鍼灸師のいるところ

夏木ユキ

文字の大きさ
3 / 13

3話 死んだらダメよ

しおりを挟む
 先輩たちとの飲み会から一週間が経過し、なんとか日常をやり過ごしている。

「はぁ……」

 明らかにため息が増えた。今までは「これが普通」と自分に言い聞かせていたが、あの人たちは18時には飲み会をしていることを知ってしまった。

「はぁ……」

 余計なことを考えないようにして職場へ向かう。思い出すたび、発狂しそうになる。

 職場に着き、ふとドアに映る自分の顔を見てしまった。

 酷い顔だ。

「はぁ……」

 ―――

 午前の仕事を終え、昼休みに入る。

 と言っても、事務仕事や掃除がある。結局、休める時間などない。

「今日は外の掃除やっとけ」

「はい」

 一昨日から院長の機嫌が悪い。上から呼び出され、患者数が減っていることで詰められたらしい。

「くそっ……」

 とばっちりを避けるように、さっさと外に出る。

 ざっ、ざっ……

 掃除自体はすぐ終わる。だが中に戻れば、不機嫌な院長が何を言ってくるか分からない。

「あら? 後輩くんじゃない」

 顔を上げると赤木さんがいた。

「あ、どうも」

 なぜか顔を覗き込まれる。

「……どうしたの?大丈夫?」

「ははは……まあ、いつも通りです」

「そう」

「赤木さんは、これからどこか行くところですか?」

「このあと常連さんの治療と、新患の予約が入ってるの」

「そうなんですね」

 ふと院内を見ると、院長がこちらを睨んでいた。

「すみません。院長がこっち見てるので……」

「あー、あれが院長? 余裕のなさそうな顔してるわね」

 赤木さんは手を振っている。

「ちょ、煽らないでください。最近ずっと機嫌悪いんで……」

「どうせ、患者が減って上から怒られたんでしょ?」

「……よく分かりましたね」

「雇われ院長なんて、そんなもんよ」

「ははは……」

 自分はなぜ、こんなところで働いているのだろう。

 技術が身に付くわけでもなく、院長のストレスのはけ口にされるだけの日々。

 院長を見ていると、この先もずっと、上に怯える人生が続く気がした。

「ねえ、後輩くん」

「はい」

「死んだらダメよ」

「ははは……」

 真っ直ぐな眼差しに、咄嗟に目を逸らしてしまった。

「ダメよ。約束して」

「……はい」

「じゃあ、私はこれから治療だから行くわね」

「あ、頑張ってください」

 赤木さんを見送って院内に目を向けると、案の定、院長と目が合った。

 掃除をしていても限界がある。しぶしぶ院内へ戻ると、

「お前、なに仕事中にくっちゃべってんだよ」

 休憩中なんだけどな……。

 だが言い返したところで火に油を注ぐだけだろう。

「給料もらってるくせに、いいご身分だな」

「……」

「こっちはお前みたいなやつを雇ってやってんだ」

「……」

「患者が減ってるのも、お前が治せないからだ。足手まといが」

「……」

 毎日こんなに働いて、それでも全部俺のせいなのか。

「……辞めます」

「は?」

「お世話になりました」

「あ? 午後の治療どうすんだよ?」

「もう無理です」

「迷惑考えろよ。常識知らねぇのか?」

「知りません。さようなら」

「これだから最近のガキは! 二度と顔見せんなよ!」

 もはや、院長の罵声も何も響かなかった。荷物をまとめて院を出る。

「ちょうど一週間ぶりか」

 先週のことを思い出す。赤木さんには「この辺で飲んでるから、いつでも来なさい」と言われていたが、

「さすがに、今はいないか」

 赤木さんはこれから治療と言っていたし。

「どうしようかな……」

 勢いで辞めたはいいが、やることがない。

「とりあえず家に帰るか」

 駅に向かって歩き出す。

 どんっ。

「あらー、後輩ちゃんじゃない。前見て歩かないとダメよー」

「あ、黒崎さん。すみません」

「なんだかスッキリした顔してるわねー」

「今さっき、仕事辞めてきたんです」

「あらー、良かったわねぇ」

「で、とりあえず帰ろうとしたらぶつかりました」

「せっかく自由なのに帰っちゃうの? 温泉でも行ってくればー?」

 なるほど。平日の今なら空いてるだろう。

「黒崎さんは、これから飲み会ですか?」

「その前に一件だけ治療してからねー。後輩ちゃんはのんびりしてきなさいな」

 黒崎さんと別れ、スマホで温泉を調べると、二駅先に温泉施設を見つけた。

「近っ」

 近くにこんな場所があることすら知らなかった。

 あっという間に現地へ到着し、料金を払う。平日昼はお得な料金設定になっていた。

「ごゆっくりどうぞー」

 脱衣所で服を脱ぎ、露天風呂へ。周りを見ると、誰もいない。

 湯船に浸かりながら、独り言のように呟く。

「……無職かー」

