全ては小さい頃の『可愛い暴君』ということで許してもらえますか?

羽月☆

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3 実に複雑な記憶の混乱と心の有り様と。~大人ポチのちょっとした後悔~

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何で今まで気がつかなかったのか不思議なくらいだ。
三年・・・・同じ会社にいたとは。

あの頃のイメージも薄れてしまい、彼女が先に気がついて声をかけられるか、彼女のフルネームを聞いて自分がビックリするか。
珍しい名前だし同姓同名はいないだろう二人。
自分の下の名前は滅多にいない、他にいるとは思えない名前。
だから聞いたら絶対気がつくだろう。

まさかまったく記憶をかすめないとは、わざと知らないふりをしてるのかと思った。
なにか、やりにくい事情なり、何なりがあって、気がつかないふりをしてるのかと。

だからついつい表情を見入るように会話したかもしれない。
彼女も自分の探る視線にちょっと違和感を感じたのだろう。

ただ、それでも本当に気がつかないのだろうか。
反応を見る限りそうだった。


新人歓迎会の時に近くの席が空いていて、ちょっとだけ動いてみた。

飲みの中だったら確かめてもいいだろうと思った。

あちこちで騒いでる声がうるさいくらいにぎやかで、誰もがほろ酔い以上で、その中でフレッシュな新人の塊に入れられて、少しだけ壁を作るようにいる彼女。
空いていた斜めの席に行ってみた。

ただ、直接話を始めたのはフレッシュな新人達とだった。

物怖じしない子数人にいろいろと聞きだされる。
あからさまなのは寧ろ隠したいほどの個人的興味がないのだろうと思う。
話しの入り口という意味以外はないのではと思って答えていた。

彼女も近くにいるから当然聞こえてるだろう。
会話には交わらなくてもそんな気配はある。

ぼんやりとお酒に口をつけながら聞いている。

小さい頃住んでいた駅を教える。
小学生になる時に引っ越していったとも。
その頃は背も低くてどちらかというと頼りない感じの雰囲気だったと教えた。

それ以外は昔をさかのぼる話はなかった。

どうだろう?まだ駄目だろうか?
今聞いたら本心を隠しながらも懐かしい顔くらい見せてくれるだろうか?

そう思ってたのに、気がついたらいなかった。

一通り自分の披露できる話も終わり、また新人同士が盛り上がっていた。

そっと席を立ち、ぐるりと皆を見るふりして、実際に見て、いないのを確認して部屋を出た。
トイレだろう。
自分もトイレで手を洗い、入り口にもたれながらこっそり奥から彼女が出てくるタイミングを狙っていた。
怪しむ誰かが通ることなく、少し遅れるようにトイレから出たふりで声をかけた。


気がついてなかったとは分かった。
でも思い出してももらえないとは思わなかった。
名前を言ったのに、彼女の事をあのころ呼んでいたように呼んで、自分がどう呼ばれていたかも教えて、やっとだった。

やっと自分に思い当たったらしい。

まさかそこまでにそんなに努力が必要とは。完全に忘れていた記憶らしい。

当然謝られた。
深くお辞儀をして、謝られた、過剰なほどに。

ただ、それは記憶を飛ばしてしまっていたことじゃなかった。

あの頃の小生意気だった彼女の態度を謝られた。
今度は自分が記憶を探る番だった。


懐かしさしかないけど、失礼だったとひたすら言葉が並んで、ちょっと面食らう。


とりあえずもう少し記憶をすり合わせたい。
終わった後に懐かしい話が出来るかもしれないと約束した。

最後まで俯いてお辞儀をされて、まるで仕事の失敗を責めてるみたいだ。

なかなか腰が伸びず、顔が上がらず、そのまま約束を残して先に席に戻ることにした。


さっきまでいた席には人がいて、仕方なく・・・・元の自分の席に戻った。

その辺のビールを注ぎながら、昔の記憶を、最近何度も思い出していた記憶を脳内で並べてみる。どれも可愛い子供二人の映像だ。
小さかった自分と同じくらいに育っていた彼女、幼なじみの二人が仲良く遊んでいる記憶だ。


一つ下だとは言われていた。
『芳一の方が一つお兄ちゃんなんだから。だから仲良く、優しくしてあげて、一緒に遊びなさい。』そう言われていた。

一人っ子で妹のように思っていたんだと思う。
自分の母親が働いてたこともあり、ほぼ毎日のように隣の家に預けられて、大人がいなくても問題ないくらいに仲良く遊んでいた。
自分と彼女の母親達にも困った顔をされた記憶は一度もなかったから、問題なかったんだろう。

