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39 目覚めた旦那様
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「……ん゛、ぅぅ……」
ベッドに運ばれ眠り続けていた旦那様は、小さな呻き声を上げながらこちら向きに寝返りを打つと、ゆっくりと瞼を開いた。
「……ミシェル? なぜ……あっ……」
起きた途端に私が視界に入った事に困惑したみたいだが、繋がれた手に気付いて状況を理解したらしい。
「もしかして、私はあれからずっと君の手を?」
「はい、握ったままで気を失ってしまわれたので、そのままに」
「あぁ……そうか。悪かった」
旦那様はそう呟き、繋いでいない方の手で口元を覆った。
少し耳が赤くなっているのは、倒れてしまった事を、恥じているせいかも知れない。
目覚めて手に触れている事に気付いた途端、先程シルヴィに向けたのと同じ様な、嫌悪の表情を向けられるかも知れない……と、覚悟していたのだが、意外にも旦那様の反応はごく一般的な物だった。
それは良かったのだが───、
「あの、ところで、そろそろ手を……」
「あっ……、ああ、そうだよな。重ね重ね申し訳ない」
おずおずと指摘すれば、慌てた様子で手を放してくれた。
手が自由になって、緊張が解けたのは良かったのだが、離れてしまった温もりがほんの少しだけ淋しい様な気もした。
ところが旦那様の手はそのまま私の顔の方へ伸びて来て、その指が私の目元をそっと撫でた。
「まだ目が赤い。泣いたんだって?」
旦那様は気遣わし気に眉を下げた。
思わぬ接触に私の心臓が大きく騒ぎ始める。
今の私は、きっと目よりも顔の方がずっと赤いに違いない。
「わ、私の心配よりも、ご自身の心配をして下さいませっ!」
動揺のあまり思わず可愛くない事を口走ってしまい、すぐに後悔に襲われた。
「ハハッ。それもそうだな。
私はどのくらい眠っていた?」
問われた私は壁に掛かけられた時計に視線を移す。
「そんなに長く無いですよ。
えーと……、一時間ちょっとですね。
お体の方は、もう大丈夫ですか?」
「あれは精神的な物だから、体には問題は無いんだ。
倒れた時に頭をぶつけたりすると危ないのだが、今回は君が支えてくれたから助かったよ」
「とんでもない。結局は支え切れませんでしたし……」
「いや、勢い良く倒れずに済んだのは、君のお陰だ」
「お役に立てたなら、良かったです。
あんな風に、倒れてしまわれる事はよくあるのですか?」
頻繁にあるのならば、少し心配だ。
テーブルの角に頭をぶつけたり、階段から落ちたりする可能性だってあるのだから。
「あーー、いや。ここまでの症状が出る事は稀だ。
……この邸で生活しているミシェルには、事情を知っておいて貰うべきなのかもな」
「私達は契約結婚ですし、プライベートな事を無理に話せとは申しません。
ですが、事情を知っておいた方が、いざと言う時に何かサポート出来る事があるかも知れないとは思っています」
私がそう言うと、旦那様は躊躇いながらも少しずつ話し始めた。
「……私は女性全般が苦手だ。
その中でも特に嫌悪を感じるのは、私の意思を無視して強引に近寄り、無遠慮に触れて来る女。
それから、香水がキツい女と、金髪で真っ赤な口紅をつけている女には、恐怖心さえ抱いてしまう」
「どれも少しずつシルヴィに当て嵌まりますね」
彼女はいつもフローラル系の香水をつけていた。
臭いと感じるほどでは無いし、社交界にはもっとキツい匂いの女性もいるが、シルヴィもそこそこ強い香りを纏っていた。
髪は若干色が濃い目だが、金髪と言えない事もない。
化粧に関しても、侍女という仕事をするには少し派手で、よく赤い口紅を付けていた。
まあ、若いのだからお洒落くらいしたいだろうと思って私は何も言わなかったが、仕える家によっては香水も化粧も注意されるレベルだろうと思う。
「そう、彼女は私の苦手なタイプだったから、こんなに強く症状が出てしまった。
実は、女性が苦手になったのには、切っ掛けがあって……。
その……、少し重い話になってしまうが、聞いてくれるだろうか?」
「はい」
そうして語られた彼の過去は、本当に重かった。
それは十五年前。彼の実母が亡くなった頃に遡る。
彼の父親である前侯爵エリック様は、妻を亡くした直後に後妻を娶った。
しかし、それはエリック様の意志ではなかった。
『子息が一人だけでは心配だから、スペアを作った方が良い』とエリック様の父親(旦那様の祖父)が縁戚の者達を味方に付けて騒ぎ、勝手に適当な令嬢を送り付けてきたのだ。
エリック様は渋々ながらもその縁談を受け入れた。
その令嬢を追い出したところで、また代わりの令嬢が送りつけられるだけだと考えて、面倒臭くなったのだ。
婚姻にあたって、エリック様は後妻に条件を出した。
曰く、
後継のスペアを作る事が目的の婚姻の為、三年経っても子が出来なければ離縁する。
閨事は月二回のみ。それ以外は干渉するな。
そして、夫からの愛情を求めるな。
後妻はその条件を了承した。
後妻が嫁いで来ると、エリック様は邸にあまり寄り付かなくなった。
それでも契約は守り、月二回だけは律儀に帰宅して、後妻と閨を共にする。
だが、それ以外の日は派手に遊び歩き、複数の女性と浮名を流した。
そんな生活が二年も続いたが、元々の相性が悪かったのか、それとも月に二回では少な過ぎたのか、後妻には一向に懐妊の兆候が見られなかった。
彼女は売られる様にこの邸に来たので、帰る場所など無い。
タイムリミットは後一年。
思い詰めた彼女は、周囲には気付かれぬままに、少しずつ心を壊して行った。
そして、彼女は、とんでもない考えに取り憑かれてしまう。
夫の種で子が出来ぬのなら、他の種を使えば良いのだと───。
ベッドに運ばれ眠り続けていた旦那様は、小さな呻き声を上げながらこちら向きに寝返りを打つと、ゆっくりと瞼を開いた。
「……ミシェル? なぜ……あっ……」
起きた途端に私が視界に入った事に困惑したみたいだが、繋がれた手に気付いて状況を理解したらしい。
「もしかして、私はあれからずっと君の手を?」
「はい、握ったままで気を失ってしまわれたので、そのままに」
「あぁ……そうか。悪かった」
旦那様はそう呟き、繋いでいない方の手で口元を覆った。
少し耳が赤くなっているのは、倒れてしまった事を、恥じているせいかも知れない。
目覚めて手に触れている事に気付いた途端、先程シルヴィに向けたのと同じ様な、嫌悪の表情を向けられるかも知れない……と、覚悟していたのだが、意外にも旦那様の反応はごく一般的な物だった。
それは良かったのだが───、
「あの、ところで、そろそろ手を……」
「あっ……、ああ、そうだよな。重ね重ね申し訳ない」
おずおずと指摘すれば、慌てた様子で手を放してくれた。
手が自由になって、緊張が解けたのは良かったのだが、離れてしまった温もりがほんの少しだけ淋しい様な気もした。
ところが旦那様の手はそのまま私の顔の方へ伸びて来て、その指が私の目元をそっと撫でた。
「まだ目が赤い。泣いたんだって?」
旦那様は気遣わし気に眉を下げた。
思わぬ接触に私の心臓が大きく騒ぎ始める。
今の私は、きっと目よりも顔の方がずっと赤いに違いない。
「わ、私の心配よりも、ご自身の心配をして下さいませっ!」
動揺のあまり思わず可愛くない事を口走ってしまい、すぐに後悔に襲われた。
「ハハッ。それもそうだな。
私はどのくらい眠っていた?」
問われた私は壁に掛かけられた時計に視線を移す。
「そんなに長く無いですよ。
えーと……、一時間ちょっとですね。
お体の方は、もう大丈夫ですか?」
「あれは精神的な物だから、体には問題は無いんだ。
倒れた時に頭をぶつけたりすると危ないのだが、今回は君が支えてくれたから助かったよ」
「とんでもない。結局は支え切れませんでしたし……」
「いや、勢い良く倒れずに済んだのは、君のお陰だ」
「お役に立てたなら、良かったです。
あんな風に、倒れてしまわれる事はよくあるのですか?」
頻繁にあるのならば、少し心配だ。
テーブルの角に頭をぶつけたり、階段から落ちたりする可能性だってあるのだから。
「あーー、いや。ここまでの症状が出る事は稀だ。
……この邸で生活しているミシェルには、事情を知っておいて貰うべきなのかもな」
「私達は契約結婚ですし、プライベートな事を無理に話せとは申しません。
ですが、事情を知っておいた方が、いざと言う時に何かサポート出来る事があるかも知れないとは思っています」
私がそう言うと、旦那様は躊躇いながらも少しずつ話し始めた。
「……私は女性全般が苦手だ。
その中でも特に嫌悪を感じるのは、私の意思を無視して強引に近寄り、無遠慮に触れて来る女。
それから、香水がキツい女と、金髪で真っ赤な口紅をつけている女には、恐怖心さえ抱いてしまう」
「どれも少しずつシルヴィに当て嵌まりますね」
彼女はいつもフローラル系の香水をつけていた。
臭いと感じるほどでは無いし、社交界にはもっとキツい匂いの女性もいるが、シルヴィもそこそこ強い香りを纏っていた。
髪は若干色が濃い目だが、金髪と言えない事もない。
化粧に関しても、侍女という仕事をするには少し派手で、よく赤い口紅を付けていた。
まあ、若いのだからお洒落くらいしたいだろうと思って私は何も言わなかったが、仕える家によっては香水も化粧も注意されるレベルだろうと思う。
「そう、彼女は私の苦手なタイプだったから、こんなに強く症状が出てしまった。
実は、女性が苦手になったのには、切っ掛けがあって……。
その……、少し重い話になってしまうが、聞いてくれるだろうか?」
「はい」
そうして語られた彼の過去は、本当に重かった。
それは十五年前。彼の実母が亡くなった頃に遡る。
彼の父親である前侯爵エリック様は、妻を亡くした直後に後妻を娶った。
しかし、それはエリック様の意志ではなかった。
『子息が一人だけでは心配だから、スペアを作った方が良い』とエリック様の父親(旦那様の祖父)が縁戚の者達を味方に付けて騒ぎ、勝手に適当な令嬢を送り付けてきたのだ。
エリック様は渋々ながらもその縁談を受け入れた。
その令嬢を追い出したところで、また代わりの令嬢が送りつけられるだけだと考えて、面倒臭くなったのだ。
婚姻にあたって、エリック様は後妻に条件を出した。
曰く、
後継のスペアを作る事が目的の婚姻の為、三年経っても子が出来なければ離縁する。
閨事は月二回のみ。それ以外は干渉するな。
そして、夫からの愛情を求めるな。
後妻はその条件を了承した。
後妻が嫁いで来ると、エリック様は邸にあまり寄り付かなくなった。
それでも契約は守り、月二回だけは律儀に帰宅して、後妻と閨を共にする。
だが、それ以外の日は派手に遊び歩き、複数の女性と浮名を流した。
そんな生活が二年も続いたが、元々の相性が悪かったのか、それとも月に二回では少な過ぎたのか、後妻には一向に懐妊の兆候が見られなかった。
彼女は売られる様にこの邸に来たので、帰る場所など無い。
タイムリミットは後一年。
思い詰めた彼女は、周囲には気付かれぬままに、少しずつ心を壊して行った。
そして、彼女は、とんでもない考えに取り憑かれてしまう。
夫の種で子が出来ぬのなら、他の種を使えば良いのだと───。
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