砂竜使いアースィムの訳ありな妻

平本りこ

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第一章

4 医術師カリーマ

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 頭が痛い。ついでに目も痛い。

 ラフィアは呻きつつ瞼を開く。途端に、鋭い日差しが眼球を刺し、思わず顔を背けてから徐々に光に目を慣らした。

「グルルル」

 白一色に染まっていた視界が次第に明瞭になる。何度かまばたきをすれば、砂竜の黒い瞳が眼前に浮かび上がる。ラフィアは重たい瞼を擦り、微笑んで応えた。

「あら、おはよう」

 白銀の鱗に覆われた顎を撫でてやる。昨晩のような、血潮のうねりは感じない。少し残念ではあるが、いかにラフィアが変わり者といえど、常に水を感じられる訳ではないのである。

 巨躯に抱き着く体勢のまま眠ったものだから、身体中が強張り痛い。ラフィアはぎこちなく伸びをして全身をほぐしてから立ち上がった。

 常ならば砂竜の群れに少女が一人佇んでいても、埋もれてしまって見えぬだろう。だが今は、ほとんどの砂竜が腹ばいで微睡まどろみの中にいる時刻。ラフィアの、山羊やぎの乳を混ぜた茶のような淡い色合いの頭頂は、白銀の小山の上にぴょこんと飛び出した。

 首を巡らせ周囲を眺めたが、幸いまだ、住民の姿はない。だがしかし、油断は禁物だ。太陽の昇り沈みと同調して暮らす砂漠の民。朝日が差し込めば、集落は徐々に目覚めの時を迎えるだろう。そうなれば、ラフィアが天幕を抜け出し禁じられていた砂竜との交流を行い、挙句の果てに朝帰りをしたことがばれてしまう。

「早く帰らないと!」

 ラフィアは、一晩横腹を貸してくれた砂竜に礼を述べてから慌てて天幕の方角へと向かう。気が動転していたため、砂に刻まれた足跡を消すべきであることにまで考えが及ばない。点々と痕跡が残っているのが滑稽だ。

 これでは、誰にも認められず無事戻れたとしても、後から追及されたことだろう。もっともこの時は、足跡などなくとも衆目を集める結果となってしまうのだが。

 砂竜を囲う柵の隙間に身をねじ込ませ、人の生活区画へと向かいかけたラフィア。その背中を、突如として発せられた砂竜の呻きが打った。

 金属に爪を立てたような、悲鳴じみた声だった。平常時、成竜の鳴き声は低く、喉の奥で岩を転がすような音色のはず。ラフィアは混乱した頭で来た道を戻り、悲鳴を上げる砂竜を視線で探す。仲間が苦しむ声に、群れ全体がどよめている。その個体は直ぐに見つかった。

「どうしたの、どこか痛いの?」

 鳴いているのは、まだ子供の竜だった。寝起きの体勢から少しも動いていないのだろうか、砂に腹をつけ、四肢を投げ出すように伏せている。その口は半分開き、舌が砂上に垂れている。明らかに尋常ではない様子である。

 ラフィアは子犬ほどの大きさの幼竜の隣に膝を突き、白銀の背中を撫でた。

 滑らかな鱗は健康的で、他の砂竜と変わらない。喉に何か詰まったのかと思い、口内を覗いて見るが、綺麗な薄紅一色である。

「何が辛いの? ああ、どうしましょう。誰か呼んだ方が良いのかしら。お願い、どうして欲しいのか、私に教えて……」

 その瞬間、指先から、冷え込んだ感情が押し寄せた。言わずもがな、ここは灼熱の砂漠である。にもかかわらず、帝都の海岸沿いに打ち寄せる真冬の怒涛どとうのように冷たく激しい白波が、ラフィアの胸に大きな穴を穿うがち、地平線へと引いていく。残されたのは空虚な心。この感情をラフィアは知っている。これは。

「皇女様!?」

 ラフィアの思考は、背後から聞えた驚愕の声に妨げられた。肩越しに振り返れば、女が目を見開き、こちらへ駆け寄ってくるところであった。

 若くはない。そろそろ中年に差し掛かる年代だろうが、背筋はしゃんと伸びて贅肉もない。どこか厳しい印象の顔立ちと相まって、実年齢よりも若く見える女である。

「なぜここに!」

 ラフィアは咄嗟に答えることが出来ず、黙ったまま砂竜の隣を明け渡す。女は砂竜の顎を膝の上に乗せて、診察を始めた。そういえば彼女には医術の心得があり、以前体調を崩した際、ラフィアも診てもらったことがある。確か、名をカリーマという。