ちょっとわがままな女の子なのは他の女の子を見てても分かる、年下で不器用なところもしょうがないと思っていた、出来ない事は手伝い、困った顔をされたら代わりにやってあげて、一緒に、もしくは世話を焼くようにしていた。
言われた通り『お兄ちゃん』のように。

さすがにあの頃に比べると最近の態度は素直だ。
お互い大人になり、立場も上下がはっきりしている。
褒めたり、お礼を言うと嬉しそうにほっと安心する笑顔も見ていた。
それはちゃんと自分に向いていた。

懐かしい幼い顔がちょっとだけよぎる瞬間もあった。



小学生に上がるタイミングで自分が引っ越しをした。

あの頃はよくわかってなかった。
新しいお家に行くんだと思っていた。
それが遠くて、隣同士じゃなくて、もう遊べないなんて、そんな事誰も教えてくれなかった。


『明日お引越しだからちゃんとバイバイ言うのよ。』

そんな事は言われただろう。
でもいつも夕方迎えが来て家に帰る時にも『バイバイしなさい。』そう言われて、バイバイは言っていた。
だからそんな風にいつもの『バイバイ。』を言った。


車に乗って、手には大切にしていたおもちゃを持って、お出かけくらいの気持ちだったのかもしれない。

車の窓からバイバイをネネちゃんに言う自分は笑顔だったと思う。
いつもの夕方と同じ、『明日は遊ぼうね。』そんな気持ちだった。
あの時自分に手を振り返してくれた彼女が少しも笑顔じゃなかった。
喧嘩をしていたわけでもないのに、口を結んで小さく手が揺れてるだけだった。

もう会えないと分かってなかったのは、自分だけだったのかもしれない。


次の日、母親に遊びに行きたいと言った。
『ママはお片付けで忙しいから、しばらくは我慢してね。』
そう言われた。
大人しく、新しい自分だけの部屋で一人で遊んだ。
一緒に笑う声もない。おやつを取り合う手もない。
隣に誰もいない。

それからも毎日母親に言ったかもしれない。
『今日は遊びにいける?』

さすがに家の中も片付いて母親ものんびりとテレビを見てることが多かった。
あの頃仕事を一度やめたんだろう。

息子が引っ越しの意味を分かってない事に気がついたらしい。
もう会えないと言われた。
頑張れば会えただろうけど、会えないと言われた。
日曜日に車で連れて行くとか、そんな努力はしてもらえなかった。
代りに家族で出かけた。
新しく小学校の友達も出来たし、母親が仲良くなった人の影響で近くの空手道場に通わされた。

次第に忘れて行った。
違う友達と遊ぶことに慣れたから。

そのあとは時々思い出すことはあっても、もう思い出だった。

つい先月まで、すっかり遠い懐かしい思い出になっていた。

大人になって再会した春、懐かしい記憶を思い出したのは自分だけだった事実。
そんなものなんだろうか?
あんなに謝るくらいなら、彼女にはあんまりいい思い出にはなってなかったんだろうか?

それでも楽しかったと伝えたいし、偶然をもっと感動したい。


やっとお開きになった飲み会。
最後はほとんどぼんやりで参加してなかった。

店の外にしばらく集まったけど、上司の帰れコールで群れになって駅の方に向かう。

さり気なく近くに行って前後して並んでいた。
終電を気にするほど盛り上がる予定はない、残念だが。

それでもさりげなく群れの中で不自然じゃないほどの距離をおいて、斜め横にいる。

反対側の会話に参加するふりをして集団が動く、それは不自然じゃない。
駅で更にバラバラと集団が離れる時に後ろからこっそりと話しかけた。

「そこの空いてる席に座らない?」

そう言って先に席をとった。

ほとんどのメンバーが改札に吸い込まれて行ったし、二次会に行ったメンバーはとっくに別の群れを作って別れていた。

お互い誘わず、誘われず。

会社では無用な愛想は振りまいてなかった。
まだ新人の頃はそれなりにつながっていたが、最近はさすがに減っている。
誘われるのも本当に仲のいい、気の合った同期男のみだ。
余計な気遣いが思わぬ仕打ちで、弓の様にしなり自分に戻ってくることもある・・・あった。


