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32. 父と娘
しおりを挟むハインリヒ・ヴァルター・フォン・シュミット伯爵は、四人もの子どもに恵まれたが、娘ばかりで息子はいなかった。伯爵自身、息子がほしいという願望はあまり強くなかった。家を継いでもらうのなら、娘をどこかの家の次男と結婚させればいいだけだ。
しかし、妻アデライードは息子を産みたがった。産んだ娘達を可愛がってはいたが、一方で教会に通い、息子を授かることができるように熱心に祈っていた。結局彼女はそのことを気にしたまま早逝した。
妻の残した娘達はすくすくと育った。良い家庭教師をつけ、良家の子女としての嗜みは全て習わせたので、長女のベルタなどはどこへ出しても恥ずかしくない、作法もしつけも行き届いた娘になった。その下の妹達も、気位は高いが姉に倣って社交界に馴染んでいった。
しかし、末娘だけは違った。
末に生まれたマルグレーテは、賑やかな姉達に囲まれて育ったが、姉達とは違って作法も嗜みもしばしば忘れた。社交界でも最低限の礼儀を身につけるのがやっとのように見えた。勉強や裁縫、絵、ダンス、乗馬までやらせたが、どれも特技にはならなかった。ただどれも姉達の支えがあり、投げ出すことはなかった。特に長女には憧れていたようで、姉が流暢に話すフランス語やイタリア語を懸命に覚えようとしていた。音楽鑑賞に対して異常に積極的であることに気づいたのは、弟エドガーに次のように言われた時だ。
「彼女は良い耳を持っている。演奏は得意ではないようだが、この音楽の町では貴重な耳だぞ」
音楽にさほど関心のなかった伯爵は、エドガーの話をだからどうしたと興味を持たずに聞き流していたが、次第に音楽にのめり込んでいくマルグレーテに、伯爵はどのように接して良いのかわからなかった。
マルグレーテは伯爵の思う通りにはいかなかった。やるな、行くなと言うと、どうにかしてでも実行しようとしてみせた。イタリアへの旅行もそうである。まだ未婚の身で遠出するなどもってのほかだとはねつけていたが、再三にわたる娘の懇願に、伯爵はとうとう折れたのだ。
まさかあの時の決断が、これほどまでに彼女の人生を変えるとは。
シュミット伯爵は馬車に揺られながらこれまでのことをぼんやり思い返していた。
もしもあの時、旅に出ることを許していなければ、彼女はウィーンの貴族と結婚したのだろうか……いや、あれはただのきっかけに過ぎないのかもしれない。きっとマルグレーテはイタリアへの旅のことがなくとも、今とさほど変わらない未来を選択しただろう。結局のところ貴族として生きるのは、マルグレーテには苦痛だったのだ。
そんなことを考えていた伯爵は、後ろから楽しげな笑い声が聞こえてくるのに気づいた。
ベルタ、ロザムンド、ギゼラの三人だ。彼女達は父親と背中合わせの席に座っていた。窓から見える景色について嬉しそうに話している。三人にとって初めての国外だ。はしゃぐのも至極当然のことだった。
「早くマルグレーテに会いたいわ。手紙ではいずれテオさんと一緒に小さな家で二人で暮らそうと思っているらしいのよ」
「まあ、二人で?」
「使用人は雇わないのかしら」
「さあ……でもテオさんは一人で旅をして生きてきたのだから、ちゃんと自炊ができそうね」
「あっ見て、町が見えてきたわ!」
娘達の会話に、伯爵も窓の外に目を向けた。オレンジ色の小さな屋根が並んでいる。マルグレーテはここに住んでいるのか。伯爵は無意識のうちに末の娘に思いを巡らせていた。
シュミット伯爵とその娘達は、エドガーとマリアの婚礼前日の朝早くにクレモナに到着した。
クラウゼン邸のロビーで、屋敷の主人マリアとマルグレーテ、テオが出迎えてくれた。久しぶりに見る娘は少し痩せたように思えたが、最後にウィーンで見たあの青白く暗い顔は見る影もない。
マルグレーテは紅潮させた頬を濡らして姉達との再会を喜んでいたが、やがて三人との抱擁を終えると、こちらを見た。緊張しているようで顔がこわばっている。
それでも儀礼通りにお辞儀をしようと「お、お父様……」と小さな声で言ったのだが、ちょうどその時起き抜けのエドガーがロビーに降りてきて「おやあ、これは兄上ではありませんか」と言ってふにゃりと笑った。
