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24. 音楽家の行き先
しおりを挟むミラノの駅に着いたばかりの時は周りが騒がしくて気に留めなかったが、町を歩いているうちに、マルグレーテはこの町はもう冬が過ぎたのだと感じていた。雪もなく、冷たい風も吹いていない。夕刻であるため空は暗くなっているが、凍えるような寒さはなかった。
キアラの主人の屋敷は、ミラノの旧市街区にあった。彼女の話によれば、主人の名前はレティアナ・ガロンボ、中部イタリアの田舎貴族の奥方で、夫である伯爵とよくミラノに来るらしかった。
「ガロンボ家の人達はとっても良い方達なの。安心してちょうだい」
キアラは後ろの二人に微笑むと、使用人の出口から屋敷へ入った。
「おや、キアラじゃないか!」
ちょうど付近にいた使用人の声に、階下にいた人々が次々と集まってきた。
「えっ、来てくれたの! 助かるわあ……」
「久しぶりだねえ」
「おぉーい、キアラが来たぞう」
予想以上の騒がしさに、後ろにいたマルグレーテとテオは目を見合わせた。
キアラは集まってきた同僚達に笑みを向けた。
「ふふふ、みんなご苦労様。ねえ、奥様は今いらっしゃるかしら。もしお忙しくなければ、会わせたい人達がいるの」
「あー……」
同僚達が急に顔を曇らせたので、キアラは眉を寄せた。
「なに? どうしたの」
キアラの目の前にいたメイドが肩をすくめて声をひそめるようにして言った。
「実は昨夜、奥様は旦那様と喧嘩したらしくて、ずっとご機嫌ななめなのよ。もうどうしようもなくって」
「あら……旦那様が約束をすっぽかしたとか?」
「そうなの。もう朝のピリピリ具合ったらなかったわ」
恐ろしそうに首をすくめたメイドに、キアラは口の端を上げた。
「大丈夫、きっとそれももう終わるわ……さあマルグレーテ、テオさん、行くわよ!」
マルグレーテは内心どきどきしていた。ご主人と喧嘩中ですって? 機嫌が悪い時なのに、訪問して大丈夫なのだろうか。
出直してきた方が良いのではないかしらと言おうか迷っているうちに、奥方の部屋まで来てしまった。
キアラが静かにノックをする。
「奥様、キアラでございます」
中から「どうぞ」と声がしたので、キアラが二人に「ちょっと待っててね」と言い残して部屋へ入っていった。
扉の前に残されたマルグレーテとテオは顔を見合わせた。すぐに中から「まあキアラ!」やら「聞いてちょうだい、レイモンドったら……」などと途切れ途切れに声が聞こえてくる。
どうやら奥方はキアラとほんとうに仲が良いようで、再会を喜んでいるようだった。
しばらくすると、ガチャと扉が開いてキアラが顔を出した。
「さあ、どうぞ入って」
言われるままに、マルグレーテとテオが部屋に入る。
キアラの主人であるこの屋敷の奥方レティアナ・ガロンボは、中年にさしかかると思われる黒髪の美しい貴婦人で、にこやかに二人を迎えてくれた。機嫌が悪かったなんて嘘みたい、とマルグレーテはひとりごちた。
奥方は言った。
「いらっしゃい、キアラのお友達というのがあなたね? そして彼がバイオリン弾きかしら」
テオは小さく頷いただけだったが、マルグレーテはきちんとした佇まいの貴族の奥方を前にどきりとして、反射的に左足を引くと裾をつまんでお辞儀をした。
「はじめまして、お会いできて光栄です……マルグレーテと申します。彼はテオといいます」
奥方は目を見張らせて「まあまあまあ」と言うと、嬉しそうな声を上げた。
「なんだかとっても気品のあるお嬢さんじゃない。キアラのお友達だっていうから私はてっきり……」
「……てっきり、なんですか、奥様」
奥方はキアラのじとっとした視線をほほほと笑って受け流すと、テオの方を向いた。
「テオさん、突然で申し訳ないけど、ぜひバイオリンを聴かせてくれないかしら。昨日演奏会に行こうと思っていたのに、どこかの間抜けのせいで行けなかったのよ、お願い。あなたの得意な曲でいいから」
