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section 2
No.026
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ヴェインに別れを告げられたレインツリーは、しばらく立ち尽くしていた。
欲しかったのは、あいつのセンスであって、あいつではない。戦い方が上手い奴なら、まだ他にも大勢いる。
己に言い聞かせるほど、空虚感が無性に腹立たしくなった。
透き通ったガラス玉が触れ合った時に発する、澄んだ音がヴェインから聞こえていた。
自身のガラス玉は、とっくに濁った音を発しているのに。
ヴェイン以外、他にいるだろうか。何が、あいつの気に障ったのか。いつからガラス玉に亀裂が入っていたのか。知ろうともしなかった。ヴェインのことを知ったつもりでいた。
「一度、落ちる」
嘆息にも似た声を、胸の奥から押し出した。
「レインツリー。今度、俺が集めたメンツを、見てほしいんだけど、粒揃いの奴らが集まったよ。さすがに、バイクをカスタマイズして飛行型を出しちゃう奴はいないけど」
軽く鼻で笑ったギャシュリーが「なあ」と返答を求めてきた。
「分かった。今は、一人にしてくれ。後からホームに行く」
「あいつと別れて、そんなにショックなのか、珍しいな。他人には興味なかっただろ」
いかにもお前のことは何でも知っているぞ、と言いたげな口調が嫌に耳についた。
もしかして、自分もヴェインに対して、上から目線になっていた挙句、劣等感を覚えさせる物言いになっていたんじゃないか。
「わざわざ一から百まで教え込むなんて、腕の立つ奴なら他にもいただろ。どう見ても、まだ一年も経ってない、ド素人だろ――」
「ギャシュリー」噛み締める歯と歯の間から、低く声を漏らした。
「それ以上、ヴェインの話題は、もう出すな」
「おい! れい怜っ!」
背後から声が飛んできたが、レインツリーは無視したまま、ユグドからログアウトした。
バーチャライザーを頭から外し、額を押さえた。
カーテンで遮られた日差しが、下の隙間から射していた。
腹の虫が、ぐぅと小さくなった。昨晩は食欲がないと言って、芽衣さんに下げさせた。
偶にはダイニングで食事をするかと、気晴らしがてら部屋を出た。
久しぶりの廊下のじゅうたん絨毯の埃っぽい臭いとばら薔薇の香りが、鼻を突いた。掃除が行き届いた廊下の角には、花瓶に赤と薄ピンクの薔薇が生けられていた。
大理石の階段を下りてダイニングに行くと、朝食の片付けをしていた芽衣さんがいた。
多分、父が食べていった後片付けた。
大理石のアイランド・カウンターに、持って下りたマグカップを置くと、芽衣さんが驚いたように振り向いた。
「怜さん、おはようございます。下に降りて来られるなんて、お珍しい。何か、ご用意しましょうか?」
怜が物心ついた頃から、芽衣さんは五十代の女性らしい、ほど良くふく膨よかな体形を維持していた。
「じゃあ、何か軽く」
常に身に付けているエプロンで手を拭いた芽衣さんは、棚からクラッカーを出し、冷蔵庫からチーズと生ハム、手作りブルーベリー・ジャムを取り出し、平皿に盛り付けていく。
浅いバスケットの中にあった林檎の皮を剥いて細く切ると、同じ皿に盛った。
「薔薇、また生けたの?」
「はい。知り合いの薔薇農家の方が安く譲って下さったので、お母様もお好きですし」
「あの人が帰ってくる時は着替えか、食事だろ」
ダイニング・テーブルにランチョン・マットを敷き、食事が置かれた。
磨かれたナイフとフォークをセッティングし、芽衣さんは「どうぞ」と穏やかに笑い掛けた。
母親の顔より、芽衣さんの顔を見ている時間のほうが明らかに長い。
「玄関にも飾っていますので、目には入っておりますよ」
「そうだね」とだけ返事をして、食事を始めた。
