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33. 素晴らしき故郷
しおりを挟むエドガーとマリアの婚礼は、初夏の晴れ渡る青空のもとで行われた。
教会には町の人々も詰めかけ、おめでとう、おめでとうと、たくさんの祝いの言葉が飛び交った。
演奏は劇場の楽団達で行われ、テオはソリストを務めた。音楽は祝福に満ち、これまでにないほど明るい音色が神聖な空間に響き渡っていた。
ドレスに身を包んだマリアは、その歳を思わせないほどに美しい姿をしていた。マルグレーテは叔父が彼女を女神と呼ぶ気持ちがわかった気がした。
式中はなんとエドガーが泣きっぱなしで、司祭が困り果てるほどであった。
「叔父様ったら……」
マルグレーテが呆れたように呟いたのに、隣に座っているベルタは微笑んで囁いた。
「いいのよ、これも思い出になるわ」
新郎の嗚咽が漏れるのを聞きながらも、なんとか式を終え、今度は皆クラウゼン邸へと移動した。
人々が案内係のロゼッタに導かれて辿り着いたのは、屋敷の三階でーーそこは小さな舞台と客席が並んでいた。
「お屋敷にこんな場所があるなんて」
「しかも上等な椅子だわ」
驚きの声を漏らす姉達に、マルグレーテが嬉しそうに言った。
「ここはマリアさんがいつか使いたいと思っていた小さな劇場なのですって。叔父様の思いつきで、婚礼の後の小さな演奏会はここで行われることになったのよ!」
「まあ、てっきり私は野外だと思っていたわ」
「わざわざこんな屋内でやらずに、外でもいいと思うけど」
ロザムンドやギゼラの言葉に、マルグレーテは目をきらりとさせた。
「音の響きが違うのよ。せっかくいい音楽なのだから、こういうところで聴きたいじゃない。それに、劇場は叔父様のお気に入りの場所よ」
ギゼラはふうんと頷いた。
「そういうものなのね……ふふ、でも劇場がお気に入りなのは叔父様だけじゃなくて、あなたもでしょ!」
姉にそう言われて、マルグレーテは「あたり!」と肩をすくめて笑った。
新郎新婦は真ん中の特等席に座り、マルグレーテ達はその周辺に腰掛けた。後ろには町の人々が座った。その中にはバイオリン工房のカルロやいつか荷台に乗せてくれたパン屋の男、またいつかエドガーに一撃をくらわせた花屋の店主まで居合わせた。
マルグレーテは叔父の隣に父が座ったのを見て確認すると、深呼吸して演奏会の成功を心から祈った。
演奏会は先ほどの楽団や、テオのバイオリンをメインにしたウィーン風の曲が演奏され、またマリアが指導している町の子ども達の合唱も行われた。
テオのバイオリンには特に町の人達が関心を寄せ、皆が褒め称えていた。
客席からは「彼が広場で時々弾いている男だろう」「工房の宣伝に弾いてるってきいたな」「なんであんなに技術があるのに楽団に入らんのだ」「噂じゃ、ミラノからも声がかかってるらしいぞ」「なにもこんな田舎でくすぶってなくともいいのに」「宝のもちぐされだ」などという声が聞こえてきたのに、マルグレーテは思わずふふっと笑ってしまった。思うことはみんな同じなのね。
マルグレーテは舞台の上で小さくお辞儀をしているテオを見つめた。一度きりではなく、三回はお辞儀を行うようにしてほしいとマリアに言われていたのをきちんと守っている。
初めて彼を見た時は、もっと冷たい印象だった。だが彼の心の温かさを知った今では、自然と笑みが浮かんでくる。
テオもそれに気づいたのか、マルグレーテと目が合うと小さく口の端を上げた。そしてマルグレーテにわかるように目配せをした。なんだろうと思いマルグレーテが彼の視線の方をちらと顔を向けると、叔父の隣に座る父が、大きく拍手をしているのが見えた。
その光景が信じられず、マルグレーテは舞台にいるテオに驚きの顔を見せ、二人で笑い合った。
******************
翌日。
エドガーとマリアが、いよいよシュミット伯爵やその娘達と共にウィーンへ発つ日である。この日も天気に恵まれ、青空が広がっていた。
マルグレーテとテオ、ロゼッタは屋敷の前に見送りに出ていた。荷物はすっかり馬車に積み込み、マルグレーテは姉達と順々に抱擁を交わした。
「元気でね」
「音楽ばかりじゃなく、ちゃんとお肌の手入れはするのよ」
「それに睡眠も」
「髪もとかして」
「また手紙をちょうだい」
マルグレーテはいつもと変わらない姉達に笑みを浮かべた。父に言われたように、自分はほんとうに姉達に支えられてきたのだと、別れの時になってしみじみ感じた。
「お姉様達、ありがとう。私、ほんとうに幸せだわ……お姉様達の幸せも祈っています。ベルタお姉様も……素敵な旦那様でありますように」
ベルタは妹の涙をぬぐって微笑んだ。
「ふふ、ありがとう。そのうちまた会いに来るわ。きっとお父様もお許しくださるだろうから」
その横でエドガーとテオが話しているのがマルグレーテの耳に入った。
「じゃあテオ君、達者でな」
「エドガーも道中気をつけて」
ここで、エドガーの声が少し小さくなった。
「いいか、テオ君。これはロゼッタにも言ったことだが、くれぐれもマルグレーテが私の部屋に入らないようにしてくれ。ベッドのシーツはきちんと敷かれているし、書き物机のペンや紙もきちんと仕舞われている。帰ってきて泥棒に入られたような状態になっているということは絶対にやめてほしい。鍵はロゼッタに持たせているが、君もよくマルグレーテを監視して……」
「私を監視するですって?」
姪の尖った声に、エドガーは肩をぎくりとさせたが咳払いをすると言った。
「だ、だってそうだろう。勝手に入ったかと思うと、手当たり次第荒らすのはいくつになっても変わらないじゃないか」
「心配しなくとも叔父様の部屋になんか入りません。全く、小さな子どもじゃないんだから」
「小さな子どもじゃないのに困らせるのがお前じゃないか……」
「なんですって?」
エドガーとマルグレーテが睨み合ったのに、マリアが「はいはい、そこまでよ」と割って入った。
「テオ、マルグレーテ、この屋敷は私のものよ。どこでも好きなように出入りしてかまわないわ」
「ま、マリア、そんなことを……」
「あら、エド。私、何か間違ったことを言ったかしら?」
「い、いいえ」
その様子にくすくすとほくそ笑んだマルグレーテだったが、ふいに父に「マルグレーテ」と呼ばれて振り返った。
父がいつもと同じ厳めしい顔でこちらを見つめている。緊張しながら父の元へいくと、伯爵はまっすぐ娘を見て言った。
「お前達の息災を祈る。あまり人には迷惑をかけるな」
「は、はい。お父様も、お、お元気で」
伯爵は娘の少し後ろに佇む青年にちらりと視線を向けてから言った。
「彼はいい若者だ。もう二度と己の弱さのために彼を傷つけたりするな。臆病なままではまた同じことを繰り返すぞ」
マルグレーテは目を丸くさせてしばらく何も言えずにいたが、震える唇を動かして、真剣な目を父に向けた。
「……は、はい。肝に銘じます」
とうとう馬車が出発した。ガタゴトと音を立てながら、緑の草に囲まれた道を進んでいく。
「さようならっ!」
「元気でねえ」
姉達の声に、マルグレーテも「ありがとうっ! お気をつけて!」と叫んだ。
馬車はどんどん遠ざかり、やがて林のある丘の方まで行くと見えなくなった。後には静かな初夏の陽気だけが残された。
空は晴れ、野原では鳥が鳴いている。
「さようなら……」
馬車が見えなくなった丘を、マルグレーテはいつまでも見つめていた。
テオは少し心配になり、マルグレーテに近づいて隣に立った。マルグレーテは遠くを見つめていた。
テオはマルグレーテの肩に優しく手を置くと、彼女と同じ方向を向いた。
「大丈夫か」
テオの温かさにマルグレーテは小さく笑みを浮かべると、丘まで続く道を見ながら言った。
「お父様達はブレシアに向かうって言ってたわね」
「そうだ。そこからウィーンへの列車に乗るんだろう」
「ウィーンへの列車……」
マルグレーテは復唱して目を細めた。
ウィーン。
もう二度と帰らないと心に決め、父にも誓った故郷だ。マルグレーテは丘の方を見つめながら、ウィーンの情景を思い浮かべた。敷き詰められた石畳み、一度だけ訪れた庶民風の酒場、荘厳な宮殿や大聖堂、そして贅沢な音楽を楽しめる劇場……。
マルグレーテにとって、ウィーンは息苦しい町でもあり、窮屈な社交の舞台でもあったが、やはり最高の音楽の町であった。
「帰りたいなんて言わない」
マルグレーテはぽつりと言った。
「固く誓ったんですもの。あの町に帰ったら私は貴族に戻ってしまう。そんなの……そんなの絶対にいや」
「マルグレーテ……」
テオは彼女を見た。マルグレーテは強がった笑みを浮かべている。
「お父様はそれを見越した上で帰るなと言ってくださったのよ。私のことを何もかもご存知だった。私の弱い心であなたを傷つけるなんて、二度とごめんだわ」
マルグレーテの肩に置かれたテオの手に力がこもった。マルグレーテは彼の手にそっと自分の手を重ねてぎゅっと握り、まっすぐ遠くの丘を見つめた。
「私は帰らない。あなたのそばにいることができる場所こそが、私の家だわ。思い出さないようにしなきゃ……思い出は心に仕舞って、前を向くわ」
そう言うと、マルグレーテは隣に立つテオを見上げた。前のように微笑んで「えらいぞ」と言うだろうか。
しかし、テオは苦しそうに目を細めてマルグレーテを見下ろしていた。なんだか彼の方が泣きそうだ。
「思い出したっていいだろ」
テオが言った。
「……俺はあの町で多くを学んだ。俺にとっても、君と貴重な時間を過ごせた大事な場所だ。帰れないのは寂しいけど、でも君の生まれた町だ。君の家族だって住んでる。劇場がいくつもあって、町のみんなが音楽が好きで、いつだってどこかで音楽が流れてる、素晴らしい町じゃないか」
テオの言葉に、マルグレーテは目に涙が浮かんでくるのがわかった。
テオは続けた。
「君は誇りに思うべきだ。あんないい町に生まれて、いい耳を持って、いい家族に囲まれて生きてきたんだ。君が忘れかけたんなら、いつだって思い出せるようにシュタンマイアー先生から習った曲を弾いてやる。それに、ウィーンからの客がそのうちカルロの工房を訪ねてくるかもしれない。その時に故郷の話を聞くのも悪くないだろう」
テオの温かい言葉に、マルグレーテの目に溜まっていた涙がとうとう頬に伝った。彼はなぜいつも私が一番ほしい言葉をくれるのかしら。どうしてわかるのかしら。
テオは彼女の肩を抱き寄せて涙をぬぐってやった。
「そうね」
マルグレーテは嬉しそうに涙を流しながら微笑んだ。
「毎日バイオリンを聞かせてちょうだい。あなたの音楽はウィーンの音楽よりも誰の音楽よりも、一番素晴らしいんですもの」
「ひいき目だな」
テオは小さく笑った。
「そんなことないわよ! 初めてテオのバイオリンを聞いた時からそう思っているんだから」
「相変わらず君は大袈裟だ」
二人で微笑み合っていると、「お二人とも!」と背後から声がかかった。
振り返るとロゼッタだ。
「ずいぶんと長いこと見送ってらっしゃるようですが、もう馬車はとっくに見えなくなりましたよ。今日はこれからお引越しでしょう、早く荷造りに取りかかってください!」
そう、エドガーとマリアの婚礼の次の日に、マルグレーテとテオは例の小さな家に引っ越しをしようと決めていたのである。
いよいよ二人での暮らしが始まるのだ。
二人は顔を見合わせると「はーいロゼッタ」「わかったよ」と返事をして、屋敷の中へと戻っていった。
空からは初夏の日差しがクラウゼン邸の庭に降り注いでいた。これからの時期は庭に緑がおいしげるだろう。エドガーやマリアがしばらく不在でも、ロゼッタの仕事は庭の手入れだけでまたぐっと増えそうだ。
夏はもうすぐそこまで来ていた。
おしまい
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ありがとうございます!基本的に貴族は馬車移動なのですが、テオが歩くおかげで街の中を少し描写できるということになっております…!
退会済ユーザのコメントです
全部お読みくださったのですか…!ありがとうございます、とても励みになります。今の連載もそうですが、当時の背景を舞台にしてはいるものの私の願望が98%くらい入っており、大変恐縮です。長編なので文字通り長くなりますが、細々と更新していこうと思いますのでよければお付き合いくださいませ。