朝顔に水浅葱

夏凪彗

文字の大きさ
6 / 6
後篇

第四部

しおりを挟む
 崖の先端に向かって歩く。
 下駄を脱いだ為に、剥き出しの岩肌が素足に刺さって痛い。

 岩鼻に辿り着いて、腰を下ろす。その隣にきちんと揃えた下駄を置いた。足が宙ぶらりんで、恐怖心を煽る。
 下を覗き込めば、寄せ返す波と時折跳ねる水飛沫が見えた。海面との距離は二十尺程。

 遠い、と思った。

 海に限りなく近いからか、風が強い。
 髪がはためいて邪魔臭く、リボンをしゅるりと解いた。海に向かって投げ棄てる。白い布切れは透けた青に吸い込まれる様にして落ちて行き、やがて見えなくなった。
 満足気に微笑んで、女は立ち上がる。

 さて、次は私の番――――。

 一歩、二歩。じりじりと限界まで近付いて行く。
 
 幸せな最期だった、と女は独り言を零す。
 これ以上の幸福はきっと、もう得る事が出来ないだろう。そう思わせる程に、彼と出逢ってからの毎日は幸せに満ちていた。
 だからこそ、だ。彼に嫌われてしまう前に、棄てられてしまう前に、幸せな儘で全てを終わらせたいと祈ったのだ。

 前方に身体を傾かせて、後は落ちるだけ――そう、思った。


 がくんっと後ろから引っ張られてその儘、倒れそうになる。
 でも、そうはならなかった。力強く、背後から抱き締められる。御蔭で立って居られた。


 「朝顔……っ、何やって……!」


 耳元に、荒く早い息遣いが聞こえる。
 切羽詰まった声が、女を呼んだ。「朝顔」と。


 「宗……寿郎、さん」


 女の声は酷く震えていた。それは全身も然り、彼の支えが無ければ今度こそ落ちていたに違いない。
 彼は女を自分の方に向かせて、それから再びきつく抱き締めた。


 「如何して、……居なくなろうだなんて」


 「…………」


 「行かないで下さい……朝顔さんが居ないなんて、そんな世界」


 「なぜ……?」


 ぽつり、と意図せず声が零れた。


 「貴方が好きになったのは、馨子じゃないの……?」


 「いいえ」


 ぐっと肩を押されて、身体が離れる。
 向かい合った彼の額には、汗が浮かんでいた。


 「朝顔さん、俺の目を見て下さい」


 女はぼんやりと思う。
 彼が自分の事を「俺」と言ったのを聞くのは、初めてだと。

 言われるが儘に、彼の目を見る。其処には、髪を乱した女の姿が映っていた。
 見ていたくないな、と視線を逸らそうとすると、彼の両手が頬を挟んでそれを阻む。


 「見て。ちゃんと」


 「……はい」


 「俺が好きなのは、貴女です」


 「……っ、」


 「あの夜、確かにあの人と逢いました。でも、朝顔さんとも逢ったでしょう?」


 「……逢い、ました」


 「その時、あの人が着ていた着物の色が珍しくて、それが記憶に残ったのでしょうけど。俺はあの人に惚れた訳じゃない」


 頬に置かれていた彼の片手が、そっと眦に動く。
 其処を撫でる彼は、優しく微笑んでいた。


 「それから再び貴女に逢った時、俺は朝顔さんに恋をしたんです」


 「馨子でなく……?」


 彼が強く頷く。信じてくれ、とでも言わんばかりに。


 「目も、唇も、肌も髪も声も、恥じらう姿でさえ、愛おしいと思いました」


 手を取られて、その指先に唇を落とされる。
 何処か呆然とした心地で、彼のその動作を見つめた。


 「貴女が朝顔と名乗るなら、俺にはそれが全てです。……ねえ、だから」


 俯きかけていた女の顔を上に向かせた彼が、口付けをする。ふわりと濡れた感触。
 あの夜と同じものだった。


 「黙って俺の傍を離れないで下さい。こんなにも好きなんです」


 彼の言葉の余韻が消える前に、また抱きすくめられる。
 どくどくと激しい心音が女のものであるのか、はたまた彼のものなのか、判らなかった。 


 
 彼に「帰りましょう」と諭されて、二人は男の家への道を並んで歩いていた。
 女の左手は、彼の右手と繋がっている。それが何だかこそばゆい。

 太陽が照り付けて、その暑さにじわりじわりと汗が滲んで来る。扇子で風を仰ぐ様に、空いた右手を動かす。


 「暑いですね」


 彼が額の汗を拭い乍ら、女に微笑み掛ける。
 首に浮かんだ汗を吸い取ったのだろう、襟元が濃く変色していた。


 「服がびしょびしょです」


 「大変。帰ったら御着替えしなくちゃ」


 向日葵畑を通り過ぎる。しゃきりと背筋を伸ばして日光を浴びる花々。
 澄み切った青い空と鮮烈な黄色の対比が、本格的な夏の到来を感じさせた。


 「そう云えば、違う種の朝顔がまた咲いたのですが」


 「まあ。今度は何色に?」


 「赤なんですよ。余り見た事が無かったので、感動しました」


 「赤……私も見た事が無いわ」


 どんな色をしているのかしら、と呟く。
 得意気な顔をした彼が、


 「楽しみにしていて下さい。……そうだ、秋には秋桜が咲きますよ」


 「秋桜も可愛らしくて好きです。楽しみにしていますね」


 きゅっと繋いだ手に力を込められる。
 彼を見上げると、真剣な眼差しで女を見詰めていた。


 「……花は、毎年咲きますから。だから」


 立ち止まる。
 遠くの方でじいいじいい、と蝉の鳴く声が聞こえた。蟀谷につうと汗が滴っていくのを感じる。


 「また来年も、その次の年も……ずっと、俺の隣で見ていて下さい。『素敵ですね』と言って、笑って居て欲しい。何時までも」


 「居て……いいのですか」


 「朝顔さんじゃなくちゃ、嫌ですよ」


 きゅうっと胸が甘く軋んだ。
 先程泣いていた所為か、涙腺が緩くなっている。ほろりと目尻から零れた露を、慌てた顔をした彼が優しく掬い取ってくれた。

 そんな幸福に溺れてしまいそうな頭の片隅で、女はある事を思い出す。


 赤い朝顔の花言葉は、『情熱』であったと。

しおりを挟む
感想 1

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(1件)

壱邑なお
2024.07.27 壱邑なお
ネタバレ含む
2024.08.03 夏凪彗

感想を送ってくださりありがとうございます!
初めてのことなのでとても嬉しいです!

着物や髪型などは特に念入りに調べたので、褒めていただけてほっとしました。

解除

あなたにおすすめの小説

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

25年の後悔の結末

専業プウタ
恋愛
結婚直前の婚約破棄。親の介護に友人と恋人の裏切り。過労で倒れていた私が見た夢は25年前に諦めた好きだった人の記憶。もう一度出会えたら私はきっと迷わない。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

冷たい王妃の生活

柴田はつみ
恋愛
大国セイラン王国と公爵領ファルネーゼ家の同盟のため、21歳の令嬢リディアは冷徹と噂される若き国王アレクシスと政略結婚する。 三年間、王妃として宮廷に仕えるも、愛されている実感は一度もなかった。 王の傍らには、いつも美貌の女魔導師ミレーネの姿があり、宮廷中では「王の愛妾」と囁かれていた。 孤独と誤解に耐え切れなくなったリディアは、ついに離縁を願い出る。 「わかった」――王は一言だけ告げ、三年の婚姻生活はあっけなく幕を閉じた。 自由の身となったリディアは、旅先で騎士や魔導師と交流し、少しずつ自分の世界を広げていくが、心の奥底で忘れられないのは初恋の相手であるアレクシス。 やがて王都で再会した二人は、宮廷の陰謀と誤解に再び翻弄される。 嫉妬、すれ違い、噂――三年越しの愛は果たして誓いとなるのか。

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

初恋にケリをつけたい

志熊みゅう
恋愛
「初恋にケリをつけたかっただけなんだ」  そう言って、夫・クライブは、初恋だという未亡人と不倫した。そして彼女はクライブの子を身ごもったという。私グレースとクライブの結婚は確かに政略結婚だった。そこに燃えるような恋や愛はなくとも、20年の信頼と情はあると信じていた。だがそれは一瞬で崩れ去った。 「分かりました。私たち離婚しましょう、クライブ」  初恋とケリをつけたい男女の話。 ☆小説家になろうの日間異世界(恋愛)ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18) ☆小説家になろうの日間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/18) ☆小説家になろうの週間総合ランキング (すべて)で1位獲得しました。(2025/9/22)

届かぬ温もり

HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった····· ◆◇◆◇◆◇◆ 読んでくださり感謝いたします。 すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。 ゆっくり更新していきます。 誤字脱字も見つけ次第直していきます。 よろしくお願いします。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。