の前に置いた。
「はい、お疲れー。カンパーイ。」
カチンとグラスを合わせると、注文したカクテルを一口含む。カシスとオレンジの甘さが口に広がり、美味しい、と自然と言葉が零れた。
猫実さんはタバコをふかしながら、その様子を見て目を細めると、タバコの煙を吐きながら言う。
「そう、それはよかった。」
それだけ言うとふっと笑い、またタバコをふかした。
猫実さんとはほんの僅かな時間を共に過ごしただけなのに、何か空気感がしっくりくるというのか、もう長い間ずっと一緒にいるのでは無いかと錯覚してしまうくらいもの凄く居心地が良い。猫実さんが纏う空気が私には心地良く、このまま身を委ねてしまいそうになる。
比較する訳ではないが、5年も付き合った誠治とは一緒にいても、これ程までに居心地がいいと感じたことはなかった。
同じ大学からの同期入社で、何となく意気投合して何となく付き合い始めてズルズルと5年。最初こそ楽しかったが、ココ数年はお互いに気持ちなどなく、惰性だけで関係が続いていたのかもしれない。
薄情な話だが、今となっては本当に好きだったのかすらわからなくなってきた。
それ程までに、私と誠治の関係は希薄だったのだな、と思うと、誠治が他の女に走ってしまった気持ちも少しは理解出来るような気がした。
猫実さんは、決して自分の事をペラペラと話す訳でもなく、私のことを詮索するでもなく、時折優しい視線を向け、空いたグラスを下げると次のお酒を注文してくれる。
それだけの、ただただ静かな時間が流れた。そんな猫実さんとの時間は、失恋で荒んだ私の心をそっと癒してくれるような、そんな穏やかで優しい時間だった。
この短時間の間に私の中で次第に猫実さんの存在が大きくなって行く。
まだほんの数時間一緒に過ごしただけなのに……
交わす言葉は必要ない。
一緒にいられたら心地よい、幸せ。
私はこの感情をなんと呼んでいいのか、わからない。
わからないから、名前をつけない。
今はそれでいいと思った。
どのくらいの時間が経過したのだろうか。
ゆったりと流れる心地よい空気に、私は時間の感覚すら忘れてしまって身を任せていたが、そろそろいい時間だ。
それと同時にこの穏やかな時間も終わりに近付いていく。
猫実さんはふぅと長く息を吐くと、徐に吸っていたタバコを灰皿に押し付けた。
それが終わりの時間を告げる合図だろう。
そしてタバコを消した猫実さんがこちらをじっと見つめると、不意に口を開いた。
「仲原さん、もう大丈夫なの?」
これは、恐らく誠治との事だろうと思った。
弱音を吐くのは得意じゃないし、もう大丈夫、と言った方が良いのだろう。
だけど、猫実さんにはそう言うのは必要ないんじゃないか、となんとなく思って、思わず本音を零してしまった。
「あー…どうかなぁ。考えないようにはしてるんですけど、そりゃやっぱり辛いですよね。」
「うん。そうだよね。長かったんでしょ?確か5年だっけ?」
「はい…5年…ですね。入社してからすぐだから……ってなんでそんな事知ってるんですか?!」
さらりと聞き捨てならない発言をした猫実さんを二度見する。青くなった私を見て、猫実さんはニッコリ笑う。
「ん?聞いたからだよ。」
「だ、誰から?!」
「さあ?誰だろうね。」
そこまで言うと、猫実さんは席を移動して何故か私の隣に座りなおした。そして、戸惑う私を、ふわっと抱きしめると、あの時借りたスーツのジャケットと同じ香りがした。
どこかで嗅いだことのある香りとほんのりタバコの匂いが混じっている、安心する香り…
何が起こったのか理解出来ず固まっていた私の鼻腔をあの香りが満たしていくと、自然と身体の強張りが解けていく。
そして、深く息を吸い込みその香りに陶然としていると、私の首筋で猫実さんが熱い吐息を漏らした。
「忘れるなんて酷いなぁ。あんなに沢山愛し合ったのに。」
耳もとで低いバリトンボイスでハッキリそう言うと、はっと顔を上げた私を熱の篭った目で見つめた。
どこかで見た事があるような既視感を抱きつつも、一体なんの事かわからず目を白黒している私に、猫実さんは続けてとんでもないことを宣った。
「この後、部屋くるでしょ?じっくり思い出させてあげるよ。」
明日から連休だしね、と意地の悪い笑みを浮かべながら楽しそうに。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
禁断溺愛
流月るる
恋愛
親同士の結婚により、中学三年生の時に湯浅製薬の御曹司・巧と義兄妹になった真尋。新しい家族と一緒に暮らし始めた彼女は、義兄から独占欲を滲ませた態度を取られるようになる。そんな義兄の様子に、真尋の心は揺れ続けて月日は流れ――真尋は、就職を区切りに彼への想いを断ち切るため、義父との養子縁組を解消し、ひっそりと実家を出た。しかし、ほどなくして海外赴任から戻った巧に、その事実を知られてしまう。当然のごとく義兄は大激怒で真尋のマンションに押しかけ、「赤の他人になったのなら、もう遠慮する必要はないな」と、甘く淫らに懐柔してきて……? 切なくて心が甘く疼く大人のエターナル・ラブ。
出逢いがしらに恋をして 〜一目惚れした超イケメンが今日から上司になりました〜
泉南佳那
恋愛
高橋ひよりは25歳の会社員。
ある朝、遅刻寸前で乗った会社のエレベーターで見知らぬ男性とふたりになる。
モデルと見まごうほど超美形のその人は、その日、本社から移動してきた
ひよりの上司だった。
彼、宮沢ジュリアーノは29歳。日伊ハーフの気鋭のプロジェクト・マネージャー。
彼に一目惚れしたひよりだが、彼には本社重役の娘で会社で一番の美人、鈴木亜矢美の花婿候補との噂が……
ドSでキュートな後輩においしくいただかれちゃいました!?
春音優月
恋愛
いつも失敗ばかりの美優は、少し前まで同じ部署だった四つ年下のドSな後輩のことが苦手だった。いつも辛辣なことばかり言われるし、なんだか完璧過ぎて隙がないし、後輩なのに美優よりも早く出世しそうだったから。
しかし、そんなドSな後輩が美優の仕事を手伝うために自宅にくることになり、さらにはずっと好きだったと告白されて———。
美優は彼のことを恋愛対象として見たことは一度もなかったはずなのに、意外とキュートな一面のある後輩になんだか絆されてしまって……?
2021.08.13
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる