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第一章:言えない想い
遥の気持ち
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朝から吐き気が止まらない。デスクに座っているだけで胃がムカムカした。昨夜も吐き気で何度も目が覚めて、まともに眠れなかった身体が重くて、椅子に座っているのも辛い。
(つわりってこんなに辛いのか)
妊娠している人たちの辛さが、ひしひしと伝わってくる。今まで「辛い」とは聞いていたが、想像の範囲でしかわからなくて、実際に体験にすると想像以上の過酷さだ。
会議資料を作成しながら、何度も深呼吸をした。吐き気が波のように押し寄せてきて、喉の奥が熱くなった。
(これは無理っ!)
我慢しきれずに、僕は椅子から立ち上がってトイレへ駆け込んだ。胃の中身を吐き出して、冷や汗が額に滲む。
「きつい……」
声が震えて、涙が溢れそうになった。こんな状態で仕事を続けられるのだろうかと不安になって、お腹に手を当てた。
まだ何も感じられない平らなお腹に、小さな命が宿っている。つわりは海斗との子が、今ここで育っている証拠だ。
しばらくすると少しずつ吐き気が引いていった。口の中が苦くて、水で何度も口をすすいだ。鏡に映る自分の顔を見ると、青白くて目の下にクマができていた。
(ひどい顔だ)
こんな顔を海斗に見られたら、すごい勢いで出社するのを止められそうだ。
デスクに戻ってカバンから吐き気止めを取り出して、ペットボトルの水で飲み込んだ。薬が喉を通る感覚があって、少し楽になるような気がした。パソコンの画面を見つめながら、キーボードを叩いた。
「結城さん、大丈夫? 顔色悪いけど」
佐藤主任の声が聞こえて、顔を上げた。心配そうな表情で僕を見下ろしている。ただその距離がやけに近いと感じた。
「大丈夫です。ちょっと疲れているだけで」
笑顔を作って答えたが、佐藤主任は納得していない様子で僕の肩に手を置いた。温かい手の感触が肩に伝わって、思わず身体が強張った。
「無理しないで。医務室に行った方がいいんじゃない?」
佐藤主任の顔がさらに近づいてきて、僕の顔を覗き込んできた。まるでキスしそうな距離感に、僕は身を引く。
(ちょっと近いんですけど)
眼鏡の奥の目が僕を心配そうに見つめていて、吐息が頬にかかった。距離が近すぎて、僕は顔を背けると佐藤主任の手を払った。
「大丈夫ですから」
立ち上がろうとして、佐藤主任が僕の腕を掴んだ。
「医務室に行くのを付き合うよ。一人で行くのは心配だから」
優しい声で言われて、佐藤主任の手が僕の腕を支えようとした。僕は佐藤主任の胸を手で押し返して、距離を取った。
「薬を飲んだので大丈夫です」
冷たく言い放って、佐藤主任から離れようとする。
「顔が真っ青だよ。本当に大丈夫?」
佐藤主任が僕の頬に手を伸ばしてきて、冷たい指先が肌に触れた。思わず顔を背けて、佐藤主任の手を払った。
「仕事があるので」
佐藤主任に背を向けて椅子に座り、パソコンに向かって画面を見つめた。キーボードを叩く音を立てて、仕事を再開した。佐藤主任がしばらく僕の後ろに立っていたが、やがて諦めたように自分の席に戻っていった。
(佐藤主任は僕に恋人がいるとわかっているのに)
最近、やけに佐藤主任からの接触が多くなっている。
夏の飲み会で家に送ってもらったときに、海斗と会っている。週明けに出勤したときも、「恋人?」と聞かれて、付き合っていると答えたのに。
(どうしたのだろうか)
主任がデスクに戻ったのを確認するとホッと息をついて、肩の力が抜けた。
佐藤主任は入社した時から僕に親切にしてくれて、仕事を教えてくれたり食事に誘ってくれたりした。最初は先輩として慕っていたが、最近は距離感が近過ぎて困っている。
残業を終えて会社を出た時には、もう夜の九時を過ぎていた。冬の夜は冷たくて、コートを着ていても寒さが身に染みた。
アパートに着いて鍵を開けて部屋に入ると、スーツのままベッドに倒れ込んだ。柔らかいベッドの感触が背中に伝わって、身体の力が抜けた。激務な上につわりの症状で身体は限界で、目を閉じると意識が遠のいていく。
寝落ちしそうになった時、スマホが鳴って意識が覚醒する。ベッドの上で手探りでスマホを探して、画面を見ると海斗からの着信だった。
「もしもし、海ちゃん?」
「はーちゃん、元気ない? 声が変だけど」
海斗の心配そうな声が耳に届いて、胸が痛くなった。海斗に心配をかけたくないのに、声だけでバレてしまうなんて。
