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第二章
11 帰って来た弟
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東の地平線から微かな光の気配が湧き上がる朝。砂避けの外套に身を包んだラフィアとアースィムは、白き砂竜イバの背に揺られている。
イバの鋭利な爪が砂上に歩行の痕跡を残し、その隣を駱駝の蹄が寄り添い進む。
砂に覆われた世界は常と変わらぬ乾きに満ちて、さらりとした涼やかな風が肌を撫でた。その中に、一粒紛れ込んだ小さな塊が、ラフィアの頬を打つ。最初は小石でも飛んで来たかと思ったが、指先で撫でればそれはひんやりとした尾を引いた。信じ難いことだが、これは。
「雨?」
呟けば、頭上からやや高揚した声が返ってきた。
「本当だ。珍しいですね」
砂漠にはほとんど雨が降らない。ラフィアは帝都で雨や雪を浴びたことがあるのだが、渇きの砂漠に生まれ育ったアースィムにとって、ほんの僅かな量といえど天から水の礫が落ちて来る現象は、驚くべきことなのだろう。
明けを見ぬ空は未だ暗いのだが、雲に覆われている様子はない。代わりに、黄金色の巨躯が東方から砂漠を横断するように迫っていた。ラフィアは状況を察し、納得の言葉を発した。
「天竜様がいらしたのよ!」
アースィムは束の間息を吞んでから、手綱を掴むラフィアの手の甲を撫でた。
「そうですね、天竜様のお力でもなければ、砂漠に雨など降りようがありません。きっとご降臨されたのでしょう」
「きっとじゃないわ。ほら、見て」
ラフィアは紫紺に染まる空を指差す。
「あそこにいらっしゃるわ。きらきら光っている」
黄金色の鱗粉を降らせながら広大な空を駆ける水神の使徒。大蛇のような体躯は、タペストリーや書物の中で見慣れた姿である。また、天竜は帝国全土に適量の雨をもたらす使命があるため、様々な地方に現れる。降嫁の旅の途中でも、砂漠の隊商都市にてその神々しい姿を目にしたものだ。
「西へ行くのね。帝国の端まで行ってからまた帝都へ戻るのかしら」
しかし返る言葉はない。突然黙り込んだアースィムを怪訝に思い、首を回して表情を窺がえば、アースィムは少し強張った頬でラフィアの視線を受け止めた。
「どうしたの」
「天竜様のお姿が見えるのですか?」
「え、だってあんなに光っている」
「見えません」
間髪を入れずに発せられた返答に、ラフィアは絶句する。アースィムの飴色の瞳に束の間恐れが過った。
「光など見えません。あるのはただ、いつもと同じ星空だけ」
まさか、このようなところにもラフィアの異能が影響しているというのだろうか。無論、アースィムの方が他者とは異なる特殊な体質をしているという可能性もあるが、これまでのことを総合する限り、考えづらいことだろう。意図せず犯してしまった失言に、ラフィアは全身から血の気が引くのを感じる。しばらく見つめ合った後、アースィムは視線を逸らし、取り繕うような笑みを浮かべた。
「きっとあなたは視力が良いのですね。それに皇族ですから、天竜様との親和性が高いのかもしれません」
その言葉の半分以上が気遣いで構成されていることは、誰の耳にも明らかだった。
そうして一時は気まずい時間を過ごした二人だが、その後の旅路は概ね問題なく進んだ。だがしかし、不意に失言を漏らしてしまうのがラフィアである。
騒動は、数日後、陽光が砂を焼き始めた早朝のこと。砂丘を一つ二つ越えればそろそろ黒い天幕の群れが見えてくるであろう場所に差し掛かった時、ラフィアが述べた提案に端を発した。
「帰ったら、白の集落も移動した方が良さそうね」
「なぜですか?」
「バラーが毎晩不安そうにしていた理由は、赤き砂竜失踪の理由と同じだと思うの」
アースィムの声に陰が差す。
「ですが、移動後の赤の集落の方が南方にありますよ」
「南北は関係ないのよ。今の赤の集落の辺りには問題の水脈とは別の流れが水を供給している。でも白の集落の辺りは、例の水脈と地下で繋がっているみたいなの」