芽衣さんはアイランド・カウンターでハーブ・ティーをい淹れると、そっと皿の近くに置いた。
怜の好みはすべて熟知している芽衣さんは、料理も上手かった。
昨晩のメニューは何だったんだろうと、ちょっと残念な気がした。生ハムの塩気が、渇いた体にし沁みた。
「もしかして、大学に行かれるんですか?」
パッと小さな花を咲かせたように、芽衣さんが訊ねてきた。
「行かないけど、どうして」
「いいえ。珍しく下りて来られたので、もしや、と」
「休学中なんだから、行かないよ。それに、ーーやることもあるし。ごちそうさま」
食事を済ませ、ダイニングを出ようとした時、芽衣さんに呼び止められた。
「お食事の際はいつでもお声をお掛けくださいね」
恵まれている。実に恵まれている。何不自由のない生活だ。マイニングして得た報酬には一銭も手をつけずに生活ができる。母親が留守にしていても、家政婦の芽衣さんが炊事洗濯をこなしてくれる。
「その時は、声を掛けるよ」
ふとヴェインが最後に言った言葉を思い出した。
深淵に空いた穴は予想以上に大きかった。
自覚させられると、薔薇の香りが余計に鼻を突いて、気分を苛立たせた。
顔を洗いに洗面台に行くと、天然パーマの髪が伸びて、アバターのレインツリーそっくりになっていた。
おかしくて、ちょっと笑えた。
顎の髭を剃り、顔を洗い、シャツにベスト、チノパンに着替えた。身なりだけは整えなくては、気が済まなかった。長年の生活で染みついた習慣なんだろう。
部屋に戻った怜は、ソファに深く腰を掛けて、天井を仰いだ。回転を続けるシーリング・ファンがもし地震か何かで、突然ガタッと外れて落ちてきたら、即死だろう。
わざと不幸な妄想をして、自分は悪くない、被害者なんだと意識させる。悪い癖だ。
ヴェインは今頃、何をやっているんだろうか。歳はいくつなんだろうか。自営をしていると言っていたので、大学生ではない。でも、年上でもなさそうな口振りだ。
ギャシュリーには後で、ホームに行くと言ったので、そろそろ行ってやるかと、バーチャライザーを装着したが、あまり気乗りはしなかった。
欲しかったのは、あいつのセンスであって、あいつではない。戦い方が上手い奴なら、まだ他にも大勢いる。
己に言い聞かせるほど、空虚感が無性に腹立たしくなった。
透き通ったガラス玉が触れ合った時に発する、澄んだ音がヴェインから聞こえていた。
自身のガラス玉は、とっくに濁った音を発しているのに。
ヴェイン以外、他にいるだろうか。何が、あいつの気に障ったのか。いつからガラス玉に亀裂が入っていたのか。知ろうともしなかった。ヴェインのことを知ったつもりでいた。
「一度、落ちる」
嘆息にも似た声を、胸の奥から押し出した。
「レインツリー。今度、俺が集めたメンツを、見てほしいんだけど、粒揃いの奴らが集まったよ。さすがに、バイクをカスタマイズして飛行型を出しちゃう奴はいないけど」
軽く鼻で笑ったギャシュリーが「なあ」と返答を求めてきた。
「分かった。今は、一人にしてくれ。後からホームに行く」
「あいつと別れて、そんなにショックなのか、珍しいな。他人には興味なかっただろ」
いかにもお前のことは何でも知っているぞ、と言いたげな口調が嫌に耳についた。
もしかして、自分もヴェインに対して、上から目線になっていた挙句、劣等感を覚えさせる物言いになっていたんじゃないか。
「わざわざ一から百まで教え込むなんて、腕の立つ奴なら他にもいただろ。どう見ても、まだ一年も経ってない、ド素人だろ――」
「ギャシュリー」噛み締める歯と歯の間から、低く声を漏らした。
「それ以上、ヴェインの話題は、もう出すな」
「おい! れい怜っ!」
背後から声が飛んできたが、レインツリーは無視したまま、ユグドからログアウトした。
バーチャライザーを頭から外し、額を押さえた。
カーテンで遮られた日差しが、下の隙間から射していた。
