Bravo!

Rachel

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23. 必然のスリと偶然の再会

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 マルグレーテがふと気がつくと、窓辺から見える雪が日の光できらきらと輝いているのが目に入った。もうすっかり朝だ。またいつのまにか眠ってしまったようだ。
 肩から下には例のショールがかけられている。結局私が使っているのね。マルグレーテは連れに目を向けた。
 テオはマルグレーテの前の席でバイオリンのケースを抱え込んで眠っていた。眠っているのによく落とさないままでいられるわね。
 マルグレーテはくすりと笑うと、楽にしてやろうと思い、彼の手から楽器を取ろうとした。その途端にテオは目を覚ました。

「まてっ」

 彼は突然大きな声を発すると、間髪入れずにマルグレーテの手首をぐっと掴んだ。マルグレーテが驚いて「きゃっ」と言うと、テオははっとしたように、すぐ目の前にある彼女の顔を見た。二人は目を見開いたまま見つめ合う体勢になった。

「……ご、ごめんなさい、楽器を持ったままだったから下ろしてあげようと思って」

 マルグレーテが謝ると、テオは気まずげに手を振りほどき、下を向いた。

「いや……俺こそごめん、その……楽器を盗まれそうになったかと思った」

 その後少しの沈黙が流れたが、マルグレーテがくすりと笑みをこぼした。

「すごいわね、よく眠っていたのに私がバイオリンを取ったのがわかるなんて」

 テオは頭をかいて自分の隣に楽器を置き、ケースを撫でた。

「……ずっと手放したことがないから。もう身体に染みついてるんだ」

「確か七歳って言ってたわね、楽器を始めたのは。誰よりも長い付き合いなのね」

 テオは目を丸くした。

「そんなことまで、よく覚えてるな」

「話してくれたじゃない。テオの話は全部覚えているわ。首から下げている形見のメノウのことだってね」

 マルグレーテが得意げに言ってみせると、テオは首にかかっている紐に触れてから照れたように窓辺に視線を移してしまった。

 マルグレーテは脇に置かれたバイオリンを見た。
 そう、覚えている。彼は幼くして母を失い、旅芸人と死に別れてから一人で生きてきたのだ。テオを支えてきたのはこのたったひとつのバイオリンだ。
 私も、このバイオリンと同じようにテオの支えになろう。誰よりもずっとテオのそばにいる存在になるのよ。マルグレーテは心の中でそっと決意を改めた。


 太陽がすっかり昇った頃、列車はブレシアに到着した。町はすっぽり雪で覆われていて、歯が鳴るほどに寒かった。
 ここからベルガモまで馬車である。駅馬車の乗り場には人が多かったが、ベルガモ行きの馬車は空いていた。

「あんちゃん、そいつは楽器だろ」

 テオとマルグレーテが乗り込んだ馬車の席に座っていると、後ろから声がかけられた。
 二人が振り返ると、後ろの背もたれから一人の髭面の男がこちらを見下ろして、バイオリンを指している。しかしテオは返事をせずに前に向き直ったので、男が笑い声をあげた。

