盤上に咲くイオス

菫城 珪

文字の大きさ
上 下
88 / 105

77 黄昏色の宝石

しおりを挟む
77  黄昏色の宝石
 
 気怠さの中、目が覚める。
 見覚えのある天井は俺の寝室のものだ。ごろりと寝返りを打ちながら何で寝室にいるのか考える。部屋は既に薄暗く、外は夜が迫っているようだ。
 あー、どうしてここにいるんだっけ。鈍い体の痛みと眠気に意識が覚醒し切らないまま、窓に背を向けてとろとろと微睡んでいれば、ドアが開くのが見えた。
 入って来たのは水差しとグラスを持ったオルテガで、俺と目が合うと持っていた物を近くのテーブルに置いて俺の前まで来る。何やら思い詰めたような表情をしているのでどうしたんだと思っていれば、彼は徐ろに床に座った。
「すまなかった……」
 寝起きに床に正座再びである。半分寝ぼけていた俺はややあってからやっと状況を理解する。
 どうやらオルテガは俺が『月映』を身につけていた事に気がついたらしい。
「んん、こうなる事がわかっていてわざとつけていたから良い」
「だが……」
 枕を抱き締めてむずがりながら答えるが、オルテガの表情は優れない。彼が言いたいのは自分がつけていた時の事だろうか。まあ、『黄昏』には確かに振り回されはしたものの嫌ではなかったから問題はない。それに、『黄昏』の香りは好きだ。
「ふふ、これからお前を誘う時にはあの香水をつけようか」
「やめてくれ」
 食い気味に拒否された。つまらん。まだ眠たくて半分寝ながらも不満に思っていれば、オルテガが申し訳なさそうに俯く。
「……あんな物を、お前に対して使って悪かった」
 確かに人の心を物で操るなんて虚しいことだ。それでも、と思う気持ちは分からなくもないが…。俺に対して何某かの効果がある事に気が付いたのは偶然だろうが、彼も実際に体験するまでは効果の程も半信半疑だったんだろう。
「フィン」
 名前を呼んで手招きをすれば、そろそろとオルテガが近付いてくる。近寄ってきた彼はベッドの縁に座り、かがみ込むような体勢をしてくれるから腕を伸ばして体を抱き締めた。応えるように包んでくれるのは大好きな匂いだ。
「あの香水も悪くないが、お前の匂いが一番好きだ」
「……」
 擦り寄って甘えて見せれば、オルテガが手で顔を覆いながら黙り込む。
「知っているか? 匂いというのは記憶や本能に直結しているそうだ」
 少し体を離してオルテガの頬を右手で撫でながら「俺」の時に得た知識を話し始める。人間という生き物は犬や猫に比べれば嗅覚は弱いものの、記憶を司る場所の近くに嗅覚を司る部位があるせいか記憶と匂いというのは結び付き易いらしい。
「人は匂いで本能的にその人との相性をも感じ取る事も出来る」
 本能という部分では匂いである程度相性が分かるらしいし、匂いで嫌われると挽回が難しくなるのだという。嗅覚は遺伝子レベルの相性がわかり、唯一理性が効かないと言われてもいるそうだ。
「相手の好む香りを身に付ける事で意中の者に好かれたいと思うのは自然な事だろう?」
 お前は悪くないのだと言って含めながら相手の肌に口付けを落とす。微かに香る汗と欲の匂いすら、愛おしい。
「だが、アレは違うだろう? ……薬や魔法で無理矢理心を得ても虚しいだけだ」
 どうやら本気で落ち込んでいるようで思わず苦笑する。俺もここまで効くと思っていなかったからお互い様だ。
「それが理解出来たなら問題ない。あんな物に頼らずとも、私はお前のものでお前は私のものだ」
 オルテガを抱き締めながら言い聞かせてやる。状況だって落ち着いている訳ではないし、不安に思う気持ちもわかるから。
 口約束しかしてやれない事が悔やまれる。オルテガを安心させてやれる何かいい案はないだろうか。これも二人で話した議題のうちの一つだが、もう少し詳しくサディアスに相談したい。
「それに……仮定でしかないんだが、あの香水は好意が強ければ強い程効力を発揮するようだ。メイが同じ物をつけていたが、反応したのは私だけだろう?」
 がばりとオルテガが体を起こして俺を見る。実験した事を怒られるかと思ったが、何やら言いたそうにしながらもオルテガが再び俺を抱き締めた。
「……俺がメイを襲ったらどうするつもりだったんだ」
「あいつが大人しく襲われるような奴か?」
 間違い無く魔法でぶっ飛ばされるだろう。ぎゅうと抱き付いてくるオルテガの背中を撫でながらも、香水の効果について実証出来た事を考える。
