82 / 106
第二章 黒猫の恋人
第76話 溢れる想い
しおりを挟む先程まで、ザワザワと騒がしかった会場が急に静かになった。
入口の方から名月、と私を呼ぶ弦の声が聞こえた気がして、そちらに視線を遣ると、眉を顰めて切羽詰まった様な余裕のない表情をした弦の姿があった。
「……げ…ん……」
眉間に皺を寄せて切なそうな表情をする弦の姿を見て、胸の奥がぎゅっと締め付けられる様に傷み、私は無意識に弦の名前を呟いた。
緊張と不安で心臓がドキドキと脈打つ。
なんでそんな表情してるの?
どうしてこっちに来てくれないの?
不安だけがどんどん募り、その場に立ち尽くす私に、弦がゆっくりと硬い表情を崩し、やがて優しい眼差しで微笑んだ。
そして、私の大好きなバリトンボイスでもう一度私の名前を呼ぶ。
「名月。」
弦の甘さを含んだ私を呼ぶ声を聞いた途端、お腹の奥底から感情がぶわっと溢れ出て、同時に涙がとめどなく零れ落ちた。
もっと弦に名前を呼んで欲しい。
弦に触れたい。こっちにきて抱き締めて欲しい。
心も身体も、私の全てが弦を求めていた。
私も弦を呼びたい、そう思い口を開くが、極度の緊張で喉が詰まって、声が出なかった。
それでも、私はありったけの想いを込めて絞り出す様に弦を呼んだ。
「げ……弦……弦……げんぅっ……」
「うん、名月……おいで?」
私が呼ぶと弦はとても嬉しそうに破顔し、両手を広げて愛おしそうにもう一度私を呼んだ。
まるで映画のワンシーンのようなシチュエーションに周囲は注目しどよめくが、私はもはやそんな事気にならなかった。
弦の声に弾かれたように、私は自然と駆け出していた。
勢いよく弦の腕の中に飛び込むと、弦は私を力強く抱締め、耳元で切なく呟く。
「あぁ、名月……俺の名月。淋しかったよね……ひとりにしてごめんね。」
広い背中に腕をまわして弦の身体をぎゅうっと抱き締めると、コロンと弦の匂いがふわりと香り、ここは紛れもなく弦の腕の中なのだと確信する。
無意識に安堵したのか、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、目から涙が零れ落ちた。
一度涙か落ちると、後から後から溢れてきて止められない。
弦の胸に抱かれて安心した私は、広い胸に顔を埋めて子供のようにわんわんと泣きじゃくった。
弦はそんな私を優しく抱き締めなおすと、あやす様に何度も背中をさすってくれた。
「大丈夫だよ。俺はここにいるよ。どこにも行かないから。」
弦の優しくも切ない口調と甘い声に、抑え込んでいた感情が濁流のように押し寄せ、一気に堰を切ったように溢れ出す。
「げ……げんっ…弦、弦……ごめんなさい……わた、し…軽率で……本当にごめんなさい……嫌いにならな…いでぇ……お願い……」
弦は泣きじゃくる私を、力いっぱいぎゅうっと抱き締めると、一度身体を離し、両手で私の顔を大切そうに包み込んだ。
「うんうん……嫌いになんてならないよ。大丈夫だから。ね?名月愛してるよ。ちゃんと戻ってきてくれてありがとう。」
私を見つめる弦の瞳には、私への深い愛情の色しか浮かんでいなかった。
こんなに愛してくれている弦を私は……そう思うと自己嫌悪し、また涙が溢れた。
「もう泣かないで?ほら、折角綺麗にしてたのに、涙でメイクが落ちちゃうよ。」
弦は眉を寄せて少し困った様な顔をすると、私の心を落ち着かせるように、ゆっくり優しく言いながら唇に触れるだけのキスを落として、頬に触れる手で私の涙を拭った。
私の心の移ろいや優柔不断さを全部受け入れて、そして許してくれるとそう言った弦の言葉とその切ない表情に、胸がぎゅっと押し潰されそうになる。
好き、大好き
嫌いにならないで欲しい
離れたくない
一緒にいたい
