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第二章 黒猫の恋人
【閑話】楠木 慎太郎は悩む-前編-
しおりを挟む今朝、猫実さんは俺の後輩の仲原と仲良く連れ立って出勤した。
朝からオフィスはその話題で持ちきりだった。
俺はその場にはいなかったが、ビルのエントランスホールで猫実さんが仲原にデコチューをかました結果、女性社員達の黄色い悲鳴があちこちで起こり、男性社員からは落胆の溜息が渦巻き、現場は阿鼻叫喚を極めたとのこと。
また、それだけではなく、会社までの道ではもちろん、第一営業部のフロアまで密着してラブラブな雰囲気での出勤だったと多くの社員から目撃証言が出回っている。
お陰様で、俺のところにも朝から真偽の問い合わせがひっきりなしにくる。
まったく…猫実さん、何やってくれてるんですか……
俺は、機嫌良さげに書類に押印している目の前の上司を、じろりと睨めつけながら深く長い溜息を吐く。
しかし、まさか猫実さんの想い人が仲原だったとは思いもよらず、しかも、金曜日のアポイントの後の別行動の理由…あの時の相手は仲原だったのか、と理解すると若干頭が混乱してきた。
猫実さんと仲原はどちらも我社きってのスーパーエースで、ふたりとも美男美女でお世辞抜きにとてもモテる。
猫実さんは男の俺から見ても相当な美丈夫で、仕事もとても出来る。そんな猫実さんが声をかければどんな女でもイチコロだと思うのだが、ここ数年見ているが、浮いた話もなければ彼女が出来た形跡もなかった。
一方の仲原は入社してすぐに同期のやつと付き合っているという噂が流れたきり、浮いた話のひとつもない。見た目に似合わず、根が真面目な仲原のことだから、恐らく未だに付き合っているんだろうな、と皆は認識している。
それが一転して今朝の出来事だ。
自分で言うのもなんだが、俺は猫実さんの右腕(自称)として、年柄年中一緒にいるが、猫実さんと仲原が一緒にいる所を見た事が無かった。それに、仕事以外での仲原との接点が見当たらなかったし、嫁にも仲原と猫実さんの話は聞いた事がない。
だから、どこをどうしても猫実さんと仲原が付き合っているとは結びつかなかった。
他の社員同様、俺が一番真偽を確かめたいわ……
俺が入社したばかりの時は、社内一と言っていいほどのモテ男でプレイボーイの遊び人と言われていた猫実さんだったが、仲原や嫁の莉佳子達が入社してきた5年ほど前から、なんでも本気の恋をしているとかしていないとかで、ぱったりと女遊びをしなくなった。
誰にも本気にならないあの猫実さんが本気の恋……
猫実さんの突然の女遊び終了宣言の際には、相手はどこぞのご令嬢だとか芸能人だとか、様々な憶測が飛び交ったのだが、あまりにも相手が表沙汰にならないので、皆時間の経過と共に徐々に気にもとめなくなっていた。
だけどこの半年程は少しおかしかった。
時折、切なげな表情をしたり、熱に浮かされたような表情をしたり、余裕のない表情をしたり。
そんな日の翌日の朝には、遊び人だった頃のように情事後の気怠さを伴った色香を放っていたり。
何が起こっているのか深くは詮索しなかったが、側で見ている俺がハラハラする程、猫実さんは狂ったように仕事をして、狂ったように夜の街に繰り出す事を繰り返していたように思う。
……まるで失恋の傷でも癒すかのように。
そして、とうとう無理が祟ってオフィスで倒れた。
これが先月の話。
あれ?猫実さん、半年前に失恋したんじゃなかったの?
仲原とはいつから?
嘘だろ……全く思い当たることが何一つない!
猫実さんの側近(自称)として失格じゃないか!!!