 どうやらこの香水は相手が抱える好意が強い程により効力を発揮するらしい。ただ、ゲームのアイテムとして存在していたならばどういうタイミングで使うのかイマイチわからないように思う。
 有り得そうなものと言ったらキャラ単体をターゲットにしたブーストアイテムといったところだろうか。それなら攻略のタイミングが遅く、年下組に較べれば攻略難易度が高い年上組を個別でターゲットにしている事も合点がいく。
『恋風の雫』よりもターゲットを絞った分効果が強いとかそんな感じのアイテムか。となると、『夜離れの露』のような逆の作用があるアイテムもあるんだろうか。嗚呼、知りたい事はまだまだ沢山あるのに、どうしようもないこの現状がもどかしい。
 硬い宵闇色の髪を撫でてやりながら思考の海に漕ぎ出していると、他事を考えていることに気が付かれたらしい。首筋に軽く噛み付かれて思考を引き戻される。
「こら、首を噛むな」
 犬歯が首筋の肌に食い込むのを感じて声を掛ける。じりじりと肌が痛むから血も出ているかもしれない。噛み跡くらいいくらでもあるんだが、この位置だと服を着ても見えそうだ。
「……あんまり俺を試さないでくれ」
 これはまあ俺が悪い。
「すまなかった。もうしない」
 素直に謝ってオルテガの好きなようにさせる。噛み付かれた場所を舐められて肌を這う濡れた熱い感触につい体が震えた。
 流石に怒らせてしまったのかもしれない。黙ってこんな実験されたら俺でも怒る。
「すまなかった、フィン。許して欲しい。ただ、どうしても証明が必要だったんだ」
「証明?」
「あの香水が、我々に及ぼす影響の、だ」
 俺の言葉に、黄昏色の瞳が怪訝そうに細くなる。そんな表情をしている彼の頬を撫でながら俺は言葉を続けた。
「ステラ嬢は身に付けている香水で人の心を操っている可能性が高い。『黄昏』と『月映』にも同じ効果があると踏んだで試したんだが……どうやら事実だったようだな」
 俺の話を聞いたオルテガは深い溜め息を零しながら強く抱き締めてくれる。
「……それが事実ならあの女は聖女ではなく魔女だな」
 熱い体に包まれるのが心地良くてうっとりしていれば、嫌悪感丸出しでオルテガが呟く。そうだな、現状あの小娘の評価に相応しい名称かもしれない。
「魔女ならば火炙りにしなければ」
「まあ待て、そう焦るな。魔女にも使いようがある」
 獣のように唸るオルテガの頬を右手で撫でて俺の方を向けさせる。薄闇の中で仄暗い色をした黄昏の瞳は相当お怒りのようだ。
「ただ火で炙るだけではつまらないだろう?」
 この世界で目覚めた直後はステラも罰する気でいたんだが、サディアスと話し合っているうちに気が変わった。彼女にも俺の駒になってもらうつもりだ。
 オルテガと共に生きていく上でネックなのはお互いの身分。セイアッドは一人っ子で宰相を、オルテガは兄がおれど怪我で引退して今はオルテガが騎士団長を務めている。宰相と騎士団長の婚姻は権力の偏りから周囲の理解を得る事が難しいだろう。
 そして、唯一騎士団長を引き継げる筈のマーティンはステラのせいで処罰の対象となる。このままいけば、マーティンもダグラスも共に廃嫡になる可能性が高い。
 恐らくこの世界のステラは養父であるラドミールと利害が一致し、ゲームの知識を使って様々な事をしているのだろう。香水を使ったのも、贅沢三昧も間違い無く彼女自身の意思で行なっている。このままいけば、ステラもラドミールと仲良く連座になるだろう。
 だが、ステラがラドミールに脅されて仕方なく手先となっていたとしたらどうだ。
 聖女としての素質があるが身分の低いステラを養女として無理矢理引き取り、家族を人質にして王太子や他の有力な貴族子息を抱き込む為にラドミールがあの香水を使わせた。ステラはそんな状況を心苦しく思い、わざと傍若無人な振る舞いをする事で自身が王妃に相応しく無いとささやかな抵抗をしている。
 少々無理矢理感があるが、そんな話になればどうだ。身分の低いステラがラドミールに逆らう事は出来ないだろうし、むしろ家族や国を守ろうとした健気な娘になる。王太子や貴族子息達は陰謀に巻き込まれた被害者となり、お咎めも軽く済む事になるだろう。
 そうなれば、いずれはマーティンが騎士団長を引き継ぐだろうし、オルテガがレヴォネの家に入る事も出来なくはない。
 火種さえ起こしてしまえば、あとは如何様にでも煽ればいい。情報戦ならセイアッドの土俵だ。
