最低な大人の恋の始め方~万年筆と嘘とキスマーク~

ひなた翠

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第一章:窓の鍵はいつも開いていた

大人にしてしまった罪悪感

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 紗那が書斎を出ていった。

 廊下の先にある洗面所で水を流す音が聞こえて、しばらくして衣擦れの音がした。着替えているのだろう。縁側から、砂利を踏む足音が遠ざかっていく。

 足音が完全に消えるまで、俺は台所の流し台に両手をついたまま動けなかった。

 指が震えていた。万年筆を何千時間握り続けても震えなかった指が、力を入れても止まらなかった。蛇口を捻り、流れ出した水に手を突っ込む。ぬるい水が指の間を流れていき、紗那の愛液が滑りを戻し、そして流れ落ちていく。

 紗那の胸元にあった紫色の痕が、目の裏にこびりついている。あの痕を見た瞬間、頭の中が真っ白になった。誰がつけた。いつつけた。どこまでされた。考えたくないのに次から次へと浮かんでくる映像を振り払えなくて、気がついたら紗那を畳の上に押し倒していた。

 ――嫉妬だった。

 十二歳のガキだった紗那がいつ間にか『オンナ』になり、大人の男に触れられた痕を見せてきたとき、冷静でいられなかった。紗那の身体に触れた最初の男が俺ではない事実が、腹の底から煮えたぎるような怒りになって全身を焼いた。あの瞬間、避難場所を求めてやってくる隣のガキという認識は消えていた。

 ――俺が欲しい『オンナ』としか見えていなかった。

 いつからかは覚えていない。気がついたときにはもう、縁側から入ってくる紗那の首筋のほくろから目が離せなくなっていた。和服の背中に寄りかかってくる小さな身体の重みに、心臓が跳ねるようになっていた。紗那が「先生」と呼ぶたびに、その声を聞くだけで指先が熱くなった。

 生き場所をなくしたガキを招き入れる優しい隣のおじさんから、ただの『オトコ』になり紗那を『オンナ』として見ていた。

 ――抱きながら、最低なことを考えていた。

 紗那の中に、俺の子を孕ませたいと。何度も腰を打ちつけても満たされない衝動の底に、獣のような欲望が渦巻いていた。俺の子を産め。俺以外の男に触れるな。俺のものになれ。そんな言葉が喉元までせり上がってきて、声にならないように歯を食いしばっていた。

 紗那を抱きながら、快楽と同時に恐ろしいほどの強い執着心が芽生えていくのを感じていた。

 三度目の性交渉が終わって、紗那の身体から離れたとき、畳に赤い染みがついているのを目にした。

 紗那の太腿の内側にも、乾きかけた赤い筋が付着していた。紗那は気づいていないのか、気づいていて隠しているのか、何も言わずに畳の上に横たわっていた。

 ――初めてだったのだ。

 あの甘い声は、嘘だった。気持ちいいふりをして痛みを堪えて、俺を受け入れた。初めてはどんなに丁寧に扱っても、痛みは消えないと聞く。紗那は身体を裂くような痛みを堪えながら、大人のふりをして俺を受け入れていた。

 ようやく指の震えが鈍くなってきた。

 紗那は十八だ。六年前、両親の喧嘩に耐えかねて庭先にしゃがみ込んでいたところを拾った。暑いから家で涼め、と声をかけたのは俺だ。それ以来、縁側の窓の鍵を開けっ放し、いつでも入れるようにしていた。

 朝でも夜中でも、日中でも。家が息苦しくなったら、ここで一休みすればいい、と。物分かりのいい大人を演じ、紗那の居場所になっていたはずだった。

 台所に静寂が落ちてくる。窓の外で、ひぐらしが鳴いていた。

 もう、今までのような扱いはできない。

 紗那を見たら、また抱きたくなる。抱いたら、止められなくなる。物分かりのいい大人にはもう戻れない。

 濡れた手で顔を覆った。指の隙間から、夕暮れの光が細く差し込んでいた。
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