「おいおい、無視するこたあ、ねえだろ。楽器かどうかきいてんだ。あんちゃんのものか?」

 男の言葉に、しばらくの沈黙の後テオは「そうだ」とだけ答えた。

「んだよ、おそろしく愛想のねえあんちゃんだな。まあ、いいや」

 男はそっけない返事しか返ってこなかったことに眉をひそめたが、肩をすくめテオに背を向けて前を向くと席に座った。

「ちょっと、テオ」

 マルグレーテがひそひそと隣に座るテオの耳元で言った。

「あんな言い方しなくたっていいじゃない、かわいそうよ」

 するとテオはマルグレーテに小さな声で答えた。

「気をつけろ、あの男はスリだ」

「えっ! 嘘っ!」

「ちがいない、さっきからいろんな客に声をかけてる、荷物の中身を確かめて、金目のある物を探ってるんだ」

 マルグレーテは急に怖くなって足元に置いたばかりの荷物を膝に抱えた。

「嫌だわ、ほんとうなの? 後ろに座っている人でしょう?」

「彼だけじゃない、たぶんあっちこっちにいる」

「そんな……いやだ、怖いわ」

 身を竦ませて震えたような声の彼女に、テオは一瞥をくれると口の端を少し上げた。

「大丈夫だ、今の君は見るからに貧……金持ちには見えない。その荷物だってだいぶ古びて見えるから、ろくなものが入ってないって思われてるさ」

「そ、それならいいけど……。やっぱり怖いわ。ねえ、どうしてスリをするのかしら。お金がないなら、働けばいいじゃない」

 テオはわずかに眉を寄せた。

「働き口がないからだろ。俺だってこのバイオリンがなかったら、同じことをしてたかもしれない。読み書きもできないからな……彼にとっては必然なんだ」

 そう言われてマルグレーテはびっくりして目を見開いた。
 テオがスリを弁護したように聞こえたのにも驚いたが、テオがスリをするなんて考えもしなかったからだ。しかし、彼の言ったことは間違いとは言えなかった。バイオリンがなかったら彼もそうなっていたかもしれない、そう考えると先程まで自分からかけ離れていた犯罪者が急に近い存在になったような気がして、後ろの男が気の毒にさえ思えた。


 ブレシアを出発した馬車は、森の中の砂利道を走った。テオは落ち着かないように座席の窓枠に手をかけて身体を支えた。マルグレーテは馬車がガタガタと揺れるのに慣れていたが、何か起きやしないかとハラハラしていた。
 しかし馬車は砂利に音を立てるだけで、何か起きることなくベルガモへ進んだ。

 鐘の音が聞こえてくるのにマルグレーテは気づき、はっと顔をあげた。遠くに白い城壁が見える。ブレシアと違って、この辺りは雪が積もっていないようだった。

「テオ、もうすぐよ!」

 マルグレーテが嬉しそうに声をあげると、彼だけでなく他の乗客もそれに気づき、ざわつき始めた。
 しかし、にこにことしている彼女の耳元でテオは無表情のまま囁いた。

「いいか、降りるまで荷物に気をつけるんだ。スリをするのは気を抜いた時が一番の狙い目だ」

 その言葉にマルグレーテはドキッとしたが、緊張したような表情でこくこくと頷いた。

 馬車は人の多い大きな広場で止まった。人が順番に降りていき、マルグレーテも警戒したようにきょろきょろしながらテオの後に続いた。
 馬車を降りると、地に足をつけたためか安堵したような心地になり、マルグレーテはほうっと一息ついた。

「もう大丈夫ね!」

 マルグレーテはにこりとテオに笑みを向け、彼も頷こうとした、その時だった。

「ない、ない……ない!」

 後ろから降りてきた中年の女が小さな鞄とつぎのある上着をパタパタさせて、必死で何かを探している。
 マルグレーテとテオも含め、その場にいた人々は驚いたように彼女を見た。

「誰かあたしの財布を知らないかい、えんじ色の巾着だよう……」

 女は探し尽くしたようで、心底困ったような口調で周りの人々に問いかけ始めた。

「ねえ、頼むよ、拾ってくれてたら教えとくれ……ねえあんた、頼むから」

 女は御者に詰め寄って言ったが、彼はうっとおしそうに振り払った。

「知らないよ、誰かにすられたんだろう。諦めな」

 御者はそういうだけで、そそくさと馬車に乗り込むと、馬を走らせ、広場を去っていってしまった。

「そんなあ……」

 女は真っ青な顔で、絶望したように地面に膝をついた。
 一緒に乗り合わせていた人々は気の毒そうな表情で、彼女の前に小銭を置いていった。たまたま広場を歩いていた上等な服の男も小銭を少し彼女に置いていったが、女はがっくりと肩をすぼめて地面に座りこんだままだった。
 マルグレーテは眉尻を下げてテオを見上げた。そして自分の肩に下げた小さな鞄を開けて、財布を取り出そうとした。
 そんな彼女にテオは言った。

