真面目なアルファは一途に恋をする2〜同じ朝を重ねて、番になる〜

ひなた翠

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第四章:フェロモンよりも確かなもの

孤独な熱、支配の楔

 朝の支度の最中、洗面所で無機質に歯を磨いていた時だ。口の中に広がるミントの清涼感とは裏腹に、下腹部の奥底で、ドロリとした熱が疼きを上げた。

(――嘘。ヒート……?)

 あまりの衝撃に、手にしていた歯ブラシが止まる。膝から力が抜け、辛うじて洗面台の縁を掴んで身体を支えた。

 カレンダーを頭の中でめくる。周期的にはあと一週間は余裕があるはずだった。けれど、僕の身体は残酷なほどに暦を無視し、勝手に熱を孕み始めていた。

 額にじっとりと嫌な汗が滲み、頬は瞬く間に火照っていく。

 蒼介は、もう大学の講義へ向かうために家を出ていた。
 震える手でスマホを掴み、彼にメッセージを飛ばす。

『ヒートがきた。早く、帰ってきてほしい』

 送信済みの表示を確認するなり、棚の奥から抑制剤を引っ張り出し、一錠を水で流し込んだ。それから這うようにして寝室へ戻り、重い布団を被る。

 蒼介なら、これを見ればすぐに駆けつけてくれる。前回の時だって、彼は重要な講義を放り出して戻ってきてくれたんだ。

 ――もう少しだけ、もう少しだけ耐えれば、蒼介の腕の中にいられる。

 その希望だけを縋り代にして、僕は身体を丸め、内側からせり上がってくる疼きを必死に抑え込んでいた。
 けれど、時間は残酷に過ぎていく。

 一時間が経過し、二時間が過ぎても、スマホの画面に「既読」の二文字は現れない。

「まだ、講義中なんだ。終わればすぐに気づいてくれる」

 そう自分に言い聞かせ、スマホを握りしめたまま時間を数え続けた。抑制剤の効果で意識の混濁こそ抑えられているものの、下腹部の疼きは執拗な波のように寄せては返し、僕を翻弄する。身体の芯がじわじわと溶解していくような熱気に、シーツのさらりとした感触さえ、今は過敏になった肌を刺す刺激でしかなかった。

 昼を過ぎても、夕方が近づいても、既読はつかない。
 ついに抑制剤の防波堤が崩れ始めたのは、午後三時を回った頃だった。

 薬ではもう、身体の奥から押し寄せる熱を堰き止めることはできなかった。下腹部がドクドクと脈打つように、それこそ心臓があるかのように疼き、太腿の内側は不快な汗と蜜で濡れそぼっている。荒くなる呼吸が部屋の静寂を乱し、シーツに触れるだけで肌が狂ったように反応して、甘い痺れが全身を駆け抜けた。

 ふと視線を上げると、隣の枕の上に、丸まった布の塊があった。蒼介が洗濯に出し忘れていったパジャマだ。
 そこには、彼の体温の残り香が、微かに、けれど確かな存在感を持って染みついていた。

 気づけば、僕は抗う術もなくそのパジャマを手に取っていた。顔を押し当てると、洗剤の清潔な匂いと混じり合った、蒼介特有の甘く重い匂いが鼻腔の奥まで侵食してくる。その香りを吸い込むだけで、身体の奥が悲鳴を上げるほどに疼いた。

 片手で彼のシャツを抱きしめ、もう片方の手を、熱を帯びた下腹部へと滑らせる。

「……っ、蒼介……、あ……っ」

 彼の匂いを深く肺に満たすたびに、身体が勝手に跳ねる。指先が、既にひどく濡れた場所に触れた瞬間、喉の奥から汚い声が漏れた。

 早く帰ってきて。僕を見て。その一心で彼の名前を何度も、何度も酸素を求めるように呟きながら、自分の指でやり場のない熱を紛らわせる。蒼介のパジャマに顔を埋め、僕はたった独りで、孤独な絶頂に達した。

 一瞬だけ熱が引き、今のうちにと追加の抑制剤を飲むため、ベッドからよろよろと身体を起こした。足元がおぼつかず、壁に手をつかなければ一歩も歩けない。キッチンまで辿り着き、震える指先で薬を一錠押し出し、水と一緒に無理やり喉へ流し込んだ。冷たい水が喉を通る感覚だけが、火照りきった僕に残された唯一の正気だった。

 再びベッドに潜り込み、布団を深く被る。追加の薬が効き始めるまで、僕はただ、夜の闇が降りてくるのを絶望とともに待つしかなかった。

 玄関の重い扉が開く音がしたのは、夜の十一時を過ぎた頃だった。
 靴を脱ぐ音。コートをかける音。それから、心臓を鷲掴みにされるような一瞬の沈黙。

「――え?」

 廊下に響いたのは、蒼介の驚愕に満ちた声だった。

 玄関で立ち止まっている気配が伝わってくる。部屋中に充満し、煮詰まったオメガのフェロモンが、帰宅した瞬間の彼の鼻を無遠慮に突いたのだろう。

 バタバタと騒がしい足音が近づき、寝室のドアが勢いよく開け放たれた。

「歩、ヒートになったのか!?」

 息を切らして立っている蒼介は、心底心配そうな、そして本当に今の今まで何も知らなかったという顔をしていた。眉を悲しげに寄せ、僕の顔を覗き込んでくる。

 その顔を見た瞬間、僕の中で、今日一日蓄積された黒い感情が「イラッ」とした火花となって爆発した。

「……午前中に、蒼介に送ったよ」
 低く、地を這うような声で僕は告げた。

「送った? 何を」
「メッセージ。朝、送ったの。ヒートがきたから帰ってきてって。ずっと、待ってたんだよ」

 蒼介は目を丸くし、慌ててポケットからスマホを取り出した。画面を何度もスクロールする彼の眉間の皺が、どんどん深くなっていく。

「……届いてないけど」

 蒼介がスマホの画面をこちらに向けた。僕とのトーク画面が開いていて、最後のやり取りは昨夜の「おやすみ」で止まっている。今朝、僕が魂を削る思いで送ったメッセージは、どこにも存在していなかった。

「僕はちゃんと送ったよ」

 起き上がって、自分のスマホを見せた。八時十二分。『ヒートきた。帰ってきてほしい』という送信済みの表示が、そこにははっきりと残っている。

 蒼介は二つのスマホを並べ、絶句した。僕の画面にはあるメッセージが、彼の画面からは綺麗に消え去っている。同じ世界にいるはずなのに、片方にだけ存在して、もう片方からは抹消されている。

「――なんで?」

 声が震えた。僕は今日一日、あの「送信済み」だけを信じて耐えていたのに、彼には何も届いていなかった。
 蒼介の表情が、何かを思い至ったように苦渋に染まった。

「……もしかして、グループワークの時にスマホを使ったから、その時か。資料を共有するのに俺のスマホを使って、その時、俺以外の奴が触ってたから……」

 血の気が引くのがわかった。心臓の鼓動が早くなる。

「……グループワークのメンバーに、氷室さんはいるの?」
「メンバーではある。ただ、誰がそんなことをしたかはわからない」

 胸の奥で、何かがパチンと弾けた。

「僕、言ったよね!?」
 気づけば、声を荒らげて叫んでいた。

「あの人は気をつけてって。蒼介が好きで、狙ってるんだって、何度も言ったよね!?」
「歩……」

「なのに、蒼介はあの人とグループワークをして、スマホを自由に触らせるような距離にいたの? 僕が何度も何度も、泣きながら言ったのに、全然聞いてくれなかったんだ!」

 蒼介がベッドの端に腰を下ろし、僕を宥めるように手を伸ばしてきた。

「ごめん」

 顔が近づき、彼は唇を重ねようとする。言葉で謝るよりも先に、身体の繋がりで解決しようとするその仕草が、今は無性に許せなかった。

 僕は思い切り顔を背けた。彼の唇が、虚しく頬の横を掠めて空を切る。

(僕は今、怒ってるんだ! 身体で誤魔化されたくない!)

「キスしたくない! 僕は怒ってるんだ!」

 どういう手口でメッセージが消されたかはわからない。送った内容を目にしていなかった蒼介を責めるのは筋違いだと、頭の片隅では分かっている。けれど、独りで熱に浮かされ、彼のパジャマに顔を埋めて自分を慰めるしかなかった屈辱と苦しさが、一気に溢れ出して止められなかった。

 蒼介の表情にも、隠しきれない苛立ちが滲み始めるのがわかる。

「わざとじゃないって言ってるだろう。メッセージが消されていたなんて、俺だって知らなかったんだ」
「僕が、どれだけっ……!」

 声が途切れ、涙が溢れた。堪えていたのに、決壊したダムのように止まらなかった。

「あの人に、別れろって言われたんだよ!」

 叫んでいた。もう、心に閉じ込めていた毒をすべてぶちまけるしかなかった。

「冬休み前に、蒼介がいない時に呼び出されて。蒼介と別れてって、面と向かって言われたんだ。蒼介の重荷になりたくなくて、言えなかったけど……っ」

 蒼介の顔が、凍りついたように動かなくなった。ダークグレーの瞳が大きく見開かれ、時間が止まったかのような錯覚に陥る。

「……なぜ、言わなかった」
 低く、重い声だった。怒りの温度を含んだ声が、部屋の空気を震わせる。

「言ったら蒼介の大学での人間関係がこじれると思ったからだよ! あの人は蒼介の大事な同級生だから……」
「一人で、抱え込んでいたのか」

「あの人に言われたんだ……。僕が蒼介の質を落としてるって。オメガのフェロモンで、蒼介の判断力を鈍らせてるだけじゃないかって……!」

 千紘の冷酷な言葉を声に出した瞬間、胸の奥に閉じ込めていたプライドが全部崩れ去った。僕は子供のように声を上げて泣き続けた。

 長い沈黙が流れた。
 蒼介の表情が、怒りから別の歪んだ感情へと変わっていく。

「……メッセージの件は、俺が悪かった。本当にすまない」
 低い声だった。

「けれど、俺だって歩に言いたいことがある」
「何……?」
「歩はもう、俺より壱星の方がいいんじゃないのか」

 心臓が嫌な音を立てて跳ねた。

「は? 壱星とはただの友達だって、何度も言ったよね?」

「俺には隠し事をして作り笑いばかりなのに、あいつにはあんな無防備な笑顔を見せて。……SNSを見たんだ。たまたま。あいつが投稿した写真に、歩が映っていた」

 蒼介の声が震えていた。それは怒りではなく、もっと深い場所にある、独占欲という名の痛みだった。

「あんなに嬉しそうに笑って。少し前まで俺に向けていた笑顔だ。今の俺には、あいつに向けたような笑顔をくれないじゃないか。今の歩は、あのクソ教師に向けていたような、怯えを隠すための作り笑いと同じに見える。それならもう、俺よりもあいつの方が……」

 乾いた音が、静まり返った寝室に響き渡った。

 考えるよりも先に、僕の右手が蒼介の頬を打っていた。彼の顔が横を向き、頬に僕の手の形が赤く浮かび上がる。

「僕は、蒼介じゃなきゃ嫌だって言ってるだろう!!」

 喉が張り裂けるほどに怒鳴った。涙を流しながら、僕は蒼介の首に腕を回し、力任せに引き寄せた。

 そのまま、激しく唇を押し付ける。歯がぶつかるのも構わずに舌を差し入れ、彼の口の中を蹂躙した。蒼介が一瞬身体を強張らせ、けれどすぐに応えるように僕の後頭部を掴んで、さらに深いキスを返してきた。

 舌が絡み合い、互いの呼吸が奪い合われる。酸素が足りなくて頭がくらくらしているのに、唇を離したくなかった。離したら、もう一度彼の口からあんな絶望的な言葉が出てくるかもしれない。

 バランスを崩し、僕たちは重なり合うようにしてベッドに倒れ込んだ。シーツがくしゃくしゃに乱れ、蒼介の重みが全身にのしかかる。至近距離から浴びせられる彼の強烈なフェロモンに、ヒートの熱が一気に沸点を超えた。
 唇が離れ、荒い呼吸の間で互いの瞳を見つめ合う。

「壱星は、ただの友達だよ……っ」

 かすれた声で、僕は彼の瞳を真っ直ぐに射抜いた。

「僕が作り笑いになっていたのは、不安だったからなんだ。僕には蒼介しかいないのに、周りからは相応しくないって言われて……。いつか蒼介が、僕じゃダメだって言って、誰か別の、相応しい人のところへ行っちゃうんじゃないかって……怖くてたまらなかったんだ」

 涙がぽたぽたと、彼のシャツの上に落ちていく。

「……誰が、そんなことを」
 蒼介の声が、低く、硬く響く。

「俺だって、歩だけだ。お前以外に俺の隣に立つ人間なんて、いない」

 蒼介の手が、僕の腰に伸びた。ズボンと下着を容赦なく掴み、一気に引き下ろす。布地が床に落ちる音が、静寂の中で妙に鮮明に聞こえた。

 太腿を強引に掴まれ、足を大きく開かされる。冷たい空気が秘所に触れたのも束の間、蒼介の熱い楔が、何の躊躇もなく奥深くまで突き入れられた。

「あああぁぁっ……! んんっ……!」

 甘い叫びが喉の奥から弾け出て、背中が弓なりに反る。ヒートで火照りきった身体の奥に、蒼介の熱が侵入してくる衝撃。意識が真っ白に飛び、たった一突きで僕は果てのない絶頂へと叩き落とされた。身体が激しく痙攣し、蒼介の肩にしがみつく指先に力がこもる。

「誰が言ったんだ。答えろ」

 蒼介は僕の中に繋がったまま、逃げ場のない瞳で僕を見下ろした。頬に僕の手の跡を赤く残したまま、その瞳には狂おしいほどの情念が宿っている。

「千紘さん……。その、彼女の友人にも、言われたんだ……」

 息も絶え絶えに答えると、蒼介の表情が一瞬だけ凍りつき、すぐに溶けた。それは怒りではなく、深い覚悟を決めた男の顔だった。

「……俺は、歩がいい。あんな奴らの戯言なんて関係ない。氷室はただのグループワークのメンバーだ。俺の心の中に、あいつの居場所なんて一寸だってない」

 蒼介の腰が、再び動き始める。いつもの慈しむような丁寧さなどどこにもない、暴力的とも言えるほど激しく、深い動きだった。身体の芯まで叩きつけられるような衝撃に、脳が揺れる。

「待って、蒼介……っ、ダメ……ゴムしてない……っ」

 必死に首を振り、彼の手首を掴む。快楽に溺れそうになる意識を引き戻し、声を絞り出した。

「抜いて……。こんな、喧嘩しながら、蒼介に抱かれたくない……っ」

「……いいんだ。俺は歩がいいんだ。歩じゃなきゃダメなんだって、この身体に、細胞の一つ一つにまで、俺を刻み込んでやる」

 蒼介の声が低くて熱くて、抵抗する力が霧のように霧散していく。

「わかった、わかったから……! んんっ、あっ……駄目だって言ってるのに……っ」

 言いながら、身体は勝手に彼を求めて痙攣していた。拒否の言葉とは裏腹に、蜜は溢れ、奥は彼の熱を求めて吸い付く。蒼介の腰が深く突き上げるたびに、思考がばらばらに砕け散り、快楽の濁流に呑み込まれていった。

 蒼介が繋がりを解き、僕のお腹に向けて熱いものを放った。白い液体が肌の上に散り、蒼介の分と僕の分が、腹の上で無惨に、けれど官能的に混じり合う。

「歩……歩……」

 荒い呼吸の合間に、彼は祈るように何度も僕の名前を呼んだ。額に汗を滲ませ、ダークグレーの瞳には、涙でぐちゃぐちゃになった僕の姿だけが映っている。

 あんなに辛かったヒートの疼きが、彼のフェロモンで満たされることで嘘のように静まっていく。抑制剤では届かなかった心の渇きが、蒼介の存在だけで癒されていくのを感じた。

「歩、もう一回だ。全部、俺で塗り潰してやる」

 身体を無理やりうつ伏せにされ、腰を高く持ち上げられる。再び後ろから繋がれる感覚に、僕はシーツに顔を押し付けて甘い吐息を漏らした。

「また……ゴムしてなっ……いっ! ああぁっ、蒼介……!」

 抗議は快楽の波に塗り潰され、もはや意味をなさなかった。

 何度も、何度も。蒼介は憑かれたように僕を求めた。ヒートの身体が、彼の熱に敏感に反応し、そのすべてを受け入れてしまう。

 怒っていたはずなのに、彼の温もりに触れると、心に刺さっていた棘が溶けていく。喧嘩の続きも、千紘の嫌がらせも、壱星への嫉妬も。すべてが蒼介という名の猛烈な熱の中で輪郭を失っていった。

 何回目かの絶頂が訪れ、身体が弓なりに引き絞られた瞬間、僕の意識は白濁した。蒼介の名前を呼ぼうとした唇が、そのまま静かに動きを止め、僕は彼の逞しい腕の中で、幸福な暗闇へと落ちていった。
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