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第二章 戸惑う心 触れ合う身体
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カナが振り返った先にいたのは、戸惑った表情のまま固まっているアズベルトだった。まさか誰か居るとは思っていなかったカナが驚愕の表情で彼を見つめた。
「アズ……なんで……」
「リアの悲鳴が聞こえたから……。すまない、ノックはしたんだが返事が無かったから、何かあったのかと……」
身体を震わせて瞳に涙を溜め、怯えるように見上げてくる姿に、アズベルトは無意識に手を伸ばし、目尻をそっと拭っていた。
「大丈夫か?」
「あの……」
カナが口を開き掛けた時、再び雷鳴が轟いた。厚いカーテン越しに窓枠をくっきりと浮かび上がらせる程の閃光が室内を照らす。
ほぼ同時に空を割ってしまいそうな、先程よりも更に破壊的な轟音がバリバリと鳴り響き、突き上げるような振動が壁や屋根を揺らしたのだ。
「!!」
喉を詰まらせるような悲鳴を上げ、カナは無意識のうちにアズベルトへしがみついた。
恐怖から逃れたいという咄嗟の本能的な行動だった。それか、無意識のカナリアの選択だったのかもしれない。
カナリアが一番安心出来るところがアズベルトの胸の中だったのだろう。
こんな風に無意識の行動や咄嗟の判断の時、カナの意識とは別の行動をとってしまう事がある。そんな時、この身体は自分ではないのだと再認識させられてしまうのだ。
やってしまったと思った時には、背中にアズベルトの腕が回されていた。
あやすように、落ち着けるように、背中を優しくポンポンと叩いてくれている。
「……っ!」
嫌がられるか引き離されるかと思ったのに、予想と違う反応にカナの方が戸惑ってしまった。
「あのっ、ごめんなさい……」
「いや、いいんだ。それより、神鳴りが苦手だったんだな」
腕が緩み、身体を離した。
年甲斐もなく子供のようにしがみついてしまった恥ずかしさで、カナはアズベルトを見れないまま小さく頷いた。
身体同士は離れたが、アズベルトはまだ肩を抱いてくれている。
その事に気恥ずかしさと安心感を覚えながら、カナは俯いたまま雷が苦手になった幼い頃の記憶を話した。
「子供の頃に落雷のせいで家の近くで火事があって……。その事がトラウマになってしまって、未だに雷が苦手なの」
「……そうか。それは怖かっただろう。子供の頃の記憶というものは強く心に残るものだからな」
アズベルトの手がふわりとカナの頭に乗せられると、ゆっくり撫でてくる。それに驚いて顔を上げると、目の前には穏やかに緩められた琥珀色があった。
「辛い経験なのに、話させて悪かった」
傲慢な貴族様な筈なのに、強引で人の事振り回すくせに、こんな時はちゃんと優しいなんて。
ゆるゆると僅かに首を振り、こちらを見つめる琥珀色に目を奪われたまま、さっきとは違う音を立て始めた心臓を抑えた。
「側にいるから横になるといい」と言われ、ベッドに腰掛けるアズベルトの隣に横向きに身体を横たえた。
再び轟いた雷鳴にびくりと身体を揺らすと、アズベルトの大きな手がカナの右手へ触れてくる。
「こうしていれば少しは不安も和らぐだろうか」
アズベルトの大きな手が甲の上からカナの右手を包み込む。大きく温かい手は皮膚が厚いのか硬く骨ばっており、ごつごつした印象だった。
健のとは違うその逞しい手が、今は何より心強く感じ、手のひらに触れる彼の親指をギュッと握った。
「それにしても神鳴りが落ちただなんて、そこの家主は神の怒りをかってしまったのだな」
「え?」
何の事かと顔を動かせば、真剣な顔でカナを見下ろすアズベルトの美顔があった。
嘘や作り話にはとても思えないから、こちらのカミナリは神話や伝承の類として考えられている事象なのかもしれない。
落雷は神様の罰といったところだろうか。
「余程の事をしたのか」
「いいえ。その家は元々空き家で、当時も誰もいなかったわ。そのおかげで怪我人もなかったし、幸い周りへの被害も無かったの」
「そうなのか」
「こちらの世界では雷はそういう風に伝わっているのね」
「違うのか?」
「雷は自然現象で、雲の中の小さな水滴や氷の粒がぶつかり合う事で電気エネルギーが発生し、それが溜めきれなくなって地表へ放電される現象だと習ったわ」
「習う? もしや君も学院へ?」
も、という事は、ここにも学校のような施設があるのだろうか。アズベルトももしかしたら卒業生なのかもしれない。
「私のいた国ではある程度の年齢になるとみんな学校へ通うの。基本的な読み書きや計算は誰でも出来るわ」
「なるほど。……通りで。家事や調理にも精通してると聞いた。……君は博識なのだな」
ナタリーと一緒に掃除をしたり、ちょっとしたおやつを作っていることは、やはりアズベルトにも伝わっていたらしい。
掃除も料理も独身期間がそれなりあったし、一人暮らしをしていたから自分でやるしかなかっただけの事だ。
それを博識と言われるのはこそばゆいものがあった。
眉尻を下げ困ったように微笑むカナリアをアズベルトがじっと見つめる。
「私の国では一般的なレベルだと思うわ。私より頭の良い人は沢山いたもの」
「君は……その知識をひけらかしたりしないのだな……」
「そんな事に意味はないでしょう? 知らない事があるのなら知ればいいし、わからない事は教えて貰えばいいと思うわ」
アズベルトの表情が僅かに変化したが、一瞬の事でカナの目には映らなかった。
「……そうか。そうだな。……君のような人間ばかりなら……」
「?」
ポツリと呟く声が気になって彼を見上げたが、返って来たのは穏やかな琥珀色だった。
「神鳴りは去ったようだな。眠るなら今のうちだぞ」
そう言われて聞き耳を立てたが、屋根や窓を打つ雨音が確かに小さくなっていた。
アズベルトとのおしゃべりに気を取られているうちに、雷も遠くへ行ってしまったようだ。
「付き合わせてごめんなさい。もう一人でも大丈夫だから」
握っていた手を離そうとするも、反対に彼の手がギュッとカナの手を握ってくる。
「いいから。さっさと目を閉じないと、眠るまで添い寝する事になるぞ?」
見上げた美顔には、ニヤリと怪しげに歪む笑みが浮かんでいる。カナがどういう反応を示すかを分かった上での発言に、案の定頬が熱くなった。
今が夜で部屋が暗くて良かったと思う。でなければ、真っ赤になった顔を見られて、ますます意地悪されそうだ。
アラサーにもなって、雷が怖くて抱きついた上に添い寝までされたなんて事になったら、恥ずかしくて外を歩けなくなりそうだ。
それは阻止しなければと、カナは慌てて目を閉じた。
カナとして接した上でちゃんと優しかった事に驚き、心細いと感じていた気持ちに寄り添ってくれた事が嬉しかった。
やっぱりちゃんとお礼がしたいと、そう思った。
「アズ……ありがとう」
「ああ。おやすみ」
翌朝。
昨日の荒天が嘘のように、窓の外には青空が広がっている。ナタリーが開けてくれた窓からは、雨の後の土や緑の青臭さの混じった風がふわりと舞い込み室内をかき混ぜている。この匂いは何処にいても同じなんだなぁと、少しばかり寂しい気持ちになってしまった。
そのうち本宅から執事たちが訪れ、アズベルトと共に朝食の席について間も無くだった。
若い執事の一人が、たった今届いたとアズベルト宛の手紙を手にダイニングへ入って来たのだ。
そこに押された封蝋印を目にした彼の顔色が一変し急いで封を切ると、食事中にも関わらず中身を確認し出した。
余程重要な手紙だったようで、読み終えてすぐアズベルトが席を立つ。
「すまないリア。城の友人から緊急の呼び出しだ」
「え……それって……」
アズベルトが小さく頷く。もしかして帰る為の手掛かりが掴めたのかも知れない。
心臓がドクンと波打ち、全身に鳥肌が立った。
待ちに待った知らせに興奮する一方、寂しさのような焦燥感に似た、胸の奥をツキツキと刺激する言葉に出来ない感情に戸惑った。
夕食までには戻ると言うアズベルトを見送ると、クーラが小声で「カナリア様」と声を掛けてくる。
これはいきなりサプライズのチャンス到来である。調味料の確認がまだだったが、クーラの様子から用意は出来ているのだろう。
目配せし合い、打ち合わせ通り『カカオ豆大作戦』を実行。まんまとナタリーをお使いへと誘ったのであった。
クーラには『手出し無用』と伝え、いざエプロンを身に付ける。
用意された調味料を手早く確認し、メニューを考えた。
得意料理は和食だから、出来ればそうしたいと考えていた。
全く同じものは難しいだろうが、それに近いものは出来るだろうと思う。料理は得意な方だ。
この身体になってしまってから、好きな事を自由に出来るという事が当たり前では無かったのだと実感した。
皐月かなだった頃に普通だと思っていた事が、ただ普通に毎日を送る事がどれだけ恵まれていて幸せだったのだと、改めて実感した。
病弱な身体になってしまって、自分の事なのに自分で出来ない歯痒さが辛かった。
アズベルトやナタリーに、自分の為に時間を割いてもらう事が申し訳なかった。
二人共本当に良くしてくれて、当たり前の事のように助けてくれるのだ。実際それが当たり前だったのだろうが、その事がどれだけ自分の救いになっていたか、ちゃんと伝えたいと思った。
ここまで出来る程回復したのだと感謝と共に伝えたい、その想いで一生懸命調理に励んだ。
ところが、調理も終盤に差し掛かった頃、ナタリーが帰って来てしまったのだ。
「こんな事だろうと思ったわ」
彼女の手には頼んでおいたカカオ豆が少量ではあったがきちんとあった。
聞けば、カカオの噂を聞いたアズベルトが、本宅の執事に入手しておくよう手配済みだったのだと言う。
流行り物の事なら本宅で聞いた方が情報を得られると考えたナタリーは、街へ出る前に本宅へ寄っていたのだ。
そこに丁度良く仕入れ済みだったカカオを発見し、そのまま街へ出る事なく帰宅してきたのだと言う。
「言い訳を聞きましょうか」
「いや、これは……その……」
目を釣り上げ、いつもの数倍低音ボイスのナタリーに、しどろもどろのクーラが低姿勢で事情を説明している。
その様子が何だか喧嘩した熟年夫婦のようで、自分の我儘でこんな状況になっているにも関わらず微笑ましい気持ちになってしまった。
ナタリーはどうかは分からないが、少なくともクーラにはその気があるのではないかと思えた。
尻尾を垂らし耳を伏せた子犬のように意気消沈してしまったクーラを救出するため、カナが二人の間に入る。
「ナタリー怒らないで。今夜の夕食は私が作りたいって、無理言って準備してもらったの」
「どういう事?」
「アズとナタリーを驚かせたくて、二人に内緒にしてってクーラに頼んだのよ」
「なんでそんな事……」
「いつも私を助けてくれるでしょう? それが嬉しかったから、ありがとうって伝えたくて……。心配掛けてごめんなさい」
「カナリア……」
睫毛を伏せ、俯きながら声のトーンを落としてみる。しおらしさを前面に出して謝意を伝えた。申し訳ないと思ったのは本当だ。
ナタリーは「ありがとう」と瞳を潤ませながら許してくれた。
少しずつ『カナリアの使用方法』が分かってきた。基本みんなカナリアに甘いのだ。
予定よりもずっと早くナタリーが帰宅した為、料理が完成しないうちにクーラが本宅へと戻る事になってしまった。
とても残念そうに落ち込むクーラが子犬のようで、ナタリーに怒られてしまったお詫びも兼ねてお菓子を作る約束をした。
嬉しそうに帰っていったクーラは、本当にワンコのようだった。
出来上がったのは得意の『和食』もどきだ。
鳥の照り焼きと、葉物のおひたし。根菜類を塩揉みした浅漬けと、塩とキノコの出汁で吸い物、それから同じ出汁を使って卵焼きを作った。
あとはデザートにカカオを使ったチョコレートドリンクを。
米は流石に無いのでパンを添える。
苦労したのは照り焼きだ。醤油が無かった為に代用したのは、果物を発酵させて作られた甘味の強いソースだ。
クーラが用意してくれた調味料の中にあったもので、少し酸味はあったが水で薄めて煮詰めることで飛ばし、照り焼きソースにしたのだ。
出来上がった品は、ナタリーには珍しいものばかりのようだ。
今更口にした事のないものを食べてもらうのは不安だっただろうかと考えたが、ナタリーは夕食の時間が楽しみだと言ってくれた。
二人が喜んでくれればいいなと思いながら作ったのだ。そう言ってもらえて嬉しかった。
後はアズベルトの帰りを待つばかりだったのだが、そんな日に限っていつもの時間になっても一向に帰らない事に、カナの胸には一抹の不安が広がっていった。
「アズ……なんで……」
「リアの悲鳴が聞こえたから……。すまない、ノックはしたんだが返事が無かったから、何かあったのかと……」
身体を震わせて瞳に涙を溜め、怯えるように見上げてくる姿に、アズベルトは無意識に手を伸ばし、目尻をそっと拭っていた。
「大丈夫か?」
「あの……」
カナが口を開き掛けた時、再び雷鳴が轟いた。厚いカーテン越しに窓枠をくっきりと浮かび上がらせる程の閃光が室内を照らす。
ほぼ同時に空を割ってしまいそうな、先程よりも更に破壊的な轟音がバリバリと鳴り響き、突き上げるような振動が壁や屋根を揺らしたのだ。
「!!」
喉を詰まらせるような悲鳴を上げ、カナは無意識のうちにアズベルトへしがみついた。
恐怖から逃れたいという咄嗟の本能的な行動だった。それか、無意識のカナリアの選択だったのかもしれない。
カナリアが一番安心出来るところがアズベルトの胸の中だったのだろう。
こんな風に無意識の行動や咄嗟の判断の時、カナの意識とは別の行動をとってしまう事がある。そんな時、この身体は自分ではないのだと再認識させられてしまうのだ。
やってしまったと思った時には、背中にアズベルトの腕が回されていた。
あやすように、落ち着けるように、背中を優しくポンポンと叩いてくれている。
「……っ!」
嫌がられるか引き離されるかと思ったのに、予想と違う反応にカナの方が戸惑ってしまった。
「あのっ、ごめんなさい……」
「いや、いいんだ。それより、神鳴りが苦手だったんだな」
腕が緩み、身体を離した。
年甲斐もなく子供のようにしがみついてしまった恥ずかしさで、カナはアズベルトを見れないまま小さく頷いた。
身体同士は離れたが、アズベルトはまだ肩を抱いてくれている。
その事に気恥ずかしさと安心感を覚えながら、カナは俯いたまま雷が苦手になった幼い頃の記憶を話した。
「子供の頃に落雷のせいで家の近くで火事があって……。その事がトラウマになってしまって、未だに雷が苦手なの」
「……そうか。それは怖かっただろう。子供の頃の記憶というものは強く心に残るものだからな」
アズベルトの手がふわりとカナの頭に乗せられると、ゆっくり撫でてくる。それに驚いて顔を上げると、目の前には穏やかに緩められた琥珀色があった。
「辛い経験なのに、話させて悪かった」
傲慢な貴族様な筈なのに、強引で人の事振り回すくせに、こんな時はちゃんと優しいなんて。
ゆるゆると僅かに首を振り、こちらを見つめる琥珀色に目を奪われたまま、さっきとは違う音を立て始めた心臓を抑えた。
「側にいるから横になるといい」と言われ、ベッドに腰掛けるアズベルトの隣に横向きに身体を横たえた。
再び轟いた雷鳴にびくりと身体を揺らすと、アズベルトの大きな手がカナの右手へ触れてくる。
「こうしていれば少しは不安も和らぐだろうか」
アズベルトの大きな手が甲の上からカナの右手を包み込む。大きく温かい手は皮膚が厚いのか硬く骨ばっており、ごつごつした印象だった。
健のとは違うその逞しい手が、今は何より心強く感じ、手のひらに触れる彼の親指をギュッと握った。
「それにしても神鳴りが落ちただなんて、そこの家主は神の怒りをかってしまったのだな」
「え?」
何の事かと顔を動かせば、真剣な顔でカナを見下ろすアズベルトの美顔があった。
嘘や作り話にはとても思えないから、こちらのカミナリは神話や伝承の類として考えられている事象なのかもしれない。
落雷は神様の罰といったところだろうか。
「余程の事をしたのか」
「いいえ。その家は元々空き家で、当時も誰もいなかったわ。そのおかげで怪我人もなかったし、幸い周りへの被害も無かったの」
「そうなのか」
「こちらの世界では雷はそういう風に伝わっているのね」
「違うのか?」
「雷は自然現象で、雲の中の小さな水滴や氷の粒がぶつかり合う事で電気エネルギーが発生し、それが溜めきれなくなって地表へ放電される現象だと習ったわ」
「習う? もしや君も学院へ?」
