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11 明らかに変わった専務への気遣いと心構え。
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次の週、明らかに自分の変化に気が付いた。
咳もくしゃみも鼻水も気を遣わないと思う。
せんべいのおやつの後は換気するけど、引き出しだけじゃなくてロッカーにもたくさんストックをいれてある。
何より二人の時間にもぼんやりしたりして、緊張感が薄れた。
あいさつも大きくできるようになり、予定のない外出をしようものならすかさず居場所を確認するために声をかける。
あんなに分厚くそびえていた壁がずいぶん低くなった。
さらなる自分の適応能力に拍手だ。
そう言えば最初の頃は気に入られなくてももっと明るい雰囲気になれるかもしれないと期待していた。
下で同期の人と笑ってる笑顔は爽やかな人、そんな感じだったから。
それでも最初から笑顔もなくて、無駄な話も言葉のやり取りもなくて。
もう息が詰まるくらいの不愛想っぷりで。
イメージと違い過ぎて、だから嫌われてると思ってたのだ。
結局どちらでもないかもしれないと思える今。
元々無駄なこととはしない主義らしい。
だからたった一人の部下には必要最低限の言葉で愛想も添えず、営業先ではその分大盤振る舞いなくらい。
そこまで差をつける必要あるの?
そんなに簡単に勘違いして言い寄って行ったりはしないのに。
そんな事を思った。
専務の一つの処世術かもしれないと思ってあげよう。
立場のある人はそれなりに大変なんだろうと。
一人の留守番の時間は空っぽな時間になる。
マイペースで仕事をすると休憩をする。
おやつじゃなくても窓辺に行ってぼんやりと空っぽな席を見つめる。
相変わらず何もない机の上。
個性を示すものがない。
それでも今日は愛用のいい感じのボールペンが転がっている。
いつもはジャケットの中の決まった場所に入ってるのに。
忘れて行ったみたい。
寂しそうに転がったそれを手に取った。
重い。
きっと大切に使えばずっと使えるような芯を変えるタイプの物なんだろう。
筆記体の文字で書かれたブランド名は知らない。
自分で買ったんだろうか?
プレゼントだろうか?
時々使うのを見ていた。
文字を書くように握ってみるとしっくりと来た。
こんな重さを動かすとなると丁寧に書きたくなるかも。
専務の字がまあまあ綺麗で丁寧なのもわかる。
重要書類だからそうなるのは当然だけど。
机の近くにいて手に持ったそれを見つめて。
かなりボンヤリと時間を過ごしてたらしい。
小さなノックとともに専務が帰ってきた。
机の横でボールペンを手にしてる部下を発見!
何してるんだろうと、その目が言っていた。
眉間にしわが寄ってない事に安心する。
「ボールペンが落ちてました。」
シラッと嘘を言えた。
「ああ、失くしたかもしれないって思ってた。」
専務の机の端に置いて自分の席に戻った。
「具合が悪いか、熱があるのか?」
そう聞かれた。
「ないです。日当たりが良かったから。」
シラッと嘘を言ったつもりなのに正直な心が誤魔化せなかったらしい。
大人しく仕事を再開して終わりにして。
しばらくして提出し、帰ることにした。
そう言えばあれから林森さんとも連絡をとってない。
筒抜けだからもう話題にするのは止めよう。
うっかり冗談も言えない。
それから気が付くと専務が部屋でお昼を食べていることが増えていた。
戻ってくると机の上に食べ終わりの物がまだあったり、ゆっくりコーヒーを飲みながら音楽がかかっていたり。
「最近は副社長とはお昼をとらないんですか?」
「ああ。」
音楽をかけながらでもパソコンを見ていて、時々手を動かしている。
「忙しいですか?何かお手伝いできることがありますか?」
「いや、別にない。」
そこは相変わらずだった。
そうですか。じゃあ、ごゆっくり。
歯磨きと化粧ポーチを持って部屋を出た。
それはそれで困る。
毎日友達とランチだとお金がかかるし、太る。
一人で社食も寂しいし。
たまには部屋でとっていたのに。
まさか兄弟喧嘩じゃないよね・・・・。
本当によく分からない。
音楽の趣味がかろうじて分かるくらいだ。
『クラシック』
私にはそれ以上の分析ができなかった。
まあ、しっくりくると言えば来る。
林森さんたちとカラオケに行ったりはするのだろうか?