腹の虫が、ぐぅと小さくなった。昨晩は食欲がないと言って、芽衣さんに下げさせた。
偶にはダイニングで食事をするかと、気晴らしがてら部屋を出た。
久しぶりの廊下のじゅうたん絨毯の埃っぽい臭いとばら薔薇の香りが、鼻を突いた。掃除が行き届いた廊下の角には、花瓶に赤と薄ピンクの薔薇が生けられていた。
大理石の階段を下りてダイニングに行くと、朝食の片付けをしていた芽衣さんがいた。
多分、父が食べていった後片付けた。
大理石のアイランド・カウンターに、持って下りたマグカップを置くと、芽衣さんが驚いたように振り向いた。
「怜さん、おはようございます。下に降りて来られるなんて、お珍しい。何か、ご用意しましょうか?」
怜が物心ついた頃から、芽衣さんは五十代の女性らしい、ほど良くふく膨よかな体形を維持していた。
「じゃあ、何か軽く」
常に身に付けているエプロンで手を拭いた芽衣さんは、棚からクラッカーを出し、冷蔵庫からチーズと生ハム、手作りブルーベリー・ジャムを取り出し、平皿に盛り付けていく。
浅いバスケットの中にあった林檎の皮を剥いて細く切ると、同じ皿に盛った。
「薔薇、また生けたの?」
「はい。知り合いの薔薇農家の方が安く譲って下さったので、お母様もお好きですし」
「あの人が帰ってくる時は着替えか、食事だろ」
ダイニング・テーブルにランチョン・マットを敷き、食事が置かれた。
磨かれたナイフとフォークをセッティングし、芽衣さんは「どうぞ」と穏やかに笑い掛けた。
母親の顔より、芽衣さんの顔を見ている時間のほうが明らかに長い。
「玄関にも飾っていますので、目には入っておりますよ」
「そうだね」とだけ返事をして、食事を始めた。
芽衣さんはアイランド・カウンターでハーブ・ティーをい淹れると、そっと皿の近くに置いた。
怜の好みはすべて熟知している芽衣さんは、料理も上手かった。
昨晩のメニューは何だったんだろうと、ちょっと残念な気がした。生ハムの塩気が、渇いた体にし沁みた。
「もしかして、大学に行かれるんですか?」
パッと小さな花を咲かせたように、芽衣さんが訊ねてきた。
「行かないけど、どうして」
「いいえ。珍しく下りて来られたので、もしや、と」
「休学中なんだから、行かないよ。それに、ーーやることもあるし。ごちそうさま」
食事を済ませ、ダイニングを出ようとした時、芽衣さんに呼び止められた。
「お食事の際はいつでもお声をお掛けくださいね」
恵まれている。実に恵まれている。何不自由のない生活だ。マイニングして得た報酬には一銭も手をつけずに生活ができる。母親が留守にしていても、家政婦の芽衣さんが炊事洗濯をこなしてくれる。
「その時は、声を掛けるよ」
ふとヴェインが最後に言った言葉を思い出した。
深淵に空いた穴は予想以上に大きかった。
自覚させられると、薔薇の香りが余計に鼻を突いて、気分を苛立たせた。
顔を洗いに洗面台に行くと、天然パーマの髪が伸びて、アバターのレインツリーそっくりになっていた。
おかしくて、ちょっと笑えた。
顎の髭を剃り、顔を洗い、シャツにベスト、チノパンに着替えた。身なりだけは整えなくては、気が済まなかった。長年の生活で染みついた習慣なんだろう。
部屋に戻った怜は、ソファに深く腰を掛けて、天井を仰いだ。回転を続けるシーリング・ファンがもし地震か何かで、突然ガタッと外れて落ちてきたら、即死だろう。
わざと不幸な妄想をして、自分は悪くない、被害者なんだと意識させる。悪い癖だ。
ヴェインは今頃、何をやっているんだろうか。歳はいくつなんだろうか。自営をしていると言っていたので、大学生ではない。でも、年上でもなさそうな口振りだ。
ギャシュリーには後で、ホームに行くと言ったので、そろそろ行ってやるかと、バーチャライザーを装着したが、あまり気乗りはしなかった。
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