Bravo!

Rachel

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8. 酔い

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 まず最初はまっすぐエドガーの屋敷に向かった。そして執事のハーゲンからテオが帰っていないことを確認すると、そこから近い街区へ行き、酒場やレストランの街を馬車から降りてテオを探した。

 五区、六区、七区と順に見てまわったが、テオはなかなか見つからなかった。
 マルグレーテはうなだれた。もしバイオリンを弾いてくれていたなら、その音ですぐにわかるのに。
 あちこちの酒場から聞こえるのは今夜に限ってアコーディオンや調子っぱずれの笛の演奏ばかりだった。
 マルグレーテはテオの疲労した顔を思い浮かべた。彼はすでに舞踏会でたくさんの曲を弾いたのだ。もう楽器をケースから出していない可能性もある。もしかしたら、すれ違っているのかもしれない。それに、こことは違う一角ーー花街に行っていないとも限らないのだ。そちらにはエンマがいてもさすがに出向くことはできなかった。

 焦る気持ちを抑えて、通りを歩いている時だった。

「くっそ、馬鹿にしやがって!」

「なんだってんだ! 若造が威張りちらしやがって」

 マルグレーテたちの目の前で、酒場から男達二人が顔を赤くして怒鳴り散らしながら扉を開けて出てきた。
 とっさにエンマがマルグレーテの前に出て危険を避けようとする。
 しかし、男達は足元をふらつかせて大声を出しているだけで、マルグレーテや他の通りすがりの人々には全く関心がないようであった。
 害のなさそうな二人にほっとしてマルグレーテは彼らをやり過ごそうとしたが、男達の会話にさっと振り向いた。

「バイオリン持ってんだから弾いてくれって言っただけなのによお」

「おうよ……ちっ、仕方ねえから誰か音楽やってくれるとこに行こうぜ」

 マルグレーテはエンマと顔を見合わせた。





 リンリン。扉を開けるとベルが鳴った。
 その酒場は先ほどの男達が出てきたとは思えないほどに落ち着いた雰囲気だった。元々裏通りの者達というより、地元の庶民たちの通う酒場のようだ。あの男達もゴロツキではないらしい。店の中はこじんまりとしており、舞台などはなくアコーディオン弾きが隅に気を失ったようにくてんと横になっているだけだった。
 
 その店内の片隅に、目当ての人物はいた。

 テオは、赤くなった頬をべったりとテーブルにつけ、薄く開かれた瞳をぼんやりさせて座っていた。明らかに酔っているようだ。
 テーブルには空になったエール瓶いくつかと半分ほど残った大きなウイスキー瓶が置かれている。彼の手にはその茶色の液体の入った小さなグラスが握られていた。

 エンマは「支払いの確認をしてまいります」と店主のいるカウンターの方へ向かっていった。
 マルグレーテは、テオの初めて見る姿に驚いていたが、何はともあれ彼を見つけ出せたことにほっと胸を撫で下ろした。

 ぼうっとしている彼の元へ歩み寄ると、声をかける。

「テオ」

 彼からの反応はない。

「テオ、テオったら!」

 何度も呼びかけると、ようやくテオはその声に気づいたようだ。

「ん……?」

 くぐもった声が聞こえた。そうしてゆっくりと覚醒するように瞳に光が宿り、むくりと起き上がるとこちらを見た。
 そうして二、三度瞬きをするとにぃっと笑った。
 マルグレーテは思わず目を見開いて、たじろいだ。他人かと思ったのだ。

「こおれはこれはあ、マルグレーテお嬢様ではありませんかあ、こんなところまでお出迎えたあ、嬉しいことだ」

 マルグレーテは驚いたように一歩下がったが、やはり彼自身であることがわかり、ほっとした。

「まあ、テオ……相当飲んだのね。一体どうしたの、何があったの」

「べえつに、俺あどうもしませんよ! しっかし相変わらずお嬢様はお美しいことだ。俺みたいな底辺の人間は足元にも及ばない。まさに姫君と下僕ってやつだ」

 そう言われて、マルグレーテは眉を寄せた。やっぱり舞踏会で何か言われたんだわ。マルグレーテはテオに対して申し訳ない気持ちになった。

「テオ、誰かにひどいことを言われたんでしょう? ごめんなさい、あんな危険なところに引っ張りだしておいて、あなたを守ることもできなかったわ。友達として最低ね」

 マルグレーテの言葉に、テオはきょとんとした。

「友達……?」

 テオは急に真面目な表情になると、マルグレーテにぐんと赤い顔を近づけ、彼女の目を覗き込んだ。

「今、友達って言ったか、そいつはあんたと俺のことか?」

 マルグレーテはひどく近いテオの顔に目をぱちくりさせて頷いた。

「え、ええ、言ったわ。だって私達はイタリアで会った時から……」

「そんなら」

 テオはマルグレーテの顔を睨みつけるようにーーあるいは何か思いつめたように神妙な低い声で言った。

「俺がこれから演奏して、もし、もしもあんたがそれを気に入ってくれたんなら、俺は貴族の男とおんなじように、あんたの手に口づけしてもいいのか?」

 マルグレーテはテオの問いの意味を理解するのに少し時間がかかったが、少し頬を赤くして言った。

「テオったら、まさかあの時のこと、見ていたの?」

「だめか? 一度だけでいい、俺にはそんな権利さえないのか、友達なんだろ?」

「ええ、もちろん、そんなことかまわないけど、でも……」

「かまわない? 言ったな、ようし、それなら張り切って弾いてやろう!」

 テオはマルグレーテの言葉を最後まできかずにバイオリンをケースから勢いよく出すと、ガタンと音を立ててイスの上に飛び上がり、弦の調節を始めた。何事かと店にいた皆が注目する。
 ちょうどその時、エンマがマルグレーテの元へ寄ってきた。

「支払いはすべて済んでいるようです。というより店主の話では、有り金を全部出すから酒をくれと言ったそうですわ」

 エンマが小声でそう言ったのに、マルグレーテは眉を下げた。

「まあ……。わかったわ、早く帰った方が良さそうね。でもまって、これから演奏するつもりのようだから、それが終わったらね」

 エンマはテーブルの上に立ったテオをちらりと見上げて一瞬顔をしかめたが、すぐに真顔に戻り、頷いた。

「承知いたしました」

「おいっ、そこのアコーディオン」

 弦の調節を終えたテオは、エドガーから与えられた上等な上着を脱ぐと、丸めてアコーディオン弾きに投げつけた。その衝撃に、眠りこんでいた彼が目を覚ます。

「なな、なんだ……?」

 ぼんやりしている男に、テオは聞こえるように怒鳴った。

「その服をやるから、うまく俺の音を引き立ててくれ。頼んだぞ」

 アコーディオン弾きはテオの上着を手にしていたが、その上質な肌触りに肩をすくめた。了承したらしい。
 こうして、テオの演奏が始まった。


 酒の入ったテオのバイオリンの旋律は、滑らかでいつもより一層情熱的であった。アコーディオンはテオの頼み通り、バイオリンの伴奏にまわり、店内の誰もがその美しい演奏に聴き入った。
 短調の時は怖いほどに真面目な顔つきで弓と指を動かして息が止まるような高音を出したかと思えば、長調になると突然底抜けに明るいメロディーを奏で、イスから飛び降りて目の前で聴いているマルグレーテにおどけてさえみせた。テオがにっこりと笑いながらパフォーマーのように演奏しているのはほんとうに珍しかった。
 そんなまれな姿を見せる彼に、マルグレーテは最初は微笑んで見守っていたが、長調のふざけた弾き方に笑い声を上げ、短調を弾く真剣なテオの表情にだんだんと心を奪われていった。いつもなら弾いているバイオリンの音にばかり関心がいくのだが、今はなぜだか彼の表情やしぐさに見入ってしまう。彼は……テオは、こんなに笑えるのだ。
 この笑顔は、今だけは私に向けてくれている。テオが自分のためだけに弾いてくれている。マルグレーテはそのことにこの上ない幸せを感じていた。このまま時が止まってしまえばいいのにとさえ思った。




 演奏が終わった。
 大きな拍手と歓声に包まれる中、テオは一度観客達にお辞儀をしてみせると、拍手をしているマルグレーテの方をぐるっと向いた。

「どうだ、気に入ったか?!」

 マルグレーテはテオの勢いある言い方に少し目を瞬かせたが、微笑んで頷いた。

「ええ、ええ、もちろんよ。あんなに陽気な音楽をテオの演奏で聴けるなんて思ってもみなかったわ」

「そんなら……」

 テオは緊張したような声で言った。

「お、俺は……そ、その手にキ、キスをしてもいいのか?」

 マルグレーテはなぜテオがそんなに手のキスにこだわるのかわからなかったが、断る理由は全くなかった。バウマン侯爵子息の時は悲鳴が漏れたが、テオならちっともかまわない。

「ええ、どうぞ」

 そう言ってマルグレーテは右手を差し出した。

 テオはその美しい手をかっと見開いた目で見つめ、震える左手でその手を取った。
 だんたんと唇を近づけていく。緊張が頂点に達した、ちょうどその時。

「うっ」

 テオは急に青い顔になり、マルグレーテの手を離した。

「き、気持ち悪い……まずい……!」

 そうして店の奥の厠の方へ駆け込んでいった。
 マルグレーテもそのまわりで見守っていた人々も一瞬きょとんとしたが、次の瞬間どっと笑いに包まれた。

「せっかくのべっぴんのお嬢さんの手に接吻するチャンスを逃すとは!」

「ざまあねえな!」

「演奏はうまかったのにねえ」

 そんな声が聞こえてくる。一瞬呆気にとられていたマルグレーテもくすりと笑みをこぼした。

「まあでも、あれだけたくさん飲んでいたのだから、気分が悪くなっても仕方ないわ」

 テーブルを見る限り、エール何杯かの後にウイスキー瓶を半分にしたのだ。バイオリンの演奏中は集中していたが、その集中が切れて緊張が高まったのだから、吐き気をもよおしても仕方ない。

「何をおっしゃいますか! お嬢様の手を取って気持ち悪いだなんて、失礼にもほどがあります!」

 エンマだけがぷりぷり怒ってくれた。





 マルグレーテとエンマはそのまま店内でテオを待っていた。出しっ放しになっていたバイオリンをマルグレーテは丁寧にケースにしまうとそれを大切そうに抱えた。
 しばらくしてテオが青い顔をしたまま奥から戻ってきた。

「テオ、大丈夫?」

 テオは下の床を見つめたまま、ただ小さく頷いた。
 それを確認しエンマは「よかった、では帰りましょう」と言い、テオとマルグレーテを店の外へ促す。

「バイオリン……」

 小さな声でテオがそう呟いたのに、マルグレーテは微笑んで、手に持ったケースを掲げた。

「大丈夫。ちゃんと私が持っているわ。さあ、馬車に乗りましょう」


 こうしてエンマとマルグレーテ、そしてテオは無事にエドガーの馬車に乗り込んだ。
 しかし、彼らはすぐに帰ることはできなかった。馬車が石畳みで揺れる度に、テオが吐き気をもよおしたからだ。
 降りては道の下水道口で吐き、乗ってはもよおし、また降りて……を三回繰り返してから、やはり歩いた方が良いと判断した。

 時おり冷たい風がゆったりと吹いており、舞踏会と酒場で火照った熱をすうっと冷ましてくれているようだった。そんな真夜中のウィーンの街を、テオとマルグレーテ、そして侍女のエンマは一区までの帰路を歩き、その後ろをエドガーの馬車がついていくという、エドガーがきいたら「馬車を返せ!」と言い出しそうな状況がしばらく続いた。

 歩いている途中も、テオは時々吐き気をもよおし、道端の下水道まで駆け込んだ。マルグレーテはその背中を心配そうに撫で、エンマは眉をひそめながらも水やタオルなどを差し出した。

「ご、ごめん……ほんとに。君にこんな……」

 浅く呼吸しながらテオは何度もマルグレーテに謝った。
 その度にマルグレーテは「気にしないで」と返し優しくテオの肩をたたいた。


 しばらくそうして歩いていたが、やがて大きな噴水のある広場に出た。傍には新鮮な水が出ている水飲み場があり、テオはそこで口をゆすいだ。街灯に照らされた顔色は先ほどより随分良くなっていた。
 あともう少しで一区だ。それでもまだ少しふらついているようなので、噴水の前に腰を下ろして少し休むことにした。

