朝顔に水浅葱

夏凪彗

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後篇

第三部

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 髪を結い終えて、鏡台に櫛を置いた。ことりと硬い音が小さく響く。

 雨宿りでの奇跡的な再会から二週間程が経った頃、女は彼の家で暮らし始めた。
 彼からの告白を受け、晴れて恋人となったからである。

 じいいじいい、と蝉の鳴く声がして、開け放した窓の方に顔を向けた。
 梅雨も明けて夏らしくすかりと晴れた青空に、大きな入道雲が横たわっている。
 その下を覗き込めば、庭で植物の手入れをしている彼が見える筈だ。「母が大切にしていた庭だから、私もそうしたいんです」と優し気な笑みを湛えて、そう言っていた彼を思い出す。

 小説――彼の家の蔵書である――を流し読み乍ら、女はここ数日の悩みについて考える。
 その悩みと謂うのは、先日の夕食時に彼が発した言葉に由るものだ。


 彼曰く、「あの夜の記憶は余り無いが、朝顔が水浅葱の着物を着ていたという事だけははっきりと憶えている」のだと言う。


 しかしあの日、水浅葱の着物を着ていたのは女ではなく、妹だ。
 彼の発言は更に続いていた。「目が醒めた時、その女性に逢いたいと強く焦がれた」――――。
 ほう、と溜息を吐く。余り考えたくない結論に辿り着いてしまった。


 彼は、女ではなく、女の妹に恋をしたのではないか。


 あの夜、彼は夢遊病を患っていた。
 直前まで話していた妹と女を混同するのも、その様な事情が有るのなら頷ける。あんな暗がりで顔を判別する事も難しいだろう。それに妹とは、声だけはよく似ているのだから。

 そう考えれば雨宿りをしていた時の、彼の呟きにも説明が付く。
 「奇麗だ」。
 あれはきっと、惚れた欲目と謂うやつだ。恋は人を盲目的にさせると聞く。


 彼が告げてくれた「好きです」の言葉を信じたい気持ちと、懐疑心とで揺れ動く。


 どうしようもなく不安な気持ちに駆られて、一階に下り、玄関の三和土で下駄を履いて戸を開けた。門扉の前に、藍色の甚平を着た彼が居る。誰かと話している様子だ。
 来客だろうかと近付いて行くと、良く知った声が女の耳に飛び込んできた。


 「……宗寿郎、さん」


 「ああ、丁度良かった。呼びに行こうと思っていたんです」


 振り向いた彼の顔には、拭い切れない困惑がありありと浮かんでいる。
 その向こうには、――――女の妹が居た。
 何故か女のものと同じ、水浅葱の着物を着ている。髪型も女と揃いのまがれいとだ。女の頬が引き攣る。


 「庭の手入れをしていたら、この方がいらしてね。『貴方は騙されている』って頻りに仰るんです。朝顔さん、何方か御存知ですか?」


 「……彼女は、」


 「――――朝顔? 何方様かしら」


 言いかけた女の言葉に被せる様にして、妹が口を開いた。


 「御機嫌よう、撫子姉様」


 彼の視線が、此方に向いているのを感じる。怖くて彼の方を見られない。


 「馨子……如何して此処へ?」


 「撫子姉様が帰って来ないから、心配しましたの。それがまさか、殿方の御宅だなんてねえ」


 くすくす、と妹が立てる笑い声が耳を刺す。
 「あの不細工な御姉様が」とでも言っている様に、女には感じた。


 「それより、その着物。同じ物を買い揃えるの、大変でしたのよ? 御姉様が盗っちゃうから」


 「そんな……盗ってなんて」


 思わず感情的になりかけるのを、ぐっと堪える。
 私は姉だ。怒ってはならない――――。


 「其方の殿方、宗寿郎様と仰るのでしたっけ?」


 「……はい」


 未だ嘗て聞いた事の無い、彼の硬い声。すうっと手足の感覚が無くなっていく様な気がした。


 「一度お逢いしましたの、憶えていらっしゃいませんこと?」


 「…………その色の着物を召された女性と、何時かの夜に……」


 ――嗚呼、御終いなのね。
 彼はもう、気が付いているのだろう。
 あの日の夜、恋をしたのは後に『朝顔』と名乗る女ではなく、今目の前に居る妹だったと謂う事に。
 そっと、彼を窺う。交錯した視線からは、何の感情も読み取れない。

 ――彼に棄てられてしまうくらいなら、いっそ……

 門扉に手を掛ける。その奥に居る妹を押し退けて、走り出した。


 「朝顔さん……!」


 呼び止める声を無視して、決して足を止めず、駆ける。
 視界が滲んで、ゆらりと歪んだ。頬を伝って涙が滑り落ちる。指で雑に拭った。


 朝顔。今になって、如何してそう名乗ったのかが判った。


 愛されたかった。彼が大事に育てていたあの朝顔の様に、愛されたかったからだ。
 誰からも愛されなかった『撫子』としての人生を棄て、別人――『朝顔』として彼に愛されて生きていきたかった。

 青い朝顔の花言葉は、『儚い恋』、なのだそうだ。
 私にぴったりじゃあないか。ふ、と自虐的に笑う。

 泣いている所為で、鼻が詰まっていた。口から息を吸って、喉が焼け付くようにひりついて、咳込み乍ら休みも無く走る。
 嗚呼、見えて来た。


 海だ。
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