どこかの間抜け……旦那様のことね。奥方の小さな怒りを読み取ってマルグレーテは肝が冷えた。
テオは「わかりました」とだけ言うと、しゃがみこんで持っていた鞄を下ろし、バイオリンケースを開けた。そして弦を調節し二、三度だけ音を出すと、すぐに曲を弾き始めた。
始まったのはテオの得意な曲……それは前に彼がギルデンバッハ公爵の養子になるか悩んでいた時に教会前で弾いた曲だった。マルグレーテは懐かしさに目を細めて彼の紡ぐ音を味わった。
奥方とキアラの方は、あまりの音の美しさに目を見開き、口をあんぐり開けて音楽を聞いていた。と、演奏の途中で扉が開き、きちんとした身なりの紳士が入ってきた。彼は音楽が好きなようで、興味深そうに目を丸くして聴いていた。
やがて演奏が終わると、部屋にいたキアラと奥方とマルグレーテ、そして途中から入ってきた紳士が歓声をあげ、拍手を送った。
「ブラボー!」
「素晴らしいわ、最高よ!」
「あなた何者なの!?」
キアラの問いに、テオはただ肩をすくめて「ただのバイオリン弾きだ」と答えただけだった。
「いやはや、君はここに来て正解だ! 私とレティアナなら、劇場を紹介できる」
みんなに合わせて紳士が得意げにそう言ったのに、笑顔だった奥方は急に怖い顔になって言った。
「お黙りなさい、誰の許可を得て部屋に入ってきたの、レイモンド」
どうやら彼は旦那様らしいとその雰囲気でマルグレーテとテオは察した。
屋敷の主人は肩をすくめた。
「まだ気にしているのかい、昨日のことはすまなかったと言っているだろう……埋め合わせは必ずするから。次は何があっても君を優先すると誓うよ」
「その言葉、胸に刻みなさいよ。覚えてらっしゃい……さて、それよりもあなた!」
奥方はくるっとテオとマルグレーテの方を向いて再び満面の笑みを浮かべた。
「あなたのような演奏家はこの大都会の劇場で大勢に認めてもらうべきだわ! 近いうちに舞台に出れるように工面してあげるから安心してちょうだい」
奥方がそう言ったのに、テオはマルグレーテと顔を見合わせると慌てて首を振った。
「ま、まってください。俺はこの町で一旗あげようなんて考えてないんだ」
奥方はきょとんとした顔をした。
「あら、違うの? でもあなたほどの腕を持っているのにもったいないわ」
「ありがたい話だけど、ほんとうにいいんです、すみません」
テオがそう言っているのを横で見ながら、マルグレーテはかつては自分も奥方と同じ気持ちであったことを思い起こしていた。
一歩下がったところでその様子を窺っていたが、マルグレーテは奥方に言った。
「奥様、私と彼がキアラにお願いしてあなた様をお伺いしたのは、ある女性の歌い手の行方を捜しているからなのです」
「女性の歌い手?」
奥方は目を瞬かせた。
「私が知っている方かしら、どうぞ名前を言ってみて」
マルグレーテは緊張しながら言った。
「マリア・クラウゼンという方です。随分前に歌手としてこのミラノで有名になったと聞いたのですが、ご存知でしょうか」
すると、奥方はきょとんとして夫と顔を見合わせた。
「ええ、知っているわ、とても有名だもの。私は直接観たことはないのだけれど。ねえ、レイモンド」
奥方が呼びかけると、主人も頷いた。
「もちろんだ。私は若い時に一度だけ歌を聞いたよ……今はもう引退したから舞台には出ていない」
引退。そうだったのね。マルグレーテは震えそうになる息を整えた。
「引退して……今はどこにいらっしゃるかご存知ですか」
マルグレーテが尋ねると、奥方は首を振った。入り口近くに立つ彼女の夫も「すまない、それはわからないなあ」と肩をすくめた。しかし、あっと奥方が声をあげた。
「彼女が所属していた劇場のオーナーにきけばわかるわよ! きっとあの人なら、今彼女がどこに住んでいるのか記録しているはずだわ。オーナーに手紙を書いてあげる。でも……明日になさい。今の時間の劇場はオペラがあるからてんてこ舞いよ、昼間に訪ねるのが懸命だわ」