「……ラフィア」
背後から発せられた声が、どこか強張っている。躊躇うような間が空いてから、アースィムは続けた。
「先日は聞かなかったことにしましたが、やはり、はっきりさせた方が良い。あなたは何者なのですか」
辺りは灼熱に満ちている。それなのに、ラフィアの心臓は砂漠には不釣り合いなほど冷え込んだ。まるで、氷が張った池にでも沈められたかのような心地だ。全身が冷える一方で、汗腺からはじっとりとした汗が噴き出す。
「何者って……私はマルシブ帝国第八皇女のラフィア。そして今は、砂竜族白の氏族長アースィムの妻」
「そうではなくて」
アースィムの声音は、珍しく苛立ちを孕んでいる。
「砂竜の心を知るくらいであれば、ただ生き物への観察眼が優れているだけだと自分を言い聞かせることができました。ですが、水脈の位置を知り、一連の事件の真相を突き止めたのは、ただ事ではありません。見えない竜を見上げ美しいと言うのも俺にとっては不思議なことです。ラフィア、どうか俺には隠し事をしないでください。そうでないと、あなたを利用しようと画策する者どもから、あなたを守ることができません」
「利用って」
その時、イバが小さく鳴いた。
注目を促すような鳴き声に、二人は口を閉ざし前方に目を向ける。イバの爪先は、一際高い砂丘の頂上に差し掛かっていた。高所から見下ろすと、まるで果てがないように錯覚する一面の砂と岩の間に、見慣れた黒い斑模様が現われた。白の集落へ帰って来たのだ。
遠目ながら、砂を食む砂竜の白銀が、さざめく水面のように煌めいているのが見える。普段と何ら変わりない光景。しかしその日常は、集落から飛び出してきた一頭の駱駝によって蹴破られた。
「カリーマですね」
目を細めて、アースィムが言う。ラフィアには、駱駝の鞍上にいる人物の顔は遠すぎて判然としない。
先日、ラフィアのことを目が良いと称賛したアースィムだが、幼少期から広大な砂漠で草地や食用になる獲物を探して育った彼の方が、実のところよっぽど視力が良いようだ。あの言葉はやはり、気休めだったのか。
胸に灰色の靄が立ち込めたが、今はそれどころではない。
「どうしたんでしょうか。妙に焦っているようです」
アースィムが言った頃には、ラフィアにもカリーマの様子が見えるようになっていた。目を凝らせばなるほど、駱駝が嫌がり反抗的な鳴き声を上げるほど強く鞭を食らわせて、全速力でこちらへ向かって来る。
アースィムがイバを促し、速度を上げる。集落まで砂丘一つ分の距離を置いた辺りでカリーマと合流した。
「カリーマ、いったい何が」
「帰って来たんです」
普段はお世辞にも覇気があるとは言えぬカリーマのいつにない気迫。ただ事ではない気配に、混乱しつつも気が引き締まる。
カリーマは痩せた腕で額の汗を拭い、低い声で言った。
「アースィムの弟のシハーブが帰って来たんです」
「弟って、熱病に罹っていた?」
「そうです」
「なんだ、良かったわ。病気が治ったのね!」
「それはそうなんですが……ああもう皇女様、いつも頭の中がオアシスなんですから!」
そういえば以前、ハイラリーフにも似たようなことを言われた。
「いいですか皇女様。シハーブが帰って来たということは」
「兄さん、お久しぶりです」
不意に、爽やかな声が割り込んだ。
会話に夢中になり気づくのが遅れたが、集落側の砂丘から、駱駝に乗った青年が現われた。
その顔を見て、ラフィアは目を丸くする。飴色の瞳、飴色の髪。高く通った鼻梁に形の良い唇。病み上がりのためか、やや線の細い印象だが、名乗られずともわかる。彼がシハーブ。アースィムとよく似た容貌の、弟だ。
「皇女様……いいえ、義姉上も初めまして。族長代理アースィムの弟のシハーブです」
「族長代理?」
シハーブは礼儀正しく一礼をしてから、イバの正面に駱駝を停止させた。そして、淀みない声で言った。
「兄さん、僕の不在中、氏族を導いてくれてありがとう。これからは父上の言葉に従って、僕が族長として全ての責任を背負います。兄さんは心配せず安心して休んでください」
