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第九十二話 母の願い

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 夜空に浮かぶ月が、ほんの少しずつ傾き始めた頃、私は約束通り、お母さんの隣で横になっていた。

 確かにベッドはボロボロで小さいかもしれないけど、小さいってことは、お母さんにたくさんくっつけるってことでしょ? 逆にラッキーかもしれない。

「お母さん、寒くない?」
「ええ、大丈夫よ。エリンは? 寒いとかせまいとか」
「全然大丈夫! あ、やっぱりダメかも! だから、その……お母さんにくっついていい?」
「エリン、そんな回りくどい言い方をしなくてもいいのよ?」
「だって、なんかちょっと恥ずかしくて……」

 お母さんと一緒に寝られるのは、嬉しいんだよ? お母さんに甘えてみたいって、ずっと思ってたから。

 でも、なんだか気恥ずかしさもあるっていうか……なんて言えばいいか……自分でもよくわからない恥ずかしさがあるんだ。

「ねえエリン。お母さんを少し動かしてもらえないかしら?」
「えーっと、こんな感じ?」
「ええ、大丈夫。ありがとう」

 寝たままのお母さんを少しだけ動かした結果、私はお母さんの胸に顔をうずめるような形になった。私の背中には、お母さん手があって、優しく撫でてくれている。

 つまり、お母さんが私を優しく抱きしめてくれている形ってことね。

 これがお母さんの温もりなのね……ただ二人で布団に入っているだけなのに、こんなに心も体も暖かくなるなんて。

「そうだ、昔みたいに子守唄を歌ってあげましょうか?」
「もう、私はもう子供じゃないのよ?」
「私からしたら、あなたはずっと私の子供よ?」
「それはそうだけど……」
「ほら、そんなにむくれた顔をしないの。可愛い顔が台無しよ」

 子ども扱いされて、嬉しいような悲しいような……なんとも複雑な気分だわ。

 私はもう十九歳なんだから、子供じゃないのだけど、お母さんの中では、私が幼い頃のままで止まっているのかも?

「お母さん、元気になったら何かしたいことはある?」
「したいこと?」
「うんっ! せっかく病気が治ったんだから、したいことをたくさんしようよ!」
「それは、とても楽しそうね。そうねぇ……」

 お母さんは少しだけ何かを考えてから、フッと笑ってみせた。

 その表情は、確かに笑っているのだけど……どこか悲しそうに見えたのは、私の気のせいだろうか……?

「エリンとこうしておしゃべりすることかしら」
「そんなことでいいの?」
「お母さんにとっては、そんなことがとても楽しくて嬉しいことなのよ?」
「……そうだね。私もお母さんと同じ気持ちだよ。それじゃあ、今日は夜更かしして、たくさんお喋りしようよ」

 私はお母さんに、少し強めにギュッと抱きつくと、お母さんも少しだけ背中を撫でる手に力を入れてくれた。

「ええ、そうね。それじゃあ、最近の話を詳しく聞かせてもらえる? この前聞いたけど、もっと色々聞きたいわ。例えば、どうして薬屋さんの名前が、お母さんの名前なのかとかね」
「もちろん!」

 お母さんがそう望むなら、いくらでも話そう。話したいことは、この長い時間で積み上げられていて、いくら時間が合っても足りないもの。

「とはいっても、名前を決める時に、咄嗟に浮かんできた名前が、アトレだったんだ」
「そうだったの?」
「うん。私ね、連れていかれる時は幼かったから、故郷のことも、お母さんのこともほとんど覚えてなくて……だから、アトレって名前が出た時も、何なのかわからなかったんだ。きっと、お母さんとの繋がりを証明したくて、心の奥底に刻まれた名前が出てきたんだと思うんだ」

 今思うと、お母さんの名前を薬屋の名前にしてよかったなって思える。だって、オーウェン様とココちゃんだけじゃなくて、お母さんとも一緒に薬屋を営めたって思えるからね。


 ****


■オーウェン視点■

 エリンがアトレ殿を助けた日の深夜。モルガン殿の家に泊めてもらっていた俺は、エリンとアトレ殿の様子を見に、アトレ殿の家にやってきた。

 もう時間も遅いだろうから、チラッとだけ様子を見て帰ろうと考えていると、家の中から何か声が聞こえてきた。

「これは……歌か?」

 音を立てないようにして、家の中の様子を伺うと、ぼんやりと点いたランプの明かりの向こうで、エリンがアトレ殿に添い寝をしてもらいながら、子守唄を歌ってもらっていた。

 その光景と歌声は、どんな秀逸な物語や絵画でも表現しきれないほど美しい。俺のような部外者には、絶対に立ち入ることは出来ない、親子だけの空間だった。

「よかったな、エリン……」
「あら……?」
「あっ……」

 静かにその場を去ろうと思っていたのに、アトレ殿とバッチリと目が合ってしまった。

 俺としたことが、気づかれてしまうとはな……このまま帰るのはさすがに気が引ける。手短に謝罪をしてから帰るとしよう。

「オーウェンさん、こんばんは」
「こんばんは。アトレ殿、調子はいかがですか?」
「おかげさまで、だいぶ良くなりましたよ」
「それはなによりです。せっかくの親子水入らずのところを邪魔してしまい、申し訳ない」
「ふふっ、いいのよ。だって親子だというなら、あなただってそうでしょう?」