マルグレーテは部屋の棚にある時計を見た。もうすぐ夜の六時をまわろうとしている。確かに、劇場は夕刻から騒がしくなるのだ。マルグレーテはこの時間はいつも叔父と劇場に出向いていたことを思い出していた。
奥方は「ああ、そうだわ」と付け加えた。
「あなた方、今夜はここに泊まっていくのでしょう? キアラ、部屋を用意してあげて」
マルグレーテとテオは互いにほっとしたような顔を見合わせると、奥方に礼を言って頭を下げた。
テオとマルグレーテはそれぞれに使用人部屋が用意された。奥方は客室用の寝室を勧めてくれたのだが、二人は断った。
「俺は使用人部屋の方がいいけど……君は大きい部屋の方が良かったんじゃないか」
夕食を終え、使用人用の談話室でテオが言った。椅子に座っていたマルグレーテは、不思議そうに立ったままのテオを見上げる。
「なぜ?」
「旅に出てから、君はずっと狭い部屋で我慢してたんだろ。せっかくガロンボ夫人が提案してくれたのに、ほんとうによかったのか? 俺に合わせる必要はないんだぞ」
本来の彼女の身分であれば、使用人部屋などありえない。こういう時くらいは客室用のを使えばいいのに。テオはそう思ったのだ。
しかし、テオの言葉にマルグレーテはすっと目を細めた。
「やめてちょうだい。私が我慢しているなんて絶対思わないで。私は、私が寝たい部屋に泊まるわ」
マルグレーテは強い口調で言ったので、テオは少したじろいだ。しかし、その後マルグレーテは「でも」と続けた。
「心配してくれてありがとう。もう一度言うけど、私はテオと離ればなれにならなければいいの、どこで寝たって同じよ。もう令嬢なんかじゃないから」
そう言ってマルグレーテはにっこりと微笑んだ。その美しい微笑みに、テオは少し頬を赤らめて「わ、わかった」と顔を逸らした。
マルグレーテが貴族の家を出ても、貧しい服を着ていても、彼女からは気品が滲み出ている。しぐさや口調、微笑みですら洗練されていることに、彼女は自分で気づかないんだろうか。そういえば、会ったばかりの時も、彼女のこの笑顔に見惚れたっけ。
「ところで、マリア・クラウゼンのことだけど」
急にマルグレーテが話題を変えたので、テオははっとして彼女の方を見た。
「その……もしも、マリアさんが結婚していて、大勢の家族に囲まれている生活を送っていたら、叔父様の話をしない方がいいのかしら。彼女にだって彼女の人生があるでしょう、壊してしまったらいろんな人に迷惑がかかるし……」
マルグレーテが言うと、テオは少し考えてから言った。
「もし家族が居たとしても、もう何十年も前の話だ。だからきっと大丈夫だよ。それに、マリア・クラウゼンがどんな人間かは知らないけど、たぶん彼女はエドガーのことを知りたいと思ってる。彼女にとってエドガーは恩人だし、彼女は追い出されたんじゃなく、自らの意志で出ていったんだろ。エドガーが彼女のことを想っているなら、なおさら伝えてやりたい。俺だってもし君が……」
そこまで言って、テオは言葉を途切らせ、再び顔を赤らめて顔を逸らした。マルグレーテはにんまりと口の端を上げて、テオの方へ身を乗り出した。
「もし私が、なあに?」
テオは身を翻した。
「なんでもない、明日も早いからもう寝る」
「えっ!?」
マルグレーテは慌てて立ち上がるが、テオはかまわずさっさと寝所に向かっていた。
「ちょっともう、テオったら!……わかったわよ、おやすみなさい!」
マルグレーテが少し憤慨した声をあげてから、挨拶をすると、テオは振り返らずにただ手を振った。
部屋に向かいながら、テオは危なかったと息を吐いた。
もしも彼女が、俺のために貴族の男との婚約を破棄していたらと願っていたなんて、口が裂けても言えない。彼女から離れるために自分でウィーンを出ていったのに、いつまでも未練があったということを、テオはマルグレーテに知られたくなかったし、それほど陰鬱な男だとは思われたくなかった。彼女が自分を想って追いかけてきてくれた、それでよかった。