猫実さんの右腕(自称)でなんでも知ってるつもりでいたのに、この辺りのことは全く知らなかったという事に、はたと気が付き俺は青くなって頭を抱えた。
そんな俺に猫実さんは、残念な奴を見るような顔で一瞥をくれると、はぁと大きな溜息を吐きながら、今しがた押印の終わった書類の束を突き出した。
「さっきから何ひとりで百面相してるんだ?…気持ち悪いな…」
はぅん、猫実さん…
その蔑んだ表情と軽蔑の口調……素敵すぎます♡
猫実さんの綺麗な顔で口汚く罵られる事に感じて身震いしてしまう。
この現象は猫実さんを尊敬するあまり、猫実さん限定で起こる。他の人にされても何も感じないし、寧ろ不快なのだから不思議である。
自分でもこの残念な頭の中はきちんと理解している…つもりだ。
誤解の無いように言っておくが、俺はちゃんと女が好きで、結婚もして子供もいる。
同性愛の気は1ミクロンも有り得ない。だから、もちろん猫実さんへの恋愛感情も皆無である。抱かれたいとかそういう気持ちは一切ない。それとこれはまた別物なのだ。
なんだろなぁ…説明が難しいが簡単にいうと、猫実さんが飼い主で俺が犬みたいな、そんな感じだ。
「……楠木?」
猫実さんの呼びかけで俺は漸く意識を呼び戻されると、呆れ顔の猫実さんから書類の束を受け取った。
「…はっ!すみません、後でこれはいつも通り管理本部に持っていきますね。」
「うん……ていうか、大丈夫か?さっきからぼうっとしているけど……」
怪訝な顔をして猫実さんは俺に訊ねてきたので、俺は頭を振って答える。
「大丈夫ですよ。それよりも今朝の事での問い合わせがひっきりなしなんですけど……説明のしょうがないので、俺にもちゃんと説明してくださいよ。」
「えぇ…面倒くさいなぁ…みんな暇なのか?」
猫実さんは頬杖をつき、溜息混じりに心底面倒くさそうに言った。
「今まで社内で浮いた話のなかった猫実さんが、いきなり溺愛モードになったらみんな興味持ちますよ。しかも相手はあの仲原ですよ?気にならない奴はいないかと。」
「ふぅん、そういうもの?」
先程同様、猫実さんは頬杖をつきながら心底どうでもいいと言うように一言だけ言い捨てる。
本当にこの人は他人に興味がないんだな、というか、それすらも隠すつもりがない態度に寧ろ潔さすら感じてしまう。
それよりもだ。他人に対してこれ程までに無関心でいられる猫実さんが、仲原に対して異常な執着を見せているところを考えると、もしかしたら、猫実さんの本気の恋の相手は仲原だったのではないか?となんだかよくわからない俺の勘が働いた。全く確信はないが。
とりあえず、あなたは他人に興味がなくとも、周りの人間はあなたに興味津々なのですよ、と念を込め笑顔で答えつつ、要望をひとつ織り込んだ。
「そういうものです。とりあえず、仲原との馴れ初め教えてください。」
「いやだよ。」
即答だった。
あまりに華麗に一刀両断にするものだから、流石にぽかんと開いた口が塞がらなかった。
「そんないけずしないで、俺と猫実さんの仲じゃないですか?」
猫実さんはまた残念な人を見るような目で俺を見ながら、面倒くさいという態度を崩さずに言う。
「……どんな仲だよ。とにかく馴れ初めはいやだ。ていうか、お前名月の事知ってるの?」
「知ってるも何も…一営の時の後輩で、俺の嫁の同期です。えー、じゃあひとつだけでいいです!なんでもいいので教えてください!」
いやいや、腹心の部下(あくまで自称)に隠し事はよくないでしょ……
しつこく俺が食い下がると、猫実さんは少し考えて溜息をひとつ吐いた。
「はぁ…そうか。じゃあひとつだけ。6年越しだよ。」
「へ?なんですか、それ。」
「はい、そろそろ昼休みだからこの話はおしまい。」
にっこりと綺麗な笑顔で行ってよし!と猫実さんに手で追い払われる。あの作り笑顔にはもうこれ以上は聞いてくれるな、という言外のメッセージがありありと浮かんでおり、取り付く島もない。
俺は渋々席に戻ろうとした時、ポケットのスマホが震えた。スマホを取り出し確認すると、待ち受け画面に嫁からのメッセージがきている事を知らせる通知が見えたので、メッセージアプリを開きすぐに開封する。
『慎ちゃん、今名月とランチ中なんだけど一緒にどうかしら?後、猫実さん連れて来て欲しいなぁ♡』
嫁からのランチのお誘いだった。
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