娘の挨拶を遮られ、伯爵は目を細めて目の前によたよたとやってきた弟を見た。
そうだ。私は娘と話す前に、この幸せそうな男に言わなければならないことがあるのだ。
「エド、話がある」
屋敷の主人マリアの案内で、皆はロビーから客間へ移った。と言っても、小さな机を挟んだ長椅子に向かい合って座ったのは、シュミット伯爵とエドガーだけで、それ以外は遠巻きにその様子を見守っていた。
「……兄上」
エドガーは伯爵の話を聞いて、ぞっとした顔を浮かべていた。肩はがっくりと落ちている。
「これは貴族として当たり前のことだ、エド」
「ですが、そんな……今更、そんなこと言われても……!」
兄の言葉に、エドガーは絶望した声で言った。
マリアが客間に案内して早々、にこにこと「お久しぶりです兄上」と嬉しそうに言った弟に、シュミット伯爵は一ミリも再会を喜ぶ様子を見せることなく眉をぐっと寄せた。そして「エド、お前は式が終わったら即刻ウィーンに帰ってやり残してきた始末をつけろ」と告げたのである。
その様子を遠巻きに見ていた者達のひそひそと話す声は、伯爵にも聞こえた。テオが「どうにかならないのか?」と隣のマルグレーテに訊ねると、マルグレーテも苦い顔で「さすがにね」と小声で返す。
ベルタは小さな声でマルグレーテとテオに言った。
「叔父様は仮にもあの屋敷の主人だったのだもの。あのまま放置していても仕えくれているハーゲン達が気の毒なままよ。主人のいない屋敷を守っていたって仕方ないでしょう。それに、ウィーンで叔父様が急に消えたことで困っている人はたくさんいるわ」
ベルタがマルグレーテに送った手紙にあるように、エドガーが町から忽然と姿を消したことによって、ウィーンの音楽業界はちょっとした騒ぎになった。劇場も小さな演奏会もエドガー主催のものがいくつもあったのに、その主催者がいなくなってしまったのだから当たり前である。
シュミット伯爵はため息を吐きながら言った。
「そもそも貴族として自覚のないお前が悪い。執事はお前が“ちょっと出かけてくる”と言ったきりひと月帰ってこないと心配していたんだぞ。マルグレーテから手紙が来なければ憲兵に頼んで捜索隊を出すところだ」
「いや、その……シュタンマイアーとロベルトには言ったんだ……」
「指揮者と新聞配達人に言ってどうなる? 言う相手を考えろ」
すげなく返す伯爵に、エドガーは眉尻を下げて懇願するように言った。
「そんなあ、お願いですよ兄上、今回は見逃してください。ウィーンには少し滞在するだけの予定で、その後パリにベルリン、マドリード、ローマ、ヴェネツィアも……ホテルも鉄道も全て押さえて計画してきたんです……全部無駄になってしまう」
エドガーの言葉に、シュミット伯爵は呆れたような目で弟を見た。
「お前、そういう計画性はあるのに、ウィーンを発つ時になぜ何もしなかったのだ。……私がやれることにも限界がある。式が終わったらすぐにウィーンに帰れ。新婚旅行はその後からでも遅くはないだろう」
すっかり俯いてしまったエドガーに、マリアはそっと近づくと、肩に手を置いて声をかけた。
「ねえ、エド。私もそうするべきだと思うわ。大丈夫よ、旅行はいつでも行けるんだから」
「でも……うう……マドリードだ、マリア。マドリードのホテル、あそこはほんとうに予約が大変だったんだ……私は苦労して部屋を手に入れたんだ」
その言い方はとても哀れで皆の同情を誘ったが、伯爵は首を振った。
「上に立つ者はそれなりの責任が伴う。それはあの家に生まれついてから百も承知だったはずだ。今更結婚のことはとやかく言わん。だが少なくともあの町でお前は貴族として数十年生きてきた。町を出るならきちんと物事を片付けてからにするのだな。それがお前の最後のウィーン貴族としての役割だ」
伯爵は、弟がマリアと結婚すると手紙で知った時点で、ウィーンからすっかり離れるつもりなのだとわかっていた。それならばやるべきことは決まっている。
「うう、楽しい新婚旅行が……」とうなだれているエドガーにはその兄の心がわからなかったが、意外にも遠巻きにして聞いていたテオの心にはその言葉がずしんと響いていた。上に立つ者はそれなりの責任が伴う。そうか、伯爵がそれを自覚しているからこそ、エドガーよりもずっと貴族としての威厳を感じるのかと、納得したようにテオは一人頷いていた。