テオは緩みそうになる頬をぺちりと叩き、与えられた寝室へ向かった。
翌朝、奥方は手紙を書いてから劇場までの馬車を用意してくれた。夫にはまだ冷たい態度をとろうとしていたようだが、機嫌はすっかり良くなったようで、キアラが喜んでいた。
「奥様には音楽が一番なの。田舎のお屋敷よりこっちにいるのが多いのはそのせいなのよ」
キアラはこっそりマルグレーテとテオに囁いた。
ガロンボ夫妻は、最後までテオの技術がミラノで公にならないことを惜しんでいたが、屋敷の玄関まで出てきて温かく送り出してくれた。もちろんキアラも一緒だ。
マルグレーテは夕べのうちに彼女に緑のショールを返した。キアラも快くそれを受け取った。「もう冬も終わったし、これは必要なさそうね。テオさんもいるんですものね」とからかった。
玄関先で、ガロンボ夫妻はテオに言った。
「もしこの町の舞台で演奏したいと思ったら、いつでもこの屋敷に来てくれ」
「そうよ。劇場や音楽家なら、いくらでも紹介するわ。もう一晩うちに泊まって演奏してから考え直してもいいのよ」
テオはわずかに笑みを浮かべると「ありがとうございます」とだけ述べた。
マルグレーテも夫妻に丁寧にお辞儀をして礼を言い、キアラにも礼の言葉を述べた。
「ありがとう、キアラ。あなたと友達になれてほんとうによかった」
ショールもそうであるが、キアラは一人で旅をしていた時から心の支えになっていた。偶然再会することができた上に、快く情報まで提供してくれた彼女に心から感謝していた。
キアラは嬉しそうにマルグレーテをぎゅっと抱きしめた。
「私もよ、マルグレーテ。それにすごいバイオリンも聞けたし……私も少し音楽に興味が湧いてきたのよ。今度オペラに行ってみようかなって思ったもの。それからーー」
キアラはそう言った後、少しマルグレーテの耳元にこっそりと囁いた。
「テオさんとお幸せにね」
テオとマルグレーテを乗せた馬車は、ミラノの街区を走った。冷たい風は吹いておらず、雲から顔を出した日差しが暖かく感じられる。
マルグレーテは向かいに座るテオを見た。彼は窓の外をただ眺めているようだったが、マルグレーテは嬉しくて頬が緩むのを感じた。
彼と再会して、春を迎えたような気がするわ。自然と笑みを浮かべ、マルグレーテは窓から見える澄んだ空を見上げた。
馬車はすぐに目的地の劇場に辿り着いた。二人はガロンボ伯爵家の御者によくよく礼を言ってから馬車を降りると、見えなくなるまで見送った。
ガロンボ夫妻が教えてくれた劇場は、マルグレーテの想像よりも飾り気のない造りの建物だったが、トーア劇場よりも規模が大きく感じられた。客がいない時間のため、しんと静まり返っている。
しかし昨夜は大賑わいだったようで、中年の女が一人、ロビー内を掃除しているのが見えた。
マルグレーテとテオが劇場のオーナーはいるかと尋ねると、彼女は頷いてロビーのずっと奥を指した。
「いるともさ、奥の事務室で昨夜の売り上げの勘定に追われてるよ」
忙しい中で私達の質問に答えてくれるかしら。マルグレーテは少し不安になったが、テオは箒を持った女に礼を言って奥へ進んだ。
事務室の扉をノックすると「どうぞ」と声が聞こえてきた。マルグレーテはおそるおそる扉を開け、二人は中に入った。
事務室の中はたくさんのパンフレットや楽譜が山積みになっていた。棚にも入っているが溢れ出てしまっているようだった。
そんな山積みに囲まれた一つの大きなテーブルに、灰色の髪がきちんと撫でつけられた初老の女が、眼鏡をかけて書類にペンを走らせていた。何やら計算しているようだ。
マルグレーテはその姿に少し驚いた。ここの劇場のオーナーはご婦人なのだわ。劇場関係の仕事は、権力を持つ男だけだと思っていたマルグレーテにとって、目の前のオーナーが働く姿は新鮮に感じた。
「何の用? 従業員の募集は先週締め切ったわよ」