本当に最初の頃の飲み会で隣に座ったある同期の女性と話をすることがあった。
毎回隣になったり、近くに来られたり。
正直、まったく何とも思ってなかったかと言われると、それなりにまあ・・・・だった。
ただ二人で会うことはなかった。
自分も誘わず、相手からも言い出されず。
昼の時間や休憩の時間、廊下ですれ違う時にちょっと立ち止まり、話をしていたくらいだった。

そんな二人は外野からは特別に期待されて見られてたのかもしれない。

ただ、そんな微妙な距離のまま、お互いに踏み込めないままの距離を持ちながらも、仲のいい同期だったのに。
どうやら彼女の方がちょっと不器用だったらしく、仕事が負担で、心が暗くなって。
しばらくして気がついたら辞めていた・・・と聞いた。
そして当然原因を知ってるだろうと、果ては何かあったのか?と聞いてくる奴もいて。

全く知らないと言ったのに。

うっすらと噂が漂ったらしい。

一人でいる時に彼女と仲良かった子にまで聞かれた。

びっくりだった。

その子が知らない情報を自分が持っているとどうして思うんだか。

その子も全く相談はなかったとがっかりしていた。
もちろん自分にも何の相談もなかったし、あるはずもないとやんわりと言った。

納得はしてもらえたと思う。

本当の理由はのちに分かったことで、自分が無関係だというのもその時にやっとはっきり納得してもらえた。
ただ、その頃には皆がその子のことすら忘れていた頃で、その話の真実は広がらなかったかもしれない。

今どうしてるのかも知らないほどだ。連絡先も知らないのだから。

やはりあんまり距離は詰めるべきじゃない。
そこまで自分から詰めたつもりもないけど、あくまでも平等に。

あの時にそう学習した。


改札へ向かう方から一番遠い暗がりの席に荷物を置いてぼんやりする。
後ろにはいてくれるんだよな・・・・そう思って振り返った。

いてくれた。

距離は開いていたが。楽しそうな表情でもないが。

「別な場所がいい?ちょっとだけ飲みたいなら近くにおすすめのバーもあるけど。」

「できたら、そっちの方でお願いできますか?」

固い言い方で返された。
別に仕事の延長でもないつもりなのに。
つい軽くは誘えない雰囲気だった。

懐かしい話をしながら、美味しいお酒を飲みたいのだが。

それでも言い出したんだから、彼女の了解ももらった。行こう。

「じゃあ、行こうか。」

荷物を置いただけで座ることなく席から離れて、駅から離れるように細い路地に入った。
空いてればいいけど・・・・。

何とか二人分の席は空いていた。
端の席に座り、上着のボタンを外す。

お酒を注文して、落ち着く。

「仕事は慣れたみたいだよね。」

「はい。なんとか。」

ちょっと普通の話をと思っても、顔も上がらない。
さっき店員に向かってあげていた顔は再び俯いていた。

お酒が届いた。
軽く持ちあげても、同じようにされることもなく、乾杯は諦めて口をつけた、少しだけ。

グラスを置いたタイミングで話をはじめられた。


『あの頃は・・・・・。』


知らなかった。本当に名前は憶えてなかったらしい。
それよりも自分が『ポチ』と呼ばれていたらしいと。
子どもらしい呼び方で、てっきり『ホウチ』と呼んでいるんだと思ってた。
『ポチ』?犬?

しかも嫌なこと、面倒な事を押し付けて、意地悪く、偉そうに振舞っていたと謝られた。


そうだったのか?

自分の記憶にだんだん自信がなくなってきた。

何度も言い負かしたと、年下くらいに思っていたと。
便利な言いなりの子分みたいに・・・・と。

マジか?

兄のように振舞っていた自分は、まさかただの便利な男だったのか?
しかも頼りになるお兄ちゃんでもなく、子分???

「今思い出しても反省しかないです。本当にすみませんでした。今更ですが本当にあの頃のお詫びに、何かできるなら、教えてください。」

顔は相変わらず下を向いたまま。
こっちを向いたらそんな必要はないと分かるだろうに。

そこまで言われると自分の記憶が美化されたのだろうかと、少しは思い始めた。
自分が嫌な記憶を封じ込めて、微笑ましい映像記憶にすり替えたんだろうかと。

だからと言って今日のさっきまでの態度で気にしてない事は分かりそうなのに。

それも伝わってないらしい。


ポチ・・・・・。
さすがにガッカリだし、懐かしい思い出話が出来ると思っていた自分が可哀想になる。

「じゃあ、ここは奢りで。」

そう言った。

奢るつもりだったのに、自分が連れて来たのに。
ただ、「はい。」と返事があった。

チラリと見上げられた。

他には何かないだろうか?