「だめだ、マルグレーテ。彼女には何もやる必要はない」

 驚いたようにマルグレーテは顔を上げる。

「どうして? 気の毒過ぎるわ」

「いいや、そんな風には思わない」

「まあ、ひどい。自業自得だって言いたいの?」

 軽蔑するように表情を歪めたマルグレーテに、テオは目を細めて首を振った。

「そうじゃない。そうやって金を取るんだ、彼女の作戦なんだよ」

 マルグレーテは眉を寄せた。

「なんですって……」

「君のためだ……少し離れたところで見ていよう。きっと俺の勘は当たってるはずだ」

 テオの言うままに広場の端まで行くと、マルグレーテは遠巻きにして広場で座り込む女を眺め続けた。

「黙って見てるだなんて。信じられない、テオを見損なったわ」

 マルグレーテは不満そうに小さな声でテオに文句を言ったが、彼は何も返すことなく、無表情のまま広場の真ん中にいる女をじっと見つめていた。
 なによ、彼女がスリに合うのも必然だって言うの。テオがこんなに冷たい人間だったなんて、知らなかったわ。マルグレーテはむっとしながらテオの隣に佇んでいた。
 すると、半刻もしないうちにどこからか男がやってきた。

「あっ、あの人……!」

 マルグレーテは小さく驚きの声をあげた。中年の女に近づいていったのは、馬車に乗り込んだ時、テオがスリだと言ったあの髭面の男だった。彼は例の女と二言三言交わした後、えんじ色の巾着を彼女に渡して、その場に置いてあった小銭を半分ほど掴んでどこかへ行ってしまった。女の方は巾着の中に、人々が置いていった小銭を一枚ずつ数えながら入れていく。最後の一枚を入れ終わると、彼女はにんまりと笑みを浮かべ、立ち上がると人混みの中へと消えていった。

 マルグレーテは愕然とした。
 仲間だったのだ。最初から、あの髭面の男と中年の女は、馬車に乗る前から組んでいたのだ。そうして馬車の乗客から同情を買い、金を恵んでもらうことを狙っていたのだろう。

 マルグレーテは奥歯をギリリと噛んだ。テオが静かに言った。

「人の優しさにつけ込んでこういうことを企む輩もいる」

「テオ、ごめんなさい、私……」

 ほんとうに世間知らずだわ。マルグレーテは落ち込んだように言ったが、テオは彼女の手を取った。

「いいさ。世の中にはいろんな人間がいる。それを知れただけでもよかった……さあ、今度はまた鉄道だぞ、駅に行こう」

 マルグレーテは手を引かれながら、人混みをすいすいとかき分けていくテオの背中を眺めていた。


 きっとこんな社会を、彼はたった一人で生きてきたのだわ。
 マルグレーテは、自分が今までどれだけ分厚い壁の中で守られて育ってきたかひしひしと感じていた。父は娘をこんな世界から遠ざけたかったのかもしれない。もし今の道を進んでいなければ、自分は安全な伯爵家の屋敷で一生を送っていたのだろう、何も知らないままの貴族の奥方として。それがマルグレーテにとっての必然だったのだ。
 そんな未来を選ばなくてよかった、私には知らなきゃならないことが山ほどある。それに気づくことができたのは、テオと出会えたおかげだわ。
 マルグレーテは前を歩くテオの背中が大きく、握られている手は温かく感じた。

 ベルガモの駅まで着くと、チケット売り場は長い列を作っていた。テオとマルグレーテはミラノ行きのチケットを手に入れると、駅前でのパン屋で少し腹を満たしてから列車に乗り込んだ。

 昼過ぎにベルガモ駅を出発した列車は、これまで乗ってきた状況とは違い、一つの車室に人がやっと座れるくらいの大人数が乗っていた。
 窓から見える景色にはもう雪は残っていないようで、山をいくつか見送ると、葉のない林に入った。それから遠くに見える村をいくつか過ぎた後、再び林に入り、それも過ぎるとだんだんと民家が増えてきた。教会の鐘の音も聞こえる。
 マルグレーテ達の向かいの席に座っている少女が母親らしき人物に「もう着いたの?」ときくと、彼女は首を振って「いいえ、今はモンツァ、ミラノはもっと大きな町よ」と答えた。
 なあんだ、まだミラノじゃなかったのね。そう思ったマルグレーテは遠くから見える街並みを眺めていたが、大きな邸宅から帝国の黒と黄色の国旗が掲げられていることに気づくと、びくっとして窓辺から顔を背けた。