彼女のぴしゃりとした言い方にマルグレーテはドキッとしたが、息を吸うと堂々と答えた。
「お忙しい中、申し訳ありません。こちらの劇場のオーナー様にどうしてもお尋ねしたいことがありまして参りました。私はマルグレーテ、こちらはテオと言います。その、ガロンボ夫妻からの手紙を預かっております」
マルグレーテの丁寧な言い方に、オーナーは意外そうにマルグレーテを見た後、差し出された夫妻の手紙を受け取り、さっと目を通した。
「へえ、レティアナ様じきじきにね……そう」
そう小さく呟くと、手紙をテーブルに置いてマルグレーテとテオを見た。
「それで? 私に何を聞きたいの」
こちらを向いた初老の婦人の目は鋭く、マルグレーテはなんとなく父を思い出し、肩をびくっとさせた。テオが代わりに答える。
「マリア・クラウゼンって歌手を探してる。ガロンボ夫妻が言ってたんだ、彼女が昔、ここの劇場で有名だったけどもう引退したってきいた」
オーナーは目を瞬かせた。
「マリア・クラウゼン? ……ええ、彼女は引退したわ。まだ歌えるようだったけど、自分がいつまでも舞台にいたのでは若手を育てられないって身を引いたのよ。別の国に移ってもいいと思ったけど、あの人は結局そうしなかったみたい」
マルグレーテは「まあ……」と呟いた。オペラ歌手はみんなあちこちの国をまわるものだと思っていたわ。
テオは小さく頷いた後、再び尋ねた。
「今どこにいるのか教えてもらえないか。奥さんから、オーナーなら知ってるって聞いた」
初老の婦人は訝しげにテオを見た。なぜそんなことを聞くのかと不思議に思っているのだろう。マルグレーテが言った。
「誓って悪いことは考えていません。どうしてもお会いして、話さなければならないことがあるの。お願いです」
懇願するような言い方に、オーナーは少し黙ってマルグレーテを見ていたが、「まあ、レティアナ様からの手紙もあるものね」と言うと、自分の上着のポケットから小さな手帳を取り出した。それから引き出しを開けて小さな紙切れを出すと、開いた手帳を見ながらさらさらと何かを書いた。
「はいこれ」
オーナーが紙切れを差し出した。
「マリアが今住んでいる住所よ。ここから南東のポー川の近く、クレモナの町にいるわ。きっとあなた達とも会ってくれる」
マルグレーテとテオは顔を見合わせると、嬉しそうにその紙切れを受け取った。
「ありがとうございます!」
深く頭を下げたマルグレーテに頷いた後、オーナーはテオの方を向いて彼の持ち物を見た。
「あなた、バイオリンをやるの?」
テオは突然の問いにきょとんとしたが、小さく頷いた。オーナーが言った。
「そう。クレモナはバイオリンの工房で有名だったところなの。昔よりは廃れて、もうずっと誰も作っていないらしかったんだけどね。でも最近また製作され始めたってきいたから」
テオはただふうんと頷いただけで、あまり興味なさそうだった。
きっと自分のバイオリン以外は使うつもりはないと言いたいのね。マルグレーテはテオの背中に手をやってオーナーに笑顔を見せて言った。
「それはいいことを聞きましたわ。マリアさんにお会いできたら、工房にも行ってみようと思います。どうもご親切に。ほんとうにありがとう」
そう言ってもう一度頭を下げると、マルグレーテはテオを連れて事務所を出た。
「……テオったら。せっかくオーナーの方が教えてくれたのに」
「教えてくれって言ったのはマリア・クラウゼンのことだけだろ。君みたいに何を言うべきかなんて俺にはわからないし、愛想なんて持ち合わせちゃいない」
テオは鼻を鳴らして口を尖らせた。マルグレーテは「相変わらずね」と呆れたように彼を見てから、くすりと笑った。
「……でも表情は少し豊かになったわね。会ったばかりの頃はずっと無表情だったのに、今は少し、ふてくされてる顔だわ。なんだか可愛い」
「はあ? なんだよそれ……」
そう言ったが、テオは自分の顔をじっと見られていることが恥ずかしくなり、赤面してそっぽを向いた。