さっきからお酒に手も付けないでずっと俯いてる。
そんな根に持つ男だと思ってるんだろうか?

春に移動してから仕事を教えた。
何度も感謝され、今は緊張も取れて、一人でも普通に仕事が出来てる、自分も何度もお礼を言ってる。そんな気持ちは伝えてるのに。
それにも裏があったと思われてるんだろうか?

色んながっかりな気持ちが複雑に絡み合う。
本当に顔も上げない彼女にもちょっとイラっとしてきた。

「奢ってもらうけど、それ、飲んだら?」

テーブルに置かれたカクテルを指す。
ここは自分でもお気に入りのお店だ。
美味しいのだ。
自分で注文しただろう一杯、決して安くはないし、プロがきちんと作ってくれた一杯だ。
味わってほしいと思った。

ただ、そのセリフは冷たく聞こえたかもしれない。

「はい。」

また同じように返事をされた

やっと口をつけた。
美味しいという表情は見れなかった。
美味しいはずなのに・・・・・。
目の前にいるのが違う男だったら、きっと今まで仕事で見せていたような笑顔以上の笑顔で美味しいと言うだろうに。
そんな事を思った。

目が合った。

自分の視線が冷たかったと思った。きっと表情も。
目が合った後ハッとしたようにグラスから手を離した彼女に気がついてそう思った。
すこし表情を緩めたけど、その時は既に俯かれていた。

「あの頃、いろんなことを押し付けてました。粗相した責任まで。何度もテーブルや床を汚して、ほとんど私が悪かったのに、片付けもやらせて、あたかも辺見さんが失敗したように言ったり。」

なんだとぉ!!

本当に自分はそんなちょろい奴だったのか?
『ポチ』と呼ばれて喜んで、そんなあずかり知らない粗相の尻ぬぐいまでしていたのか?
彼女の母親には、一つ上なのにそそっかしい、ドジなヤツと思われていただろうか?

「今度は私が引き受けます。出来る範囲で、手伝います。何でも言いつけてください。頑張ります。お気のすむように、何でも。」

仕事のことだよな?それ以外ないし。
雑用を引き受ける宣言。

「先輩の面倒そうな仕事を喜んで引き受けるということ?」

「私が・・・・できることなら。」

「ふ~ん。いいね、それ。」

ついそう言った。

そんな仕事はある。
上から面倒回避のように転がり落ちてきた面倒な仕事。
ただただ面倒なだけで達成感も何もない仕事。
それをやってくれるらしい。
いい条件だ。

じゃあ、やってもらおうじゃないか。

「分かった。ラッキー。面倒な仕事はいっぱいあるから、今度からあげる。頑張って。」

そう言った。

グラスを空けて二杯目を頼む。


「ここは好きな店なんだ。美味しいんだよ。あんまり味わえてないようなのが残念だけど。まあ『ポチ』が相手じゃ、気分も盛り上がらないよね。しょうがない。」


予想外の展開で、自分も懐かしさに盛り上がることは諦めた。
そして意外に冷たく振舞えるもんだと自分でも感心した。
これがフレッシュな新人だったりしたら完全なパワハラだろう。
ただ、懐かしい幼なじみで、自分から面倒を引き受けると言ってくれた相手で、フレッシュさは全くない相手で。

それでも話の決着がついたと見たのか、少しづつお酒を口にしてる。
甘くため息をついてるから美味しいのだろう、そう思いたい。
早く帰りたいと思ってるため息じゃないと思いたい。

自分はどうだろうか?
味わえてるかどうか。

二杯目もお気に入りの一杯だ。
もちろん美味しい。


今早く帰りたいだろうか?どうだろう?

