禁じられた運命の香り〜白銀の研究者と翡翠の王子〜

ひなた翠

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第二章;初めてのヒート

母のヒート

 王立オメガ研究施設のルナの居室で僕は仕事をしていた。

 窓から差し込む夕刻の光が、床に長い影を作っている。ペンを走らせながら、ルナの食事記録を書き込んでいる。今朝の朝食は半分しか食べていない。昼食も同じだった。

 ベッドで休んでいるルナを見つめる。髪が枕に広がり、顔色が悪い。ヒートの後、まだ身体が回復していないようだ。

「ルナ、食欲が落ちているみたいです。何かあったのですか?」

 僕は椅子をベッドの横に移動させ、座った。ルナはゆっくりと目を開け、僕を見た。

「アリエル様……すみません。身体が重くて、食べる気力が……」
 弱々しい声だった。ルナは身体を起こそうとして、力が入らず倒れ込んだ。

「無理しないでください。横になっていてください」
 僕はルナの肩を支え、枕に頭を戻した。ルナは小さく頷いた。

「ヒートの後は、いつもこんな感じなんですか?」
「ええ……。身体が疲れきってしまって。何日か経てば、少しずつ回復していくんですけど」

 ルナは目を閉じた。額に汗が滲んでいる。僕は濡れた布で額を拭った。

「ヒートのときは、どうやって乗り越えているんですか?」

 聞いてはいけない質問かもしれない。でも、僕もいつかヒートが来るから、知っておきたかった。

「抑制剤を打ってもらって……落ち着いたら眠るしかないです。でも、身体は熱いままで、苦しくて……」
 ルナの声が震えた。

「誰かに抱いてもらえれば、楽になるんでしょうけど……私には番がいないから。それに私は自由がないから」
 寂しそうな声で、僕に笑顔を向けた。僕は何も言えなかった。

(自由がない――)

 ルナはかつて、父上の嫁候補だった。母が選ばれた際に、罪を犯したと聞いている。その関係で、父が激怒して彼女の自由を奪った。それ相応の処罰だったと――。

 罪を犯してなければ、自由に生活をしていたのかもしれない。誰かと結婚して、番になり……つらいヒートを一人で乗り切らなくてよかったのかもしれないと思うと、胸が痛くなる。

「身体の状態は、ヒートの間ずっと辛いんですか?」
「熱が引かなくて……喉が渇いて……身体中が疼くんです……。記憶もぼんやりしていて、自分が何をしたのか覚えてません」

(記憶がぼんやりする――)

 暴れたことや、叫んだことも忘れてしまうのだろうか。

「でも、ラインハルト先生が診てくれるから。先生の抑制剤は、よく効くんです」
 ルナの顔に、僅かな笑みが浮かんだ。

「先生は優しいですか?」
 僕は尋ねた。ルナは首を横に振った。

「全然、優しくない。でも確実に苦しみを取り除いてくれるから、それだけでありがたいです」
 扉が開く音がして、顔を上げた。エドガーが息を切らして立っていた。

「兄上、父上の命令ですぐに帰宅しろって」
「何があったの?」
「まあ……その――」

 エドガーがちらっとルナを見ると、言いにくそうに言葉を濁した。
 僕は席を立つと、ドアに近づいてエドガーに「何があったの?」ともう一度質問をした。

「母上のヒートがきたんだ。すぐに荷物を纏めて、先生のところに行けって」
 心臓が跳ねた。

(母上のヒートがきた?)

「わかった。でも、ルナを一人にはできないよ」
「大丈夫、すぐに代わりのオメガが来るから。手配しておいた」

 さすがエドガーだ。先を見越して、用意周到に動いてくれる。
 しばらくして、オメガの女性が部屋に入ってきた。中年の女性で、優しそうな顔をしている。

「ルナ様のお世話を引き継ぎます」
 女性は丁寧に頭を下げた。僕はルナに近づき、手を握った。

「すみません。今日はもう帰ります」
「国王の命令ですから。気にしないでください」

 ルナは微笑んだ。僕は手を離し、部屋を出た。

 エドガーと共に王宮へ戻った。
 王宮に着くと、弟たちが玄関で待っていた。セシル、ルシアン、ノエルが旅行鞄を持ち、僕を見て手を振った。

「リエル兄様、遅いよ」
 ノエルが駆け寄ってきた。末っ子の弟は、まだ十歳。小さな身体で、大きな鞄を抱えている。

「ごめん、仕事が長引いて」
 僕は頭を撫でた。ノエルは嬉しそうに笑う。

「ライン先生の家、楽しみだね」
「そうだね。楽しみだね」

 胸が高鳴った。ラインハルト先生の屋敷。数日間、先生と同じ屋根の下で過ごせると思うと、嬉しさと緊張で鼓動が早くなる。

 母上のヒートの度に、僕たちはラインハルト先生に預けられる。

 父上が母上を抱くから。夫婦の営みを子どもたちに見られたくないという両親の意向によって、僕たちは三日間から四日間ほど先生のお世話になっていた。

 幼い頃からずっと、母上のヒートが来ると、先生の屋敷へ行く。使用人も何人かいて、僕たちの世話をしてくれる。

 今回はなかなか母のヒートが来ないなと思っていた。前回から四ヶ月が経っていた。母上のヒートのリズムはあまり崩れない。三ヶ月に一度、規則正しく来る。だから、てっきり六人目を妊娠したのかなと思っていた。遅れていただけのようだった。

 数日間、先生と同じ屋根の下で過ごせると思うと嬉しい。

 先生がいる王立オメガ研究所に就職はしても、会えるのは滅多にない。先生は研究室にこもっていることが多いし、僕はルナについている。

 同じ敷地内にはいるが、ルナは別棟で幽閉されており、施設内の外れの位置にある。検診や、研究のために先生が来なければ、僕は先生に会えない。

 今日から三日間。先生と過ごせるのかと思うと自然と口元が緩んでしまう。

 母上のヒートを喜ぶなんて、不謹慎なのはわかっている。母上は辛い思いをしているのだから。ヒートは苦しい。
 でも――先生に会えるチャンスはあまりないから。許してほしい。

 馬車に乗り込んだ。エドガー、セシル、ルシアン、ノエルと僕。五人の兄弟が座り、馬車が動き出した。御者が馬を走らせ、王宮から離れていく。窓の外を夕暮れの街が流れていく。石造りの建物が並び、人々が家路を急いでいた。

「また兄上はぼーっとしてる。ライン先生に会えるのが嬉しいんだろ?」
 エドガーが笑いながら言った。僕は顔を向け、首を横に振った。

「違う」
「嘘つけ。顔が緩んでるぞ」

 セシルが指摘した。僕は慌てて表情を引き締めた。

「兄上、顔が赤いぞ」
 セシルがにやにやと笑っている。十四歳の弟は、最近ませてきた。兄をからかうのが楽しいらしい。

「赤くない」
「赤いよ、リエル兄様」
 ルシアンが優しく微笑んだ。十二歳の弟は、芸術家肌で穏やかな性格だ。

「ライン先生、素敵だもんね」
 ルシアンが続けた。僕は視線を逸らした。

「リエル兄様、ライン先生と結婚するの?」
 ノエルが無邪気に尋ねた。十歳の弟は、まだ恋愛の複雑さを知らない。純粋な疑問として聞いている。

「しないよ!」

 僕は慌てて否定した。声が大きくなってしまった。弟たちは笑っている。からかっているだけなのはわかっているが――心臓がドキドキする。

 結婚。ラインハルト先生と。

 できるならしたい。先生と夫婦になりたい。朝、目を覚ましたら先生が隣にいる生活。一緒に食事をして、一緒に眠る。先生に抱きしめてもらい、愛されたい。

 でも先生は僕を見ていないから。
 夢のまた夢だ。

「兄上は本当にわかりやすいな」
 エドガーが肩を叩いてきた。僕は頬が熱くなるのを感じた。

「兄をからかわない!」
「からかってないさ。兄上が幸せになってほしいだけだ」

 エドガーの声が優しくなった。

「ありがとう」

 馬車は王宮の近くの通りを走っていた。石畳の上を車輪が転がる音が響き、窓の外を街の景色が流れていく。夕暮れの光が建物を照らし、長い影を作っていた。
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