 いたずらっぽく笑うアトレ殿の言葉の意図をすぐに理解した俺は、照れ隠しで笑みを返すことしか出来なかった。

 俺には当然、彼女との血の繋がりは無い。なのに親子だというのなら……それは、エリンと結婚して、アトレ殿と義理の親子になるということなのだから。

「それに丁度良かったわ。あなたとゆっくり話をしたかったんです」
「そうでしたか。では、少しだけおじゃましてもよろしいですか?」
「ええ、よろこんで」

 近くにあったボロボロの椅子をベッドの近くに持っていくと、静かにその椅子に腰を降ろした。

 改めてエリンを見ると、今まで見たことがないくらい、穏やかで幸せそうな寝顔だった。ずっと故郷に帰り、母に会いたいと願い、その母を助けなくちゃいけないという重圧から解放されて、安心したのだろうな。

「エリン、よく眠ってますね」
「ええ。さっきまでとても楽しそうに話してたんですけど、疲れて眠っちゃいまして。この寝顔は昔から全然変わってないんですよ。本当に可愛くて……」
「とても愛らしい寝顔ですよね。普段も愛らしいですが、寝顔は特に愛らしい」
「あら、もうそこまでのご関係に?」
「そ、そういうわけでは……俺の妹を含めた三人で、同じ部屋で寝ているから知っているんです」
「うふふ、そんなに慌てなくても、冗談ですから」

 じょ、冗談だったのか……危うく変な誤解をされてしまうところだった。こんなことでエリンは嫁にあげないなんて言われたら、笑い話にもならない。

「それにしても……せっかくエリンが彼氏を連れてきたのに、何もおもてなしができなくて申し訳ないわ」
「こちらこそ、手土産の一つも持ってこなくて申し訳ない」
「手土産なら、持ってきてくれたじゃありませんか。最愛の娘との再会と、未来の息子との出会いという、最高の手土産を」
「なるほど。でしたら俺も、最愛の人の母上との出会いという、最高のおもてなしを受けました」
「では、互いに何の問題もありませんね。ふふっ」

 先程の笑顔を見た時も思ったが、エリンの母ということもあって、エリンの笑顔とよく似た、とても美しい笑みだ。

「オーウェンさん。遅くなりましたが、エリンをずっと支えてくださって、本当にありがとうございます」
「とんでもない。俺の方こそ、エリンには色々と支えてもらってますから」
「まあ、そうなんですか? 色々とエリンから話を聞いたんですが、本当にとてもよくしてもらったと伺ったものでして」

 ……エリンは一体、俺のことをどういうふうに話したんだ? 聞いてみたいような、聞きたくないような……。

「俺のしていることなんて、たかが知れてますよ。一緒に薬屋を開いてから得た成果は、全てエリンが頑張り続けたから得られたものです。今回も、エリンが諦めずに頑張ったからですしね」
「エリンの言った通り、謙虚な方なんですね」
「いえいえ。ちなみにですが……エリンはなんと?」
「そうですね……色々と話してくれましたけど……要点だけお伝えすると、強くてカッコいい貴族様で、優しくて、誠実で、家族想いで、それから――」
「も、もう結構です。あと、元貴族です」

 本当にエリンはどんな話をしたんだ!? さすがに色々と盛られすぎなような気がしてならないんだが!?

「世界で一番愛している人だと言ってました」
「…………」

 ……エリン、最後の最後で絶大な破壊力のある言葉を残したな。嬉しすぎて、顔がにやけるのを抑えられないんだが……こんな顔をアトレ殿に見られたら、少々恥ずかしい。

「ちょっとだけ嫉妬しちゃって、お母さんよりも? って聞いたら、お母さんも同じくらい愛してるって言ってて……我が子ながら、本当に可愛くて可愛くて。あの子が楽しそうに話しているのを見てると、本当に幸せなんです。親バカですよね」
「良いじゃありませんか。それほどエリンのことを愛しているということですから」

 こんなに愛してもらえる母に再会できたことを嬉しく思う反面、少々羨ましいな。俺も、もっと父上と母上に甘えておくべきだったかもしれない。

 ……なんてな。そんなことをしたら、騎士としてそんな甘えるなと叱られそうだ。

「ええ、世界で一番愛しています。この子を産んで……本当に良かった……ごほっ」
「大丈夫ですか? まだ病み上がりなのですから、あまりご無理はされない方がよろしいかと」
「そうですね。そろそろ休もうと思います。その前に……お願いがあるんです」
「なんでしょうか?」
「エリンのこと、これからも末永くよろしくお願いします。私の分まで、たくさん愛してください。私の分まで……一緒に幸せになってください」
「……はい。この剣とあなたに、エリンを愛し、幸せになると誓いましょう。では、また明日」
「おやすみなさい」

 俺は短く返事とお辞儀をしてから、エリンを起こさないように静かに家を後にした。

 短いお願いではあったが、そこにはアトレ殿のエリンに対する想いの全てが詰まっていた。純粋な母親としての愛情が、とても俺には眩しく見えた。

 だが、それと同時に……胸の奥に、言いようのない不安が渦巻いていた。

 どうしてアトレ殿は、あんな言い方をしたんだ? まるで……もう自分が俺やエリンと、二度と会えないような言い方を……。

 



「エリン……」
「すー……すー……」
「お母さんね、あなたが生まれてから、とっても幸せだった。あなたは、お母さんの宝物なの。だからね……」
「んぅ……?」
「お母さんの分まで、たくさんたくさん……幸せに、生きてね……愛しているわ、エリン」
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