不吉な身代わりオメガは、冷酷な王の腕の中で初めて愛を知る ~声を奪われた王子、最強の番に溺愛される~

ひなた翠

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第一章:生贄の花嫁

沈黙の生贄と血塗られた覇王

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 朝の静寂を切り裂くように、王宮内が異様な喧騒に包まれていた。

 窓の向こうから、石畳を踏む幾重もの足音、遠くで重々しい扉が幾度も開閉される音が、微かな震えとなって伝わってくる。ルミエルは冷えた窓枠に指先をかけ、そっと中庭を見下ろした。

(……何事だろう。こんなに朝早くから)

 普段、この塔の周囲に人の気配がすることなど皆無に等しい。だというのに今朝は、侍女たちが裾を乱して慌ただしく行き交っている。張り詰めた空気が冷たい石床を伝って、ルミエルの足の裏から心臓へと這い上がってくるようだった。

 本能が、何かが起きると告げていた。

 声を持たないルミエルにとって、隔離された塔の中で外界を知る術は、音と空気の揺らぎしかない。彼は生まれながらにして、呪いによって言葉を封じられているのだ。王妃お抱えの術師が施したその呪詛は、問いかける自由も、真実を確かめる術も、助けを求める叫びさえも、その喉から根こそぎ奪い去っていた。

 じっと外を眺めていると、不意に階段を上る規則的な足音が鼓膜を叩いた。


 一つ、二つ。
 迷いのない足音はルミエルの部屋の前で止まり、鍵が回る嫌な金属音が響く。外側から乱暴に開け放たれた扉から、まず姿を現したのは王妃エレーヌだった。

 深紅の絹が床を擦る傲慢な音。燭台の光を弾く、頭上のけばけばしい宝石。その鋭い眼光が、獲物を定めるようにまっすぐルミエルを射抜く。

 続いて入ってきたのは、異母兄のルークだった。

 彼は白い指先で無造作に前髪を掻き上げると、ひどく退屈そうに室内を一瞥した。肩に流れる淡い銀の髪、紫水晶のような瞳。国一番の美貌と自負するその姿は、同じ血が流れているとは思えないほど、眩い光に満ちていた。

(兄さんは、今日もあんなに輝いている……)

 ルミエルは弾かれたように立ち上がり、深々と膝を折って頭を垂れた。床の冷たさに額を寄せ、嵐が過ぎ去るのを待つ獣のように身を縮める。

「ルークの結婚が決まったわ」
 王妃の、蜜に毒を混ぜたような声が降ってきた。

「相手は大国グライエンの王。近隣諸国を蹂躙し続ける、あの残虐な覇王よ。……けれど、困ったことにあの男は、番ったオメガを食い殺すことで有名だとか。そんな獣の餌食に、私のかわいいルークを差し出すわけにはいかないでしょう?」

 王妃の視線が、値踏みするようにルミエルの顔を這い回る。口角が歪に持ち上がり、嗜虐的な悦びがその瞳に滲んだ。

「お前は、あの卑しい女狐が産んだ子のくせに、どういうわけかルークに面影が似ているわ。……だから、お前がルークの身代わりになりなさい。お前が嫁げば、この国は戦争を回避できるのよ」

(僕が、嫁ぐ……? 兄さんの、代わりに?)

 その言葉の意味が、じわじわとルミエルの胸の奥に沈殿していく。

 彼は視線を伏せたまま、抗う術のない事実を飲み込んだ。王妃の決定は、この国における絶対の法だ。だが、疑問が頭をもたげる。

 ルークの美しさは諸国に轟いているはずだ。だからこそ覇王も彼を指名したのだろう。自分のような影のような存在が、果たしてあの光り輝く兄の代わりなど務まるのだろうか。

 同じ父の血を引いている。系統は似ているのかもしれない。けれど、ルークのような人を惹きつける華やかさは、自分には微塵も備わっていない。

 もし、身代わりだと露見してしまったら。覇王の怒りに触れれば、それこそ国は滅びるのではないか――ルミエルの胸に、冷たい不安が広がっていく。

「僕の身代わり、しっかり頑張ってよね! あいつに無残に食い殺されてきてよ」

 壁に背を預けていたルークが、くねくねと身体を揺らして嘲笑した。剥き出しにされた白い歯が、その容姿の美しさゆえに、吐き出される言葉の残酷さを引き立てる。

「どうせ生きていたって、あと三ヶ月の命なんだから。死ぬ前に僕たちの役に立てて、よかったね」

 ――三ヶ月。

 その言葉に、ルミエルの胸の奥がチリリと焼けた。

 ルークの言う通りだ。彼の命は、あと百日も残されていない。二十歳の誕生日を迎えた瞬間に、呪いによって命の灯が消える。幼い頃から、呪文のように聞かされてきた宣告。

 ルミエルが生まれたとき、王宮の術師は予言した。「この子は国の破滅を呼ぶ」と。

 その予言一つで、彼の母は愛人の地位を追われ、城の外へと放逐された。母が今どこで、どうなっているのかさえ知らされていない。

 そしてルミエル自身は、王妃の命でこの塔に幽閉された。声を奪う呪いと、命を削る呪い。二つの重荷を背負わされ、暗い部屋でただ朽ちていく時間を数えてきた。「破滅を呼ぶのは成人してからだ、それまでは生かしておく」という、慈悲を装った放置。