何を歌うかによってはもっと普通に聞きそうな音楽がありそうだけど。
冗談のように言ったおやつも一緒に食べたことはない。
まだそこまでの気安さはない。
もろもろを終えて席に戻った。
音楽は終わり部屋には誰もいなかった。
後片付けに行ったのだろう。
午後外出予定も会議の予定もない半日が始まった。
二人とも机にへばりついている。
静かな部屋は相変わらずだ。
休憩したいなあ。
逃避したいなあ。
区切りのいいところまで来たら下の階に逃げよう。
そう思って実行した。
財布とポーチを持って。
下の階は飲み物が有料になる。
しょうがない、上の階から持ってくると言うのはどうかと思うから。
自販機の前で上の階にはない飲み物から選び出してホッと一息。
きっとあの部屋で専務もそう思ってるだろう。
「あれ、新山さん?」
聞き覚えのある声、でも久しぶりだと思う。
振り向いたら林森さんがいた。
そう言えばうやむやなあの件は謝ってほしい。そう言いたい目で見た。
「あれ?何?また何かあった?」
「ないです。報告するようなことも相談するようなことも。大体もう何も言いません。全部専務に報告するじゃないですか!!」
「全部って程聞いてないけど。何?怒ってる?」
「一体何を教えたんですか?あの優樹菜さんと飲んだ日の事です。」
「あの日?随分前だからなあ~。でも楽しかったよね。彼女もまた一緒に飲みたいって言ってたよ。今度また誘うね。大地も一緒に参加するんじゃないかな?」
「結構です。」
優樹菜さんには悪いけど、もう誘われないから。
「最近どう?何か面白いことない?」
小声で聞かれた。
「ないです。」
そう不愛想に答えた私をじっと見てため息をついた。
「ここにいるってことは大地は外?」
「部屋じゃないですか?今日は外に出る予定はないです。」
「じゃあ一緒におやつタイムにすればいいのに。何で一人なの?」
「なんでですか!」
「なんでって、誘われるみたいだって言ってたよ、楽しみだって。」
そんな事専務が言うわけない、私も誘うわけないし。
「専務の冗談でしょう。いないときにおやつを食べてる話はしましたから。」
「誘ってみればいいのに。」
「誘いません。」
「なんだかまだまだ道は長いね。」
そんな事はないと思いたい。
早く経理に戻ってまた昔のようににぎやかに楽しみたい!
あ・・・・。
「そう言えば専務とカラオケに行ったことありますか?」
さっき思いついたことを、つい聞いてしまった。
「あるよ。結構うまいよ。誘われたの?」
「まさかです。専務がクラシックを聴いてるのは知ってますが、それ以外聞いたことがないので。やっぱり普通の曲も聞くんですね。」
「あ、興味がある?じゃあ一緒に行く?僕もなかなかです。」
「二人で仲良くどうぞ。」
「そこは三人でも、四人でも。」
返事はしない。
「じゃあ、そろそろ戻ります。お疲れさまでした。」
そう言って上の階へ戻った。
部屋に専務はいなかった。
愛用のボールペンはまた机の上に転がってる。
ちょっと留守にしてるだけだろう。
小さいころからお金持ちだったんだろう。
確か会社の説明で社史なんてものも説明された。
自分よりは長生きな会社だと漠然と思ったし。
ここまで成長するのにどのくらいかかったか覚えてないけど、きっと小さいころからいろんな習い事もさせられて、週末や記念日には美味しい食事に連れて行ってもらって、持ち物もいいものを買ってもらえて、友達もそれなりの人が多かったんだろう。
住宅ローンや学資保険や奨学金なんて言葉も知らないんじゃないだろうか?
