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第二章 戸惑う心 触れ合う身体
章閑話—4 アズベルトの葛藤
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気が付いた時には眼前に別荘が見えるところまで来ていた。
ゲネシスや殿下と別れてからがいまいち思い出せない程、自らが消耗しているのだと思い知らされた。
愛馬は主人の想いを汲んでくれているかのようにゆったりと歩を進めてくれている。感謝を込めて首筋を撫でてやり、別荘の裏手にある馬小屋へ預けた。
いつもと比べて格段に足取りが重い。
今彼女の顔を見てしまうのは辛いのも分かっている。
それでも距離を置く事も離れるという選択も、どうしても考えられなかった。
屋敷へ入ると、いつもとは違ってカナリアがこちらへ駆けて来た。
可愛らしいその姿と笑顔にどうしても胸が締め付けられてしまう。
「お帰りなさい」と笑みを浮かべるカナリアに上手く笑えているか分からず目を背けてしまう。
なるべく不自然にならないよう注意しながら、彼女にどう話せばいいかと思案した。
「今日のご飯は私が作ったのよ!」
「…え?」
予想だにしなかった出来事に、思わず過剰反応してしまった。
カナはここに来てから自分の部屋を掃除したり、ナタリーと一緒におやつを作ったりと、精力的に活動していた。
ナタリーからきちんと報告を受けていた筈なのに、今日はどうしてもそれらを笑って聞き流す事が出来なかった。
心の中に黒い靄がかかっていくように、カナリアの笑顔が、仕草が、ずしりと重くのしかかってくる。
ダイニングテーブルには既に配膳が整えられているのか、幾つものクロッシェが並んでいる。
少しばかり緊張したカナリアが椅子を引いてくれて座った。
ナタリーがカバーを外すと、見慣れない料理の数々が並べられていた。その全てをカナリアが作ったのだと聞かされ、心の中を埋める靄がますます濃く重くなったように感じられた。
期待と不安の入り混じった眼差しを向けられシルバーを手に取る。
メインの肉料理『照り焼き』をカットして口に含んだ。冷めてしまっていたが肉は柔らかく、甘めの香ばしいソースがよく絡んでいて美味かった。濃いめの味付けはワインにも合いそうだ。
他の小皿に盛り付けられた料理も色とりどりで素材が生かされているのがわかる。
メインとかわるがわる食べる事で口直しの意味合いもあるのだろう。
見た目も味付けも配膳にしても、調理に携わった事のある者の仕事だと思った。
本で勉強しただけの素人には到底出来ない、経験値を必要とする仕事だ。
療養生活の長かったカナリアには無理だったろう。
目の前にいるのはカナリアなのに、自分の知らない全くの別人なのだ。それを改めて突き付けられた気がして、自分が正気でいられる事が不思議な程だった。
……君は本当に……もう、カナリアじゃないんだな……
俺の愛したカナリアはもう何処にもいない。その現実に打ちのめされそうで、自分の意識を必死に保つので精一杯だった。
ガタンという大きな音を立てた椅子に、ハッと意識を引き戻される。
顔を上げると涙で頬を濡らすカナリアの眼差しが怯えたようにこちらへ向けられていた。
泣かせたという事実と傷付けてしまった現状に、既に擦り切れていた心が更に握り潰されるようだった。
「いや、違う! 今のは……その、意図した訳では——私も混乱していて…」
「ただ……二人に、喜んでもらいたかったの。それだけで……本当に、ごめんなさい!!」
「「リア!!」」
身体が鉛のようで、俯いたまま謝意を述べて出て行った彼女を追いかける気力は、今の自分には残されていなかった。
カナリアの友人であり、側で彼女を献身的に支えてくれたナタリー嬢には、ゲネシスの話を伝える事にした。
スコルピウスの過ちの事は伏せ、カナリアに起こった事が召喚術であるという事、カナリアには魔力があった事、病の事、それからカナも元には戻れない事を伝えた。
「カナリアはもう戻らない」そう伝えた時のナタリーの憔悴しきった顔を見た時、自分がどれほど酷な命令をしていたのかと痛感した。無理をさせてナタリーの気持ちを蔑ろにしてしまった事を後悔した。
彼女は今まで本当によく仕えてくれた。
ベッドの上で一人だったカナリアにとって、彼女の存在は本当になくてはならないものだっただろう。そんなナタリーには感謝の気持ちしかない。
これからどうするかは彼女の選択に任せよう。ナタリーがどんな道を選んでも、自分は彼女の助けになってやりたい。
それをきっとカナリアも望んでいる筈だ。
どうすべきか散々迷った挙句、カナにも同じく伝える事にした。カナ自身ずっと自分のあるべき場所へ帰りたいと願っていた。今日、私が城の友人の元へ行ってきた事も知っている。結果を知りたいと、そう望んでいる筈だ。
ナタリーが落ち着くのを待って部屋へと休ませ、その足でカナリアの部屋の前に立つ。
何度も躊躇いようやく扉をノックした。
返事は待たずに中へ入った。
室内に灯りは無く、彼女はベッドに横たわっている。表情を伺い見る事は叶わなかったが、起きているだろう事は確信していた。
ベッドに近付き、迷いはしたがいつものように腰掛ける。
さっきの発言が意図したものではなかった事、私達の事を想って作ってくれた事には本当に感謝しているという事が伝わって欲しいと願いながら、先程の非礼を詫びた。
「……君に伝えなければならない事がある。……そのままでいいから聞いて欲しい」
ナタリーにも伝えた事を前置きし、ゲネシスから聞いた話をカナにも話した。
スコルピウスの闇の部分は、ゲネシスとジルと三人で墓まで持っていくと決めた。だからナタリーに話した事を、カナにもわかるようなるべく噛み砕いて話をした。
彼女は向こうをむいたまま、静かに聞いていた。
私は『カナ』という人を見くびっていたようだ。
話し終え彼女の口から零れた言葉は、まず相手を労わるものだった。私のように絶望し嘆くばかりなどではなく、「大切な人が辛い事の方が悲しい」と言ってみせた。
自分だって辛いだろうに、彼女の懐の深さを思い知らされたのだ。
「私には、カナリアさんのフリは出来ません」
大粒の涙を流しながら、真っ直ぐに目を見てそう言われた。今ならこれが私やナタリーを想ってのセリフなのだと良くわかる。彼女の誠意が込められた決意だった。
「……そうだな。……君には……無理だ……」
自分のことよりも、まず相手を想いやる事の出来る優しい君には何より酷だろう。
なんと残酷で自分勝手な事を言ってしまったのか。
彼女から溢れて止まらない涙を拭ってやりたかった。だが、こんな自分には彼女に触れる資格などありはしない。
伸ばした手を彷徨わせただけで、何も出来ず何も言えないまま部屋を後にした。崩れてしまった心の隙間を埋められるものなど何もなかった。
次の日の朝も昼も、カナリアは部屋から姿を見せなかった。
かく言う私も執務室から出る訳でもなく、かと言って仕事が手につくような状況でもなかった。
ナタリーが居たならうまくやってくれたのだろうが、暇を出し実家に帰らせたからか本宅から手伝いで来ていたメイドは、夕食に顔を出さなかったカナリアを非常に心配して私のところへやって来た。
最近手に入れたカカオを使って、温かい飲み物と軽食を用意したようだが、部屋から応答がなくどうしたものかと判断を仰ぎに来たようだ。
折角体調が戻って来たのにまた悪化しても良くないと思い、様子を見たいと言う思いもあり、メイドからトレイを預かると彼女の部屋をノックした。
月明かりだけの部屋でひとり、窓の側で外を見ていた彼女の足元には、カナリアからもらった沢山の手紙が広がっていた。
そういえばこの部屋に保管してあったなと見回してみれば、綺麗な状態のものからボロボロの紙屑のようになってしまったものまで様々だ。
カナの隣、窓の側には、カナリアが昔この部屋で療養していた時に使っていたお気に入りのドレッサーが置かれている。そこにカナリアが十六歳の誕生日を迎えた後に贈ってくれた最後の手紙が広げてあった。
隣に立ち、カカオミルクのカップを差し出すと、カナは笑顔で受け取った。
話をしようと言う彼女の隣のドレッサーに寄り掛かり、カナの話しに耳を傾けた。
どんな女性だったのか、どんな人を愛したのか、どんなところで生まれてどんな風に過ごして来たのか。
カナの話しは私の常識とは違った部分も多く、とても興味深いものだった。
こちらの事を聞かれて、自分とカナリアの事を話した。
自分がどんな風に生きて来たのか、カナリアがどんな女の子だったのか、どんな風に一緒に過ごして来たのか、妹だと思っていた少女をどうして女性として意識するに至ったのか、命の期限を知った時どれ程大切な人だと思い知ったか、遅すぎた事をどれ程後悔したことか。
話し終えた事で自分がいかに浅はかで間違いだらけだったかを思い知らされた。
ずっと前からカナリアの気持ちに気付いていたのに、何故もっと早くに応えてやらなかったのかと。
期限がある事はとっくの昔にわかっていた筈だったのに。
カップを持つ手に力がこもる。
両手でしっかり支えなければ震えて溢してしまいそうだ。
「私……カナリアさんに会ったわ」
真っ暗な場所で、消えてしまう最後の最後まで自分の事を心配していただなんて。カナを犠牲にしてでも、自分の事を守ろうとしてくれていただなんて。
「きっと悔しかったでしょうね」
途端に目頭から熱いものが零れ落ちていった。心を埋め尽くしていた黒い靄がゆっくりゆっくり晴れていく。
カナリアの優しさが、想いが、温かさが、愛の深さが、崩れてしまった箇所を埋めてくれるようで、涙が溢れて止まらなかった。
カナリアの手が触れ見つめ合った瞬間、自分を絡め取っていた鉛のような重たい何かが外れた気がした。
目の前の彼女を思い切り抱き締める。
彼女の腕もまたしがみつくように背中に回され、お互いを求めてきつくきつく抱き締め合った。
抱き締めた時も、口付けた時も、素肌の体温に触れた時も、彼女から溢れる涙が枯れる事はなく、細い身体は震えていた。
この涙はどちらのものだろうか。
アズベルトの妻になりきれなかったカナリアのものなのか、愛する人を思いながら別の男に身を委ねようとしているカナのものなのか。
覚悟を決めたと言ったカナリアはどんな思いで自分を受け入れてくれたのか。
心だけでなく身体も……そう望んだだろうか。
子供は望めないと分かっていても、それでも妻でありたいと言った彼女は何を思っただろうか。
涙を浮かべてこちらに手を伸ばすこの女は、そんなカナリアの意志を果たそうとしてくれているのだろう。
カナリアがカナを呼んだ理由が今なら分かる気がした。二人はとても良く似ている。心優しいところも、思いやりの深さも、相手の為に自分を犠牲に出来る強さも。
本当に……俺は間違えてばかりだった……
急に止まってしまった私を案じたのか、不安気な顔でカナが見上げてくる。
隣に横になり、その頬に手を添えた。涙で冷えた頬は冷たく、昂っていた気持ちを落ち着かせてくれる。
「すまない……やっぱり、今君を抱くことは出来ない」
「アズ……でも」
「分かってる。……カナリアは、それを望んでいたのにな……」
一番近くにあった筈だった。
すぐ側にあったのに遠くて、手を伸ばせば届いたのにそれが出来なかった。
そう出来なかった事を後悔して、そうしてあげられなかった事を後悔した。
いくら悔やんでも嘆いても、もう遅いのに。
本当に悔しくて、悲しくて、身体が震えた。
「……しばらくこのままでいさせて欲しい……」
そう言って彼女の身体を抱き寄せ、胸に収めた。力を込めれば折れそうな程細い身体は小刻みに震えている。
カナは僅かに頷くと、何も言わないままただじっと私の胸の中にいてくれた。
ゲネシスや殿下と別れてからがいまいち思い出せない程、自らが消耗しているのだと思い知らされた。
愛馬は主人の想いを汲んでくれているかのようにゆったりと歩を進めてくれている。感謝を込めて首筋を撫でてやり、別荘の裏手にある馬小屋へ預けた。
いつもと比べて格段に足取りが重い。
今彼女の顔を見てしまうのは辛いのも分かっている。
それでも距離を置く事も離れるという選択も、どうしても考えられなかった。
屋敷へ入ると、いつもとは違ってカナリアがこちらへ駆けて来た。
可愛らしいその姿と笑顔にどうしても胸が締め付けられてしまう。
「お帰りなさい」と笑みを浮かべるカナリアに上手く笑えているか分からず目を背けてしまう。
なるべく不自然にならないよう注意しながら、彼女にどう話せばいいかと思案した。
「今日のご飯は私が作ったのよ!」
「…え?」
予想だにしなかった出来事に、思わず過剰反応してしまった。
カナはここに来てから自分の部屋を掃除したり、ナタリーと一緒におやつを作ったりと、精力的に活動していた。
ナタリーからきちんと報告を受けていた筈なのに、今日はどうしてもそれらを笑って聞き流す事が出来なかった。
心の中に黒い靄がかかっていくように、カナリアの笑顔が、仕草が、ずしりと重くのしかかってくる。
ダイニングテーブルには既に配膳が整えられているのか、幾つものクロッシェが並んでいる。
少しばかり緊張したカナリアが椅子を引いてくれて座った。
ナタリーがカバーを外すと、見慣れない料理の数々が並べられていた。その全てをカナリアが作ったのだと聞かされ、心の中を埋める靄がますます濃く重くなったように感じられた。
期待と不安の入り混じった眼差しを向けられシルバーを手に取る。
メインの肉料理『照り焼き』をカットして口に含んだ。冷めてしまっていたが肉は柔らかく、甘めの香ばしいソースがよく絡んでいて美味かった。濃いめの味付けはワインにも合いそうだ。
他の小皿に盛り付けられた料理も色とりどりで素材が生かされているのがわかる。
メインとかわるがわる食べる事で口直しの意味合いもあるのだろう。
見た目も味付けも配膳にしても、調理に携わった事のある者の仕事だと思った。
本で勉強しただけの素人には到底出来ない、経験値を必要とする仕事だ。
療養生活の長かったカナリアには無理だったろう。
目の前にいるのはカナリアなのに、自分の知らない全くの別人なのだ。それを改めて突き付けられた気がして、自分が正気でいられる事が不思議な程だった。
……君は本当に……もう、カナリアじゃないんだな……
俺の愛したカナリアはもう何処にもいない。その現実に打ちのめされそうで、自分の意識を必死に保つので精一杯だった。
ガタンという大きな音を立てた椅子に、ハッと意識を引き戻される。
顔を上げると涙で頬を濡らすカナリアの眼差しが怯えたようにこちらへ向けられていた。
泣かせたという事実と傷付けてしまった現状に、既に擦り切れていた心が更に握り潰されるようだった。
「いや、違う! 今のは……その、意図した訳では——私も混乱していて…」
「ただ……二人に、喜んでもらいたかったの。それだけで……本当に、ごめんなさい!!」
「「リア!!」」
身体が鉛のようで、俯いたまま謝意を述べて出て行った彼女を追いかける気力は、今の自分には残されていなかった。
カナリアの友人であり、側で彼女を献身的に支えてくれたナタリー嬢には、ゲネシスの話を伝える事にした。
スコルピウスの過ちの事は伏せ、カナリアに起こった事が召喚術であるという事、カナリアには魔力があった事、病の事、それからカナも元には戻れない事を伝えた。
「カナリアはもう戻らない」そう伝えた時のナタリーの憔悴しきった顔を見た時、自分がどれほど酷な命令をしていたのかと痛感した。無理をさせてナタリーの気持ちを蔑ろにしてしまった事を後悔した。
彼女は今まで本当によく仕えてくれた。
ベッドの上で一人だったカナリアにとって、彼女の存在は本当になくてはならないものだっただろう。そんなナタリーには感謝の気持ちしかない。
これからどうするかは彼女の選択に任せよう。ナタリーがどんな道を選んでも、自分は彼女の助けになってやりたい。
それをきっとカナリアも望んでいる筈だ。
どうすべきか散々迷った挙句、カナにも同じく伝える事にした。カナ自身ずっと自分のあるべき場所へ帰りたいと願っていた。今日、私が城の友人の元へ行ってきた事も知っている。結果を知りたいと、そう望んでいる筈だ。
ナタリーが落ち着くのを待って部屋へと休ませ、その足でカナリアの部屋の前に立つ。
何度も躊躇いようやく扉をノックした。
返事は待たずに中へ入った。
室内に灯りは無く、彼女はベッドに横たわっている。表情を伺い見る事は叶わなかったが、起きているだろう事は確信していた。
ベッドに近付き、迷いはしたがいつものように腰掛ける。
さっきの発言が意図したものではなかった事、私達の事を想って作ってくれた事には本当に感謝しているという事が伝わって欲しいと願いながら、先程の非礼を詫びた。
「……君に伝えなければならない事がある。……そのままでいいから聞いて欲しい」
ナタリーにも伝えた事を前置きし、ゲネシスから聞いた話をカナにも話した。
スコルピウスの闇の部分は、ゲネシスとジルと三人で墓まで持っていくと決めた。だからナタリーに話した事を、カナにもわかるようなるべく噛み砕いて話をした。
彼女は向こうをむいたまま、静かに聞いていた。
私は『カナ』という人を見くびっていたようだ。
話し終え彼女の口から零れた言葉は、まず相手を労わるものだった。私のように絶望し嘆くばかりなどではなく、「大切な人が辛い事の方が悲しい」と言ってみせた。
自分だって辛いだろうに、彼女の懐の深さを思い知らされたのだ。
「私には、カナリアさんのフリは出来ません」
大粒の涙を流しながら、真っ直ぐに目を見てそう言われた。今ならこれが私やナタリーを想ってのセリフなのだと良くわかる。彼女の誠意が込められた決意だった。
「……そうだな。……君には……無理だ……」
自分のことよりも、まず相手を想いやる事の出来る優しい君には何より酷だろう。
なんと残酷で自分勝手な事を言ってしまったのか。
彼女から溢れて止まらない涙を拭ってやりたかった。だが、こんな自分には彼女に触れる資格などありはしない。
伸ばした手を彷徨わせただけで、何も出来ず何も言えないまま部屋を後にした。崩れてしまった心の隙間を埋められるものなど何もなかった。
次の日の朝も昼も、カナリアは部屋から姿を見せなかった。
かく言う私も執務室から出る訳でもなく、かと言って仕事が手につくような状況でもなかった。
ナタリーが居たならうまくやってくれたのだろうが、暇を出し実家に帰らせたからか本宅から手伝いで来ていたメイドは、夕食に顔を出さなかったカナリアを非常に心配して私のところへやって来た。
最近手に入れたカカオを使って、温かい飲み物と軽食を用意したようだが、部屋から応答がなくどうしたものかと判断を仰ぎに来たようだ。
折角体調が戻って来たのにまた悪化しても良くないと思い、様子を見たいと言う思いもあり、メイドからトレイを預かると彼女の部屋をノックした。
月明かりだけの部屋でひとり、窓の側で外を見ていた彼女の足元には、カナリアからもらった沢山の手紙が広がっていた。
そういえばこの部屋に保管してあったなと見回してみれば、綺麗な状態のものからボロボロの紙屑のようになってしまったものまで様々だ。
カナの隣、窓の側には、カナリアが昔この部屋で療養していた時に使っていたお気に入りのドレッサーが置かれている。そこにカナリアが十六歳の誕生日を迎えた後に贈ってくれた最後の手紙が広げてあった。
隣に立ち、カカオミルクのカップを差し出すと、カナは笑顔で受け取った。
話をしようと言う彼女の隣のドレッサーに寄り掛かり、カナの話しに耳を傾けた。
どんな女性だったのか、どんな人を愛したのか、どんなところで生まれてどんな風に過ごして来たのか。
カナの話しは私の常識とは違った部分も多く、とても興味深いものだった。
こちらの事を聞かれて、自分とカナリアの事を話した。
自分がどんな風に生きて来たのか、カナリアがどんな女の子だったのか、どんな風に一緒に過ごして来たのか、妹だと思っていた少女をどうして女性として意識するに至ったのか、命の期限を知った時どれ程大切な人だと思い知ったか、遅すぎた事をどれ程後悔したことか。
話し終えた事で自分がいかに浅はかで間違いだらけだったかを思い知らされた。
ずっと前からカナリアの気持ちに気付いていたのに、何故もっと早くに応えてやらなかったのかと。
期限がある事はとっくの昔にわかっていた筈だったのに。
カップを持つ手に力がこもる。
両手でしっかり支えなければ震えて溢してしまいそうだ。
「私……カナリアさんに会ったわ」
真っ暗な場所で、消えてしまう最後の最後まで自分の事を心配していただなんて。カナを犠牲にしてでも、自分の事を守ろうとしてくれていただなんて。
「きっと悔しかったでしょうね」
途端に目頭から熱いものが零れ落ちていった。心を埋め尽くしていた黒い靄がゆっくりゆっくり晴れていく。
カナリアの優しさが、想いが、温かさが、愛の深さが、崩れてしまった箇所を埋めてくれるようで、涙が溢れて止まらなかった。
カナリアの手が触れ見つめ合った瞬間、自分を絡め取っていた鉛のような重たい何かが外れた気がした。
目の前の彼女を思い切り抱き締める。
彼女の腕もまたしがみつくように背中に回され、お互いを求めてきつくきつく抱き締め合った。
抱き締めた時も、口付けた時も、素肌の体温に触れた時も、彼女から溢れる涙が枯れる事はなく、細い身体は震えていた。
この涙はどちらのものだろうか。
アズベルトの妻になりきれなかったカナリアのものなのか、愛する人を思いながら別の男に身を委ねようとしているカナのものなのか。
覚悟を決めたと言ったカナリアはどんな思いで自分を受け入れてくれたのか。
心だけでなく身体も……そう望んだだろうか。
子供は望めないと分かっていても、それでも妻でありたいと言った彼女は何を思っただろうか。
涙を浮かべてこちらに手を伸ばすこの女は、そんなカナリアの意志を果たそうとしてくれているのだろう。
カナリアがカナを呼んだ理由が今なら分かる気がした。二人はとても良く似ている。心優しいところも、思いやりの深さも、相手の為に自分を犠牲に出来る強さも。
本当に……俺は間違えてばかりだった……
急に止まってしまった私を案じたのか、不安気な顔でカナが見上げてくる。
隣に横になり、その頬に手を添えた。涙で冷えた頬は冷たく、昂っていた気持ちを落ち着かせてくれる。
「すまない……やっぱり、今君を抱くことは出来ない」
「アズ……でも」
「分かってる。……カナリアは、それを望んでいたのにな……」
一番近くにあった筈だった。
すぐ側にあったのに遠くて、手を伸ばせば届いたのにそれが出来なかった。
そう出来なかった事を後悔して、そうしてあげられなかった事を後悔した。
いくら悔やんでも嘆いても、もう遅いのに。
本当に悔しくて、悲しくて、身体が震えた。
「……しばらくこのままでいさせて欲しい……」
そう言って彼女の身体を抱き寄せ、胸に収めた。力を込めれば折れそうな程細い身体は小刻みに震えている。
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