(……食い殺されるのも、呪いで死ぬのも、大差ないのかもしれないな)

「あーあ、今日から僕がこの部屋を使うのか」
 ルークが欠伸をしながら、勝手知ったる様子で室内を歩き回る。

「父上は、僕が嫁いだって思い込んでるんだもんね。仕方ないなあ。ねえ母上、ここを快適にするために、新しい家具をたくさん買ってもいい?」
「ええ、好きなようになさい」

 二人の会話から、これが国王にすら秘匿された、王妃独断の陰謀であることをルミエルは察した。

 彼の存在を知るのは、国王と王妃とルークだけ。世話係は彼に情を移さぬよう、常に短期間で入れ替えられてきた。彼は、最初から存在しないも同然の王子なのだ。

 王妃の合図で、表情を失った侍女たちが数人なだれ込んできた。
 ルミエルはなす術もなく、彼女たちに腕を引かれ、浴室へと連行される。

 大きな木桶にはたっぷりの湯が張られ、白い花びらが水面に揺れていた。むせ返るような花の香りが立ち込める。侍女たちの手が、彼の髪を、背を、指の先まで執拗に磨き上げていく。

 湯の熱が冷え切った肌に染み込んでいくのに、ルミエルの意識はどこか遠い場所を漂っていた。天井へと昇っていく白煙、桶の縁を伝って落ちる泡。規則的な水音だけが、耳の奥で虚しく反響する。

(……外に、出られるんだ)

 三ヶ月後の死が決まっていても、鉄格子のない空の下へ出られるという事実が、胸の片隅で淡い期待として拍動する。

 湯から上がると、豪華な化粧台の前に据えられた。

 鏡の中で、乱れていた髪が丁寧に梳かれていく。毛先が切り揃えられ、前髪が額を覆う。侍女の指が動くたび、鏡の中の「彼」は、彼ではない何者かへと変貌を遂げていく。

(……兄さんに……そっくりだ)
 完成したその姿に、ルミエルは息を呑んだ。

 そこには、いつも窓に映っていた影のような少年の姿はなかった。

「こうして磨けば、ルークと双子のようにそっくりね」
 王妃がルミエルの肩越しに鏡を覗き込み、甲高い笑い声を上げた。

「この日のために、神様がお前たちの顔を似せたのね。死ぬ前に国外に出られるなんて、お前には分不相応な幸せだわ。塔の中で死体の片付けをせずに済んで、清々するわ」

 笑い声が石壁に反響し、呪詛のように降り注ぐ。侍女たちは一言も発さず、一度もルミエルと目を合わせることはなかった。

 重厚な旅装束に袖を通され、帯をきつく締められ、上質な靴を履かされる。鏡の中に立つルミエルは、もはやルークと遜色ない「高貴な生贄」となっていた。

 準備が整い、塔を出ると、一台の馬車が静かに口を開けて待っていた。
 見送る者は、誰もいない。

 馬車が動き出した瞬間、肌をなでる空気が劇的に変わった。

 格子の隙間から切り取られた断片としてしか知らなかった世界が、今、目の前に広がっている。

 燃えるような木々の緑が視界に飛び込み、湿った土と草の匂いが鼻腔を突く。馬の蹄が石畳を叩く規則的な音が、自由への秒読みのように聞こえた。

 忌まわしい城の気配が、一刻一刻と遠ざかっていく。
 ルミエルは膝の上で、きつく拳を握りしめた。

(僕は、この国を出ていく――)

 グライエン王国の不吉な噂が、頭を巡る。オメガを食い殺すと恐れられる、血に飢えた覇王。

 一生をこの暗い塔で終えるのだと諦めていた。けれど、王妃の突然の命令から、わずか二時間でルミエルの未来を塗り替えた。

 今は『ルーク』としてこの馬車に揺られている。兄の身代わりとして、獣の顎へと向かう旅路。

(……僕が食われることで、この国のみんなが救われるのなら)

 暗い塔の中で無意味に三ヶ月を浪費するより、ずっと「命」の使い道として正しい気がした。誰かの役に立てるのなら――。

 国を滅ぼす呪われた子として朽ちていくより、ずっといい。

 馬車が大きく揺れるたび、見たこともない景色が窓の外を流れていく。差し込む木漏れ日が床を斑に照らし、光と影が揺れては消えた。

 窓から仰ぐ空は、あの格子の向こうにあった空よりも、残酷なほどに広かった。遮るもののない青さが、網膜に染み渡る。

 生まれてからずっと、あの鉄格子の向こうにこの青を探してきた。今はもう、彼を遮るものは何もない。ルミエルは声もなく、ただその鮮やかな青を、永遠に刻みつけるように見つめ続けた。
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