東の地平線から微かな光の気配が湧き上がる朝。砂避けの外套に身を包んだラフィアとアースィムは、白き砂竜イバの背に揺られている。
イバの鋭利な爪が砂上に歩行の痕跡を残し、その隣を駱駝の蹄が寄り添い進む。
砂に覆われた世界は常と変わらぬ乾きに満ちて、さらりとした涼やかな風が肌を撫でた。その中に、一粒紛れ込んだ小さな塊が、ラフィアの頬を打つ。最初は小石でも飛んで来たかと思ったが、指先で撫でればそれはひんやりとした尾を引いた。信じ難いことだが、これは。
「雨?」
呟けば、頭上からやや高揚した声が返ってきた。
「本当だ。珍しいですね」
砂漠にはほとんど雨が降らない。ラフィアは帝都で雨や雪を浴びたことがあるのだが、渇きの砂漠に生まれ育ったアースィムにとって、ほんの僅かな量といえど天から水の礫が落ちて来る現象は、驚くべきことなのだろう。
明けを見ぬ空は未だ暗いのだが、雲に覆われている様子はない。代わりに、黄金色の巨躯が東方から砂漠を横断するように迫っていた。ラフィアは状況を察し、納得の言葉を発した。
「天竜様がいらしたのよ!」
アースィムは束の間息を吞んでから、手綱を掴むラフィアの手の甲を撫でた。
「そうですね、天竜様のお力でもなければ、砂漠に雨など降りようがありません。きっとご降臨されたのでしょう」
「きっとじゃないわ。ほら、見て」
ラフィアは紫紺に染まる空を指差す。
「あそこにいらっしゃるわ。きらきら光っている」
黄金色の鱗粉を降らせながら広大な空を駆ける水神の使徒。大蛇のような体躯は、タペストリーや書物の中で見慣れた姿である。また、天竜は帝国全土に適量の雨をもたらす使命があるため、様々な地方に現れる。降嫁の旅の途中でも、砂漠の隊商都市にてその神々しい姿を目にしたものだ。
「西へ行くのね。帝国の端まで行ってからまた帝都へ戻るのかしら」
しかし返る言葉はない。突然黙り込んだアースィムを怪訝に思い、首を回して表情を窺がえば、アースィムは少し強張った頬でラフィアの視線を受け止めた。
「どうしたの」
「天竜様のお姿が見えるのですか?」
「え、だってあんなに光っている」
「見えません」
間髪を入れずに発せられた返答に、ラフィアは絶句する。アースィムの飴色の瞳に束の間恐れが過った。
「光など見えません。あるのはただ、いつもと同じ星空だけ」
まさか、このようなところにもラフィアの異能が影響しているというのだろうか。無論、アースィムの方が他者とは異なる特殊な体質をしているという可能性もあるが、これまでのことを総合する限り、考えづらいことだろう。意図せず犯してしまった失言に、ラフィアは全身から血の気が引くのを感じる。しばらく見つめ合った後、アースィムは視線を逸らし、取り繕うような笑みを浮かべた。
「きっとあなたは視力が良いのですね。それに皇族ですから、天竜様との親和性が高いのかもしれません」
その言葉の半分以上が気遣いで構成されていることは、誰の耳にも明らかだった。
そうして一時は気まずい時間を過ごした二人だが、その後の旅路は概ね問題なく進んだ。だがしかし、不意に失言を漏らしてしまうのがラフィアである。
騒動は、数日後、陽光が砂を焼き始めた早朝のこと。砂丘を一つ二つ越えればそろそろ黒い天幕の群れが見えてくるであろう場所に差し掛かった時、ラフィアが述べた提案に端を発した。
「帰ったら、白の集落も移動した方が良さそうね」
「なぜですか?」
「バラーが毎晩不安そうにしていた理由は、赤き砂竜失踪の理由と同じだと思うの」
アースィムの声に陰が差す。
「ですが、移動後の赤の集落の方が南方にありますよ」
「南北は関係ないのよ。今の赤の集落の辺りには問題の水脈とは別の流れが水を供給している。でも白の集落の辺りは、例の水脈と地下で繋がっているみたいなの」
「……ラフィア」
背後から発せられた声が、どこか強張っている。躊躇うような間が空いてから、アースィムは続けた。
