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第三章 近づく心
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「カナ……カナ……起きて」
直ぐ側でアズベルトの甘く柔らかい声を聞いた。微睡から醒めないうちに、今度は髪を解かれる感触がある。
「んー……」
頬に温かい手が触れて、思わずニヤけてしまう。頬の高いところをくすぐるように優しく撫でられ、ようやく目を開けた。
目の前には夢かと思う程の完璧な美顔が、蕩けそうな微笑を浮かべて存在している。
自分が寝惚けていたことに今更気が付き、急いで身体を起こした。
クスクスと喉を鳴らす彼は、もうすでに着替えを済ませていてお仕事モードのようだ。
「ごめんなさい! 寝過ごしちゃったわ」
「いや、いいんだ。ゆっくり過ごすといい。……それより、良い知らせだ」
そう言って彼が身体を避けると、寝室の入り口へ視線を向けた。それに釣られてそちらを見る。
「!!」
そこには背筋をピンと伸ばし、エプロンドレスに身を包み身体の前で両手を合わせ、真っ直ぐにこちらを見つめるナタリーの姿があったのだ。
「お休みを頂きありがとうございました。本日よりまた、カナリア様の身の回りのお世話をさせて頂きます。よろしくお願い致します」
そう述べて腰を四十五度に折るナタリーに、駆け寄ったカナが飛び付いた。
「ちょっ、カナリア!?」
首へと抱きついてきたカナを、ナタリーはよろけながらもしっかりと抱き止める。
「良かった……帰って来てくれてありがとう! ナタリー」
僅かに震える声で名を呼ぶ親友の身体を、ナタリーはしっかりと抱き締めた。
「当たり前でしょう。私はカナリアの側にいるって、約束したんだから」
「うん……うん……」
カナをナタリーに任せると、アズベルトは名残惜しそうにしながらも仕事に戻っていった。今日は本宅で執事長と仕事の為、夜までは帰らないとの事だ。
早速ナタリーに身支度を頼んだカナがドレッサーの前に座る。
彼女の黒い髪にいつも使っているオイルを馴染ませながら、ナタリーが丁寧に櫛を入れていく。気持ち良さそうに目を閉じ、ナタリーに身を委ねるカナの顔を鏡越しに見つめた。
たった数日見ないうちに、いつの間にか随分と大人の女性らしい色気が増している。
カナの年齢を考えれば当然かもしれないが、到底それだけとは考えにくい。体つきも随分変わっている。きちんと食事を摂り、それが彼女の身体を作っている証拠だと実感し安堵した。
それにカナはアズベルトの寝室にいた。どういう経緯だったにしろ、二人が夫婦になるという決断をしたという事だ。
アズベルトも『リア』ではなく『カナ』と愛称を変えていた事からも、二人の関係性が良い方向へと変化しているのだと理解した。
二人が……カナリアがそう決めたのなら、私がいつまでもいじけている訳にはいかないわね。
今までと変わらず「おかえり」と笑顔で迎えてくれたアズベルトの為にも、全力でカナリアを支えようと、ナタリーは心の中で決意を新たにするのだった。
髪の手入れが終わると、今度はカナの着替えを手伝う。
「一人で着られるものが少なくて驚いたわ」
そう言って笑うカナは、当然のように助力の必要なドレスを選んだ。カナの背中に回りながら、袖を通すのを手伝い背中の編み上げを一つずつ締めていく。
「髪もね、ナタリーにやってもらわないと、こんなふうに艶々のツルツルにならないの」
「そう?」
「自分じゃ全然ダメなの。……だから、これからは毎日……お願い、ね?」
こちらを伺うように向けられた不安気な瞳に、ナタリーは目を見開いた。
胸の奥がじんわりと熱くなっていくのを感じながら、帰って来ても良かったのだと胸を撫で下ろす。
「ええ! もちろんよ」
フワリと微笑むナタリーに、カナも可憐な花の様な笑顔を向けた。
ナタリーの休暇中に変わっていた事がもう一つあった。
カナが当たり前のようにキッチンへ立ち、それをアズベルトが容認していた事だ。新しいエプロンまで用意していたと聞いて驚いた程だ。
仕事の合間にカナと一緒にお茶を楽しむ時間を作り、そこで出す茶菓子をカナが作っているという事だった。
明日のお茶の時間に出すためのお菓子作りをしながら、カナはナタリーが不在だった間にあった出来事を話せる範囲で伝えた。
因みに今作っているのはフルーツタルトだ。サクサクのタルト生地に、ミルクから作る濃厚なカスタードクリームを敷き詰め、様々なフルーツを彩り良く盛り付けた、見た目にも楽しい逸品だ。
ナタリーがタルト生地を型へ伸ばしているところで、カナは焼いたタルト生地に乗せるカスタードクリームを作っている。
最近は忙しくてそうそう時間を作れていなかったが、アズベルトは元々息抜きの時間はきっちり取っていた。
そんな彼にとっても、カナと過ごすお茶の時間は有意義なもののようで、カナの作るお菓子も楽しみの一つになっているようだった。
アズベルトは時間がある時には時折キッチンにやってきて、カナがお菓子作りをしているところを見学するようになっていた。
アズベルトが作り方やポイントを聞いているのを、ナタリーも一緒になって聞いている、という事がしばしばあった。
カナは基本、自分の知識を隠したり出し惜しみするような事が無い。
お菓子に関してもそうだ。
ナタリーや他のメイドが知りたいと言えば作り方を教えるし、決して自分の腕がいいからだなどとも言わなかった。
カナ曰く、自分はレシピを知っているだけだし、美味しく出来るのは素材が良いからだと笑って済ますのだ。
ナタリーはそんな彼女の欲の無さに驚き、人の良さに親しみと心配や不安が拭えなかった。それはまたアズベルトも同じだったようで、今後人前に出るような時はくれぐれも注意してやって欲しいと頼まれる程だった。
「クーラにはちゃんと会ってから来たの?」
タルトの準備を終え、ナタリーの淹れる美味しいお茶を二人で味わいながら、カナが唐突に切り出した。
急にクーラの名前が挙がった事に大いに動揺したナタリーは、飲み込む筈だったお茶が変なところに入ってしまい、苦しそうに咽せている。
「けほっ、けほっ、な……何で、ここでクーラの名前が出るのよ……」
「何でって、ナタリーの事、すごく心配してたから」
自分でも何でこんなに落ち着かない気持ちになるのか分からず、ナタリーは居た堪れない思いでカナから視線を逸らした。
カナは不思議そうにナタリーを見ているだけで、それ以上の意図はなさそうだ。
ただ単にクーラがナタリーの心配をしていたから、顔を見せて安心させてあげたら? と、そういう事なのだろう。別に深い意味など無いだろうに。
実家に帰省する時に言われた『伝えたい事がある』は、正直なところずっと気になっている。何か言いたい事があるなら言えば良いのに、何故あの場で言わなかったのか。ナタリーが目を腫らして裏口から出たから、気を使ってくれたのかもしれない。彼はそういう人だ。
でもあの時様子が違ったのはナタリーだけではなかった。クーラも何だかいつもと違ってそわそわと余裕の無さそうな、普段は冗談で返して来るところもそうで無かったところが不思議だった。
ナタリー自身に他を気にする余裕が無かったから、余計にそう感じてしまっただけかもしれないが、そのせいでお休みで帰省している筈だったのに、こっちまでそわそわしてしまってお休みどころで無かったのだ。
結局一週間程で帰って来てしまったのも、勿論カナリアとの約束を思い出しそれを果たす為というのもあるが、二人の事が心配でたまらなかったのと、クーラの様子が気になったせいでもあったのだ。
「真っ直ぐこちらに来たから、まだ会ってないわ」
「そう……。前にお菓子を作る約束をしたのだけれど、まだ果たせてないの。明日は来るかしら?」
「さぁ……どうかしら?」
「ナタリー、後で確認しておいてくれる?」
「…………えぇ。分かったわ」
カナリアに頼まれてしまったら仕方ない。
そんなふうに言い聞かせながら、ナタリーはぬるくなったお茶のカップを傾けた。
まさかこんなふうに動揺するナタリーが見られるとは思っていなかったカナは、なおも平然を装おうと頑張っているナタリーを盗み見ながら、口元が緩むのを懸命にカップで隠すのだった。
直ぐ側でアズベルトの甘く柔らかい声を聞いた。微睡から醒めないうちに、今度は髪を解かれる感触がある。
「んー……」
頬に温かい手が触れて、思わずニヤけてしまう。頬の高いところをくすぐるように優しく撫でられ、ようやく目を開けた。
目の前には夢かと思う程の完璧な美顔が、蕩けそうな微笑を浮かべて存在している。
自分が寝惚けていたことに今更気が付き、急いで身体を起こした。
クスクスと喉を鳴らす彼は、もうすでに着替えを済ませていてお仕事モードのようだ。
「ごめんなさい! 寝過ごしちゃったわ」
「いや、いいんだ。ゆっくり過ごすといい。……それより、良い知らせだ」
そう言って彼が身体を避けると、寝室の入り口へ視線を向けた。それに釣られてそちらを見る。
「!!」
そこには背筋をピンと伸ばし、エプロンドレスに身を包み身体の前で両手を合わせ、真っ直ぐにこちらを見つめるナタリーの姿があったのだ。
「お休みを頂きありがとうございました。本日よりまた、カナリア様の身の回りのお世話をさせて頂きます。よろしくお願い致します」
そう述べて腰を四十五度に折るナタリーに、駆け寄ったカナが飛び付いた。
「ちょっ、カナリア!?」
首へと抱きついてきたカナを、ナタリーはよろけながらもしっかりと抱き止める。
「良かった……帰って来てくれてありがとう! ナタリー」
僅かに震える声で名を呼ぶ親友の身体を、ナタリーはしっかりと抱き締めた。
「当たり前でしょう。私はカナリアの側にいるって、約束したんだから」
「うん……うん……」
カナをナタリーに任せると、アズベルトは名残惜しそうにしながらも仕事に戻っていった。今日は本宅で執事長と仕事の為、夜までは帰らないとの事だ。
早速ナタリーに身支度を頼んだカナがドレッサーの前に座る。
彼女の黒い髪にいつも使っているオイルを馴染ませながら、ナタリーが丁寧に櫛を入れていく。気持ち良さそうに目を閉じ、ナタリーに身を委ねるカナの顔を鏡越しに見つめた。
たった数日見ないうちに、いつの間にか随分と大人の女性らしい色気が増している。
カナの年齢を考えれば当然かもしれないが、到底それだけとは考えにくい。体つきも随分変わっている。きちんと食事を摂り、それが彼女の身体を作っている証拠だと実感し安堵した。
それにカナはアズベルトの寝室にいた。どういう経緯だったにしろ、二人が夫婦になるという決断をしたという事だ。
アズベルトも『リア』ではなく『カナ』と愛称を変えていた事からも、二人の関係性が良い方向へと変化しているのだと理解した。
二人が……カナリアがそう決めたのなら、私がいつまでもいじけている訳にはいかないわね。
今までと変わらず「おかえり」と笑顔で迎えてくれたアズベルトの為にも、全力でカナリアを支えようと、ナタリーは心の中で決意を新たにするのだった。
髪の手入れが終わると、今度はカナの着替えを手伝う。
「一人で着られるものが少なくて驚いたわ」
そう言って笑うカナは、当然のように助力の必要なドレスを選んだ。カナの背中に回りながら、袖を通すのを手伝い背中の編み上げを一つずつ締めていく。
「髪もね、ナタリーにやってもらわないと、こんなふうに艶々のツルツルにならないの」
「そう?」
「自分じゃ全然ダメなの。……だから、これからは毎日……お願い、ね?」
こちらを伺うように向けられた不安気な瞳に、ナタリーは目を見開いた。
胸の奥がじんわりと熱くなっていくのを感じながら、帰って来ても良かったのだと胸を撫で下ろす。
「ええ! もちろんよ」
フワリと微笑むナタリーに、カナも可憐な花の様な笑顔を向けた。
ナタリーの休暇中に変わっていた事がもう一つあった。
カナが当たり前のようにキッチンへ立ち、それをアズベルトが容認していた事だ。新しいエプロンまで用意していたと聞いて驚いた程だ。
仕事の合間にカナと一緒にお茶を楽しむ時間を作り、そこで出す茶菓子をカナが作っているという事だった。
明日のお茶の時間に出すためのお菓子作りをしながら、カナはナタリーが不在だった間にあった出来事を話せる範囲で伝えた。
因みに今作っているのはフルーツタルトだ。サクサクのタルト生地に、ミルクから作る濃厚なカスタードクリームを敷き詰め、様々なフルーツを彩り良く盛り付けた、見た目にも楽しい逸品だ。
ナタリーがタルト生地を型へ伸ばしているところで、カナは焼いたタルト生地に乗せるカスタードクリームを作っている。
最近は忙しくてそうそう時間を作れていなかったが、アズベルトは元々息抜きの時間はきっちり取っていた。
そんな彼にとっても、カナと過ごすお茶の時間は有意義なもののようで、カナの作るお菓子も楽しみの一つになっているようだった。
アズベルトは時間がある時には時折キッチンにやってきて、カナがお菓子作りをしているところを見学するようになっていた。
アズベルトが作り方やポイントを聞いているのを、ナタリーも一緒になって聞いている、という事がしばしばあった。
カナは基本、自分の知識を隠したり出し惜しみするような事が無い。
お菓子に関してもそうだ。
ナタリーや他のメイドが知りたいと言えば作り方を教えるし、決して自分の腕がいいからだなどとも言わなかった。
カナ曰く、自分はレシピを知っているだけだし、美味しく出来るのは素材が良いからだと笑って済ますのだ。
ナタリーはそんな彼女の欲の無さに驚き、人の良さに親しみと心配や不安が拭えなかった。それはまたアズベルトも同じだったようで、今後人前に出るような時はくれぐれも注意してやって欲しいと頼まれる程だった。
「クーラにはちゃんと会ってから来たの?」
タルトの準備を終え、ナタリーの淹れる美味しいお茶を二人で味わいながら、カナが唐突に切り出した。
急にクーラの名前が挙がった事に大いに動揺したナタリーは、飲み込む筈だったお茶が変なところに入ってしまい、苦しそうに咽せている。
「けほっ、けほっ、な……何で、ここでクーラの名前が出るのよ……」
「何でって、ナタリーの事、すごく心配してたから」
自分でも何でこんなに落ち着かない気持ちになるのか分からず、ナタリーは居た堪れない思いでカナから視線を逸らした。
カナは不思議そうにナタリーを見ているだけで、それ以上の意図はなさそうだ。
ただ単にクーラがナタリーの心配をしていたから、顔を見せて安心させてあげたら? と、そういう事なのだろう。別に深い意味など無いだろうに。
実家に帰省する時に言われた『伝えたい事がある』は、正直なところずっと気になっている。何か言いたい事があるなら言えば良いのに、何故あの場で言わなかったのか。ナタリーが目を腫らして裏口から出たから、気を使ってくれたのかもしれない。彼はそういう人だ。
でもあの時様子が違ったのはナタリーだけではなかった。クーラも何だかいつもと違ってそわそわと余裕の無さそうな、普段は冗談で返して来るところもそうで無かったところが不思議だった。
ナタリー自身に他を気にする余裕が無かったから、余計にそう感じてしまっただけかもしれないが、そのせいでお休みで帰省している筈だったのに、こっちまでそわそわしてしまってお休みどころで無かったのだ。
結局一週間程で帰って来てしまったのも、勿論カナリアとの約束を思い出しそれを果たす為というのもあるが、二人の事が心配でたまらなかったのと、クーラの様子が気になったせいでもあったのだ。
「真っ直ぐこちらに来たから、まだ会ってないわ」
「そう……。前にお菓子を作る約束をしたのだけれど、まだ果たせてないの。明日は来るかしら?」
「さぁ……どうかしら?」
「ナタリー、後で確認しておいてくれる?」
「…………えぇ。分かったわ」
カナリアに頼まれてしまったら仕方ない。
そんなふうに言い聞かせながら、ナタリーはぬるくなったお茶のカップを傾けた。
まさかこんなふうに動揺するナタリーが見られるとは思っていなかったカナは、なおも平然を装おうと頑張っているナタリーを盗み見ながら、口元が緩むのを懸命にカップで隠すのだった。
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