「どうした」

 テオは急に顔色を変えたマルグレーテに気づいて尋ねた。彼女は小声で答えた。

「ねえ、テオ。前に、マリボルで憲兵に名前を聞かれたと言ったでしょう。エンマが囮になって逃がしてくれたという話よ。もし……もしもよ、お父様がまだ憲兵を使って私を探しているとしたら……」

 マルグレーテは怯えたような表情を浮かべている。エンマを犠牲にして逃げてしまったことを悔やんでいるのだ。そして、ウィーンにはほんとうに帰りたくないのだという顔をしていた。

「余計な杞憂だ」

 テオが断言するように言った。

「馬車でも言っただろう、君は今、伯爵令嬢とは似ても似つかない格好をしてる。絶対に大丈夫だよ。それに」

 テオは目を逸らすと、少し小さな声になって次のように言った。

「もし見つかったとしても、俺も一緒に逃げる。君を一人にはしないさ」

思いがけない言葉に、マルグレーテはぽかんと口を開けた。

「噓みたい……テオがそんな風に言ってくれるなんて。憲兵に見つかったらそのままウィーンに帰れって言われるかと思ったわ」

 テオが呆れたように目を細めてマルグレーテを睨みつけた。

「前から思ってたけど、再会してから君は結構容赦ないというか、失礼だな。俺がそんなに人でなしに見えるか」

「だって、テオはあんまり他人に関心がなさそうだったから。急に親切になって……なんだか変な感じ」

「そんなの、俺が君を……!」

 テオは言いかけてから少し顔を赤らめて、言うのをやめてしまった。
 ぷいとそっぽを向いてしまったテオに、マルグレーテは申し訳ない気持ちになってバイオリンケースの上に置かれている彼の手に触れた。

「ごめんなさい」

 急に触れられた手にテオはびくっと肩を強張らせたが、マルグレーテが真面目な声で言ったのに振り返った。

「あなたがせっかく励ましてくれたのに失礼だったわ。ありがとう、と言うべきよね。すごく嬉しいわ、まさか一緒に逃げるなんて言ってくれるとは思っていなかったから……テオを人でなしだなんて思っていない。あなたが優しいのも、ウィーンに来る前から知っているわ。もう失礼なことは絶対に言わないように心掛けるわね」

 マルグレーテは真剣な表情で言ったが、至近距離だったので、テオは顔を赤らめ、少し後ろに身を引きながら「わ、わかった」と頷いた。




 列車は夕刻にミラノ駅に到着した。
 大きな駅だわ。マルグレーテは今までの駅とは比べ物にならない規模に驚いた。
 駅の中にはたくさんの店があり、大勢の人でごった返していた。貧しそうなぼろをまとった老婆もいれば、豪華なドレスに身を包んで侍女を連れているご婦人もいる。駅の向こう側ではアコーディオン弾きが演奏している音も聞こえた。

「テオ、鞄を返して。私のものよ、自分で持つわ」

「だめだ。君が持つと全部物乞いに寄付してしまうだろ」

「そ、そんなわけないでしょ」
 
 二人は昨日と似たような会話を繰り返したが、結局またしても荷物はテオが持つことになった。
 まずは今日泊まる宿を探さなければならない。時計の針はもう十六時を過ぎている。

「暗くなる前に見つかるかしら」

 マルグレーテは心配そうな声で言ったが、テオは気にしていないというように肩をすくめた。

「大丈夫だろう。この辺りはちょっと値がはるって聞いてるけど、その分宿は多いはずだ。できれば劇場がどこにあるのか確認しておきたいな。ひとまず広場に出てみよう」

 ミラノ駅はとにかく賑やかだ。あちこちで物を売る声、笑い声、歌声までも聞こえてくる。その騒がしさに、マルグレーテは目眩がしそうになった。

 その時だった。

「マルグレーテ? マルグレーテじゃない?」

 雑踏の中からふいに名前を呼ばれ、マルグレーテは振り返る。

「まあ……キアラ!」

 なんとそこにはつい先日に馬車で知り合った新しい友人がいた。キアラは嬉しそうな笑みを浮かべ、大きな荷物を抱えたまま駆け寄ってきた。

「信じられない、こんなところで会えるなんてすごい偶然ね! あなた、こっちに来る予定って言ってたかしら?」

「いいえ、成り行きでミラノに来ることになったの……そういえばキアラはこの町にあるお屋敷を目指していたんだったわね!」

「そうよ、でも、確かマルグレーテは、想い人を探してるって言ってたわよね……あら」

 この時キアラはマルグレーテの後ろに立つ青年の存在に気づいた。彼の手にはバイオリンのケースとマルグレーテの鞄が握られている。

「もしかして……」

 キアラの驚きの言葉に、マルグレーテはふふと嬉しそうに頷いた。

「そうなの! 彼が探していたテオよ。ウーディネで会えたの……。テオ、彼女がキアラよ、あの緑のショールをくれた人」

 マルグレーテが嬉しそうににこにこと紹介してくれたので、キアラは「こんにちは!」とテオに笑みを向けたが、彼は目を合わせて小さく頷いただけだった。
 キアラは『マルグレーテから聞いていた通りだわ』とひとりごち、笑みは崩さないままで友人にまた顔を戻した。

「ほんとうに奇遇ね。私はウーディネから南路で来たのよ。一度馬車でパルマまで行ってから鉄道に乗ったんだけど、同じ列車だったのかしら」

「いいえ、私達は北から来たの、ヴィチェンツァやブレシアを経由してきたわ、馬車も乗り継いだの」

 マルグレーテがそう言ったのに、キアラは目を丸くした。

「まあ、寒かったでしょう。この時期は雪がまだ積もっているから、ちょっと高いけど奥様に南路経由にしていただいたの……あなた方はこれから宿?」

「ええ、そう。宿も探さなくてはならないんだけど、その……実はある女性の歌い手を探していて……劇場を訪ねてみようと思っているの。この町のどこにあるかご存知?」

「劇場? ああ、そういえば好きって言ってたわね……ごめんなさい、私は興味なくてあまり詳しくないの。この辺りにあるとは聞いているのだけど……」

 キアラは申し訳なさそうに言って、辺りをぐるりと見回してから、あっと思いついたように続けた。

「もしかしたら奥様が知ってるかもしれないわ! ミラノに来ると必ず毎週のようにオペラに行く人だもの。よければ屋敷に一緒に来て。奥様に聞いてみましょう」

 キアラの言葉に、二人は驚いたように顔を見合わせた。
 マルグレーテが慌てて言った。

「とんでもないわ、奥様ってあなたのお勤めしているお屋敷の奥様でしょう。お忙しいのではなくて?」

 しかしキアラは笑みを浮かべた。

「心配ないわ。奥様はとっても音楽が大好きなのよ……そうだわ、テオさんのバイオリンを聞かせてさし上げるっていうのはどうかしら。すごくお上手なんでしょ? 奥様もきっと喜ぶわ。ねえテオさん、どう?」

「……でも、俺達は、今晩泊まる宿を探さないと」

 テオがそう言うと、キアラは「大丈夫よ」と気軽に彼の肩を叩いた。

「屋敷の使用人部屋で良ければ、たくさん空きがあるはずだわ。ね、今夜はそこを使って! それならテオさんもバイオリンを奥様に聞かせてくださるでしょう? きっと奥様も喜ぶし、部屋だって許可を得られるはずよ! どうかしら」

 ずいずいと身を乗り出してくるキアラに、テオは後ずさりながらも、「お、俺はそれでかまわないけど」と答え、マルグレーテの方を見た。マルグレーテは押され気味のテオに笑みを向けてから頷いた。

「じゃ、そうさせていただきましょう。ありがとう、キアラ」

 テオの言葉にキアラは嬉しそうな声をあげた。

「ふふ、よかった! 来て、お屋敷はこっちよ」

 弾むような足取りで人混みをかき分けていくキアラに、マルグレーテとテオは慌てて後を追った。








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