「残業だったから、ちょっと疲れてるだけ。大丈夫だよ」
笑顔で話しているつもりで声を明るくしたが、海斗は納得していない様子だ。
「無理してない? ちゃんと休んでる?」
「うん、ちゃんと休んでるよ。それより、どうしたの?」
話題を変えようとして尋ねると、海斗が少し間を置いて答えた。
「あのさ、金曜日に友達と放課後に出かける予定が入っちゃって。だから土曜日の朝にそっち行くね」
海斗の声が少し申し訳なさそうで、僕は小さく笑った。
「いいよ、友達と楽しんできて」
「ごめんね。でも土曜日の朝には絶対行くから」
土曜日の朝と聞いて、はっとした。土曜日の午前中は、カウンセリングの予約があった。
「海ちゃん、僕も土曜日の午前中に仕事が入っちゃったから、午後に来てほしいな」
嘘をついて、罪悪感が胸を刺した。海斗に嘘をつくのは辛いが、カウンセリングは受けたかった。
「仕事? 土曜日なのに?」
「うん、急な仕事で。午後なら大丈夫だから」
「わかった。じゃあ、午後一時くらいで平気?」
「大丈夫。待ってるね」
「はーちゃん、本当に大丈夫? 声が元気ないけど」
海斗がもう一度心配そうに聞いてきて、涙が溢れそうになった。海斗の優しさが胸に染みる。
(海ちゃん、優しい)
「大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけだから。土曜日に会えるの……楽しみにしてる」
「俺も。はーちゃんに早く会いたい」
(僕も、海ちゃんに会いたい)
「じゃあ、おやすみ。また明日ね」
「おやすみ、はーちゃん。愛してる」
電話が切れて、部屋が静かになった。
スマホを握りしめたまま、お腹に手を当てた。シャツの上から触れる自分のお腹に、赤ちゃんがいる。
海斗の負担になるのが怖い。海斗はまだ高校生で、これから大学生活が始まる。その時に父親になるなんて、重すぎる。
「――どうしよう」
独り言が口から漏れて、涙が頬を伝った。妊娠は嬉しいのに、不安が大きすぎて押し潰されそうだった。
突然、強い吐き気が襲ってきて、ベッドから飛び起きた。トイレへ駆け込んで、便器の前で膝をついた。胃の中には何もないのに、吐き気だけが続いて、涙と一緒に苦い液体が口から出た。身体が震えて、冷や汗が止まらない。
こんな状態で、本当に母親になれるのだろうか。海斗を幸せにできるのだろうか。不安ばかりが頭を巡って、答えが見つからなかった――。
(つわりってこんなに辛いのか)
妊娠している人たちの辛さが、ひしひしと伝わってくる。今まで「辛い」とは聞いていたが、想像の範囲でしかわからなくて、実際に体験にすると想像以上の過酷さだ。
会議資料を作成しながら、何度も深呼吸をした。吐き気が波のように押し寄せてきて、喉の奥が熱くなった。
(これは無理っ!)
我慢しきれずに、僕は椅子から立ち上がってトイレへ駆け込んだ。胃の中身を吐き出して、冷や汗が額に滲む。
「きつい……」
声が震えて、涙が溢れそうになった。こんな状態で仕事を続けられるのだろうかと不安になって、お腹に手を当てた。
まだ何も感じられない平らなお腹に、小さな命が宿っている。つわりは海斗との子が、今ここで育っている証拠だ。
しばらくすると少しずつ吐き気が引いていった。口の中が苦くて、水で何度も口をすすいだ。鏡に映る自分の顔を見ると、青白くて目の下にクマができていた。
(ひどい顔だ)
こんな顔を海斗に見られたら、すごい勢いで出社するのを止められそうだ。
デスクに戻ってカバンから吐き気止めを取り出して、ペットボトルの水で飲み込んだ。薬が喉を通る感覚があって、少し楽になるような気がした。パソコンの画面を見つめながら、キーボードを叩いた。
「結城さん、大丈夫? 顔色悪いけど」
佐藤主任の声が聞こえて、顔を上げた。心配そうな表情で僕を見下ろしている。ただその距離がやけに近いと感じた。
「大丈夫です。ちょっと疲れているだけで」
笑顔を作って答えたが、佐藤主任は納得していない様子で僕の肩に手を置いた。温かい手の感触が肩に伝わって、思わず身体が強張った。
「無理しないで。医務室に行った方がいいんじゃない?」
佐藤主任の顔がさらに近づいてきて、僕の顔を覗き込んできた。まるでキスしそうな距離感に、僕は身を引く。
(ちょっと近いんですけど)
眼鏡の奥の目が僕を心配そうに見つめていて、吐息が頬にかかった。距離が近すぎて、僕は顔を背けると佐藤主任の手を払った。
「大丈夫ですから」
立ち上がろうとして、佐藤主任が僕の腕を掴んだ。
「医務室に行くのを付き合うよ。一人で行くのは心配だから」
優しい声で言われて、佐藤主任の手が僕の腕を支えようとした。僕は佐藤主任の胸を手で押し返して、距離を取った。
「薬を飲んだので大丈夫です」
冷たく言い放って、佐藤主任から離れようとする。
「顔が真っ青だよ。本当に大丈夫?」
佐藤主任が僕の頬に手を伸ばしてきて、冷たい指先が肌に触れた。思わず顔を背けて、佐藤主任の手を払った。
「仕事があるので」
佐藤主任に背を向けて椅子に座り、パソコンに向かって画面を見つめた。キーボードを叩く音を立てて、仕事を再開した。佐藤主任がしばらく僕の後ろに立っていたが、やがて諦めたように自分の席に戻っていった。
(佐藤主任は僕に恋人がいるとわかっているのに)
最近、やけに佐藤主任からの接触が多くなっている。
夏の飲み会で家に送ってもらったときに、海斗と会っている。週明けに出勤したときも、「恋人?」と聞かれて、付き合っていると答えたのに。
(どうしたのだろうか)
主任がデスクに戻ったのを確認するとホッと息をついて、肩の力が抜けた。
佐藤主任は入社した時から僕に親切にしてくれて、仕事を教えてくれたり食事に誘ってくれたりした。最初は先輩として慕っていたが、最近は距離感が近過ぎて困っている。
残業を終えて会社を出た時には、もう夜の九時を過ぎていた。冬の夜は冷たくて、コートを着ていても寒さが身に染みた。
アパートに着いて鍵を開けて部屋に入ると、スーツのままベッドに倒れ込んだ。柔らかいベッドの感触が背中に伝わって、身体の力が抜けた。激務な上につわりの症状で身体は限界で、目を閉じると意識が遠のいていく。
寝落ちしそうになった時、スマホが鳴って意識が覚醒する。ベッドの上で手探りでスマホを探して、画面を見ると海斗からの着信だった。
「もしもし、海ちゃん?」
「はーちゃん、元気ない? 声が変だけど」
海斗の心配そうな声が耳に届いて、胸が痛くなった。海斗に心配をかけたくないのに、声だけでバレてしまうなんて。
「残業だったから、ちょっと疲れてるだけ。大丈夫だよ」
笑顔で話しているつもりで声を明るくしたが、海斗は納得していない様子だ。
「無理してない? ちゃんと休んでる?」
「うん、ちゃんと休んでるよ。それより、どうしたの?」
話題を変えようとして尋ねると、海斗が少し間を置いて答えた。
「あのさ、金曜日に友達と放課後に出かける予定が入っちゃって。だから土曜日の朝にそっち行くね」
海斗の声が少し申し訳なさそうで、僕は小さく笑った。
「いいよ、友達と楽しんできて」
「ごめんね。でも土曜日の朝には絶対行くから」
土曜日の朝と聞いて、はっとした。土曜日の午前中は、カウンセリングの予約があった。
「海ちゃん、僕も土曜日の午前中に仕事が入っちゃったから、午後に来てほしいな」
嘘をついて、罪悪感が胸を刺した。海斗に嘘をつくのは辛いが、カウンセリングは受けたかった。
「仕事? 土曜日なのに?」
「うん、急な仕事で。午後なら大丈夫だから」
「わかった。じゃあ、午後一時くらいで平気?」
「大丈夫。待ってるね」
「はーちゃん、本当に大丈夫? 声が元気ないけど」
海斗がもう一度心配そうに聞いてきて、涙が溢れそうになった。海斗の優しさが胸に染みる。
(海ちゃん、優しい)
「大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけだから。土曜日に会えるの……楽しみにしてる」
「俺も。はーちゃんに早く会いたい」
(僕も、海ちゃんに会いたい)
「じゃあ、おやすみ。また明日ね」
「おやすみ、はーちゃん。愛してる」
電話が切れて、部屋が静かになった。
スマホを握りしめたまま、お腹に手を当てた。シャツの上から触れる自分のお腹に、赤ちゃんがいる。
海斗の負担になるのが怖い。海斗はまだ高校生で、これから大学生活が始まる。その時に父親になるなんて、重すぎる。
「――どうしよう」
独り言が口から漏れて、涙が頬を伝った。妊娠は嬉しいのに、不安が大きすぎて押し潰されそうだった。
突然、強い吐き気が襲ってきて、ベッドから飛び起きた。トイレへ駆け込んで、便器の前で膝をついた。胃の中には何もないのに、吐き気だけが続いて、涙と一緒に苦い液体が口から出た。身体が震えて、冷や汗が止まらない。
こんな状態で、本当に母親になれるのだろうか。海斗を幸せにできるのだろうか。不安ばかりが頭を巡って、答えが見つからなかった――。
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