も、という事は、ここにも学校のような施設があるのだろうか。アズベルトももしかしたら卒業生なのかもしれない。
「私のいた国ではある程度の年齢になるとみんな学校へ通うの。基本的な読み書きや計算は誰でも出来るわ」
「なるほど。……通りで。家事や調理にも精通してると聞いた。……君は博識なのだな」
ナタリーと一緒に掃除をしたり、ちょっとしたおやつを作っていることは、やはりアズベルトにも伝わっていたらしい。
掃除も料理も独身期間がそれなりあったし、一人暮らしをしていたから自分でやるしかなかっただけの事だ。
それを博識と言われるのはこそばゆいものがあった。
眉尻を下げ困ったように微笑むカナリアをアズベルトがじっと見つめる。
「私の国では一般的なレベルだと思うわ。私より頭の良い人は沢山いたもの」
「君は……その知識をひけらかしたりしないのだな……」
「そんな事に意味はないでしょう? 知らない事があるのなら知ればいいし、わからない事は教えて貰えばいいと思うわ」
アズベルトの表情が僅かに変化したが、一瞬の事でカナの目には映らなかった。
「……そうか。そうだな。……君のような人間ばかりなら……」
「?」
ポツリと呟く声が気になって彼を見上げたが、返って来たのは穏やかな琥珀色だった。
「神鳴りは去ったようだな。眠るなら今のうちだぞ」
そう言われて聞き耳を立てたが、屋根や窓を打つ雨音が確かに小さくなっていた。
アズベルトとのおしゃべりに気を取られているうちに、雷も遠くへ行ってしまったようだ。
「付き合わせてごめんなさい。もう一人でも大丈夫だから」
握っていた手を離そうとするも、反対に彼の手がギュッとカナの手を握ってくる。
「いいから。さっさと目を閉じないと、眠るまで添い寝する事になるぞ?」
見上げた美顔には、ニヤリと怪しげに歪む笑みが浮かんでいる。カナがどういう反応を示すかを分かった上での発言に、案の定頬が熱くなった。
今が夜で部屋が暗くて良かったと思う。でなければ、真っ赤になった顔を見られて、ますます意地悪されそうだ。
アラサーにもなって、雷が怖くて抱きついた上に添い寝までされたなんて事になったら、恥ずかしくて外を歩けなくなりそうだ。
それは阻止しなければと、カナは慌てて目を閉じた。
カナとして接した上でちゃんと優しかった事に驚き、心細いと感じていた気持ちに寄り添ってくれた事が嬉しかった。
やっぱりちゃんとお礼がしたいと、そう思った。
「アズ……ありがとう」
「ああ。おやすみ」
翌朝。
昨日の荒天が嘘のように、窓の外には青空が広がっている。ナタリーが開けてくれた窓からは、雨の後の土や緑の青臭さの混じった風がふわりと舞い込み室内をかき混ぜている。この匂いは何処にいても同じなんだなぁと、少しばかり寂しい気持ちになってしまった。
そのうち本宅から執事たちが訪れ、アズベルトと共に朝食の席について間も無くだった。
若い執事の一人が、たった今届いたとアズベルト宛の手紙を手にダイニングへ入って来たのだ。
そこに押された封蝋印を目にした彼の顔色が一変し急いで封を切ると、食事中にも関わらず中身を確認し出した。
余程重要な手紙だったようで、読み終えてすぐアズベルトが席を立つ。
「すまないリア。城の友人から緊急の呼び出しだ」
「え……それって……」
アズベルトが小さく頷く。もしかして帰る為の手掛かりが掴めたのかも知れない。
心臓がドクンと波打ち、全身に鳥肌が立った。
待ちに待った知らせに興奮する一方、寂しさのような焦燥感に似た、胸の奥をツキツキと刺激する言葉に出来ない感情に戸惑った。
夕食までには戻ると言うアズベルトを見送ると、クーラが小声で「カナリア様」と声を掛けてくる。
これはいきなりサプライズのチャンス到来である。調味料の確認がまだだったが、クーラの様子から用意は出来ているのだろう。
目配せし合い、打ち合わせ通り『カカオ豆大作戦』を実行。まんまとナタリーをお使いへと誘ったのであった。
クーラには『手出し無用』と伝え、いざエプロンを身に付ける。
用意された調味料を手早く確認し、メニューを考えた。
得意料理は和食だから、出来ればそうしたいと考えていた。
