最低な大人の恋の始め方~万年筆と嘘とキスマーク~

ひなた翠

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第三章「大人の世界は単純明快」

紗那の忘れ物

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 紗那の身体から離れた。

 繋がりをほどくと、紗那の口からかすかに吐息が零れた。蕩けた目がこちらを見上げている。シーツの上に広がった髪が汗で額に張り付いて、頬が薄く紅潮していて、唇が濡れて光っている。鎖骨のほくろの横に、さっき吸い上げた赤い痕が残っていた。

 見るな、と自分に言い聞かせた。これ以上この顔を見ていたら、また押し倒す。

「原稿はいつものところに置いてある」

 声が思ったより低く、掠れていた。紗那はぐったりとシーツに沈んだまま、微かに頷いた。何度も達した後の身体は動けないだろう。わかっていて、それ以上何もしなかった。

 ベッドから立ち上がった。裸のまま寝室を出て、浴室に向かう。

 ドアを閉め、シャワーの蛇口を捻った。温度を確かめる余裕もなく、熱い湯が頭から降り注ぐ。紗那の匂いが身体から洗い流されていく。汗と唾液と、もっと甘い匂い。全部が排水溝に流れ込んでいく。

 浴室の外で、がたがたと物音がした。

 何かにぶつかったような音。足音。衣擦れ。紗那が身支度を整えている気配が、水音の隙間から伝わってくる。廊下を歩く足音。玄関のドアが開いて、閉じた。

 紗那が出ていった。

 シャワーを止めた。水音が消えて、浴室にタイルを叩く残滴の音だけが響いている。
 深い溜め息が出た。

 身体は正直だった。紗那が出ていった後もまだ熱を持ち続けている。四回目だ。四回抱いて、四回とも足りない。紗那の中にいるときだけ満たされて、離れた途端に飢える。

 壁に額を押し当てた。冷たいタイルが額を冷やすが、下半身の熱は引かない。紗那の中にまだいたいと訴えている。締めつけてくる感触を覚えている。名前を呼ぶたびにきゅっと収縮する内壁の感触がたまらなく好きだ。

 この熱は自分の手で収めるしかない。

 紗那の身体を思い出しながら自分を握った。鎖骨のほくろ。仰け反った喉。声を堪えきれずに漏らす甘い悲鳴。俺の名前を呼ぶ声。先生、と。あの声で呼ばれるだけで、頭の中が沸騰する。

 すぐに手のひらが汚れた。白い液体がタイルの上に滴り落ちて、残った湯水と混じり合っていく。

「くそっ」
 悪態が口から出た。

 ――ほらみろ。
 頭の中のもう一人が言った。

 何のために、あの家を売り払ったんだ。何のためにここにいる。紗那が好き過ぎて、閉じ込めて、抱き潰してしまいそうで怖かったからだろう。あの畳の上に残った血の染みを見て、自分が獣だと思い知ったからだろう。十八歳の紗那を何度も抱いて、孕ませたいと思いながら腰を打ちつけて、初めてだったと気づいたときの恐怖を忘れたのか。
二度と会わない。二度と触れない。そう決めて、ここに来たのに。

 萌木の代わりに原稿を受け取りに来た編集者が紗那だとわかったときは、一瞬都合のいい夢を見ているのかと思った。

 まさか紗那が出版社に就職し、恋愛小説の編集者になっていたなんて考えもしなかった。いつも漫画ばかり読んで、活字なんて興味の欠片もなかったのに。

 最低だ。

 会うたびに欲望が膨らんでいく。回を重ねるごとに激しく求めてしまう。紗那に会いたくて、原稿を前倒しで仕上げて、一週間でも早く紗那を呼び出す口実を作っている自分が浅ましい。

「馬鹿だろ、俺」

 浴室の壁を拳で叩いた。タイルが鈍く鳴って、拳の骨が痛んだ。痛みで頭を冷やそうとしたが、無駄だった。

「ああ、もう――紗那を抱きたい。紗那がほしい」

 数分前の快感が、身体の芯から蘇ってくる。紗那が俺の名前を呼ぶ声が、耳の奥で反響している。

 壁に背を預けて、再び自分を握った。今度はさっきよりも長くかかった。紗那の身体の隅々を思い出しながら、手のひらの中で醜い欲望を吐き出した。

 二度目の後始末をして、シャワーで流した。


     ◇◇◇


 浴室を出て、タオルで身体を拭いた。下着とスラックスだけ穿いて、寝室に向かった。

 睡眠時間を削って原稿を仕上げた身体が、限界を訴えていた。紗那に一週間早く渡すために、毎晩三時間しか眠っていない。それだけの対価を払って手に入れた時間を、紗那を抱くことに使った。

 寝室のドアを開けた。
 紗那の匂いがした。

 甘くて、少し石鹸の混じった体温の匂い。紗那が出ていった後も、部屋の空気に残っている。乱れたシーツに顔を近づけると、もっと濃く匂った。枕にも、掛布団にも、紗那の匂いが染みついている。

 ベッドに腰を下ろした。シーツのところどころに、うっすらと染みが残っていた。紗那の身体から溢れた液体が布に浸透して、小さな輪郭を描いている。指を伸ばして、濡れている箇所に触れた。もう冷たくなっている。紗那の体温はとうに失われて、冷たい湿り気だけが残っている。

 その冷たさに、指先が熱くなった。

 紗那が感じていた証拠だ。俺の指で、俺の身体で、こんなに濡れて、こんなに溢れて。冷たいシーツの染みが、紗那の熱を記録している。

 視線を動かした。

 ベッドの脇、紗那が鞄を置いていたあたりの床に、何かが落ちていた。

 小さい。薄い黄色。プラスチック。

 立ち上がって拾った。

 カードだった。保育園の名前が印刷されていて、「北坂 紗那」という名前の横に、もう一つ名前がある。

『律希』

「――あいつ、子どもがいるのか」
 頭が真っ白になった。

 カードを凝視する。
 紗那の姿を思い出した。左手の薬指……指輪はしていなかった。

 指輪がないから独身だと思った。ペアリングもしていないから、恋人もいないと思った。だから抱いた。

 ――馬鹿か、俺は。

 萌木だって、結婚しても旧姓のまま仕事をしている。指輪だって仕事中は外している人だっている。紗那が結婚していないという根拠は、どこにもなかった。

 紗那には保育園に通う年齢の子どもがいる。

紗那は仕事中だから指輪を外しているだけで、家に帰れば夫が待っていて、子どもと三人で食卓を囲んでいるのかもしれない。

 その紗那を、俺は月に一度呼び出して抱いていた。
 原稿と引き換えに。

 紗那にとって俺は、拒否できない相手だ。紗那に夫を裏切らせるようなことをさせてしまった。
 全部、俺の責任だ。

 カードを見つめた。薄い黄色いプラスチックの表面に、紗那の名前と律希の名前が並んでいる。保育園のお迎えに必要なカードだ。これがなかったら紗那が困る。

 ベッドから立ち上がった。クローゼットからシャツを引き抜いて、袖を通した。
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