劇場を出ると、温かな日差しが石畳みの通りを照らしていた。もう昼が近いらしい。春を感じ、マルグレーテの心は浮き足立った。
「ふふ、それにしてもよかった、マリアさんに少しずつ近づいている気がするわ! さてと、どうやってクレモナに行きましょうか」
テオは少し考えてから言った。
「あるかわからないけど、ひとまずミラノ駅まで戻って鉄道があるか尋ねてみよう……その鞄は俺が持つ」
手を差し出してきた彼に、マルグレーテは首を振ってすたすたと先を歩いた。
「嫌よ。これは私の荷物ですもの。キアラにショールを返したから、少し軽くなったのよ」
「……あんなので重さは変わらないと思うけど。それから駅はこっち」
テオが指した方はマルグレーテが進んだ方の真逆だった。マルグレーテは少し顔を赤らめてテオの方に駆け戻ってきた。
「な、なによもう! 先に言ってくれたらいいのに……でも方向がちっともわからないわ。どっちへ行けばいいのかしら」
テオは小さく口の端をあげた。
「いつまでも馬車があると思ってるからだ。窓からどういう道を来たのかちゃんと見てないと、毎回道に迷うことになるぞ」
マルグレーテは言われて目を見張らせた。そんなこと、考えたこともなかった……私もちゃんと観察しておかなきゃ。マルグレーテはぐるりと辺りを見回した。どれも似たような建物ばかりで、少し歩くだけですぐに迷ってしまいそうだ。
眉を寄せて目が回りそうな表情をしているマルグレーテに、テオは小さく笑い声をあげた。
「近くにあるものじゃなくて、大きい建物を目印にするんだ……ほら、あれ」
テオが指した方には、尖塔が見えた。
「あれはこの町の中心部にある聖堂だ。だいたいどこからでも見えるんだよ。駅はあれよりも北にある。つまりこっちだ、行こう」
そう言ってすたすた歩いていくテオに、マルグレーテは慌てて追いかけた。
「ちょ、ちょっと、待って。すごいわ、どうしてそんなこと知ってるの?」
「ここには来たことがあるからさ」
「来たことがあるですって! そんなの一度も言っていなかったじゃないの」
テオは歩きながら肩をすくめた。
「何度も言うけど、俺はずっと旅をしてきたんだぜ。それに鉄道だって馬車だって、君やエドガーと会うまでは使ったこともなかった。町の歩き方くらいわかる」
すると、マルグレーテはショックを受けたように立ち止まってしまった。
「どうした」
テオは振り向いて、からかうように言った。
「やっぱり荷物を持ってほしくなったのか?」
マルグレーテはゆるゆると首を振って俯いてしまった。彼女のおかしな様子に、テオはおやと思い立ち止まると、マルグレーテに歩み寄った。
「どうしたんだ、マルグレーテ。気にするなよ、重いんなら持つから」
「……そうじゃないの」
マルグレーテは俯いたまま言った。
「私、乗り物に乗るのは当たり前だと思っていたの、わからなくなったら辻馬車を拾えばいいなんて思ってた」
マルグレーテが落ち込んだように言ったので、テオは少し苦い顔になった。
歩きたくないのかもしれない。仕方ないことだ、彼女はそうやって育ってきたのだから。
テオは勇気を出して小さな声で尋ねた。
「俺と……旅するのが嫌になった?」
しかし、マルグレーテは慌てたように首を振った。
「まさか! いいえ、違うわ。自分の無知に恥ずかしくなったの。移動するのにはみんなが馬車や鉄道を使うものだと思っていたし、町の目印や方角なんて、考えたことも……」
マルグレーテが再び恥ずかしそうに下を向いてしまったのに、テオは目を細めた。
マルグレーテは続けた。
「私、知らないことばかりね。貴族の娘としての教育は受けてきたはずなのに、こんなにあたりまえのことすら知らないままで生きていこうとしていたんだわ。愛想ばっかり良くっても、何にもならないのよ。なんだかとっても情けない……」
するとテオは、マルグレーテの鞄を持っていない空いた方の手を握った。