「先日は聞かなかったことにしましたが、やはり、はっきりさせた方が良い。あなたは何者なのですか」
辺りは灼熱に満ちている。それなのに、ラフィアの心臓は砂漠には不釣り合いなほど冷え込んだ。まるで、氷が張った池にでも沈められたかのような心地だ。全身が冷える一方で、汗腺からはじっとりとした汗が噴き出す。
「何者って……私はマルシブ帝国第八皇女のラフィア。そして今は、砂竜族白の氏族長アースィムの妻」
「そうではなくて」
アースィムの声音は、珍しく苛立ちを孕んでいる。
「砂竜の心を知るくらいであれば、ただ生き物への観察眼が優れているだけだと自分を言い聞かせることができました。ですが、水脈の位置を知り、一連の事件の真相を突き止めたのは、ただ事ではありません。見えない竜を見上げ美しいと言うのも俺にとっては不思議なことです。ラフィア、どうか俺には隠し事をしないでください。そうでないと、あなたを利用しようと画策する者どもから、あなたを守ることができません」
「利用って」
その時、イバが小さく鳴いた。
注目を促すような鳴き声に、二人は口を閉ざし前方に目を向ける。イバの爪先は、一際高い砂丘の頂上に差し掛かっていた。高所から見下ろすと、まるで果てがないように錯覚する一面の砂と岩の間に、見慣れた黒い斑模様が現われた。白の集落へ帰って来たのだ。
遠目ながら、砂を食む砂竜の白銀が、さざめく水面のように煌めいているのが見える。普段と何ら変わりない光景。しかしその日常は、集落から飛び出してきた一頭の駱駝によって蹴破られた。
「カリーマですね」
目を細めて、アースィムが言う。ラフィアには、駱駝の鞍上にいる人物の顔は遠すぎて判然としない。
先日、ラフィアのことを目が良いと称賛したアースィムだが、幼少期から広大な砂漠で草地や食用になる獲物を探して育った彼の方が、実のところよっぽど視力が良いようだ。あの言葉はやはり、気休めだったのか。
胸に灰色の靄が立ち込めたが、今はそれどころではない。
「どうしたんでしょうか。妙に焦っているようです」
アースィムが言った頃には、ラフィアにもカリーマの様子が見えるようになっていた。目を凝らせばなるほど、駱駝が嫌がり反抗的な鳴き声を上げるほど強く鞭を食らわせて、全速力でこちらへ向かって来る。
アースィムがイバを促し、速度を上げる。集落まで砂丘一つ分の距離を置いた辺りでカリーマと合流した。
「カリーマ、いったい何が」
「帰って来たんです」
普段はお世辞にも覇気があるとは言えぬカリーマのいつにない気迫。ただ事ではない気配に、混乱しつつも気が引き締まる。
カリーマは痩せた腕で額の汗を拭い、低い声で言った。
「アースィムの弟のシハーブが帰って来たんです」
「弟って、熱病に罹っていた?」
「そうです」
「なんだ、良かったわ。病気が治ったのね!」
「それはそうなんですが……ああもう皇女様、いつも頭の中がオアシスなんですから!」
そういえば以前、ハイラリーフにも似たようなことを言われた。
「いいですか皇女様。シハーブが帰って来たということは」
「兄さん、お久しぶりです」
不意に、爽やかな声が割り込んだ。
会話に夢中になり気づくのが遅れたが、集落側の砂丘から、駱駝に乗った青年が現われた。
その顔を見て、ラフィアは目を丸くする。飴色の瞳、飴色の髪。高く通った鼻梁に形の良い唇。病み上がりのためか、やや線の細い印象だが、名乗られずともわかる。彼がシハーブ。アースィムとよく似た容貌の、弟だ。
「皇女様……いいえ、義姉上も初めまして。族長代理アースィムの弟のシハーブです」
「族長代理?」
シハーブは礼儀正しく一礼をしてから、イバの正面に駱駝を停止させた。そして、淀みない声で言った。
「兄さん、僕の不在中、氏族を導いてくれてありがとう。これからは父上の言葉に従って、僕が族長として全ての責任を背負います。兄さんは心配せず安心して休んでください」
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