不思議な雰囲気で、少しもお互いに楽しんでる感じではないのに。
それでもまあ、ちょっとだけ楽しめそうな気持にもなってきた。
面倒を押し付けられる、言いなりに従わせることができる、あくまでも仕事の指示だとしても、それは実に暗い心を満たしてくれる提案だったらしい。

「楽しみだ。」


呟いた。

ちょっと身体を固くしたような雰囲気を感じた。

やりすぎかもしれない、言い過ぎたかもしれない、訂正すべきことはあるかもしれない。
でもしなかった。

のんびり三杯目も頼んでゆっくり味わって、彼女がやっと一杯目を飲み終わって、会計をしてもらった。

まあ、その内お金は返そう。
何度か面倒を押し付けたらすっきりしたと、笑顔で許すと言ってあげよう。

胃を痛めたりゲッソリされても困るから。



無言で横に並んで駅に向かい、お疲れと声をかけて改札で別れた。

「お疲れさまでした。」

そう言って歩いて行った彼女。

大丈夫か?


ちょっと反省もしつつ、月曜日に考えることにした。


月曜日、普通に仕事を分け合う。他の人とも。

仕上げた書類を提出して来た彼女が他にないかと尋ねてきた。

あるある、面倒な奴が一つ。

遠慮なく頼んでみた。
残業にはなるだろう。
その書類の面倒さはチラリと見て分かっただろう。

眉間にしわが寄ったのが分かった。
口が少し動いてる。
何と言ったかは下を向いていてわからない。

『面倒だ。やりたくない。』くらいは言っただろう。

それでも自分が言いだしたことだし、気分を変えて取り掛かることにしたらしい。
大きく深呼吸して仕事を始めたのを視界に入れた。

残業するようならこの間のお礼も兼ねてコーヒーくらい奢ってやってもいい。
お疲れ様と笑顔で慰労してもいい。

そう思った。


終業の時間、他のメンバーは自分の仕事に区切りをつけて席を立って帰って行く。

余計な残業はしない主義の会社だ。

期日が決められてなければ、そんなに急ぐこともない。

そして彼女の方を見やると、まだ終わらないらしい。
そうだろう。

別に今日中とは言ってない。いつまでとも聞かれてない。

しばらくしたらため息をついて彼女がパソコンを閉じて席を離れるのに気がついた。
自分もキリのいいところまでして、財布を持って席を立った。


今日はお終いにするのだろう、そう思った。

ちょっと時間が経っていたらしく、廊下で捕まえることもできず、休憩室にもいなくて。
無人の休憩室で廊下に視線をやっていたのに・・・・。
しばらくしてもトイレから帰る姿を見ることもなかった。

あれ?


しょうがなく席に戻ったら、自分のパソコンの上に書類が乗っていた。

閉じられた書類と付箋が一枚。
『終わりました。』

筆圧強く書かれたその文字。
いつの間にか帰ったらしい。

隙を見て提出されたらしい。

終わったということだ、素晴らしい。
提出したらさっさと帰ったのだろう。
素早い!

褒めてあげることも慰労してあげることも出来ず。

パラパラと見て、いいだろうと思った。


財布を机に置いて考えた。
意外に楽できるかも。

そうも思ったが、改めて付箋に残された文字を見る。
なかなか愛想がない。これで満足ですか?というような雰囲気すら感じる。
面倒を押し付けた第一弾だとバレただろうか?

自分から言ったことだけど、後悔してるだろうか?
まあ、いい。明日お礼をしよう。


ただ、そう思っても全くそんなチャンスすらなく。


「終わりましたが、何かありますか?」

その日も律儀に聞いてきた。
昨日より面倒じゃないものを二つお願いした。

ちゃんと『じゃあ、これをお願いします。』そう言葉を添えた。
普通の仕事の範囲だ。今日中とも言ってない。


そして自分が仕事が終わってもまだ終わらせる様子のない彼女。

「寒川さん、さっきのは明日でも大丈夫です。」

一応声をかけた。

「はい。」

顔を上げた彼女の顔は無表情で。また一言だった。

自分は先に終わった。待ってるのも変なので先に帰った。

実に気を遣ってる気がする。
あの日まではもっと普通だったのに。
明らかに歪な感じだ、それはお互いに。

翌日出勤するとまた同じように付箋のついた書類がデスクに提出されていた。
付箋の文字も一言『終わりました。』それも変らず。

もういいのに。別に・・・・いいのに。

今日はもう頼まないでおこう。
二日で心苦しさと後ろめたい気持ちを覚えて、心からそう思った。

実際終業になってみても自分の残務も渡せるものはない。
聞かれても気を遣わずに答えられる。
『このところ手伝ってもらったので、今のところはないです。』
そう言える。

そう思ったのに、その日は聞かれることもなく。
先に帰る背中を見た。

少し遅れて自分も帰れた。

なんなんだ!
今日も待ってたのに・・・・・。
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