2 / 4
ニ
しおりを挟む
箸を持っていない方の指でスクロールされていくのは、未だ足を踏み入れたことのない企業の数々。もし行動を起こせばきっとここより待遇が下がるに決まっているのに、転職サイトは俺にとって。
「野田さーん」
いつからか、お守りのような存在になっていた。
「おう。何、お前、今日はいつもの弁当頼んでないの?」
「もうあそこの弁当も食べ飽きましたよー……って、昼間っから何いかがわしいもの見てたんっすか?」
「見てねえよ」
「急いで画面消したじゃないっすか。そんなの見なくても、野田さんには新井さんがいるじゃないっすか」
「いや、そんなんじゃないから」
「野田ちゃーん」
一つ下の後輩である池垣はスーツの上着を椅子にかけた後に、わざとらしく左手の人差し指で髪をくるくるするような動作をしながら新井さんの声真似をした。
「お前、だからうざがられるんだよ」
「えっ!誰にっすか」
あえて無視をして俺はペットボトルのお茶を口に含んだ。
ここ、小野山支店の二階には会議室、男女それぞれの更衣室、そして今俺らが昼飯を食べている食堂がある。『食堂』と言っても、オマケのように備え付けられたTVに小さな給湯室があるだけのほぼ会議室のような部屋だ。
「あ、そう言えば、お前、最近生命保険扱った?」
「生保っすかー……」
「黒出産業の娘の旦那が入りたいんだと。今だったらどれ勧めるんだろ」
「えっとー、確か……あ、ほら、専門家が来ましたよっ」
池垣に促されるまま目線を食堂の入り口に向けると、慌ただしく入って来たのは分厚い営業カバンを持った新井さんだった。
「新井さん!野田さんが呼んでるっす!」
「あ、おい、明らかに忙しそうじゃねえか」
池垣を制すも間に合わず、新井さんは歩む角度をこちらに向けて、ドカッと荷物を椅子に置いた。
「どうしたのっ?」
そう言いながら座って、小さなビニール袋から出したサンドイッチの包装をピリピリ破り始める。
「ごめん、忙しそうなとこ。食べたら出るんだろ?」
「いいの、いいの、食べてりゅ間はにぇ」
頬張りながらも話してくれて、相変わらずの親身さをひしひしと感じる。ふと目をやると、池垣はいつの間にかスマホでゲームをしていた。
「あのさ、黒出産業の娘の旦那が生命保険に入りたいみたいで。今だったらどれ勧めたらいいだろ」
「あーそうにゃんだ」
確かに今彼女の口にパンやら何やらが入っているのかもしれないが、もしわざとそういう喋り方をしているのだとしても、可愛いと思ってしまう男の性。
「今はこりぇ一択よっ」
そう言って鞄から取り出したパンフレットは、リスク性のある商品のものだった。
「生保ではこれが一番ポイント高いよ」
一瞬、固まった。
ポイントとは、我々の営業成績を決めるポイントのことであり、毎月のポイントノルマが決まっている。リスク性のある商品が高ポイントなのは、それだけ銀行側にとって保険会社からの見返りが大きいからであった。
ハイリスクを抱えてでもハイリターンを望む顧客には、この商品を勧める意味はあるだろう。
しかし。
「じゃあ、私もう行くねー。これちょっと折れ曲がってるから、綺麗なの下から持って行って」
パンフレットを触った後に一階を指差して、新井さんはまた慌ただしく行ってしまった。池垣はスマホの画面を覗き込みながら、一人で課金がどうのこうの呟いている。
昼食後、俺は様々な保険関係の書類が入った棚の前で、例のパンフレットを広げていた。
いい加減、慣れないとな。
説明は丁寧にするものの、こちら側にとってもメリットのある商品を勧めるのは当たり前のこと。
『なんだかなぁ』
いちいち立ち止まるなよ。疑問を持つなよ。一体、何年目なんだよ。
働いてる間くらい、人間の心を捨てろ。ロボットになれよ。
赤みを帯びた黄色が、捨てられない心に浮かぶ。
「野田さん」
はっ
気づけば、その山吹色を俺の心に植え付けた張本人の彼女が隣に立っていた。
「……川崎さん、あ、どうしたんですか」
そう言えば、彼女の転勤が決まったというのにまだ何もそれに関する言葉を交わしていない。もっとも、交わしたところで盛り上がる想像も出来ないのだが。
「お客様にとっては、こちらの方がいい場合もあります」
綺麗に手入れされた素爪が光る親指に挟まれるように、そのパンフレットは差し出された。
「野田さんが持っている方はリスクが高い商品なので、いくらこちら側にとってはいい商品でも無理強いしない方がいいです。このローリスクなものも選択肢のひとつとして提示してくださいね」
瞬間的に、彼女の真っ直ぐな黒い瞳に吸い込まれた。
「……ありがとう」
くるりと踵きびすを返す姿に、あの土砂降りの雨の日の彼女を強く思い返す。
あの日、定時を越えて人もまばらな支店に向かい、傘を置いていなかった営業車から裏口にダッシュした俺はどうしようもなく濡れてしまった。
途方に暮れながら裏口から中に進んで行こうとすると、視界に入ったのはひらめく山吹色の長いスカート。
顔を上げると、黒い髪を首筋あたりで揺らし心配そうに駆け寄って来る、制服から着替えた川崎さんの姿がそこにあった。
そして、今までたいした言葉を交わしたこともなかった彼女が、自分のハンカチで俺の雨粒のついた頭をそっと拭いた。
黒い瞳は必要以上に語らずに、ただ、真っ直ぐに。
俺は意味もなく、この日の記憶にすがり続けている。
「野田さーん」
いつからか、お守りのような存在になっていた。
「おう。何、お前、今日はいつもの弁当頼んでないの?」
「もうあそこの弁当も食べ飽きましたよー……って、昼間っから何いかがわしいもの見てたんっすか?」
「見てねえよ」
「急いで画面消したじゃないっすか。そんなの見なくても、野田さんには新井さんがいるじゃないっすか」
「いや、そんなんじゃないから」
「野田ちゃーん」
一つ下の後輩である池垣はスーツの上着を椅子にかけた後に、わざとらしく左手の人差し指で髪をくるくるするような動作をしながら新井さんの声真似をした。
「お前、だからうざがられるんだよ」
「えっ!誰にっすか」
あえて無視をして俺はペットボトルのお茶を口に含んだ。
ここ、小野山支店の二階には会議室、男女それぞれの更衣室、そして今俺らが昼飯を食べている食堂がある。『食堂』と言っても、オマケのように備え付けられたTVに小さな給湯室があるだけのほぼ会議室のような部屋だ。
「あ、そう言えば、お前、最近生命保険扱った?」
「生保っすかー……」
「黒出産業の娘の旦那が入りたいんだと。今だったらどれ勧めるんだろ」
「えっとー、確か……あ、ほら、専門家が来ましたよっ」
池垣に促されるまま目線を食堂の入り口に向けると、慌ただしく入って来たのは分厚い営業カバンを持った新井さんだった。
「新井さん!野田さんが呼んでるっす!」
「あ、おい、明らかに忙しそうじゃねえか」
池垣を制すも間に合わず、新井さんは歩む角度をこちらに向けて、ドカッと荷物を椅子に置いた。
「どうしたのっ?」
そう言いながら座って、小さなビニール袋から出したサンドイッチの包装をピリピリ破り始める。
「ごめん、忙しそうなとこ。食べたら出るんだろ?」
「いいの、いいの、食べてりゅ間はにぇ」
頬張りながらも話してくれて、相変わらずの親身さをひしひしと感じる。ふと目をやると、池垣はいつの間にかスマホでゲームをしていた。
「あのさ、黒出産業の娘の旦那が生命保険に入りたいみたいで。今だったらどれ勧めたらいいだろ」
「あーそうにゃんだ」
確かに今彼女の口にパンやら何やらが入っているのかもしれないが、もしわざとそういう喋り方をしているのだとしても、可愛いと思ってしまう男の性。
「今はこりぇ一択よっ」
そう言って鞄から取り出したパンフレットは、リスク性のある商品のものだった。
「生保ではこれが一番ポイント高いよ」
一瞬、固まった。
ポイントとは、我々の営業成績を決めるポイントのことであり、毎月のポイントノルマが決まっている。リスク性のある商品が高ポイントなのは、それだけ銀行側にとって保険会社からの見返りが大きいからであった。
ハイリスクを抱えてでもハイリターンを望む顧客には、この商品を勧める意味はあるだろう。
しかし。
「じゃあ、私もう行くねー。これちょっと折れ曲がってるから、綺麗なの下から持って行って」
パンフレットを触った後に一階を指差して、新井さんはまた慌ただしく行ってしまった。池垣はスマホの画面を覗き込みながら、一人で課金がどうのこうの呟いている。
昼食後、俺は様々な保険関係の書類が入った棚の前で、例のパンフレットを広げていた。
いい加減、慣れないとな。
説明は丁寧にするものの、こちら側にとってもメリットのある商品を勧めるのは当たり前のこと。
『なんだかなぁ』
いちいち立ち止まるなよ。疑問を持つなよ。一体、何年目なんだよ。
働いてる間くらい、人間の心を捨てろ。ロボットになれよ。
赤みを帯びた黄色が、捨てられない心に浮かぶ。
「野田さん」
はっ
気づけば、その山吹色を俺の心に植え付けた張本人の彼女が隣に立っていた。
「……川崎さん、あ、どうしたんですか」
そう言えば、彼女の転勤が決まったというのにまだ何もそれに関する言葉を交わしていない。もっとも、交わしたところで盛り上がる想像も出来ないのだが。
「お客様にとっては、こちらの方がいい場合もあります」
綺麗に手入れされた素爪が光る親指に挟まれるように、そのパンフレットは差し出された。
「野田さんが持っている方はリスクが高い商品なので、いくらこちら側にとってはいい商品でも無理強いしない方がいいです。このローリスクなものも選択肢のひとつとして提示してくださいね」
瞬間的に、彼女の真っ直ぐな黒い瞳に吸い込まれた。
「……ありがとう」
くるりと踵きびすを返す姿に、あの土砂降りの雨の日の彼女を強く思い返す。
あの日、定時を越えて人もまばらな支店に向かい、傘を置いていなかった営業車から裏口にダッシュした俺はどうしようもなく濡れてしまった。
途方に暮れながら裏口から中に進んで行こうとすると、視界に入ったのはひらめく山吹色の長いスカート。
顔を上げると、黒い髪を首筋あたりで揺らし心配そうに駆け寄って来る、制服から着替えた川崎さんの姿がそこにあった。
そして、今までたいした言葉を交わしたこともなかった彼女が、自分のハンカチで俺の雨粒のついた頭をそっと拭いた。
黒い瞳は必要以上に語らずに、ただ、真っ直ぐに。
俺は意味もなく、この日の記憶にすがり続けている。
0
あなたにおすすめの小説
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました
cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。
そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。
