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番外編
とある時間軸の二人《後》
しおりを挟む結局その日の仕事はエミリオに代わってもらった。最初はやや渋っていたものの、今度酒を奢る約束をしたら喜んで引き受けてくれた。……本当は俺以外の誰にも任せたくないのだけれど。
「奢りの約束、忘れんなよ」
「わかってますって」
念を押しながら早速ユーク様の部屋へ向かおうとするエミリオを呼び止める。
「ちょっと待ってください。これを」
「ん? なにこれ」
「軟膏です。今朝紅茶をこぼしてしまって、その際にユーク様に火傷を負わせてしまったんです。右の手首のところ。なので、手当てをお願いしたくて」
あの時ユーク様は「平気だ」と答えた。だが、手首が少し赤くなっているのを俺は確認していた。その場で指摘しなかったのは、俺が負わせた傷で負い目があったのと、冷静に傷の手当てをできる自信がなかったからだ。本当なら平然と傷を隠したことを叱りたかった。
「俺からだということはユーク様には黙っておいてください」
軟膏の入った容器とを手渡しながら言うと、エミリオはきょとんとした。彼からすればおかしなお願いだろう。だが、彼は深く突っ込むことなく、「りょーかい」と軽やかに頷いた。
「それとなく気付いたフリして手当てしとけばいいんだよな。任せとけ」
「ありがとうございます」
今度こそユーク様の部屋へと歩き出したエミリオを見送る。その背に追い縋る自分の視線が未練がましくて、深い溜息がこぼれた。
その日はやたらと時間の進みが遅く感じた。
自分からユーク様のお世話を下りたくせに、今何をしてるんだろうとか、代理の彼と必要以上に親しくなっていないかとか、そんなことばかりを考えてしまい、結局仕事に手がつかなかった。
不注意でミスばかり犯す俺を「誰にだってそんな日はあるさ」と言って励ましてくれる人もいたが、まさかいかがわしい夢を見た結果こんなことになっているとは誰にも言えない。
(あ、ユーク様)
二階の廊下を歩いている途中、ふと中庭を見下ろし、その姿を見つけた。まあ、“ふと”なんていうのは嘘で、本当はずっとその姿を探していたのだが。
休憩中だろうか、中庭のベンチに腰掛けている。そこへエミリオが紅茶とお菓子を持って現れた。
皿の上に乗っているのはアップルパイだ。先程厨房で焼き上げる前のものを見て悔やんだところだった。はっきりと口には出さないが、ユーク様はりんごを使ったお菓子を好んでいる。それらを食べる時、いつも少し優しい顔になる。それを一番近くで見られるのは俺の特権だったのに。
この距離からではユーク様の細かい表情までは見えなかった。ただ二人が何か言葉を交わしていることだけがわかる。じりじりと焦がれるような感覚が胸を侵食していく。手首から覗く白いを包帯を目にすると、その感覚は一層深くに入り込んだ。
自分で頼んでおきながら身勝手にもほどがある。それでも手当のためとはいえ自分以外の人間が触れたのかと思うと、嫉妬心が拭えなかった。
結局午後からの戦闘訓練にも身が入らず、「集中できてない奴にいられちゃ迷惑だ」と修練場を追い出されてしまった。
裏手の水場で頭から水を被って深く項垂れた。
「何やってんだ俺……」
今日何度目かもわからない深い溜息が吐き出される。すると、突然後ろから何かが頭に被さる。手に取るとそれはタオルで、後ろを振り返るとそのタオルを投げた人物が目に入った。
「ユーク様……」
思いがけず現れたその人に思わず体が強張る。ユーク様は数歩離れた位置に立ちながら、そんな俺を無表情に見ていた。冷静な眼差しは俺を観察するようでもあり、居た堪れずに目を逸らしてしまう。
「ど、どうされたのですか? こんなところで」
「お前の様子があまりに酷いと聞いてな」
ユーク様はしれっと答えた。もしや先程の訓練の様子も見られていたのだろうか。恥ずかしいやら情けないやらで余計に顔が見れなくなる。
ユーク様から投げ渡されたタオルは顔を隠すのにちょうどよかった。頭と顔を拭いながら、この体たらくにどう説明をつけるかをひたすら考える。