「砂にあたった訳ではなさそうか。舌が少し乾いているから脱水かな。でも重篤ではないし、ここまで叫ぶのは妙ですね。この子……バラーはここ数日ずっとこんな感じなんですよ。食も細くなったし、どこかに見えない疾患があるのかも」

 どうしたものか、と頭を抱える医術師カリーマに向かい、ラフィアはおずおずと口を挟む。

「あの……この子、確かに喉は乾いているようだけれど、体調が悪くて鳴いているのではないわ」
「どういう意味ですか?」

 カリーマが怪訝そうな顔でこちらを見上げる。ラフィアは、先ほど指先から流れ込み、心を抉り取るようにして引いた波を思い出し、砂竜の心の内を推察する。

「多分、寂しいのよ。その子の相棒はどこにいるの? きっと、気を引きたくて鳴いているの」

 気づけは周囲には、騒ぎを聞きつけた住民らが集まっていた。ラフィアの声が皆に届き、新たな騒めきを生む。

 周囲とは対照的に黙り込んだ医術師を見て、ラフィアは己の失態に気づいた。おかしな言動はせぬようにと注意してきたというのに、とうとう妙なことを言ってしまった。

 ラフィアは取り繕うため両手をぶんぶんと振り、叫ぶように言う。

「あ、違うの。これは想像。ほら、後宮ハレムに子犬がいたのよ。あの子もね、大好きな女官が忙しくて構ってくれないと、こうして鳴いて気を引こうとしていたの」

 苦し紛れの言い訳だが、まさか「指先から水に乗って砂竜の感情が流れて来ました」などという真相は想像の余地すらないのだろう。カリーマは、なるほどと頷いてから、物憂げな顔で口を開く。

「ああ、そうか。バラーの乗り手はね、熱病にかかって街の医療院で療養しているんですよ。皇女様が嫁いで来られる一月ひとつき以上前からずっと」

 カリーマの膝の上で目を閉じ鳴いている幼竜が、途端にいじらしく見えて来る。砂竜は他の動物とは異なり、親の肉体から生まれ落ちるものではない。宮殿にある、水神の使徒天竜てんりゅうの泉水から掬い上げられた卵から孵るのだ。

 彼らは天竜の子ではあるのだが、それは無論、人間が思うような親子関係とはかけ離れている。竜卵りゅうらんを孵すのは後に乗り手となる人間であり、砂竜にとって、生まれて初めて触れ合う生物である人間は、友人であり親でもある存在なのだろう。

 ラフィアは自身の境遇に、孤独な幼竜を重ね合わせる。

 変わり者として遠巻きにされた後宮暮らし。父から邪険にされてはいなかったが、皇帝には多くの実子があり、幾等分にもされたその愛は到底ラフィアを満足させはしなかった。母は全てを捧げて愛してくれたけれど、それだけでは足りぬと飢える強欲な心は、いつも孤独を抱えていた。

 もし、その母すらいなかったとしたら。ラフィアはこの幼竜のように、弱々しく泣き叫んだのだろう。

「それなら」

 言葉が唇から滑り出す。

「私がその子の面倒を見るわ」
「何を」

 目を剥くカリーマに、ラフィアは言い募る。

「だってその子、寂しいから鳴くのでしょう。もちろん、乗り手が帰ってくるまでよ。別にその子を本来の乗り手から奪おうだなんて思っていないの」
「いえ、そうではなく。皇女様は砂竜に近づくことが禁じられているはず」
「それ、そろそろ許可してくれても良いでしょう? 何も危ないことはないわ。だって、この通り一晩砂竜の群れの中で過ごしたけれど擦り傷一つできていないじゃない。実はこれまでも何度も砂竜を撫でに来ていたの。それでも、今まで一度も危ない目になんて遭ったことないもの!」

 言いつけを破っていたことは、どうせすでにばれてしまったのである。開き直り過去の罪を暴露することに何の抵抗もなかった。

 カリーマは口内で、もごもごと何かを呟いてから、助けを求めて視線を彷徨わせる。進んで面倒事に巻き込まれたい者はいない。皆が目を逸らす。ただ一人だけ、哀れなカリーマの視線を受け止めた青年がいた。

 群衆の中から進み出て、柵に手を突きラフィアを見つめる瞳は深い飴色。同色の頭髪が微風にふわりと揺れた。いつもと変わらぬ柔らかな表情の中に微かな困惑を滲ませて、アースィムは言った。

「皇女様、天幕に戻りましょう。食事もとらずに日差しを浴びては身体に悪いですよ」

 無関心とは、彼のような振る舞いのことを言うのだろう。強引さは欠片もないのだが、なぜか拒絶することもできず、ラフィアは空虚な大穴を胸に抱えつつ、夫の言葉に従った。
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