バイトはしてたんだろうか?
サークルと習い事ばかりでしたと言われてもうなずきそう。
それでも彼女はいただろうし、同じくらいセンスのあるおしゃれをしてる子が隣にいたんだろう。
簡単に想像ついてしまった。
専務が帰ってきた時には自分の机に手をついて立ったまま、専務の机を睨んでいた。
ちょっと不思議な顔をされたかもしれない。
ずいぶん壁は低くなったけど、それは無用な遠慮と緊張がなくなったと言うだけだ。
個人的に近くなることはないんだから。
だから誰からも噂の端っこさえ聞こえてこない。
「実は・・・・。」
そう声がして顔をあげた。
「カラオケは大の得意なんだ。昔習っていたピアノの先生が美人で優しくて頑張ったこともあってね。音楽の先生にも嫌われたことはないし。」
何?
「実力を見せつけたいというなら受けて立つけど。」
・・・・なんでこんな短時間に連絡を取るの?
またしても林森さんだ、間違いない。
「林森さんが行きたそうでしたよ。お二人で仲良く個室にお入りください。」
少しだけ壁が取れて遠慮がなくなったのはお互い様らしい。
ずいぶん言葉が簡単に出るようになってきたらしい。
最初の10語に比べると対秘書用の語彙も増えて10ページくらいの辞書にはなったらしい。
私だって少しの余裕で仕事をこなす。
仕事がないのが一番困るから、面倒でも単純でもなんでも引き受けた。
ランチはほぼあの部屋を出る。
そしてゆっくり帰ることにしてる。
ああ、思い出したけど・・・・。
あれ以来綾香からの誘いもなく。
ちなみに前の会の時は一次会で楽しく別れただけだったらしい。
そこでまたカップル成立なんてなったら本当にあの夜のキャンセルが悔やまれるから、そこは良かった。
ふいに雨が降る日が多くなった。
しょうがない季節だ。
今日も窓に打ち付ける雨を見て、外を見て。
そんな日は外を見て休憩してもまったく楽しくない。
これでいっそ雷でも鳴って稲光でも見えたら綺麗なのに。
さっきから雨は強くなってる。
多分いつものようにタクシーに乗るだろうから大丈夫だろうけど。
それでもこんなにひどい雨だとタクシーもつかまりにくいかもしれない。
外出先の専務をぼんやり想像していた。
風があって雨が窓ガラスに打ち付ける音が聞こえそうなくらいだった。
予定より少し早めに帰ってきた専務。
明らかに濡れたような髪とスーツだった。
窓辺から背中をはがして急いで駆け寄る。
「専務、濡れたんですか?」
「ああ、ちょっとの距離だったのに。」
すごく帰りを待っていたみたいに近くに寄ってしまった。
だって本当に風邪をひきそう・・・・。
「着替えはありますか?髪の毛も拭いて乾かさないと風邪ひきます。」
バッグを受け取って、テイッシュで拭いた。
皮が水分を吸ってる、少しは染みになるかもしれない。
ジャケットを脱いでハンガーにかける専務。
ネクタイを外してゆるめてる。
ずっと見てた私の視線に気が付いたらしくて手を止めた。
「着替えてくる。」
そのままロッカーからシャツとパンツとタオルを持って部屋を出て行った。
ロッカーに着替えとタオルはあったみたい。
私が外に出ればよかったのだろうか?