全く同じものは難しいだろうが、それに近いものは出来るだろうと思う。料理は得意な方だ。
この身体になってしまってから、好きな事を自由に出来るという事が当たり前では無かったのだと実感した。
皐月かなだった頃に普通だと思っていた事が、ただ普通に毎日を送る事がどれだけ恵まれていて幸せだったのだと、改めて実感した。
病弱な身体になってしまって、自分の事なのに自分で出来ない歯痒さが辛かった。
アズベルトやナタリーに、自分の為に時間を割いてもらう事が申し訳なかった。
二人共本当に良くしてくれて、当たり前の事のように助けてくれるのだ。実際それが当たり前だったのだろうが、その事がどれだけ自分の救いになっていたか、ちゃんと伝えたいと思った。
ここまで出来る程回復したのだと感謝と共に伝えたい、その想いで一生懸命調理に励んだ。
ところが、調理も終盤に差し掛かった頃、ナタリーが帰って来てしまったのだ。
「こんな事だろうと思ったわ」
彼女の手には頼んでおいたカカオ豆が少量ではあったがきちんとあった。
聞けば、カカオの噂を聞いたアズベルトが、本宅の執事に入手しておくよう手配済みだったのだと言う。
流行り物の事なら本宅で聞いた方が情報を得られると考えたナタリーは、街へ出る前に本宅へ寄っていたのだ。
そこに丁度良く仕入れ済みだったカカオを発見し、そのまま街へ出る事なく帰宅してきたのだと言う。
「言い訳を聞きましょうか」
「いや、これは……その……」
目を釣り上げ、いつもの数倍低音ボイスのナタリーに、しどろもどろのクーラが低姿勢で事情を説明している。
その様子が何だか喧嘩した熟年夫婦のようで、自分の我儘でこんな状況になっているにも関わらず微笑ましい気持ちになってしまった。
ナタリーはどうかは分からないが、少なくともクーラにはその気があるのではないかと思えた。
尻尾を垂らし耳を伏せた子犬のように意気消沈してしまったクーラを救出するため、カナが二人の間に入る。
「ナタリー怒らないで。今夜の夕食は私が作りたいって、無理言って準備してもらったの」
「どういう事?」
「アズとナタリーを驚かせたくて、二人に内緒にしてってクーラに頼んだのよ」
「なんでそんな事……」
「いつも私を助けてくれるでしょう? それが嬉しかったから、ありがとうって伝えたくて……。心配掛けてごめんなさい」
「カナリア……」
睫毛を伏せ、俯きながら声のトーンを落としてみる。しおらしさを前面に出して謝意を伝えた。申し訳ないと思ったのは本当だ。
ナタリーは「ありがとう」と瞳を潤ませながら許してくれた。
少しずつ『カナリアの使用方法』が分かってきた。基本みんなカナリアに甘いのだ。
予定よりもずっと早くナタリーが帰宅した為、料理が完成しないうちにクーラが本宅へと戻る事になってしまった。
とても残念そうに落ち込むクーラが子犬のようで、ナタリーに怒られてしまったお詫びも兼ねてお菓子を作る約束をした。
嬉しそうに帰っていったクーラは、本当にワンコのようだった。
出来上がったのは得意の『和食』もどきだ。
鳥の照り焼きと、葉物のおひたし。根菜類を塩揉みした浅漬けと、塩とキノコの出汁で吸い物、それから同じ出汁を使って卵焼きを作った。
あとはデザートにカカオを使ったチョコレートドリンクを。
米は流石に無いのでパンを添える。
苦労したのは照り焼きだ。醤油が無かった為に代用したのは、果物を発酵させて作られた甘味の強いソースだ。
クーラが用意してくれた調味料の中にあったもので、少し酸味はあったが水で薄めて煮詰めることで飛ばし、照り焼きソースにしたのだ。
出来上がった品は、ナタリーには珍しいものばかりのようだ。
今更口にした事のないものを食べてもらうのは不安だっただろうかと考えたが、ナタリーは夕食の時間が楽しみだと言ってくれた。
二人が喜んでくれればいいなと思いながら作ったのだ。そう言ってもらえて嬉しかった。
後はアズベルトの帰りを待つばかりだったのだが、そんな日に限っていつもの時間になっても一向に帰らない事に、カナの胸には一抹の不安が広がっていった。
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