 今までは職を失うのが怖かった。

「でも……まあ、なんとかなるかもな」

 リラックスしてくると、少し前向きになれた。

「今後について考えよう」

 ……とりあえず、前みたいな職場はもう嫌だ。

 せっかく鍼灸の資格を取ったんだしな。

 でも、今さら未経験の鍼灸師なんて雇ってもらえないよな。

「……鍼灸師かー」

 頭に浮かぶのは、先輩たちの顔だった。

「あんなふうに、一瞬で治せるなら、治療も楽しいのかもしれないな」

 あの技術、教えてもらえないだろうか。

 生活費はバイトでなんとかなる。

 隙間時間で修行すれば、今より状況は良くなるかもしれない。

「……そうと決まれば」

 思い立ったが吉日、亀張鍼灸院へ向かうことにした。2人ともまだ治療中だろう。

 ―――

 亀張鍼灸院は駅からすぐだ。

 あのとき立ちはだかって見えた階段も、今ではなんてことない。

「こんにちはー」

「あら、後輩ちゃん。ゆっくりできたー?」

「はい、黒崎さんのおかげで久しぶりにのんびりできました」

「あら、良かったわねー。で、今日はどうしたのー?」

「実は……」

 ここで修行させて欲しいと切り出そうとしたそのとき——

「ありがとうございました! もう痛くないです」

 見覚えのある男性がブースから出てきた。

「あ……」

「あ、どうも……」

 接骨院で診た患者だった。手をつくと痛いと訴えていた人だ。

「手は治ったので、もう通院しなくて大丈夫ですよ。何かあれば早めに来てくださいね」

 赤木さんが受付から声をかける。

「ほんと、簡単な治療もできない人がいるなんて困ったものね」

「……はい」

「無駄に通わせて金儲けしてるところもあるんだから」

 男性と目が合った。

「まったく、どんな顔してるのか見てみたいわ」

「すみません。僕です」

「……えっ」

 気まずい空気が院内を満たす。

 男性が会計を済ませて帰り、残された3人。

「ま、飲みに行きましょー」

 黒崎の一声で、また飲み会が始まった。

 ―――

「ビール3つと、刺身盛り合わせでー」

 注文を終えて、アルコールが入る前に伝える。

「修行させてください」

「いきなりねぇ」

「将来を考えた時に、人をちゃんと治せるようになりたいんです。さっきの患者さんみたいに、もう治せないのは嫌で……」

「ふーん」

「でも、従業員の募集はしてないですよね?」

「うん、残念ながらねー」

「なので、生活費はバイトで稼ぐので、修行だけでもさせてもらえませんか?」

「修行ねぇー。どうする赤木ちゃん?」

「本気なの?」

「はい。ぜひお願いします」

「じゃあ、他でバイトはなしで」

「でもそれだと、家賃が払えなくなって……」

「だったら治療院の上に住みなさいな。衣食住は保証するわよ。給料は……まあ、お手当程度になるけどね」

 住み込みだなんて予想外の提案だった。

「なぜバイトはダメなんですか?」

「片手間で修行できるほど甘い世界じゃないわよ。やるなら集中してやりなさい」

「そーそー。バイトしてる暇なんかないわよー。その時間は全部、勉強に使いなさい」

「あ、はい……」

 こうして、労働基準法などどこ吹く風の、住み込み修行生活が始まったのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

(学園 + アイドル ÷ 未成年)× オッサン ≠ いちゃらぶ生活

まみ夜
キャラ文芸
年の差ラブコメ X 学園モノ X オッサン頭脳 様々な分野の専門家、様々な年齢を集め、それぞれ一芸をもっている学生が講師も務めて教え合う教育特区の学園へ出向した五十歳オッサンが、十七歳現役アイドルと同級生に。 子役出身の女優、芸能事務所社長、元セクシー女優なども登場し、学園の日常はハーレム展開? 第二巻は、ホラー風味です。 【ご注意ください】 ※物語のキーワードとして、摂食障害が出てきます ※ヒロインの少女には、ストーカー気質があります ※主人公はいい年してるくせに、ぐちぐち悩みます 第二巻「夏は、夜」の改定版が完結いたしました。 この後、第三巻へ続くかはわかりませんが、万が一開始したときのために、「お気に入り」登録すると忘れたころに始まって、通知が意外とウザいと思われます。 表紙イラストはAI作成です。 (セミロング女性アイドルが彼氏の腕を抱く 茶色ブレザー制服 アニメ) 題名が「(同級生+アイドル÷未成年)×オッサン≠いちゃらぶ」から変更されております

バーチャル女子高生

廣瀬純七
大衆娯楽
バーチャルの世界で女子高生になるサラリーマンの話

秘密のキス

廣瀬純七
青春
キスで体が入れ替わる高校生の男女の話

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...