なら・・・・そう言ってくれればいいのに・・・・。
ハンガーにかかったジャケットは濡れてるけど、私もハンカチ以外拭くものがない。
テイッシュじゃあ白い毛羽が立つ。
ハンガーの前でどうしようかと思ってたら戻ってきた専務。
手には脱いだ服がかけられていた。
そのままハンガーにかけて放置。クリーニングに出すんだろう。
「温かい飲み物を持ってきましょうか?」
「・・・じゃあ、コーヒーを。」
「はい。」
専務がネクタイをするのを見ながら外に出た。
自分の分もしっかり持って来た。
休憩は終わりにしよう。
今日の分はもう終わってるけど、見直しして、新しいものをもらって。
「ありがとう。」
専務の机に置いて自分の席に戻った。
髪はまだしっとりしてるけど、短いからすぐ乾くだろう。
濡れて部分的にまとまるだけで見慣れない髪型と雰囲気になる。
結局集中力は戻ってこなくて、見直しをして終わりにした。
「専務、他に何かありますか?」
預かっていた書類を手渡しして、連絡事項の確認をしてから、聞いた。
一応毎日聞いてる。
「特にない。」
外は相変わらずの雨模様だった。
視線を一度外に流して。
「じゃあ、これで失礼します。」
くるりと向きを変えて席に戻り、終わりにする。
「新山さん、傘は持ってる?」
「はい。ちゃんと持ってます。」
天気予報は見てきた。そうじゃなくても置き傘はある。
油断できない季節なんだから。
「・・・じゃあ、気を付けて。」
「はい。専務も風邪をひかないように。お疲れさまでした。」
一日が終わった。
こんな天気の日はこれからも多いだろう。
ほとんど外に出ることもないから通勤の時しか濡れない。
室温が管理された部屋で座って仕事をしてればいいのだから、恵まれてる。
滅多に残業がない日々。
経理は月末と頭は決まって忙しくなっていた。
それに加えて半期やボーナス時、年末、年度末、春。
忙しいピークはたくさんあると言われていた。
そんなピークも少ししか超えずに上のフロアに行った私。
今はほとんどそんなこととは関係ない位置にいる。
会社をでて見上げるまでもなく雨は容赦なかった。
でもタクシーだったはずなのに、専務はどうしてあんなに濡れたんだろう。
咳もくしゃみも鼻水も気を遣わないと思う。
せんべいのおやつの後は換気するけど、引き出しだけじゃなくてロッカーにもたくさんストックをいれてある。
何より二人の時間にもぼんやりしたりして、緊張感が薄れた。
あいさつも大きくできるようになり、予定のない外出をしようものならすかさず居場所を確認するために声をかける。
あんなに分厚くそびえていた壁がずいぶん低くなった。
さらなる自分の適応能力に拍手だ。
そう言えば最初の頃は気に入られなくてももっと明るい雰囲気になれるかもしれないと期待していた。
下で同期の人と笑ってる笑顔は爽やかな人、そんな感じだったから。
それでも最初から笑顔もなくて、無駄な話も言葉のやり取りもなくて。
もう息が詰まるくらいの不愛想っぷりで。
イメージと違い過ぎて、だから嫌われてると思ってたのだ。
結局どちらでもないかもしれないと思える今。
元々無駄なこととはしない主義らしい。
だからたった一人の部下には必要最低限の言葉で愛想も添えず、営業先ではその分大盤振る舞いなくらい。
そこまで差をつける必要あるの?
そんなに簡単に勘違いして言い寄って行ったりはしないのに。
そんな事を思った。
専務の一つの処世術かもしれないと思ってあげよう。
立場のある人はそれなりに大変なんだろうと。
一人の留守番の時間は空っぽな時間になる。
マイペースで仕事をすると休憩をする。
おやつじゃなくても窓辺に行ってぼんやりと空っぽな席を見つめる。
相変わらず何もない机の上。
個性を示すものがない。
それでも今日は愛用のいい感じのボールペンが転がっている。
いつもはジャケットの中の決まった場所に入ってるのに。
忘れて行ったみたい。
寂しそうに転がったそれを手に取った。
重い。
きっと大切に使えばずっと使えるような芯を変えるタイプの物なんだろう。
筆記体の文字で書かれたブランド名は知らない。
自分で買ったんだろうか?
