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n+1周目

09

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 母娘が出ていき、ジェイドと俺の二人が部屋に取り残された。
 ジェイドは二人が出て行った部屋の入り口をどこか柔らかな眼差しで見つめている。その横顔にイラッとする。

「おい、あの女を二度とこの家に入れるな。メイドも今日でクビだ」

 声を低くして言うと、ジェイドの表情が一気に強張った。

「何故ですか」
「不愉快なんだよ、あんな農民風情に馴れ馴れしくされるのは」
「お言葉ですが、彼女たちはユージン様のお体を心配してくださっているのですよ」
「そのこと自体が……っ!!」

 思わず大きな声で言い返すと、胸が苦しくなった。うまく息ができず、喘ぐように口を開閉させる。

「ユージン様!」

 焦った声で駆け寄ってきたジェイドが俺を助け起こして背をさする。俺はその手を力の限り振り払った。

「さわ、るなっ!!」

 息も絶え絶えになりながら言う。
 ジェイドは怒りと憐みを混ぜ込んだような表情で俺を見た。そんな奴を睨み返して、二人で無言になっていると、ドアが開いた。

「お待たせしました」

 そう言って、テレサとアンナが戻ってきた。
 アンナは室内に流れる不穏な空気に気付いて少し気遅れしている様子だったが、テレサは全く気付いていないのか出ていった時と同じように穏やかな笑みを俺たちに向けた。
 その手に湯気の立つ小さめの深皿があるのを見て、げんなりとした思いが湧き上がる。まさかとは思うが、手料理を差し入れに来たのか。

「よろしければ召し上がってください。リンゴ煮です」

 無言で皿を凝視する俺にテレサが言う。

「リンゴはアーネスタの特産品なんです。これはこの村で採れたもので作りました。この辺りの子供は風邪を引くと必ずリンゴ煮を食べるんですよ」

 テレサが能天気に説明する。だが、そもそも俺の不調は風邪ではないし、食べ物自体を受け付けないのに差し入れてくる神経も疑う。子供扱いも腹立たしい。これだからまともな教育を受けていない人間は質が低くて嫌なのだ。
 アンナは心配そうにテレサを見つめ、ジェイドは俺の反応を警戒していた。俺がこの母娘を傷付けると思っているのだろう。
 期待に応えてやろうと腕を持ち上げる。弱った身体でも皿をひっくり返すくらいは簡単だ。皿の中身を床にぶちまけて「こんなものが食えるか」と罵声を浴びせてやろうと考えた。
 だが、不意に皿を持つテレサの手に目が留まった。労働や水仕事で荒れた皮膚はお世辞にも綺麗とは言えず、みすぼらしい。その手に髪を撫で付けられた感触が蘇る。すると、皿をひっくり返すために伸ばしかけた手がのろのろと下がっていった。
 それをどう勘違いしたのか、テレサはスプーンで皿の中身をひと掬いし、何度か息を吹きかけてから俺の口元にそれを差し出した。

「は?」
「冷ましましたから、大丈夫ですよ」

 大丈夫の意味がまったくわからない。
 今からでも目の前のスプーンをはたき落とそうかと考えていると、不意に微かな香りが鼻先を掠めた。
 一瞬事態への理解が遅れる。何故ならこの回が始まってから今まで何かのにおいを感知したことなどなかったのだから。気のせいだと思ったが、すんと鼻から息を吸うと先程よりもはっきりとしたにおいがした。
 甘く爽やかな香り、それは目の前に差し出されたスプーンから香っていた。
 信じられない気持ちで、だが確かめずにはいられなくて、俺は差し出されたスプーンを自分の手で持ち直し、ゆっくりと口元へと運んだ。
 ジェイドが息を飲むのがわかったが、今は奴の反応に構っている余裕はなかった。
 小さく刻まれたリンゴの香りは鼻先に近づくほど鮮明になる。自然と唾液が口内に広がって、それを飲み下すと喉がごくりと鳴った。
 恐る恐るスプーンを口に運び入れる。柔らかく煮込まれたリンゴがとろりと舌の上に転がった。すると、次の瞬間には口いっぱいに砂糖の甘味とリンゴの爽やかな香りと酸味がほわりと広がった。

「あ、まい」

 一口目を咀嚼し飲み込んだ俺の口から出てきたのはそんな言葉だった。
 甘い……、甘いってこんな感覚、だった。
 久しぶりに感じた味覚に舌がじんじんとして痺れるようだった。

「ごめんなさい、甘いのお嫌いでしたか?」

 眉をハの字にしたテレサが聞いてくるが、俺には答えられなかった。
 味に対して好きとか嫌いとかを今まで考えたことがなかったのだ。味覚がなくなる前から食べるという行為に興味が持てなかった。味の良し悪しはもちろんあるが、何を食べても味気なくて、強いていうならすべてが嫌いだった。
 俺は無言のまま、テレサが持ったままでいたリンゴ煮の皿を手に取った。その場にいた全員がぱちりと目を瞬く。
 居心地は最高に悪かったが、二口目を欲さずにはいられなかった。今までは空腹さえあまり感じていなかったのに、さっきの一口目を口にした途端、身体がもっと寄越せと訴えてくるようだった。
 欲に抗えず、もう一度口に運んだリンゴ煮はやはり甘かった。だが嫌いとは思わない。
 喉を通った食べ物が胃へと落ちていく感覚。空腹が満たされていく充足感が心地よい。
 無言のまま食べ進める俺に三人分の視線が突き刺さっていることに気が回ったのは、皿の三分の一ほどまで食べ進めた頃だった。
 にこにこと嬉しそうに微笑むテレサ、ほっと肩を撫で下ろすアンナ、そして信じられないものを見るような顔のジェイド。
 急激に羞恥心が込み上げてくる。

「お前ら全員出ていけ、今すぐに!!」

 先程のように息がつかえないよう声量を絞りながらも、語気を強めて言い放つ。が、そんな俺の手にはリンゴ煮の皿がしっかりと握られているわけで。
 「恥ずかしがらずともよいのに」とかほざくテレサをアンナがぐいぐいと押して部屋を出ていき、最後にジェイドが「失礼いたしました」とドアを閉めた。奴は最後まで不審げな眼差しを俺に向けていた。
 行き場のない屈辱が胸に広がる。何より腹立たしいのは、それでもこのリンゴ煮を食べずにはいられないことだ。

「クソッ」

 悪態づきながら、俺は自棄になって皿の中身を食べ進めた。

 その日、俺はものすごく複雑な気分に見舞われながらも、何か満たされたような心地で眠りについた。
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