すると、不意にユーク様が俺に向けて一歩距離を詰めてきた。無意識のうちに身構える俺に向かってユーク様は静かな声を放った。
「これ、お前の差し金だろう」
“これ”と言いながら見せてきたのは包帯の巻かれた右手首だ。エミリオには俺の名前を出さないように言っておいたはずで、まさか見抜かれるとは思っていなかった。それが、なんというか、悔しいのに嬉しい、というか……。
そんな俺をじとりと見つめながら、ユーク様は「目敏い奴」と呟いた。その表情が隠し事がバレた子供のそれで、少しおかしい。
体の強張りが僅かにほどけて、少しだけいつもの調子を取り戻した。
「あなたはご自分の傷に無頓着すぎます」
俺の苦言にユーク様は面倒臭そうにそっぽを向いた。そして、顔を背けたままぼそりと言葉をこぼした。
「……明日は戻ってくるのか?」
もごもごと口の中で呟くような声は聞き取りづらかったものの、なんとかそれを拾い上げる。その言葉の意味を理解すると、胸の奥がむずむずとくすぐったくなった。
「それは、俺に戻ってきてほしいという意味でしょうか」
「はあ?」
浮かれる気持ちを抑え切れずに尋ねると、案の定ユーク様は目一杯顔を顰めた。
「自惚れるな。あのエミリオとかいう奴が無駄なおしゃべりが多くてうるさかったってだけだ」
「それでも、あなたに必要とされるのは俺にとって意味のあることですから」
俺が言うと、ユーク様は押し黙った。正確には絶句していた。真正面から投げかけられる好意の言葉にこの人はどこまでも弱くて、嫌味も皮肉も返せないのだ。それがわかっていてこうして困らせているのだと知られたら、さすがに機嫌を損ねる程度では済まないだろう。
おそらく今懸命に言葉を探しているユーク様に口元が緩みそうになるのを堪えて、俺はもう少しだけその隙に付け込んでみることにした。
「あの、包帯、少し崩れているようなので、直してもいいですか?」
本当は大して崩れてなどいない。ただ触れる口実が欲しかっただけだ。
ユーク様は少しの間無言でいたが、やがてムスッとした顔のまま右腕を差し出してきた。ユーク様との間に残っていた数歩の距離を詰めて、俺は差し出された右腕を手に取った。
理由もないと触れないのが現実の俺とこの人の距離だ。触れる時に俺が抱いている劣情をこの人が知ることはないし、応えることもない。だが、今手の中にある温かさは夢の中には存在しない。
包帯を結び直して、俺はこの日初めてユーク様の顔を正面から見据えた。陽の光に透ける夜明け色の瞳を綺麗だと思った。
「明日からは戻ります。やはり他の人間に任せるのは落ち着きませんので」
きっぱりと言い切ると、ユーク様はきょとんとしてからまじまじと俺を見てきた。少しすると、それは冷ややかな視線へと置き換わる。
「精々紅茶はひっくり返してくれるなよ」
「それは、気を付けます……」
しゅんと肩を落として答えると、微かな笑い声が聞こえてくる。視線を上げれば、ユーク様の控えめに綻ぶ口元が目に入った。この人の微笑はどこか雪解けを思わせる。春の訪れに心躍るような、そんな温もりが胸に広がるのだ。
やっぱりあんな浅ましい夢なんかよりも、目の前のこの人の方が何十倍も魅力的だ。例え手が届くことがなくても、この笑顔をずっと見守っていたい。
「――では、そろそろ訓練に戻ります」
「大丈夫か? さっきは随分と酷い有様だったが」
「ご安心を。あなたの前でこれ以上の醜態は晒しませんので」
自信を込めて答えると、ユーク様はつまらなそうに鼻を鳴らした。その捻くれた態度さえ、どこか可愛らしく見えてしまう。
そして、宣言通りその後の訓練試合で俺はユーク様に三連勝を捧げ、呆れを含みつつも柔らかな笑みを賜ったのだった。
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とてもおもしろくて何度か繰り返し読ませて頂いてます。
ユークの周りに対する反応がとっても不器用でかわいくてそれをみたジェイドとの関係がこれからどんな風に変わっていくかと楽しみです。
ご感想ありがとうございます!とっても励みになります!
二人の関係性の移り変わりを丁寧に書いていければと思います。
少しペースは落ちますが、続きは書いていきますのでお付き合いいただけると嬉しいです。