プレゼントだろうか?
時々使うのを見ていた。
文字を書くように握ってみるとしっくりと来た。
こんな重さを動かすとなると丁寧に書きたくなるかも。
専務の字がまあまあ綺麗で丁寧なのもわかる。
重要書類だからそうなるのは当然だけど。
机の近くにいて手に持ったそれを見つめて。
かなりボンヤリと時間を過ごしてたらしい。
小さなノックとともに専務が帰ってきた。
机の横でボールペンを手にしてる部下を発見!
何してるんだろうと、その目が言っていた。
眉間にしわが寄ってない事に安心する。
「ボールペンが落ちてました。」
シラッと嘘を言えた。
「ああ、失くしたかもしれないって思ってた。」
専務の机の端に置いて自分の席に戻った。
「具合が悪いか、熱があるのか?」
そう聞かれた。
「ないです。日当たりが良かったから。」
シラッと嘘を言ったつもりなのに正直な心が誤魔化せなかったらしい。
大人しく仕事を再開して終わりにして。
しばらくして提出し、帰ることにした。
そう言えばあれから林森さんとも連絡をとってない。
筒抜けだからもう話題にするのは止めよう。
うっかり冗談も言えない。
それから気が付くと専務が部屋でお昼を食べていることが増えていた。
戻ってくると机の上に食べ終わりの物がまだあったり、ゆっくりコーヒーを飲みながら音楽がかかっていたり。
「最近は副社長とはお昼をとらないんですか?」
「ああ。」
音楽をかけながらでもパソコンを見ていて、時々手を動かしている。
「忙しいですか?何かお手伝いできることがありますか?」
「いや、別にない。」
そこは相変わらずだった。
そうですか。じゃあ、ごゆっくり。
歯磨きと化粧ポーチを持って部屋を出た。
それはそれで困る。
毎日友達とランチだとお金がかかるし、太る。
一人で社食も寂しいし。
たまには部屋でとっていたのに。
まさか兄弟喧嘩じゃないよね・・・・。
本当によく分からない。
音楽の趣味がかろうじて分かるくらいだ。
『クラシック』
私にはそれ以上の分析ができなかった。
まあ、しっくりくると言えば来る。
林森さんたちとカラオケに行ったりはするのだろうか?
何を歌うかによってはもっと普通に聞きそうな音楽がありそうだけど。
冗談のように言ったおやつも一緒に食べたことはない。
まだそこまでの気安さはない。
もろもろを終えて席に戻った。
音楽は終わり部屋には誰もいなかった。
後片付けに行ったのだろう。
午後外出予定も会議の予定もない半日が始まった。
二人とも机にへばりついている。
静かな部屋は相変わらずだ。
休憩したいなあ。
逃避したいなあ。
区切りのいいところまで来たら下の階に逃げよう。
そう思って実行した。
財布とポーチを持って。
下の階は飲み物が有料になる。
しょうがない、上の階から持ってくると言うのはどうかと思うから。
自販機の前で上の階にはない飲み物から選び出してホッと一息。
きっとあの部屋で専務もそう思ってるだろう。
「あれ、新山さん?」
聞き覚えのある声、でも久しぶりだと思う。
振り向いたら林森さんがいた。
そう言えばうやむやなあの件は謝ってほしい。そう言いたい目で見た。
「あれ?何?また何かあった?」
「ないです。報告するようなことも相談するようなことも。大体もう何も言いません。全部専務に報告するじゃないですか!!」
「全部って程聞いてないけど。何?怒ってる?」
「一体何を教えたんですか?あの優樹菜さんと飲んだ日の事です。」
「あの日?随分前だからなあ~。でも楽しかったよね。彼女もまた一緒に飲みたいって言ってたよ。今度また誘うね。大地も一緒に参加するんじゃないかな?」
「結構です。」
優樹菜さんには悪いけど、もう誘われないから。
「最近どう?何か面白いことない?」
小声で聞かれた。
「ないです。」
そう不愛想に答えた私をじっと見てため息をついた。
「ここにいるってことは大地は外?」
「部屋じゃないですか?今日は外に出る予定はないです。」
「じゃあ一緒におやつタイムにすればいいのに。何で一人なの?」
「なんでですか!」
「なんでって、誘われるみたいだって言ってたよ、楽しみだって。」
そんな事専務が言うわけない、私も誘うわけないし。
「専務の冗談でしょう。いないときにおやつを食べてる話はしましたから。」
「誘ってみればいいのに。」
「誘いません。」
「なんだかまだまだ道は長いね。」
そんな事はないと思いたい。
早く経理に戻ってまた昔のようににぎやかに楽しみたい!
あ・・・・。
「そう言えば専務とカラオケに行ったことありますか?」
さっき思いついたことを、つい聞いてしまった。
「あるよ。結構うまいよ。誘われたの?」
「まさかです。専務がクラシックを聴いてるのは知ってますが、それ以外聞いたことがないので。やっぱり普通の曲も聞くんですね。」
「あ、興味がある?じゃあ一緒に行く?僕もなかなかです。」
「二人で仲良くどうぞ。」
「そこは三人でも、四人でも。」
返事はしない。
「じゃあ、そろそろ戻ります。お疲れさまでした。」
そう言って上の階へ戻った。
部屋に専務はいなかった。
愛用のボールペンはまた机の上に転がってる。
ちょっと留守にしてるだけだろう。
小さいころからお金持ちだったんだろう。
確か会社の説明で社史なんてものも説明された。
自分よりは長生きな会社だと漠然と思ったし。
ここまで成長するのにどのくらいかかったか覚えてないけど、きっと小さいころからいろんな習い事もさせられて、週末や記念日には美味しい食事に連れて行ってもらって、持ち物もいいものを買ってもらえて、友達もそれなりの人が多かったんだろう。
住宅ローンや学資保険や奨学金なんて言葉も知らないんじゃないだろうか?
バイトはしてたんだろうか?
サークルと習い事ばかりでしたと言われてもうなずきそう。
それでも彼女はいただろうし、同じくらいセンスのあるおしゃれをしてる子が隣にいたんだろう。
簡単に想像ついてしまった。
専務が帰ってきた時には自分の机に手をついて立ったまま、専務の机を睨んでいた。
ちょっと不思議な顔をされたかもしれない。
ずいぶん壁は低くなったけど、それは無用な遠慮と緊張がなくなったと言うだけだ。
個人的に近くなることはないんだから。
だから誰からも噂の端っこさえ聞こえてこない。
「実は・・・・。」
そう声がして顔をあげた。
「カラオケは大の得意なんだ。昔習っていたピアノの先生が美人で優しくて頑張ったこともあってね。音楽の先生にも嫌われたことはないし。」
何?
「実力を見せつけたいというなら受けて立つけど。」
・・・・なんでこんな短時間に連絡を取るの?