双子の妹、澪に縁談を押し付ける。
両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。
「はじめまして」
そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。
なんてカッコイイ人なの……。
戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。
「澪、キミを探していたんだ」
「キミ以外はいらない」
《本編完結》あの人を綺麗さっぱり忘れる方法
本見りん
恋愛
メラニー アイスナー子爵令嬢はある日婚約者ディートマーから『婚約破棄』を言い渡される。
ショックで落ち込み、彼と婚約者として過ごした日々を思い出して涙していた───が。
……あれ? 私ってずっと虐げられてない? 彼からはずっと嫌な目にあった思い出しかないんだけど!?
やっと自分が虐げられていたと気付き目が覚めたメラニー。
しかも両親も昔からディートマーに騙されている為、両親の説得から始めなければならない。
そしてこの王国ではかつて王子がやらかした『婚約破棄騒動』の為に、世間では『婚約破棄、ダメ、絶対』な風潮がある。
自分の思うようにする為に手段を選ばないだろう元婚約者ディートマーから、メラニーは無事自由を勝ち取る事が出来るのだろうか……。
行き場を失った恋の終わらせ方
当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」
自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。
避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。
しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……
恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。
※他のサイトにも重複投稿しています。
雪の日に
藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。
親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。
大学卒業を控えた冬。
私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ――
※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。
【完結】捨ててください
仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと貴方の側にいた。
でも、あの人と再会してから貴方は私ではなく、あの人を見つめるようになった。
分かっている。
貴方は私の事を愛していない。
私は貴方の側にいるだけで良かったのに。
貴方が、あの人の側へ行きたいと悩んでいる事が私に伝わってくる。
もういいの。
ありがとう貴方。
もう私の事は、、、
捨ててください。
続編投稿しました。
初回完結6月25日
第2回目完結7月18日
わたしのことがお嫌いなら、離縁してください~冷遇された妻は、過小評価されている~
絹乃
恋愛
伯爵夫人のフロレンシアは、夫からもメイドからも使用人以下の扱いを受けていた。どんなに離婚してほしいと夫に訴えても、認めてもらえない。夫は自分の愛人を屋敷に迎え、生まれてくる子供の世話すらもフロレンシアに押しつけようと画策する。地味で目立たないフロレンシアに、どんな価値があるか夫もメイドも知らずに。彼女を正しく理解しているのは騎士団の副団長エミリオと、王女のモニカだけだった。※番外編が別にあります。
地味な私を捨てた元婚約者にざまぁ返し!私の才能に惚れたハイスペ社長にスカウトされ溺愛されてます
久遠翠
恋愛
「君は、可愛げがない。いつも数字しか見ていないじゃないか」
大手商社に勤める地味なOL・相沢美月は、エリートの婚約者・高遠彰から突然婚約破棄を告げられる。
彼の心変わりと社内での孤立に傷つき、退職を選んだ美月。
しかし、彼らは知らなかった。彼女には、IT業界で“K”という名で知られる伝説的なデータアナリストという、もう一つの顔があったことを。
失意の中、足を運んだ交流会で美月が出会ったのは、急成長中のIT企業「ホライゾン・テクノロジーズ」の若き社長・一条蓮。
彼女が何気なく口にした市場分析の鋭さに衝撃を受けた蓮は、すぐさま彼女を破格の条件でスカウトする。
「君のその目で、俺と未来を見てほしい」──。
蓮の情熱に心を動かされ、新たな一歩を踏み出した美月は、その才能を遺憾なく発揮していく。
地味なOLから、誰もが注目するキャリアウーマンへ。
そして、仕事のパートナーである蓮の、真っ直ぐで誠実な愛情に、凍てついていた心は次第に溶かされていく。
これは、才能というガラスの靴を見出された、一人の女性のシンデレラストーリー。
数字の奥に隠された真実を見抜く彼女が、本当の愛と幸せを掴むまでの、最高にドラマチックな逆転ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる