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第一話杜雨燕、後宮に召される
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「どこに行った? 逃すなっ」
候国の都の大通りを縫うようにして武装した男たちが駆け抜けていく。通りいっぱいに並ぶ屋台には人がたくさん集まっている。行列に並んでいた客を押し退け、怒鳴りつける。体当たりをされて文句をつける男を無視して、武装した男たちは蜘蛛の子を散らすように都中に散らばっていった。あまりのものものしさに都人たちは不思議そうに警備隊の後ろ姿に目を向ける。
彼らの服装は都を守る警備隊の青い衣ではない。皇族たちを護衛する部隊が着用する赤い衣だ。
皇族の親衛隊が皇宮の外にまで出て誰かを追いかけるのは、大変珍しかった。
都の大通りから一本脇に入った道に皇族御用達の簪屋がある。老舗で皇族や門閥貴族たちがこぞって訪れる店だ。店内はふたつに分かれていて表通りは完成品の簪を棚に並べ接客用の場所に。裏通りに面した部屋はお得意様用の部屋と簪工房があった。
得意客用の部屋は落ち着いた色合いの調度品で揃えられていた。
そこに珍客が現れた。ひと目を避けるようにして裏通りから店の中に雪崩れ込んだのはフードを被った一人の少年だ。名を候明星《ホウ・ミンシン》という。恐れ多くも皇帝と同じ苗字を戴いている。
黒くて長い髪はまだ結い上げられていない。邪魔にならないように横の髪を後ろで軽く束ねて何の飾りもない簪で止めている。吊り目ぎみの涼やかな顔立ちで年頃になればさぞかし女性に人気が出そうだ。下の衣が透けて見えるほどの薄い白い生地の外套を着ている。その下には薄紅色の上衣と下衣を合わせている。下衣には共糸で鳳凰の刺繍が施されていた。非常に高価な服装だ。
彼は、たまたまこの店に訪れていた同じ年頃の杜雨燕《ドゥー・ユーイェン》と運悪く鉢合わせした。
候明星は威嚇する猫のように隠し持っていた短剣を構えて少女と対峙する。杜雨燕は絵画を切り取ったかのように美しい容貌の持ち主だ。黒い髪は編み込まれ高く結い上げ、秋海棠の花を模した簪が添えられている。色白のきめ細やかな肌理に、黒々と大きな瞳は恐れもなく少年を見据えている。唇はぷっくりと赤く、パカり半開きになっていた。
傍には、短剣を構え主人を守ろうとしている侍女の李花梨《リー・ファンリ》がいた。
「まぁ。貴方、追われているの?」
候明星《ホウミンシン》は返事をしない。それが答えのようなものだった。
「子供なのにご婦人方に人気でお困りのようね。今日はどの花?」
「桜だ」
杜雨燕の問いかけに候明星は短く答えた。後宮で今をときめくのは嘉貴妃《ジャグゥイフェイ》である。嘉家は桜の家紋だ。候明星は嘉家の息のかかった皇宮親衛隊に追われていると仄めかしたのだ。
杜家は皇后の淑《シュ》家の派閥に属している。杜雨燕は齢十歳であるが家の事情をよく知っていた。彼を庇うことにした。
「いいわ。そこで隠れていなさい」
杜雨燕は店の主人のように振るまった。候明星に水を飲ませるように店の主人に命じた。夏の盛りの中、後宮から王都の目抜き通りを駆け抜けたので候明星の頬は薔薇色に染まり額と鼻の頭に粒のような汗が光り肩で息をしている。
店の外では相変わらず親衛隊の誰何の声が扉越しに聞こえる。一軒一軒店の扉を開けさせ中を改めているようだ。
杜雨燕は李花梨に店の入り口を開けさせ、顰めっ面でゆっくりと店の外へ出た。鬱陶しそうに手にした扇を叩きながら言った。
「騒がしいわ。何を騒いでいるの?」
親衛隊の一人がうるさい子供を追い払おうと手を上げようとしたところを慌てて同僚が止めた。少女の着ている服はとても高価な服である。若草色の向こうが透けて見えるほどの薄い生地を上着とし、下に着用しているのは深い緑色の生地に金糸で家紋が刺繍されている衣である。男は、その家紋を見たことがあった。一礼して問いかける。
「もしかして礼部杜侍郎のご令嬢でしょうか?」
「無礼者! お前が直接お嬢様に声をかけてもいいと思っているのか」
付き従っていた李花梨が主人よりも一歩前に進み出て、親衛隊がこれ以上近づかないように牽制する。
杜雨燕は手で侍女を制した。
「お前の名は?」
「失礼しました。皇宮親衛隊の莫海と申します」
一礼したまま少女の返答を待つ。
「私は杜雨燕。父の名は杜鵬《ドゥー・ポン》」
杜雨燕の名乗りに集まっていた兵士たちは一斉に膝をついて拱手した。
尚書省にある六部のひとつ戸部侍郎を務める杜鵬は辣腕家として有名である。兵士たちは息を呑んで杜雨燕の言葉を待った。
いくら嘉家の後ろ盾があるとはいえ、戸部侍郎の娘に狼藉を働いたとあればトカゲの尻尾切りのように首を切られて終わることを彼らは知っていた。
「陛下《ビーシャー》のお膝元でこのように大騒ぎするとは。どうしたのですか?」
「逃げた子供を追っています」
「子供?」
「歳のころは十ばかりで、盗みを働いた悪党です」
「そう、ずっとここで簪を見ていた私が知るわけないじゃない。うるさいから早く行って」
杜雨燕は歳相応に唇をプクッと突き出して手を払った。男たちは立ち上がって隣の通りへと走り去っていった。皇宮親衛隊の足音が遠くへ去っていくのを確認して杜雨燕は店の中に戻って李花梨に店の入口を閉めさせた。
店の奥では、少年が椅子に腰掛けお茶を飲んでいた。店のお得意様のために用意されたお茶だ。足を組み静かに息を吐いた。彼が座るだけで玉座に見えるほど所作が美しい。
杜雨燕もそれに習って、空いている椅子に座り侍女にお茶を注がせる。
「無事に皇宮まで帰れるの?」
「すぐに戻っても何の意味もない」
候明星は杜雨燕の視線から逃れるように顔を背けた。
「殿下《デンシャー》」
杜雨燕は苦笑いをして同年代の少年に呼びかけた。
皇宮親衛隊は杜雨燕を欺くために「盗人」扱いしていたが、騙される杜雨燕ではない。
どんなに身のこなしが軽かったとしても皇宮に忍び込んで無事に出てくることは不可能である。皇宮の中から無断で出てきたという方がまだ確率はある。
皇宮の中にいる子供は、皇族しかいない。
「私ではどうすることもできないので、父を呼びます。殿下も我が父であれば安心できますか」
淑皇后《シュフゥアンホウ》とやたらと張り合っている嘉貴妃に追われていると匂わせた皇子をどこに引き渡すのがいいのか杜雨燕は悩んだが結局、父に頼ることにした。成人前の皇子は後宮暮らしをしている。その後宮で命をかけて逃げ出してきたのであれば、それに対抗できるだけの勢力に引き渡さないと後味が悪い。
淑家に助けを求めてもいいが、娘が皇后にまでなったというのに淑家の朝廷での影響力は少ない。だからこそ杜家が付け入る隙があるのだ。
杜雨燕は、秋海棠の簪を手にして一振りした。秋海棠の花びらが散り、するりと蝶へ姿を変えて店の窓から青空へと飛んでいった。
秋海棠の飾りのなくなった簪を李花梨に手渡した。
「父上が来るまでここで待っているといいわ。囲碁なんかどうかしら?」
候明星の向かいに座り直した杜雨燕は碁石を打つ仕草をした。
桃の花の甘い香りがどこからか風に乗って漂ってくる。手入れの行き届いた御花園にはたくさんの新人女官たちでごった返していた。後宮では新しい妃嬪を選別するための秀女選抜が行われている。それに合わせて新たに女官を募集したのだ。
女官とひと口にいっても、下級貴族から豪商の娘、地方の農民の娘など出身は様々で家柄や特技などを考慮されそれぞれの働き場所へと配置される。任官のために数十人がひと組となり、女官長たちに案内され後宮内を移動する。秀女選抜のために後宮にやってきた中級以上の貴族の娘たちもいるので御花園は大混乱であった。
新人の女官たちは慣れないうちは、故郷を同じにする者たちで固まって行動することが多い。三人の同じ年頃の少女たちもそれに該当する。後宮の内部に入れたのが嬉しく舞い上がっているのだ。前方を歩く女官長にバレないように戯れ言をいいながら歩いている。三人のうち一番気の強い少女が隣に歩いていた気の弱そうな少女をふざけて突き飛ばした。運悪く勢いがつき向かい側から歩いてきた妃嬪候補の令嬢とすれ違いざまにぶつかった。よろめいて妃嬪の候補の少女の足を踏みつけて地面に倒れた。
御花園中に響き渡るような悲鳴を上げたのは妃嬪候補の沈彗《シェンホイ》である。白い生地で作られた厚底の靴が泥で汚れている。妃嬪候補の中でも上級の位である沈彗には取り巻きが数名おり、彼女たちは一斉に無礼な新人女官を非難した。
慌てたのは女官長で何があったのか聞き出そうとするが、妃嬪候補たちは新人女官に罵声を飛ばすだけであり、新人の女官は震えながら地面で土下座をしている。
彼女をふざけて押し飛ばした女官たちは素知らぬ顔を決め込んでいる。
「こんな役立たず、早く首を刎ねなさい! 私の靴がこんなに汚れているのよ。これから陛下に御目通りをするのにどうしてくれるの」
沈彗は美しい顔を歪めて震える新人女官の地面についた手を右足で思い切り踏みつけ、踵で擦りつけた。女官は悲鳴をあげるわけにもいかず、口の中で押し殺している。踏みつけられた手からは血が流れ落ちた。
騒ぎを聞きつけた宦官たちがやってきて土下座をしている女官を取り囲んだ。
「お待ちください」
野次馬たちをかき分けて一人の少女がやってきた。
桃の花の化身のようにしなやかで美しい少女だ。突然現れた少女に人々は感嘆して道を開けた。年頃の少女へと成長した杜雨燕である。
黒髪は絹のように美しく滑らかで艶やかで結い上げられている。髪を飾る簪は控えめな細工ではあるが水晶のように透き通る花飾りだ。きめの細かい肌に形の良い瞳。唇はふっくらとしていて薔薇色。服装は女官たちが着ているものと同じだが襟の色が異なっている。
少女は宦官たちが取り囲んでいる輪の中に割って入り沈彗と対峙した。
「あら、落ちぶれ令嬢じゃないの。ついにお金稼ぎにやってきたの? 下品ね」
「お困りのようですのでこちらを」
沈彗の嫌味を受け流し、杜雨燕は懐から一本の花飾りを取り出した。杜雨燕が髪にさしている簪と同じ水晶のような素材で作られた飾りである。蓮の花を模した飾りで薄紅の花びらは宝石のようだが向こう側が透けて見えるほど薄い。
水晶花と呼ばれる工芸品だが市場に出回ることがない貴重品である。
杜雨燕は、地面に膝をつき沈彗の履いている布靴に蓮の水晶花を飾った。
「『芙蓉出水』という言葉があるように、蓮の花には清らかで瑞々しい女性に相応しい花です」
杜雨燕の褒め言葉に沈彗の頬には赤みが差し溢れんばかりの笑みをこぼし、杜雨燕を見下ろす。
「他にも蓮の花には『金蓮歩』という言葉がございます。歩いてみてください」
沈彗が訝しげに一歩踏み出すと、蓮の水晶花から金色の花びらが地面に舞い落ちる。地面に落ちる前に花びらは跡形もなく消えていく。沈彗は口をぽかんと開けたまま、さらにもう一歩踏み出す。金色の蓮の花びらが舞い落ちて消えた。
彼女が足を地面に着地するたびに黄金に煌めく蓮の花びらが静かに落ちて泡のように消えるのだ。
まるで天女が歩くような幻想的な光景に見ていた者たちから感嘆の声が上がった。
沈彗は笑みを隠そうと唇をぎゅっと引き結んだ。満足げな表情で自分の布靴に止められた水晶花を眺めた。
「その昔、藩妃は歩くために金製の蓮華を撒きその上を歩いたそうです。その故事にならった術を水晶花にかけています」
大勢の野次馬たちが感嘆するような花飾りを得て、沈彗の自尊心は大いに満たされた。
藩妃は有名な美妃の名前である。その故事にならった靴を見て陛下の関心を得ることは容易いはずである、と沈彗は計算していた。
沈彗の機嫌は十分すぎるほど良くなったが、ちゃんとしておかなければならないことがある。
下々の者の「しつけ」である。
以前、杜家といえば権勢を誇る名門一族であったが数年前に落ちぶれて今は、後宮で女官として出仕しなければならないほどだ。沈彗は前々から同じ年頃の杜雨燕と比較され煮湯を飲まされてきたのだ。
何より、沈彗は、スカした杜雨燕が大嫌いである。
沈彗は膝をついてこちらを向いている杜雨燕の手を思い切り踏みつける。鼻筋に皺を寄せ唇を歪めて叱りつけた。
「女官を躾けるのは私たちの上級貴族の子女がするべきことよ。でしゃばり! 」
さらに沈彗は杜雨燕の下顎を蹴り上げた。体制を崩した杜雨燕は尻餅をつく。杜雨燕は、目を見開き顔を顰める。沈彗と取り巻きたちは無様な姿を晒した杜雨燕を大きな声で嘲笑して去っていった。
「杜宝林、ご無事ですか?」
地面に転がった杜雨燕を助け起こしたのは、周囲の女官たちよりも手の込んだ刺繍が施された女官服を着ている女性だ。後宮の女官たちが憧れる皇后付きの女官の服装である。彼女は皇后付きの女官で黎文《リー・ウェン》という。
「まさか思いきいり蹴られるとは」
杜雨燕は舌打ちをして赤くなった下顎を撫でながら立ち上がった。両手も赤く腫れ上がっている。後で、医官に薬を貰ってくる必要がありそうだった。黎文は彼女の服についてしまった泥を払っている。
杜雨燕の足元に両膝をつき額を地面につきそうなほど頭を下げている少女がいた。杜雨燕に庇ってもらった新人女官である。
「助けていただいたご恩、決して忘れません」
「いいっていいって。でも、気をつけて。後宮ではああいうことがまかり通るから」
杜雨燕は、新人女官を立たせて怪我は無いか尋ねた。彼女の無事を確認した後、周囲を見回し彼女から体を背けている新人女官二名を確認した。彼女たちは同郷の娘がどうなろうと知った事ではないと最初から切り捨てるつもりだった。
杜雨燕は何か言おうとしてやめて、黎文とその場を後にした。
御花園から出て皇后の住む殿舎に向かう道で、黎文がため息をついた。
「ああいうのが皇后様の気を煩わせるかと思うと……」
「沈彗のこと? 沈彗がバカだったら秀女試験には落ちているわ。ま、落ちただけならいいけど」
連れ立って歩く杜雨燕は意味ありげに笑った。
候国の都の大通りを縫うようにして武装した男たちが駆け抜けていく。通りいっぱいに並ぶ屋台には人がたくさん集まっている。行列に並んでいた客を押し退け、怒鳴りつける。体当たりをされて文句をつける男を無視して、武装した男たちは蜘蛛の子を散らすように都中に散らばっていった。あまりのものものしさに都人たちは不思議そうに警備隊の後ろ姿に目を向ける。
彼らの服装は都を守る警備隊の青い衣ではない。皇族たちを護衛する部隊が着用する赤い衣だ。
皇族の親衛隊が皇宮の外にまで出て誰かを追いかけるのは、大変珍しかった。
都の大通りから一本脇に入った道に皇族御用達の簪屋がある。老舗で皇族や門閥貴族たちがこぞって訪れる店だ。店内はふたつに分かれていて表通りは完成品の簪を棚に並べ接客用の場所に。裏通りに面した部屋はお得意様用の部屋と簪工房があった。
得意客用の部屋は落ち着いた色合いの調度品で揃えられていた。
そこに珍客が現れた。ひと目を避けるようにして裏通りから店の中に雪崩れ込んだのはフードを被った一人の少年だ。名を候明星《ホウ・ミンシン》という。恐れ多くも皇帝と同じ苗字を戴いている。
黒くて長い髪はまだ結い上げられていない。邪魔にならないように横の髪を後ろで軽く束ねて何の飾りもない簪で止めている。吊り目ぎみの涼やかな顔立ちで年頃になればさぞかし女性に人気が出そうだ。下の衣が透けて見えるほどの薄い白い生地の外套を着ている。その下には薄紅色の上衣と下衣を合わせている。下衣には共糸で鳳凰の刺繍が施されていた。非常に高価な服装だ。
彼は、たまたまこの店に訪れていた同じ年頃の杜雨燕《ドゥー・ユーイェン》と運悪く鉢合わせした。
候明星は威嚇する猫のように隠し持っていた短剣を構えて少女と対峙する。杜雨燕は絵画を切り取ったかのように美しい容貌の持ち主だ。黒い髪は編み込まれ高く結い上げ、秋海棠の花を模した簪が添えられている。色白のきめ細やかな肌理に、黒々と大きな瞳は恐れもなく少年を見据えている。唇はぷっくりと赤く、パカり半開きになっていた。
傍には、短剣を構え主人を守ろうとしている侍女の李花梨《リー・ファンリ》がいた。
「まぁ。貴方、追われているの?」
候明星《ホウミンシン》は返事をしない。それが答えのようなものだった。
「子供なのにご婦人方に人気でお困りのようね。今日はどの花?」
「桜だ」
杜雨燕の問いかけに候明星は短く答えた。後宮で今をときめくのは嘉貴妃《ジャグゥイフェイ》である。嘉家は桜の家紋だ。候明星は嘉家の息のかかった皇宮親衛隊に追われていると仄めかしたのだ。
杜家は皇后の淑《シュ》家の派閥に属している。杜雨燕は齢十歳であるが家の事情をよく知っていた。彼を庇うことにした。
「いいわ。そこで隠れていなさい」
杜雨燕は店の主人のように振るまった。候明星に水を飲ませるように店の主人に命じた。夏の盛りの中、後宮から王都の目抜き通りを駆け抜けたので候明星の頬は薔薇色に染まり額と鼻の頭に粒のような汗が光り肩で息をしている。
店の外では相変わらず親衛隊の誰何の声が扉越しに聞こえる。一軒一軒店の扉を開けさせ中を改めているようだ。
杜雨燕は李花梨に店の入り口を開けさせ、顰めっ面でゆっくりと店の外へ出た。鬱陶しそうに手にした扇を叩きながら言った。
「騒がしいわ。何を騒いでいるの?」
親衛隊の一人がうるさい子供を追い払おうと手を上げようとしたところを慌てて同僚が止めた。少女の着ている服はとても高価な服である。若草色の向こうが透けて見えるほどの薄い生地を上着とし、下に着用しているのは深い緑色の生地に金糸で家紋が刺繍されている衣である。男は、その家紋を見たことがあった。一礼して問いかける。
「もしかして礼部杜侍郎のご令嬢でしょうか?」
「無礼者! お前が直接お嬢様に声をかけてもいいと思っているのか」
付き従っていた李花梨が主人よりも一歩前に進み出て、親衛隊がこれ以上近づかないように牽制する。
杜雨燕は手で侍女を制した。
「お前の名は?」
「失礼しました。皇宮親衛隊の莫海と申します」
一礼したまま少女の返答を待つ。
「私は杜雨燕。父の名は杜鵬《ドゥー・ポン》」
杜雨燕の名乗りに集まっていた兵士たちは一斉に膝をついて拱手した。
尚書省にある六部のひとつ戸部侍郎を務める杜鵬は辣腕家として有名である。兵士たちは息を呑んで杜雨燕の言葉を待った。
いくら嘉家の後ろ盾があるとはいえ、戸部侍郎の娘に狼藉を働いたとあればトカゲの尻尾切りのように首を切られて終わることを彼らは知っていた。
「陛下《ビーシャー》のお膝元でこのように大騒ぎするとは。どうしたのですか?」
「逃げた子供を追っています」
「子供?」
「歳のころは十ばかりで、盗みを働いた悪党です」
「そう、ずっとここで簪を見ていた私が知るわけないじゃない。うるさいから早く行って」
杜雨燕は歳相応に唇をプクッと突き出して手を払った。男たちは立ち上がって隣の通りへと走り去っていった。皇宮親衛隊の足音が遠くへ去っていくのを確認して杜雨燕は店の中に戻って李花梨に店の入口を閉めさせた。
店の奥では、少年が椅子に腰掛けお茶を飲んでいた。店のお得意様のために用意されたお茶だ。足を組み静かに息を吐いた。彼が座るだけで玉座に見えるほど所作が美しい。
杜雨燕もそれに習って、空いている椅子に座り侍女にお茶を注がせる。
「無事に皇宮まで帰れるの?」
「すぐに戻っても何の意味もない」
候明星は杜雨燕の視線から逃れるように顔を背けた。
「殿下《デンシャー》」
杜雨燕は苦笑いをして同年代の少年に呼びかけた。
皇宮親衛隊は杜雨燕を欺くために「盗人」扱いしていたが、騙される杜雨燕ではない。
どんなに身のこなしが軽かったとしても皇宮に忍び込んで無事に出てくることは不可能である。皇宮の中から無断で出てきたという方がまだ確率はある。
皇宮の中にいる子供は、皇族しかいない。
「私ではどうすることもできないので、父を呼びます。殿下も我が父であれば安心できますか」
淑皇后《シュフゥアンホウ》とやたらと張り合っている嘉貴妃に追われていると匂わせた皇子をどこに引き渡すのがいいのか杜雨燕は悩んだが結局、父に頼ることにした。成人前の皇子は後宮暮らしをしている。その後宮で命をかけて逃げ出してきたのであれば、それに対抗できるだけの勢力に引き渡さないと後味が悪い。
淑家に助けを求めてもいいが、娘が皇后にまでなったというのに淑家の朝廷での影響力は少ない。だからこそ杜家が付け入る隙があるのだ。
杜雨燕は、秋海棠の簪を手にして一振りした。秋海棠の花びらが散り、するりと蝶へ姿を変えて店の窓から青空へと飛んでいった。
秋海棠の飾りのなくなった簪を李花梨に手渡した。
「父上が来るまでここで待っているといいわ。囲碁なんかどうかしら?」
候明星の向かいに座り直した杜雨燕は碁石を打つ仕草をした。
桃の花の甘い香りがどこからか風に乗って漂ってくる。手入れの行き届いた御花園にはたくさんの新人女官たちでごった返していた。後宮では新しい妃嬪を選別するための秀女選抜が行われている。それに合わせて新たに女官を募集したのだ。
女官とひと口にいっても、下級貴族から豪商の娘、地方の農民の娘など出身は様々で家柄や特技などを考慮されそれぞれの働き場所へと配置される。任官のために数十人がひと組となり、女官長たちに案内され後宮内を移動する。秀女選抜のために後宮にやってきた中級以上の貴族の娘たちもいるので御花園は大混乱であった。
新人の女官たちは慣れないうちは、故郷を同じにする者たちで固まって行動することが多い。三人の同じ年頃の少女たちもそれに該当する。後宮の内部に入れたのが嬉しく舞い上がっているのだ。前方を歩く女官長にバレないように戯れ言をいいながら歩いている。三人のうち一番気の強い少女が隣に歩いていた気の弱そうな少女をふざけて突き飛ばした。運悪く勢いがつき向かい側から歩いてきた妃嬪候補の令嬢とすれ違いざまにぶつかった。よろめいて妃嬪の候補の少女の足を踏みつけて地面に倒れた。
御花園中に響き渡るような悲鳴を上げたのは妃嬪候補の沈彗《シェンホイ》である。白い生地で作られた厚底の靴が泥で汚れている。妃嬪候補の中でも上級の位である沈彗には取り巻きが数名おり、彼女たちは一斉に無礼な新人女官を非難した。
慌てたのは女官長で何があったのか聞き出そうとするが、妃嬪候補たちは新人女官に罵声を飛ばすだけであり、新人の女官は震えながら地面で土下座をしている。
彼女をふざけて押し飛ばした女官たちは素知らぬ顔を決め込んでいる。
「こんな役立たず、早く首を刎ねなさい! 私の靴がこんなに汚れているのよ。これから陛下に御目通りをするのにどうしてくれるの」
沈彗は美しい顔を歪めて震える新人女官の地面についた手を右足で思い切り踏みつけ、踵で擦りつけた。女官は悲鳴をあげるわけにもいかず、口の中で押し殺している。踏みつけられた手からは血が流れ落ちた。
騒ぎを聞きつけた宦官たちがやってきて土下座をしている女官を取り囲んだ。
「お待ちください」
野次馬たちをかき分けて一人の少女がやってきた。
桃の花の化身のようにしなやかで美しい少女だ。突然現れた少女に人々は感嘆して道を開けた。年頃の少女へと成長した杜雨燕である。
黒髪は絹のように美しく滑らかで艶やかで結い上げられている。髪を飾る簪は控えめな細工ではあるが水晶のように透き通る花飾りだ。きめの細かい肌に形の良い瞳。唇はふっくらとしていて薔薇色。服装は女官たちが着ているものと同じだが襟の色が異なっている。
少女は宦官たちが取り囲んでいる輪の中に割って入り沈彗と対峙した。
「あら、落ちぶれ令嬢じゃないの。ついにお金稼ぎにやってきたの? 下品ね」
「お困りのようですのでこちらを」
沈彗の嫌味を受け流し、杜雨燕は懐から一本の花飾りを取り出した。杜雨燕が髪にさしている簪と同じ水晶のような素材で作られた飾りである。蓮の花を模した飾りで薄紅の花びらは宝石のようだが向こう側が透けて見えるほど薄い。
水晶花と呼ばれる工芸品だが市場に出回ることがない貴重品である。
杜雨燕は、地面に膝をつき沈彗の履いている布靴に蓮の水晶花を飾った。
「『芙蓉出水』という言葉があるように、蓮の花には清らかで瑞々しい女性に相応しい花です」
杜雨燕の褒め言葉に沈彗の頬には赤みが差し溢れんばかりの笑みをこぼし、杜雨燕を見下ろす。
「他にも蓮の花には『金蓮歩』という言葉がございます。歩いてみてください」
沈彗が訝しげに一歩踏み出すと、蓮の水晶花から金色の花びらが地面に舞い落ちる。地面に落ちる前に花びらは跡形もなく消えていく。沈彗は口をぽかんと開けたまま、さらにもう一歩踏み出す。金色の蓮の花びらが舞い落ちて消えた。
彼女が足を地面に着地するたびに黄金に煌めく蓮の花びらが静かに落ちて泡のように消えるのだ。
まるで天女が歩くような幻想的な光景に見ていた者たちから感嘆の声が上がった。
沈彗は笑みを隠そうと唇をぎゅっと引き結んだ。満足げな表情で自分の布靴に止められた水晶花を眺めた。
「その昔、藩妃は歩くために金製の蓮華を撒きその上を歩いたそうです。その故事にならった術を水晶花にかけています」
大勢の野次馬たちが感嘆するような花飾りを得て、沈彗の自尊心は大いに満たされた。
藩妃は有名な美妃の名前である。その故事にならった靴を見て陛下の関心を得ることは容易いはずである、と沈彗は計算していた。
沈彗の機嫌は十分すぎるほど良くなったが、ちゃんとしておかなければならないことがある。
下々の者の「しつけ」である。
以前、杜家といえば権勢を誇る名門一族であったが数年前に落ちぶれて今は、後宮で女官として出仕しなければならないほどだ。沈彗は前々から同じ年頃の杜雨燕と比較され煮湯を飲まされてきたのだ。
何より、沈彗は、スカした杜雨燕が大嫌いである。
沈彗は膝をついてこちらを向いている杜雨燕の手を思い切り踏みつける。鼻筋に皺を寄せ唇を歪めて叱りつけた。
「女官を躾けるのは私たちの上級貴族の子女がするべきことよ。でしゃばり! 」
さらに沈彗は杜雨燕の下顎を蹴り上げた。体制を崩した杜雨燕は尻餅をつく。杜雨燕は、目を見開き顔を顰める。沈彗と取り巻きたちは無様な姿を晒した杜雨燕を大きな声で嘲笑して去っていった。
「杜宝林、ご無事ですか?」
地面に転がった杜雨燕を助け起こしたのは、周囲の女官たちよりも手の込んだ刺繍が施された女官服を着ている女性だ。後宮の女官たちが憧れる皇后付きの女官の服装である。彼女は皇后付きの女官で黎文《リー・ウェン》という。
「まさか思いきいり蹴られるとは」
杜雨燕は舌打ちをして赤くなった下顎を撫でながら立ち上がった。両手も赤く腫れ上がっている。後で、医官に薬を貰ってくる必要がありそうだった。黎文は彼女の服についてしまった泥を払っている。
杜雨燕の足元に両膝をつき額を地面につきそうなほど頭を下げている少女がいた。杜雨燕に庇ってもらった新人女官である。
「助けていただいたご恩、決して忘れません」
「いいっていいって。でも、気をつけて。後宮ではああいうことがまかり通るから」
杜雨燕は、新人女官を立たせて怪我は無いか尋ねた。彼女の無事を確認した後、周囲を見回し彼女から体を背けている新人女官二名を確認した。彼女たちは同郷の娘がどうなろうと知った事ではないと最初から切り捨てるつもりだった。
杜雨燕は何か言おうとしてやめて、黎文とその場を後にした。
御花園から出て皇后の住む殿舎に向かう道で、黎文がため息をついた。
「ああいうのが皇后様の気を煩わせるかと思うと……」
「沈彗のこと? 沈彗がバカだったら秀女試験には落ちているわ。ま、落ちただけならいいけど」
連れ立って歩く杜雨燕は意味ありげに笑った。
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