「いいじゃない、私も懐かしいウィーンに行きたいと思っていたのよ。ウィーンでのお仕事は私も手伝うわ。その後にのんびり旅行のことを考えましょう」
「ああ、マリア……君には苦労をかける……」
マリアの慰めに、エドガーはぐすぐすと鼻を鳴らしていたが、やがて兄の方を向いた。
「……わかりました、わかりましたよ兄上。そのかわりウィーンでの仕事が終わったら、もう東の方まで行ってしまいますからね。なんなら北極やアメリカの方だって考えますから」
きりりとした目で言った弟に、伯爵は眉を寄せた。
「それは勝手だが、遠方旅行には金がかかる……私は仕送りはせんぞ」
「くっ」
むしろ仕送りを期待していたのかと伯爵は呆れた視線を送ったが、「まあ何はともあれ、エド」と咳払いをして弟を見た。
「マリア殿と再会できてよかったな。おめでとう」
一瞬客間がしんと静まり返った。
エドガーはぽかんと口を開けて兄を見ていたが、やがて満面の笑みを浮かべると笑い声をあげた。
「ははっ、まさかそんな言葉を聞けるとは。兄上も人の子だったんですね」
「……もっとましな返事はないのか」
伯爵は低い声を出したが、エドガーは嬉しそうに言った。
「ありがとうございます。兄上にはほんとうに感謝していますよ。式にも出てくれるのですから、心から嬉しく思います」
「ふん。お前には娘のことで迷惑をかけたからな……マルグレーテ」
伯爵は弟に一瞬穏やかな眼差しを向けたが、すぐにいつもの厳しい表情に戻り、今度は後ろで様子を伺っていた娘に呼びかけた。
「は、はは、はいっ」
マルグレーテは肩をびくつかせて返事をした。
「今度はお前がそこに座りなさい……テオ殿もいいか」
そう言われてマルグレーテとテオは顔を見合わせた。マルグレーテは先ほどのように緊張したような、そして怯えたような表情になっている。
テオが彼女の背中を優しくトントンと叩いて、エドガーが腰を上げて空いた長椅子に導いた。
ようやく親子の挨拶である。
だが、長椅子にテオと隣り合って腰を下ろしても、マルグレーテは伯爵の顔を見ずに俯いていた。
しかし、伯爵が「マルグレーテ」と呼びかけると、彼女は習慣づいたように視線は下に向けたまま、決まり文句を言った。
「お、お父様、お久しゅうございます。お元気そうでなによりです」
テオはそんなマルグレーテに目を細めたが、それは伯爵も同じであった。
「……お前も元気そうだな。ウィーンで最後に見た時よりずっと顔色がいい」
いつになく穏やかな言葉に、はっと顔を上げたマルグレーテだったが、父親の表情はやはり厳しいままだったので、すぐに視線を下げた。
変わらんな。伯爵は心の中でふっと笑ったが、表情は変えずに娘に言った。
「手紙を読んだ。念を押すようだが……覚悟はできているのだな、貴族の位を捨てて暮らすということがどういうことか」
「も、もちろん心得ております。私の覚悟は家を出た時から……」
「お前自身のことではない。姉達のことをふまえて覚悟はできているのかと訊いているのだ」
伯爵の言葉の意味がわからず、マルグレーテはきょとんとした。伯爵は表情を変えずに娘に厳しい声で言った。
「お前が急に失踪したと社交界で噂にならないと思わなかったか。いなくなった当のお前は何の害もないだろうが、残された姉達が社交界でどう言われるか……シュミットの家にどんな噂がたつか想像してみなさい。まだ結婚前の身で、あらぬ噂がたてばその婚約はどうなるのか考えるのだ」
言われてマルグレーテは目を見開いた。ウィーンの社交界のことなんて考えもしなかったのだろう。顔がどんどん青くなっていく娘に、伯爵は一瞬だけ言いすぎたかと思ったが、しかしこれはマルグレーテ自身が考えておかねばならなかったことである。
しかし、三人の姉達の「待ってください!」という声が上がった。
彼女達は妹の元へ駆け寄ると、ロザムンドは後ろから妹の肩を抱くようにし、ギゼラはひざまづいて妹の片手に自分の両手を置き、ベルタは父と妹の前に立ちはだかった。
ベルタが父に対峙するように言った。
「お父様、意地悪を言うのはおやめください。この子の悪い噂なんて、一つもありませんわ!」
「そうよ!」
後ろからロザムンドも言った。