「なあ、フィン。私はお前が思うような清廉な存在では無いんだ」
 きっとオルテガの想うセイアッドならこのようなやり口をしないだろう。だが、二人が一緒になるためにはこうするのが一番手っ取り早い。
「これから私は、私自身の欲の為に一人の少女の未来を潰す」
 柔らかく囁きながらオルテガの顔を見つめる。お前はそんな俺を赦してくれるだろうか。
「……火炙りではなく、駒にすると?」
「ああ。彼女の聖女としての素質は本物だ。利用しないのは勿体無いだろう? それに……悪役はラドミール一人の方が私達にとっては都合が良い」
 俺の言わんとしている事を理解したのだろう。オルテガが目を見開く。
「お優しい私じゃなくて幻滅したか?」
「……いいや。お前は優しい奴だよ」
「ん……」
 すり、と大きな手が腰を撫でる。同時に降ってくる唇を肌に受けながらくすぐったさに身を捩った。
「俺や他の者ならば貶めた者を鏖殺するだろう。だが、多少の打算はあれどお前はそんな者達ですら罪を軽くしてやろうとしている」
 オルテガの言葉と愛撫を受けながら思わず苦笑する。そんな綺麗な理由なんかじゃない。都合が良いから利用するだけだ。
「お前は優しいよ」
「買い被りすぎだ。言っただろう。私は私の欲の為にこれからの事を進める」
「ならば、俺も共犯だな」
 こつりと額をくっつけられて間近で夕焼け色の瞳がじっとこちらを見つめてくる。同時に熱い手が俺の左手に触れた。そこで漸く気が付いたが、左手の指に何やら違和感がある。
 慌てて自分の目の前に左手を持ってくれば、見覚えの無い物が左手の薬指にある。
 艶やかな銀の指輪。その中央にはオルテガの瞳のように鮮やかなオレンジ色をした宝石が埋め込まれるようにして嵌っている。
 寝ている間に嵌められたんだろうか。吃驚し過ぎて声も出ずにいれば、オルテガが俺の左手を取って指輪に口付けた。その光景にボッと顔が熱くなるのを感じながらもまだ言葉が出て来なかった。
「お前に贈るのに相応しい宝石をずっと探していてやっと見つけたんだ」
 何度も指にキスをしながら甘い声が告げる。指輪でも首輪でも好きにしろと言ったのは俺だが、これは無理だ、破壊力が高過ぎる。
「これでお前は俺のものだ」
 指に口付けながらオルテガが流し見るようにして俺を見遣る。スチルのようなその光景を前にしてもまだ言葉が出て来ない。
 代わりに零れたのは涙だ。ぽろぽろと零れ落ちる雫は「私」が流すものか。
 嬉しくてうれしくて仕方がない。ずっと、ずっと望んでいたけれど、決して叶う事がないと思っていたから。
 同時に胸に深く落ちるのはどうしようもない寂寞だ。歓喜に震える「私」とは裏腹に「俺」はどこか寂しい気持ちになる。
 オルテガとセイアッドがこうして想い合う事をずっと望んでいた。だが、その二人が一緒になれば「俺」は独り取り残される。その事にやっと気が付いた。
 流れる涙を優しく拭ってくれる指先すらどこか遠く感じながらぐちゃぐちゃな感情をどうにか整理しようとする。しかし、嗚咽に呑まれて呼吸すら上手く出来ない。
 そんな俺を宥めるように抱き締めてくれる体にしがみつきながらやるせない気持ちを必死で飲み込んだ。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

異世界に行ったらオカン属性のイケメンしかいなかった

BL / 連載中 24h.ポイント:653pt お気に入り:200

すきにして

ライト文芸 / 完結 24h.ポイント:1,164pt お気に入り:0

イアン・ラッセルは婚約破棄したい

BL / 完結 24h.ポイント:31,325pt お気に入り:1,587

殉剣の焔

BL / 連載中 24h.ポイント:113pt お気に入り:115

ド陰キャが海外スパダリに溺愛される話

BL / 連載中 24h.ポイント:5,935pt お気に入り:327

『恋愛短編集①』離縁を乗り越え、私は幸せになります──。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:3,501pt お気に入り:307

会社を辞めて騎士団長を拾う

BL / 完結 24h.ポイント:2,733pt お気に入り:40

待ち遠しかった卒業パーティー

恋愛 / 完結 24h.ポイント:6,619pt お気に入り:1,296

処理中です...