またしても林森さんだ、間違いない。
「林森さんが行きたそうでしたよ。お二人で仲良く個室にお入りください。」
少しだけ壁が取れて遠慮がなくなったのはお互い様らしい。
ずいぶん言葉が簡単に出るようになってきたらしい。
最初の10語に比べると対秘書用の語彙も増えて10ページくらいの辞書にはなったらしい。
私だって少しの余裕で仕事をこなす。
仕事がないのが一番困るから、面倒でも単純でもなんでも引き受けた。
ランチはほぼあの部屋を出る。
そしてゆっくり帰ることにしてる。
ああ、思い出したけど・・・・。
あれ以来綾香からの誘いもなく。
ちなみに前の会の時は一次会で楽しく別れただけだったらしい。
そこでまたカップル成立なんてなったら本当にあの夜のキャンセルが悔やまれるから、そこは良かった。
ふいに雨が降る日が多くなった。
しょうがない季節だ。
今日も窓に打ち付ける雨を見て、外を見て。
そんな日は外を見て休憩してもまったく楽しくない。
これでいっそ雷でも鳴って稲光でも見えたら綺麗なのに。
さっきから雨は強くなってる。
多分いつものようにタクシーに乗るだろうから大丈夫だろうけど。
それでもこんなにひどい雨だとタクシーもつかまりにくいかもしれない。
外出先の専務をぼんやり想像していた。
風があって雨が窓ガラスに打ち付ける音が聞こえそうなくらいだった。
予定より少し早めに帰ってきた専務。
明らかに濡れたような髪とスーツだった。
窓辺から背中をはがして急いで駆け寄る。
「専務、濡れたんですか?」
「ああ、ちょっとの距離だったのに。」
すごく帰りを待っていたみたいに近くに寄ってしまった。
だって本当に風邪をひきそう・・・・。
「着替えはありますか?髪の毛も拭いて乾かさないと風邪ひきます。」
バッグを受け取って、テイッシュで拭いた。
皮が水分を吸ってる、少しは染みになるかもしれない。
ジャケットを脱いでハンガーにかける専務。
ネクタイを外してゆるめてる。
ずっと見てた私の視線に気が付いたらしくて手を止めた。
「着替えてくる。」
そのままロッカーからシャツとパンツとタオルを持って部屋を出て行った。
ロッカーに着替えとタオルはあったみたい。
私が外に出ればよかったのだろうか?
なら・・・・そう言ってくれればいいのに・・・・。
ハンガーにかかったジャケットは濡れてるけど、私もハンカチ以外拭くものがない。
テイッシュじゃあ白い毛羽が立つ。
ハンガーの前でどうしようかと思ってたら戻ってきた専務。
手には脱いだ服がかけられていた。
そのままハンガーにかけて放置。クリーニングに出すんだろう。
「温かい飲み物を持ってきましょうか?」
「・・・じゃあ、コーヒーを。」
「はい。」
専務がネクタイをするのを見ながら外に出た。
自分の分もしっかり持って来た。
休憩は終わりにしよう。
今日の分はもう終わってるけど、見直しして、新しいものをもらって。
「ありがとう。」
専務の机に置いて自分の席に戻った。
髪はまだしっとりしてるけど、短いからすぐ乾くだろう。
濡れて部分的にまとまるだけで見慣れない髪型と雰囲気になる。
結局集中力は戻ってこなくて、見直しをして終わりにした。
「専務、他に何かありますか?」
預かっていた書類を手渡しして、連絡事項の確認をしてから、聞いた。
一応毎日聞いてる。
「特にない。」
外は相変わらずの雨模様だった。
視線を一度外に流して。
「じゃあ、これで失礼します。」
くるりと向きを変えて席に戻り、終わりにする。
「新山さん、傘は持ってる?」
「はい。ちゃんと持ってます。」
天気予報は見てきた。そうじゃなくても置き傘はある。
油断できない季節なんだから。
「・・・じゃあ、気を付けて。」
「はい。専務も風邪をひかないように。お疲れさまでした。」
一日が終わった。
こんな天気の日はこれからも多いだろう。
ほとんど外に出ることもないから通勤の時しか濡れない。
室温が管理された部屋で座って仕事をしてればいいのだから、恵まれてる。
滅多に残業がない日々。
経理は月末と頭は決まって忙しくなっていた。
それに加えて半期やボーナス時、年末、年度末、春。
忙しいピークはたくさんあると言われていた。
そんなピークも少ししか超えずに上のフロアに行った私。
今はほとんどそんなこととは関係ない位置にいる。
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でもタクシーだったはずなのに、専務はどうしてあんなに濡れたんだろう。
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