 テオの隣にマルグレーテも腰掛けた。彼女の腕には相変わらず彼のバイオリンが抱えられている。

「落ち着いた?」

 マルグレーテの問いに、テオは頷いた。酔いも完全に醒めたようで、あの酒場の時のような陽気さはもう影も形もなく、いつもの無表情、否、どんよりとした表情であった。

「吐き気はもうない……気分も大分良くなったみたいだ」

 その言葉に「よかった」とマルグレーテは微笑んだが、テオは彼女の顔をまともに見れずに、下を向いて相当落ち込んだ声で言った。

「マルグレーテ、ほんとにごめん。君にこんな姿を見せるなんて、俺は……」

 マルグレーテも彼を見ずに、まっすぐ前の広場の方を向いたまま言った。

「気にしないでって言ったでしょ……舞踏会からいなくなってしまってびっくりしたわ。あなたが無事でほんとうによかった」

「勝手に抜け出して悪かった。心配かけて、貴族のお嬢さんに夜の街を歩かせて、こんな……こんな、酔った男の世話までさせて……」

 テオの声はどんどん萎んでいく。マルグレーテは「違うわ」と首を振ると、きちんとテオに向き直ってはっきりと言った。

「テオ、謝らなければならないのは私の方よ。貴族でないあなたが、社交界の人から針のむしろのように標的にされるのは予測できたのに、私はあなたを守れなかった。気を悪くするような言葉を言われたからお酒を飲んだのでしょう、テオ」

 テオは顔をあげ、酔いから醒めて初めてマルグレーテをきちんと見た。なぜわかったのだろうかと言いたげな表情をしている。

「あなたを追いつめてしまったわ。ほんとうにごめんなさい」

 マルグレーテの心から謝罪に、テオは戸惑ったように首を振った。

「い、いや、俺はそんな……」

 貴族の青年に、マルグレーテの手を取ることのできる身分ではないと言われ、その事実を悟ったからヤケになって酒を飲んだとは言えなかった。それに、彼女はテオが手にキスすることを許可してくれた。

 テオは酔いがまわっていた時のことも全て鮮明に覚えていた。あの時あんな大胆でぶしつけな願いを申し出るなんてほんとうにどうかしていたが、それでもマルグレーテは受け入れようとしてくれたのだ。
 それなのに、結局手の甲にキスをすることは叶わなかった。それも自分の酔いのせいだ。ほんとうに、間の悪い自分を殴りつけたい。
 テオはため息をついた。彼女が謝るのはお門違いだ。だが、酔った理由を述べることなんてできない。
 テオはふと、舞踏会の演奏の時のことを思い出した。

「君が謝る必要は全くない。その……舞踏会で、ソロの時は助かった。マルグレーテが励ましてくれたおかげで緊張がとけた。ありがとう」

 その言葉にマルグレーテは嬉しそうに頷いた。

「そう、よかった。私もテオの演奏で踊れたからとっても楽しかったわ。やっぱり、あなたの演奏は最高ね!」

 お互い微笑み合うと、もういつもの二人に戻ったようだった。



 冷たい夜風にしばらく当たっていたテオは、顔色もずいぶん良くなったので、そこからは馬車に乗って帰ることにした。マルグレーテは心配の表情を浮かべたが、もうテオはすっかり大丈夫なようであった。

 馬車は一区に入ると、すぐにシュミット伯爵邸に着いた。
 マルグレーテが言った。

「エンマ、先に降りて屋敷の様子を見てきてくれるかしら。特にお父様がもうお帰りになっているのか教えてちょうだい。ベルタお姉様と叔父様がどんな言い訳を考えてくれたのか確認をお願い。私もすぐにいくわ」

「承知いたしました」

 エンマはきょろきょろと辺りを見回しながら屋敷に入っていった。
 マルグレーテも馬車を降りようとしたが、馬車の扉に手をかけたまま、まだ外に出ずに迷ったような顔をしていた。
 父親がいるかもしれない屋敷へ帰るのを躊躇しているのだろうか。そう考えたテオは言った。

「……俺のせいで君が親父さんに怒られるようなことになったら、俺が直接謝罪する。大事な舞踏会の夜だったのに、市井の酒場に君を出向かせたのは俺だ」

 マルグレーテは目を瞬かせたが、首を振って微笑んだ。

「あなたが気にすることじゃないわ。父の件は叔父様がなんとかしたはずだから大丈夫よ。ただね、その……」

 マルグレーテは少しの間目を泳がせていたが、やがて意を決したようにテオの目にすっと視線を定めた。光の加減のせいか、彼女の頬が少し紅い。

「テオはさっき、私の手にキスをしてもいいかときいたわね。でもね……手の甲ではなくて、これくらいのことは許してほしいの」

 そう言うとマルグレーテはぐっとテオに近づき、彼の頬にキスを落とした。

「そ、それじゃあまたね、テオ。素敵な演奏をありがとう、おやすみなさい」

 頬を染めたマルグレーテはそう言って、今度こそ馬車を降り、扉を閉めると屋敷の中へぱたぱたと入っていった。


 テオが我に返ったのは、馬車がエドガーの屋敷に着き、御者に大きな声で名前を呼ばれた時であった。




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