内側から溢れ出る想いはとどまるところを知らず、嗚咽のように口からも溢れて零れた。
「うぅぅぅ……弦……わたっしも……愛してる……大好き…離れちゃ嫌……もっとぎゅっとして……」
まるで子供のようだと笑われるかもしれないが、弦の逞しい胸に縋って抱き締めてもらって安心したかった。ぐりぐりと弦の胸に額を擦り付けて抱擁を強請ると、弦は私をふわりと横抱きに抱き上げた。
「うん、名月、わかったよ。不安にさせてごめんね。不安がなくなるまで抱き合おう?愛してるよ。何があっても離さないから。」
そう言って弦は私の額にキスを落とすと、愛おしむような眼差しを向け、涙で濡れた私の瞳を見つめて、囁いた。
「実は、上に部屋とってあるんだ。このまま連れて行ってもいい?」
私が小さくコクンと頷くと、弦は優しく微笑み、私を抱き上げたまま壮行会会場を後にし、ロビーを抜けエレベーターホールをスタスタと素通りする。
「弦?どこに行くの?」
上に部屋をとっていると言っていたのに、どんどん人気のない方へ歩を進めて行く弦に不安になって訊ねるも、弦はにっこりと笑むだけで答えてはくれなかった。
やがて、明らかにVIP専用と分かる外観の自動ドアの前に着くと、弦はカードキーを翳して解錠し入室する。
部屋の中をぐるりと見回すと豪華な作りの広々としたエレベーターホールで、奥にあるエレベーターもカードキーで解錠する仕様になっていた。
「こ…ここは?」
「今日泊まる部屋への専用エレベーターだよ。」
そういうと弦は艶っぽく笑み、手慣れた様子でカードキーを翳して解錠すると、私を抱いたままエレベーターに乗り込んだ。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
禁断溺愛
流月るる
恋愛
親同士の結婚により、中学三年生の時に湯浅製薬の御曹司・巧と義兄妹になった真尋。新しい家族と一緒に暮らし始めた彼女は、義兄から独占欲を滲ませた態度を取られるようになる。そんな義兄の様子に、真尋の心は揺れ続けて月日は流れ――真尋は、就職を区切りに彼への想いを断ち切るため、義父との養子縁組を解消し、ひっそりと実家を出た。しかし、ほどなくして海外赴任から戻った巧に、その事実を知られてしまう。当然のごとく義兄は大激怒で真尋のマンションに押しかけ、「赤の他人になったのなら、もう遠慮する必要はないな」と、甘く淫らに懐柔してきて……? 切なくて心が甘く疼く大人のエターナル・ラブ。
出逢いがしらに恋をして 〜一目惚れした超イケメンが今日から上司になりました〜
泉南佳那
恋愛
高橋ひよりは25歳の会社員。
ある朝、遅刻寸前で乗った会社のエレベーターで見知らぬ男性とふたりになる。
モデルと見まごうほど超美形のその人は、その日、本社から移動してきた
ひよりの上司だった。
彼、宮沢ジュリアーノは29歳。日伊ハーフの気鋭のプロジェクト・マネージャー。
彼に一目惚れしたひよりだが、彼には本社重役の娘で会社で一番の美人、鈴木亜矢美の花婿候補との噂が……
ドSでキュートな後輩においしくいただかれちゃいました!?
春音優月
恋愛
いつも失敗ばかりの美優は、少し前まで同じ部署だった四つ年下のドSな後輩のことが苦手だった。いつも辛辣なことばかり言われるし、なんだか完璧過ぎて隙がないし、後輩なのに美優よりも早く出世しそうだったから。
しかし、そんなドSな後輩が美優の仕事を手伝うために自宅にくることになり、さらにはずっと好きだったと告白されて———。
美優は彼のことを恋愛対象として見たことは一度もなかったはずなのに、意外とキュートな一面のある後輩になんだか絆されてしまって……?
2021.08.13
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる