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後篇
第四部
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崖の先端に向かって歩く。
下駄を脱いだ為に、剥き出しの岩肌が素足に刺さって痛い。
岩鼻に辿り着いて、腰を下ろす。その隣にきちんと揃えた下駄を置いた。足が宙ぶらりんで、恐怖心を煽る。
下を覗き込めば、寄せ返す波と時折跳ねる水飛沫が見えた。海面との距離は二十尺程。
遠い、と思った。
海に限りなく近いからか、風が強い。
髪がはためいて邪魔臭く、リボンをしゅるりと解いた。海に向かって投げ棄てる。白い布切れは透けた青に吸い込まれる様にして落ちて行き、やがて見えなくなった。
満足気に微笑んで、女は立ち上がる。
さて、次は私の番――――。
一歩、二歩。じりじりと限界まで近付いて行く。
幸せな最期だった、と女は独り言を零す。
これ以上の幸福はきっと、もう得る事が出来ないだろう。そう思わせる程に、彼と出逢ってからの毎日は幸せに満ちていた。
だからこそ、だ。彼に嫌われてしまう前に、棄てられてしまう前に、幸せな儘で全てを終わらせたいと祈ったのだ。
前方に身体を傾かせて、後は落ちるだけ――そう、思った。
がくんっと後ろから引っ張られてその儘、倒れそうになる。
でも、そうはならなかった。力強く、背後から抱き締められる。御蔭で立って居られた。
「朝顔……っ、何やって……!」
耳元に、荒く早い息遣いが聞こえる。
切羽詰まった声が、女を呼んだ。「朝顔」と。
「宗……寿郎、さん」
女の声は酷く震えていた。それは全身も然り、彼の支えが無ければ今度こそ落ちていたに違いない。
彼は女を自分の方に向かせて、それから再びきつく抱き締めた。
「如何して、……居なくなろうだなんて」
「…………」
「行かないで下さい……朝顔さんが居ないなんて、そんな世界」
「なぜ……?」
ぽつり、と意図せず声が零れた。
「貴方が好きになったのは、馨子じゃないの……?」
「いいえ」
ぐっと肩を押されて、身体が離れる。
向かい合った彼の額には、汗が浮かんでいた。
「朝顔さん、俺の目を見て下さい」
女はぼんやりと思う。
彼が自分の事を「俺」と言ったのを聞くのは、初めてだと。
言われるが儘に、彼の目を見る。其処には、髪を乱した女の姿が映っていた。
見ていたくないな、と視線を逸らそうとすると、彼の両手が頬を挟んでそれを阻む。
「見て。ちゃんと」
「……はい」
「俺が好きなのは、貴女です」
「……っ、」
「あの夜、確かにあの人と逢いました。でも、朝顔さんとも逢ったでしょう?」
「……逢い、ました」
「その時、あの人が着ていた着物の色が珍しくて、それが記憶に残ったのでしょうけど。俺はあの人に惚れた訳じゃない」
頬に置かれていた彼の片手が、そっと眦に動く。
其処を撫でる彼は、優しく微笑んでいた。
「それから再び貴女に逢った時、俺は朝顔さんに恋をしたんです」
「馨子でなく……?」
彼が強く頷く。信じてくれ、とでも言わんばかりに。
「目も、唇も、肌も髪も声も、恥じらう姿でさえ、愛おしいと思いました」
手を取られて、その指先に唇を落とされる。
何処か呆然とした心地で、彼のその動作を見つめた。
「貴女が朝顔と名乗るなら、俺にはそれが全てです。……ねえ、だから」
俯きかけていた女の顔を上に向かせた彼が、口付けをする。ふわりと濡れた感触。
あの夜と同じものだった。
「黙って俺の傍を離れないで下さい。こんなにも好きなんです」
彼の言葉の余韻が消える前に、また抱きすくめられる。
どくどくと激しい心音が女のものであるのか、はたまた彼のものなのか、判らなかった。
彼に「帰りましょう」と諭されて、二人は男の家への道を並んで歩いていた。
女の左手は、彼の右手と繋がっている。それが何だかこそばゆい。
太陽が照り付けて、その暑さにじわりじわりと汗が滲んで来る。扇子で風を仰ぐ様に、空いた右手を動かす。
「暑いですね」
彼が額の汗を拭い乍ら、女に微笑み掛ける。
首に浮かんだ汗を吸い取ったのだろう、襟元が濃く変色していた。
「服がびしょびしょです」
「大変。帰ったら御着替えしなくちゃ」
向日葵畑を通り過ぎる。しゃきりと背筋を伸ばして日光を浴びる花々。
澄み切った青い空と鮮烈な黄色の対比が、本格的な夏の到来を感じさせた。
「そう云えば、違う種の朝顔がまた咲いたのですが」
「まあ。今度は何色に?」
「赤なんですよ。余り見た事が無かったので、感動しました」
「赤……私も見た事が無いわ」
どんな色をしているのかしら、と呟く。
得意気な顔をした彼が、
「楽しみにしていて下さい。……そうだ、秋には秋桜が咲きますよ」
「秋桜も可愛らしくて好きです。楽しみにしていますね」
きゅっと繋いだ手に力を込められる。
彼を見上げると、真剣な眼差しで女を見詰めていた。
「……花は、毎年咲きますから。だから」
立ち止まる。
遠くの方でじいいじいい、と蝉の鳴く声が聞こえた。蟀谷につうと汗が滴っていくのを感じる。
「また来年も、その次の年も……ずっと、俺の隣で見ていて下さい。『素敵ですね』と言って、笑って居て欲しい。何時までも」
「居て……いいのですか」
「朝顔さんじゃなくちゃ、嫌ですよ」
きゅうっと胸が甘く軋んだ。
先程泣いていた所為か、涙腺が緩くなっている。ほろりと目尻から零れた露を、慌てた顔をした彼が優しく掬い取ってくれた。
そんな幸福に溺れてしまいそうな頭の片隅で、女はある事を思い出す。
赤い朝顔の花言葉は、『情熱』であったと。
下駄を脱いだ為に、剥き出しの岩肌が素足に刺さって痛い。
岩鼻に辿り着いて、腰を下ろす。その隣にきちんと揃えた下駄を置いた。足が宙ぶらりんで、恐怖心を煽る。
下を覗き込めば、寄せ返す波と時折跳ねる水飛沫が見えた。海面との距離は二十尺程。
遠い、と思った。
海に限りなく近いからか、風が強い。
髪がはためいて邪魔臭く、リボンをしゅるりと解いた。海に向かって投げ棄てる。白い布切れは透けた青に吸い込まれる様にして落ちて行き、やがて見えなくなった。
満足気に微笑んで、女は立ち上がる。
さて、次は私の番――――。
一歩、二歩。じりじりと限界まで近付いて行く。
幸せな最期だった、と女は独り言を零す。
これ以上の幸福はきっと、もう得る事が出来ないだろう。そう思わせる程に、彼と出逢ってからの毎日は幸せに満ちていた。
だからこそ、だ。彼に嫌われてしまう前に、棄てられてしまう前に、幸せな儘で全てを終わらせたいと祈ったのだ。
前方に身体を傾かせて、後は落ちるだけ――そう、思った。
がくんっと後ろから引っ張られてその儘、倒れそうになる。
でも、そうはならなかった。力強く、背後から抱き締められる。御蔭で立って居られた。
「朝顔……っ、何やって……!」
耳元に、荒く早い息遣いが聞こえる。
切羽詰まった声が、女を呼んだ。「朝顔」と。
「宗……寿郎、さん」
女の声は酷く震えていた。それは全身も然り、彼の支えが無ければ今度こそ落ちていたに違いない。
彼は女を自分の方に向かせて、それから再びきつく抱き締めた。
「如何して、……居なくなろうだなんて」
「…………」
「行かないで下さい……朝顔さんが居ないなんて、そんな世界」
「なぜ……?」
ぽつり、と意図せず声が零れた。
「貴方が好きになったのは、馨子じゃないの……?」
「いいえ」
ぐっと肩を押されて、身体が離れる。
向かい合った彼の額には、汗が浮かんでいた。
「朝顔さん、俺の目を見て下さい」
女はぼんやりと思う。
彼が自分の事を「俺」と言ったのを聞くのは、初めてだと。
言われるが儘に、彼の目を見る。其処には、髪を乱した女の姿が映っていた。
見ていたくないな、と視線を逸らそうとすると、彼の両手が頬を挟んでそれを阻む。
「見て。ちゃんと」
「……はい」
「俺が好きなのは、貴女です」
「……っ、」
「あの夜、確かにあの人と逢いました。でも、朝顔さんとも逢ったでしょう?」
「……逢い、ました」
「その時、あの人が着ていた着物の色が珍しくて、それが記憶に残ったのでしょうけど。俺はあの人に惚れた訳じゃない」
頬に置かれていた彼の片手が、そっと眦に動く。
其処を撫でる彼は、優しく微笑んでいた。
「それから再び貴女に逢った時、俺は朝顔さんに恋をしたんです」
「馨子でなく……?」
彼が強く頷く。信じてくれ、とでも言わんばかりに。
「目も、唇も、肌も髪も声も、恥じらう姿でさえ、愛おしいと思いました」
手を取られて、その指先に唇を落とされる。
何処か呆然とした心地で、彼のその動作を見つめた。
「貴女が朝顔と名乗るなら、俺にはそれが全てです。……ねえ、だから」
俯きかけていた女の顔を上に向かせた彼が、口付けをする。ふわりと濡れた感触。
あの夜と同じものだった。
「黙って俺の傍を離れないで下さい。こんなにも好きなんです」
彼の言葉の余韻が消える前に、また抱きすくめられる。
どくどくと激しい心音が女のものであるのか、はたまた彼のものなのか、判らなかった。
彼に「帰りましょう」と諭されて、二人は男の家への道を並んで歩いていた。
女の左手は、彼の右手と繋がっている。それが何だかこそばゆい。
太陽が照り付けて、その暑さにじわりじわりと汗が滲んで来る。扇子で風を仰ぐ様に、空いた右手を動かす。
「暑いですね」
彼が額の汗を拭い乍ら、女に微笑み掛ける。
首に浮かんだ汗を吸い取ったのだろう、襟元が濃く変色していた。
「服がびしょびしょです」
「大変。帰ったら御着替えしなくちゃ」
向日葵畑を通り過ぎる。しゃきりと背筋を伸ばして日光を浴びる花々。
澄み切った青い空と鮮烈な黄色の対比が、本格的な夏の到来を感じさせた。
「そう云えば、違う種の朝顔がまた咲いたのですが」
「まあ。今度は何色に?」
「赤なんですよ。余り見た事が無かったので、感動しました」
「赤……私も見た事が無いわ」
どんな色をしているのかしら、と呟く。
得意気な顔をした彼が、
「楽しみにしていて下さい。……そうだ、秋には秋桜が咲きますよ」
「秋桜も可愛らしくて好きです。楽しみにしていますね」
きゅっと繋いだ手に力を込められる。
彼を見上げると、真剣な眼差しで女を見詰めていた。
「……花は、毎年咲きますから。だから」
立ち止まる。
遠くの方でじいいじいい、と蝉の鳴く声が聞こえた。蟀谷につうと汗が滴っていくのを感じる。
「また来年も、その次の年も……ずっと、俺の隣で見ていて下さい。『素敵ですね』と言って、笑って居て欲しい。何時までも」
「居て……いいのですか」
「朝顔さんじゃなくちゃ、嫌ですよ」
きゅうっと胸が甘く軋んだ。
先程泣いていた所為か、涙腺が緩くなっている。ほろりと目尻から零れた露を、慌てた顔をした彼が優しく掬い取ってくれた。
そんな幸福に溺れてしまいそうな頭の片隅で、女はある事を思い出す。
赤い朝顔の花言葉は、『情熱』であったと。
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