「これから知っていけばいいさ。俺だって知らないことはたくさんある。楽譜の読み方は君が教えてくれたんだぞ。確かに愛想ばっかりいい奴はあんまり信じられないけど、でも君は別だ。俺はその……俺は君の笑顔が好きなんだ。俺にはないものを君は持ってる」
そう言って、テオは彼女の手を引きながら真っ直ぐに歩き出した。心なしか後ろから見える彼の耳は赤い。握られた温かい手を、マルグレーテはぎゅっと握り返した。それだけで安心感に包まれる。ありがとう、テオ。マルグレーテは、不思議と鞄の重ささえ感じない気がしていた。
ミラノの駅にたどり着いたのは、ちょうどお昼頃だった。テオとマルグレーテは駅舎の窓口へ向かった。
「クレモナ? ……あそこまで線路は伸びてないねえ、ブレシアまで乗っていけるけど、そこからまた距離もあるからねえ。ここから馬車で行った方がいいんじゃないかい? ミラノからはクレマ行きが出てるから、そこまで行ってからクレモナに向かえばいい」
駅員は春の陽気からか欠伸をしながらも、地図を広げて説明してくれた。マルグレーテはその地図を買うと、ベンチに座ってクレモナとクレマに印を付けた。その間にテオはパンを買ってきてくれた。
駅馬車の乗り場はミラノ駅出口のすぐ目の前だった。
「馬車が出発するまで少しあるから、そこの広場で弾いてくる。馬車代くらいにはなるだろ」
「えっ!」
駅馬車の乗り場で列に並んで待っている時、テオがいきなりそう言ったので、マルグレーテは驚きの声を漏らした。
「わ、私も近くで聞きたいわ!」
テオは腕を掴んできた彼女に、呆れたように言った。
「君は散々聞いてるじゃないか。それにこの列に並んでくれていないと困る。二人ともいない間に馬車が行ってしまったらどうするんだ」
そう言われて、マルグレーテは「そ、そうよね……」としおしおと手を離した。
「早く戻ってきてね、テオ。絶対に戻ってきて」
大げさだなと口の端をあげたテオだったが、マルグレーテが不安そうな目をしているので、少し優しい顔になった。右手で彼女の頬に手を添えて「あたりまえだ。すぐ戻る」と言うと、身を翻して行ってしまった。
マルグレーテは彼の背中を目で追ったが、それはすぐに雑踏の中に紛れてしまった。しばらくそのまま不安な気持ちを抱えていたが、やがて美しいバイオリンの音色が聞こえてきた。
これは……ウィーンの演奏会で弾いていた曲だわ。テオの好きなように編曲されている。すごいわ、こんな演奏ができるなんて。彼の才能と技術に、マルグレーテは思わず笑みを浮かべた。
いつか叔父から、シュタンマイアー先生がこう言っていたときいたーーウィーンで足止めしてしまうのは、彼の才能にとって惜しすぎる、と。
ほんとうにその通りだわとマルグレーテは思った。彼の音楽は貧富や身分、国境を越えて多くの人に届けられるべき価値がある。欲のない性分である彼だからこそ、それを成し遂げることができるのだ。
今後テオは、旅をするのではなく住みやすい場所を見つけて一緒に暮らそうと言ってくれた。だがそれは、旅に慣れないマルグレーテを慮ってのことだ。
テオに心配をかけないよう、私が少しでも強くならなきゃ。私がしっかりしないとテオの才能は世界の人々に届けられない。
町の人々が歓声を上げて拍手をしているのを遠くに聞きながら、マルグレーテはぐっとこぶしを握りしめて決意をするのだった。
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──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
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断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
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