禁じられた運命の香り〜白銀の研究者と翡翠の王子〜

ひなた翠

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第一章:芽生え

ヒートと冷淡なラインハルト

 王立オメガ研究施設内にあるルナの居室へ向かう廊下を歩いている。石造りの壁が続き、窓から差し込む陽光が床を照らしていた。使用人たちが慌ただしく動いている。皆、顔を覆い、何かから逃げるように足早に歩いていた。

「アリエル様、ルナ様がヒートに入られました」
 使用人の一人が僕に告げた。顔色が悪く、額に汗が滲んでいる。

「わかりました。すぐに行きます」

 僕は足を速めた。ルナの居室の扉が開いており、中から甘い匂いが漏れ出していた。濃密な、空気が重くなるような匂い。使用人たちが扉の前で立ち止まり、中に入ろうとしない。

「匂いがきつすぎます」
「今回は早くないか? 前回のヒートから、まだ二ヶ月しか経っていないのに」

 使用人たちが囁き合っている。僕は扉に近づき、中を覗いた。

 ルナがベッドで身体を丸めていた。髪が汗で額に張り付き、顔が紅潮している。全身がびっしょりと汗で濡れ、薄い寝衣が肌に張り付いていた。荒い呼吸を繰り返し、苦しそうに身悶えている。

「アリエル様……苦しい……ラインハルト先生を呼んでいただけますか」
 ルナが虚ろな目で僕を見た。理性が薄れている目。焦点が合っていない。

「すぐに呼びます。少し待っていてください」
 僕は部屋に入る前に、近くにいた衛兵に先生を呼ぶようにお願いをする。

 甘い匂いが鼻をつく。確かに匂いは強いと思うけど、僕には何も感じない。同じオメガでも苦しそうに部屋を出ていく人がいるのを見ると、僕が特殊なのだと感じた。

(僕はまだヒートがきてないから)

 ルナの匂いに、鈍感なのかもしれない。
 僕はルナに近づき、額に手を当てた。熱い。ヒート特有の高熱が、手のひらを焼くように熱かった。

 母上もヒート前になると身体が熱くなっていた。

(つらそう……)

 ベータからオメガになった特異体質の人は、普通のオメガよりもヒートの反応が強くでると聞いている。

「大丈夫ですか、ルナ」

 ルナは答える余裕もない様子だった。荒い呼吸を繰り返し、身体を震わせている。虚ろな目が僕を見て、また閉じられた。

「ラインハルト先生……、ほしい……」
 ルナの呟きに、ドキッと心臓が跳ねた。

(先生がほしいってどういうこと?)

 ヒートになると、先生が抱くのだろうか?

 先生のヒートが数年来ていないっていうのは、定期的にルナのヒートに合わせて抱いているから、とか――色々な想像が頭の中を駆け巡った。

 特異体質の研究を続けているアルファの先生なら、普通のオメガとどう違うのか……抱いてみたいという興味が湧くかもしれない。

胸が締め付けられる。嫌な想像が脳内を占拠し、考えたくない光景が広がっていく。

「兄上、大丈夫か。退出したほうがいい」

 扉の外からエドガーの声が聞こえた。振り返ると、弟が扉の前に立っていた。顔が紅潮し、額に汗が滲んでいる。息が荒い。

 弟もアルファだから、匂いに反応しているんだ。

「大丈夫。エドガーは離れてて。僕は大丈夫だから」
 エドガーは眉を寄せ、心配そうな顔をしている。その表情は、父上にそっくりだ。

「でも……」

 父の命令で、エドガーは僕のそばにいなければならない。監視役として、常に僕と一緒にいるように言われている。

「僕はオメガだから平気。エドガーはアルファで辛いでしょう? 離れてて」
「廊下にいるから……何かあったら叫んで」

 エドガーは渋々頷き、扉から離れた。廊下の奥へと下がっていく足音が聞こえた。
 僕はルナを見つめる。いつか僕もこうなるのだろうか。

 廊下を歩いてくる足音が聞こえた。規則正しく、迷いのない足音。扉が開き、白衣姿のラインハルト先生が入ってきた。

「失礼する」

 短く告げて、先生は部屋の扉を開け放つ。匂いが充満している部屋なのに、平然としていた。顔色ひとつ変えない。表情は無表情のまま、冷たく整った顔だった。

 エドガーが廊下から「先生、兄上が中に」と報告する声が聞こえた。

「わかった」
 先生は短く答え、ベッドまで早足で近づくと医療鞄を床に置いた。

 もう何年も彼女のことを診てきているから、慣れているのだろう。もしかしたら、抱いているのかもしれないし――と不安が胸を締め付けた。

 使用人たちは皆、退避してエドガーも辛そうに扉の外にいる。なのに先生は、何も感じていないように見える。アルファなのに、彼女の匂いがまるでわからないみたいに感じた。

 先生は鞄を開いて聴診器、体温計、注射器が取り出した。金属の音が静かに響く。

「ルナ、診察します」

 事務的な声だった。僕への対応よりもさらに冷たい。感情が一切ない声。機械的で、冷ややかな響き。
 ルナが手を伸ばしてきた。白く細い手が、先生の白衣を掴んだ。

「お願い……抱いて……苦しい……」

 懇願する声。涙を流しながら、ルナは訴えている。
 先生は無表情のままで手を払いのけた。

「診察の邪魔です。手を引いてください」

 冷ややかな声で拒絶をする。僕への対応よりも冷たい。ルナが泣きながら訴えているのに、先生は無視して黙々と診察を続けた。体温計を脇に挟み、脈を測り、瞳孔の反応を確認する。

「お願い……誰でもいいから……抱いてほしいの」
 ルナの声が部屋に響いた。先生は何も答えず、診察を続けている。

「抑制剤を使います」

 先生は医療鞄から注射器を取り出した。透明な液体が入った小瓶を手に取り、針に吸い上げる。
 ルナが身体を起こした。先生に抱きつこうと、手を伸ばしてくる。

「危ないから……やめてください」

 僕は慌ててルナを押さえ込もうとした。肩に手を置き、ベッドに押し戻そうとする。ルナの手が僕を掴み、力強く突き飛ばした。

 身体が宙に浮いた。
 背中が壁に激しくぶつかり、鋭い痛みが走った。息が止まる。視界が揺れる。地面に尻を打ち、衝撃が全身に広がった。

「っ……」

 声にならない呻きが漏れた。背中が痛い。腰も痛い。頭がくらくらする。
 先生が暴れるルナの肩を押さえつけた。ルナが暴れようとするが、容赦なく押さえつけられた先生の手から逃れられない。

 いつもの先生とは違う雰囲気に、僕の背筋に寒気が走る。冷たい態度が室内の空気を凍らせている。

「動かないで」

 先生の冷静な声とは裏腹にルナが「抱いて、お願い」と叫ぶ。先生は無視して、注射針をルナの腕に刺した。ルナが悲鳴を上げた。

「十五分もすれば落ち着くと思います」
 淡々と、機械的に告げる先生の目は氷のようだった。

 同じ特異体質なのに、母上とは全く違う対応だ。研究対象で、施設にずっと幽閉されているのに――研究対象として愛でているのかと思っていたが、違う。

 逆に毛嫌いしているようにしか見えないのはなぜだろう。
 父や母を陥れるような行為を過去にしたから?

 先生は母を愛してるから。愛している人を傷つけたのを許せていないのだろうか。いくら研究対象者であっても、母を傷つけた人は嫌いなのかもしれない。

 僕は尻餅をついたまま、先生を見つめた。思わず先生の下半身に目を向けてしまう。ズボン越しに確認すると、大きく反応している兆しはない。

(え……? 反応してない?)

 先生が診察で言っていた「枯れたかな」という言葉。

(あれは本当だったの?)
 衝撃と、僅かな安堵が混ざった感情が胸に広がった。

 五分もせずにルナの呼吸が徐々に落ち着いてきた。荒い呼吸が静かになっていく。身体の震えが止まり、力が抜けていく。抑制剤が効いてきたようだ。

 ルナの目が閉じられ、静かな寝息が聞こえ始めた。

(良かった――)
 薬があれば、身体が楽になるんだ。

 ヒートになったら、僕もきっと先生の薬を頼ることになるのだろう。ヒートがきても、僕は誰かと番う気はないから。

 先生は器具を片付け始めた。薬の効果が出たのなら、見守る必要はないという判断なのだろう。

「リエル、大丈夫? 頭、打ってない?」

 先生が僕に近づいてきた。床に座り込んだまま、呆然としていた僕の前に膝をつき、顔を覗き込んでくる。大きな手が僕の後頭部に触れ、確認するように動いた。

「背中を打っただけなので」

 僕は答えた。声が震えている。先生の手が優しく、頭を撫でた。
 いろいろ衝撃的すぎて、動くのを忘れていた。

「立てる?」

 先生が手を差し伸べてくれた。僕は手を取り、立ち上がる。先生の手は大きくて、温かい。ふらつく僕を支えてくれた。

 またちらっと先生のズボンの盛り上がりを確認してしまう。先生は全くルナのヒートに反応している様子はなかった。

 先生の手が僕の腰に回された。ドキッと胸が高鳴る。心臓が激しく跳ねた。

「ここは危ないから。外に」
「でもお世話をしないと」

 僕は抵抗しようとしたが、先生は首を横に振った。

「あんな状態の彼女の世話をする意味がない」

 冷たく言い放つ。先生は僕を廊下に連れ出した。腰に回された手が、僕を導いていく。扉を出て廊下に出ると、エドガーが心配そうに駆け寄ってきた。

「兄上、大丈夫?」
「大丈夫だよ」

 先生は僕を見下ろし、真剣な表情で告げた。

「オメガでも君は男だ。あの状態では、君でも彼女に襲われるよ?」
 真剣な表情で、青い瞳が僕を捉えている。

「ヒート中の彼女は、中に入れてもらえるなら、なんでもいい状態なんだから」

 先生が僕の下半身を指で差した。オメガでも、使えるものは何でも使って熱を解放したいということなのだろう。
僕にはわからない感覚だけど、いつものルナとは様子が違うことはわかる。ヒートになるとまるで猛獣のような性格になってしまうのだと思うと恐ろしかった。

 僕もヒートが来たら、ああなってしまうのだろうか。できることなら、ああはなりたくない。

「先生は平気なんですか? 彼女の匂いってきついんでしょう?」
 思い切って尋ねた。先生は肩を竦めた。

「まあ、他人よりは匂いは強いなっていう判別はあるけど、それだけかな」

 淡々とした返事に驚いた。先生はアルファだから、診察前に抑制剤を打ってきているからだろうか。それとも本当に枯れたのだろうか。

 先生が近くに控えているエドガーに近づいた。

「辛いだろう? これを飲みなさい」
 小瓶を手渡す。エドガーは受け取り、中を見た。

「抑制剤。アルファのヒートを抑えてくれる。若いから、完全には抑えきれないけど、今よりはマシになるよ」

 エドガーは頷き、薬を飲んだ。しばらくすると、エドガーの顔色が良くなっていく。荒かった呼吸が落ち着き、紅潮していた顔が普通の色に戻っていく。

「まったく、君はお父さんにそっくりだね。辛いのに、ひたすら我慢強い。まあ、それだからリエルの護衛をさせているんだろうけどね」
「ありがとうございます、先生」

 先生が呆れたようにエドガーを見つめていた。

「エドガー、リエル。送っていくよ」
「でも、僕はまだ仕事が」

 先生は首を横に振り、白衣を脱いだ。白衣が僕の肩にかけられる。先生の匂いが鼻をつく。冬の森のような、冷たく鋭い匂い。

(寒くないのに、なんで?)

「施設長が帰宅していいって言っているんだから、素直に帰ること」
 先生にしては珍しい命令だ。先生は僕の目を見つめている。

「エドガーも辛そうだよ? アルファなんだから、休ませてあげよう。リエルがいたら、エドガーもここにいないとなんだから。ずっと辛いままだ」

 確かに。弟に無理させたくない。

 先生が用意してくれた馬車に乗って帰宅することにした。内装は質素だが、清潔で整っている。エドガーと僕が座り、先生は向かいの席に座った。馬車がゆっくりと動き出す。車輪が石畳の上を転がる音が響き、窓の外を景色が流れていく。

 沈黙が続いた。
 先生は窓の外を見ている。横顔が美しい。白銀の髪が揺れ、青い瞳が景色を追っている。

 王宮には十分とせずに到着した。馬車が止まり、扉が開けられる。

「ありがとうございました、先生」
 エドガーが先に降りた。僕も降りようとすると、手首を掴まれる。

「リエル」
 先生が呼び止める。振り返ると、先生が僕を見つめていた。

「無理はしないように」
 短い言葉だったが、瞳の奥に心配の色が伺えた。

「はい」
 先生は僕の手首を握ったまま、言葉を続ける。

「ヒートの強い匂いをそばで嗅いだんだ。身体の異変を感じたらすぐに連絡すること。いいね?」
「はい」

 オメガは他人のヒートにつられてしまうことがあると聞いたことがある。先生が心配してくれたのだろう。
 僕は白衣を脱ぎ、先生に返した。ルナの匂いを少しでも紛らわせるために、先生の匂いがする白衣をかけてくれたのだと理解すると嬉しかった。

「ありがとうございました」

 先生は白衣を受け取り、小さく頷くと手首から手を離す。僕は馬車を降りて、エドガーの隣に立つと先生の馬車を見送った。
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