「心から音楽が好きな娘としてイタリアに行ったということになっているんだから!」
そしてギゼラが優しく妹に諭すように言った。
「大丈夫よ、マルグレーテ。私達は社交界で悪くなんて言われてないから」
妹を庇うように取り囲む姉達に、伯爵は一瞬だけ笑みを浮かべそうになった。
ほんとうに、マルグレーテは幸せ者だ。こうして姉達に愛されて育ったのだ。今回の件で自分の向こう見ずな行動を省みるようになればいいが。
ロザムンドがマルグレーテの肩をぎゅっと掴んで後ろから言った。
「ベルタお姉様はこの秋に結婚が決まっているし、私やギゼラもきっと来年だわ。お相手も理解のあるお家だからそれが覆されることはないの。お父様だってそれは知っているはずですわね」
ロザムンドの言葉に、皆が伯爵を見た。皆の視線を受け、伯爵は眉をわずかに寄せて目を閉じた。
「私は可能性を言っただけだ。お前達は口出しするな……マルグレーテ、どれだけ自分本位で生きてきたのか、お前はもっと考えるべきだということだ」
「はい……」
マルグレーテは俯いて小さな声で返事をした。
伯爵は目を開けた。娘は落ち込んだように下を向いている。
「お前は多くの人に支えられている。それに気づける人間にならなければならない。たとえ貴族でなくともだ」
その言葉にマルグレーテは顔を上げた。
貴族でなくともという言葉に、怯えたような、それでいてしっかりと理解した真剣な目をしている。昔はただこちらを怖がるだけであったが、少しずつ成長しているようだ。
伯爵は続けた。
「お前が自分の好きなように生きることには、もはや何も言うまい。だがこれ以上誰かに迷惑をかけるな。テオ殿は何も言わんかもしれんが、お前は貴族の娘として育てられたのだ。平民として生きるのに必要ない知識しか備わっていない。まずはそのことを肝に銘じろ」
「わ、私だってテオには迷惑をかけないようにしています、自分のことは自分で……」
「それはお前の口から言うことではない」
語気を強めた父親に、マルグレーテは口をつぐんだ。
「手紙でお前がこの町で暮らしていこうと思っていることはわかった。テオ殿やマリア殿の助けもあるだろうが、それに頼ろうとするな。もうお前は貴族ではない。貴族ではないということは、領民への責任がなくなると同時に自分の力で生きていかねばならん。わかっているな」
「はい……」
マルグレーテは小さく頷いた。
「もう一つお前に誓ってもらいたいことがある」
伯爵は厳しい声のまま続けた。
「お前はもう貴族ではない、マルグレーテ。ゆえにウィーンには二度と戻るな」
父の言葉にマルグレーテが反応する前に、姉達が叫んだ。
「そんなっ!」
「お父様、それはあんまりですわ!」
「貴族でなくともシュミット家の娘であることには変わりありません!」
姉達が抗議の声に、伯爵は応じなかった。
一方でマルグレーテは、これに対して落ち着いた様子だった。末妹は静かに頷いた。
「わかっております、お父様」
ベルタが「マルグレーテ!」と悲しげに振り向いたのに、呼ばれた妹は微笑んだ。
「お姉様、ありがとう。でも町を出た時からもう決意はしていたの。お父様、私はウィーンには戻りません。それは誓います。ですが、その……私がお、お父様の娘であり続けることは……許されますでしょうか」
緊張したように両手を握りしめて言う娘に、伯爵は目を瞬かせた。そんなことを気にしていたのか。
伯爵はすがるような目で見ている娘を見下ろした。
目鼻立ちは自分に似ていると思っていたが、亡き妻がいつもこんな表情をしていたのを覚えていた。「ごめんなさい、男の子を産めなくて……」と、落ち込んだ声で言う妻に、伯爵はいつも「気にするな、お前が許しを乞うことではない」と言うしかなかった。本気でそう思っていたのだが、妻はずっとそれを気に病んだままだった。
伯爵は、マルグレーテにきちんと伝わるように言った。
「親子であることを取り消すなどできまい。私はあの町には二度と戻るなと言っただけだ……時々手紙で近況を知らせなさい」
マルグレーテは目を丸くさせた。
「え……そ、それは……」
マルグレーテが言いかけたが、伯爵は娘にはもう関心を示さず、今度は隣のテオの方に視線を移した。
「テオ殿」
急に呼ばれた彼は、はっとした顔になって伯爵に視線を合わせた。
彼とこうして目を合わせて話すのは初めてではなかったなと伯爵は思いながら、次のように言った。
「不出来な娘が勝手に押しかけるようなことをして申し訳ない。仕事もこの娘のせいで変えてしまったのだろう。テオ殿の負担にならなければ良いが」
テオは少し驚いた表情を浮かべて、小さく首を振った。
「い、いや、そんな、俺は……負担だなんて」
「貴族の娘ほど厄介なものはなかろう」
伯爵はちらと娘の方に視線を向けてから続けた。
「ひと通りの嗜みを身につけさせたと言っても、特技になるものはなかった。稼ぐ術もなく、この先テオ殿を煩わせることはわかり切っている。暮らしていく上でも何の役にも立たないだろう。あまつさえ末に生まれた身、ずいぶんとわがままに……」
「やめてください」
伯爵の言葉を遮るテオの声が響いた。その場にいる者は皆瞠目し、空気が固まるのを感じた。
伯爵はわずかに眉を寄せてテオを見たが、青年は怯まずに真剣な目をして言った。
「彼女は俺にとってかけがえのない存在です。素直でまっすぐで、温かくて、思いやりに溢れてる。損得だとか無益だ有益だっていう話じゃない、彼女が彼女という人間であることの方が、俺にとっては生きていく上で一番重要なことだ。どんなに優れた技術を身につけていようと、彼女以外とは一緒にいたいと思わない……だから、負担だなんて思ったことは一度もありません」
ひたむきで真摯なテオの言葉は、隣にいたマルグレーテだけでなく、伯爵や見守っていたエドガー達の心にも大きく響いた。
そうか……彼はマルグレーテの人間性を見てくれていたのだな。飾らない心からの言い方が、伯爵にはなぜだかとても懐かしく感じた。社交界に長く居たせいか、損得で考えることが当たり前になっていることにも気づかされる。
彼は、マルグレーテが必死になって追いかけていた人物だ。想い合っていたのに、何も言わずに別の人間と婚約してしまった彼女に、この若者は傷ついたに違いなかった。マルグレーテと再会した時、彼は娘を見捨てることもできた。しかしそうしなかった彼にーー娘にやすらぎを与えてくれた彼に、私は感謝しなければならない。
しばらく沈黙が流れた後、伯爵はふっと笑みをこぼした。
「……失礼した。君の選んだ相手を軽んじるつもりはなかった」
伯爵はテオに笑みを向けたまま続けた。
「久しく心の内を明かす人間と話していなかったゆえ、テオ殿の言葉は温かく感じる。貴族には向かんが、娘には……似つかわしい」
それは、マルグレーテの相手と認めたことを意味していた。伯爵が言ったことに、テオは一瞬目を丸くさせたが、下を向いて「ありがとうございます」と呟くように言った。彼の表情はわからなかったが、声は嬉しそうだった。
伯爵は、テオがなぜ貴族の養子を断ったのか、やっとわかった気がした。あの時は身の程をわきまえているだけと思っていたが、それだけではない。貴族の世界がどのようなところなのか把握した上で出した答えなのだ。なんにせよ、やはり彼は貴族には向いていない。それはきっと、あのギルデンバッハ公爵の元で育ったとしても同じ結果だったかもしれない。
伯爵はちらりとテオの隣に座る娘を見た。父親の言った言葉が信じられないようで、穴のあくほどにこちらを見つめている。この娘も、よくこのようなできた青年を見つけたものだ。
「ところでテオ殿」
伯爵はテオに視線を戻して言った。
「いつか前に、私の屋敷でバイオリンを弾いていただろう。私は音楽には詳しくないが、君の音楽は今まで聞いた中でもっとも美しいと感じた。また聞かせてもらえないだろうか」
彼の申し出に、皆が瞠目した。姉達が「今のきいた?」「信じられない」「お父様が……」などと呟き、エドガーなどは「兄上、正気ですか?」と驚きの声を上げた。
マルグレーテも目を瞬かせながら言った。
「お、お父様は……音楽がお嫌いでは……?」
伯爵は皆がざわついていることに不服そうな表情を浮かべた。
「嫌いなどとは言っていない。ただお前達のように熱心ではないというだけだ……どうかな、テオ殿」
テオは伯爵をじっと見つめていたが、ふっと笑みを浮かべた。
「……もちろん、俺のバイオリンでよければ」
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