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第三章
12 父と娘②
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「娘」
ラフィアは、目の間に浮かぶ青玉のような双眸を驚愕を込めて凝視した。精霊王の瞳は、幼少期から幾度も鏡越しに見つめたラフィア自身の瞳の色そのものだった。
「でも」
ラフィアは血の気が引いた唇から、言葉を絞り出す。
「私の父はマルシブ皇帝」
「違うよ、僕だ。君の母に聞いてみなさい。ラフィア、君は皇女ではない。王女、ではあるけどね」
青年の指が頬から離れ、ラフィアの両手を愛おし気に包んだ。
「一緒に行こう、君は立派な精霊になれる。そしてゆくゆくは僕の後を継ぎ、精霊王になるんだよ。想像してごらん。全ての水と水神の眷属が、君の意のままに動く。君を阻む者はいない。人も、獣も、自然現象ですら。これこそ真の自由だ。さあ、手ほどきをしてあげるよ。精霊の聖域で」
手を引かれ、よろめきながら、泉に片足を浸す。まるで、沼に踏み込んだかのようにじわじわと身体が沈み込む。
「まずは練習を兼ねて、一緒にこの国を壊してみよう。簡単だよ。洪水でも日照りでも良いし、全ての水を腐らせても良い。ラフィアの中には怒りと悲しみがとぐろを巻いている。君にそんな思いをさせた人間どもが、この世界が、憎くないかい?」
――さあ、楽しいことをしよう。
耳元で囁かれた言葉が孕む猛毒に気づき、ラフィアは我に返り青年の手を振り払った。
「違う! そんなことはしない。私は精霊なんかじゃない。マルシブ帝国第八皇女ラフィアよ」
そうでなければ、今までの人生はいったい何だったというのか。
「ラフィアは僕の娘だよ。半分精霊だ」
「嘘よ!」
「嘘なんかじゃない。ああ、さっきの質問の答えだけど、アースィムの居場所は知っているよ。僕と一緒に来るなら会わせてあげるから」
ラフィアは堪え切れずに叫んだ。
「信用できない。助けて、ハイラリーフ!」
ちりり、と耳元で微かな音がした。だが、それだけだった。
ハイラリーフが、奇妙なほど沈黙している。ラフィアは、耳飾りに触れて、再度呼びかけた。
「ハイラリーフ」
微風が髪を撫で、耳飾りから水蒸気が溢れ出した。躊躇の末、ハイラリーフが応えたのだ。
泉を挟んだ向こう側に、濃密な水蒸気が集う。やがて、見慣れた赤毛の女性の姿が浮かび上り、ラフィアは詰めていた息を吐いた。
「良かった、ハイラリーフ。お願い、助けて。アースィムを見つけて、三人で逃げるの。私、もう何が何だか……」
「ごめんなさい、ラフィア」
不意に、首筋に冷たく硬質な物を押し付けられた。短剣だ。ラフィアは目を疑う。至近距離に、ハイラリーフの燃えるような赤い瞳。どこか悲し気に歪むその顔にはしかし、決意が浮かんでいた。
「あたしの第一のご主人様は、あんたじゃない。精霊王よ」
絶句するラフィアの側に精霊王が一歩進み出て、心底愉快そうに笑う。
「良くやった、下僕よ。ああ、肉体があるって不便だねえ。刃物を向けられてしまえばもう、動けない。でももうすぐ、その苦痛も終わる。身体を捨てて精霊になろう、ラフィア」
狂気じみた精霊王の指が、ハイラリーフの髪を撫でた。ラフィアは、二人の顔を代わる代わる眺める。不意に、洞穴で耳にしたハイラリーフの言葉が脳裏に蘇った。
――あたし、わからないの。誰かを愛するというのがどういう気持ちなのか。
――宮殿に住む古参の精霊だけが、あたしを可愛がって色々なことを教えてくれた。親ではないわ。でも大切な存在なの。
ああ、そういうことだったのかと腑に落ちる。最初から、ハイラリーフには精霊王の息がかかっていたのだ。
「ハイラリーフ、今までのことは演技だったの?」
「あ、当たり前でしょう? あんた、本当に頭の中がオアシスね。考えてみなさいよ、あたし達が出会った日。あんな小さなオアシスに、精霊が住むと思う? この国に僅かしか残らなかった精霊が、あんな貧相な場所に」
「それは」
「あたしは精霊王の命令に従って、あんたを立派な精霊にするために近づいたのよ。ずっと隠れていても良かったけど、あんたの精霊になる振りをすれば、もっと近くで干渉できるもの。ええ、全部演技だった。そして首尾は上々だった」
全部演技だった。冷酷な言葉が胸に突き刺さり、ラフィアの心に亀裂が走る。
友愛の眼差しも、憎まれ口の裏に見え隠れしていた気遣いも、あの時、洞穴で見せてくれた親密さも。あれらは全て。
「演技だっただけじゃなく、全部嘘だったの?」
首に触れた短剣が、微かに震えた。触れた肌を通じて、一瞬の感情の揺らぎが流れ込む。ラフィアは確信した。ハイラリーフとの関係は嘘から始まったが、全てが偽りだった訳ではない。二人の間には、親愛の感情が確かに生まれていた。しかし彼女には、さらに大切な物があったのだ。
「そう」
ラフィアは短剣の柄を握るハイラリーフの手を柔らかく掴んだ。
「あなたはきっと、愛を知っている。何にも勝る大切なもののため、全てを擲つことを知っている」
それゆえ、彼女はラフィアに刃を向けるのだ。それならばラフィアとて、思うところがある。
幼少期から心の支えであった精霊の恩師は実は父であり、ラフィアに無理強いをせんとしている。親愛なる母は皇帝を欺き、ラフィアに重大な隠し事をしていた。白の氏族の皆からは恐れられ、友と思っていたハイラリーフにも裏切られた。ラフィアに残ったのはただ一人。アースィムだけ。
ラフィアは、ハイラリーフを掴む手に力を込めて、冷淡に吐き捨てた。
「私もあなたと同じ。彼以外の人なんて、どうでも良い」
彼さえ幸せならば、それだけで――。
ラフィアは、目の間に浮かぶ青玉のような双眸を驚愕を込めて凝視した。精霊王の瞳は、幼少期から幾度も鏡越しに見つめたラフィア自身の瞳の色そのものだった。
「でも」
ラフィアは血の気が引いた唇から、言葉を絞り出す。
「私の父はマルシブ皇帝」
「違うよ、僕だ。君の母に聞いてみなさい。ラフィア、君は皇女ではない。王女、ではあるけどね」
青年の指が頬から離れ、ラフィアの両手を愛おし気に包んだ。
「一緒に行こう、君は立派な精霊になれる。そしてゆくゆくは僕の後を継ぎ、精霊王になるんだよ。想像してごらん。全ての水と水神の眷属が、君の意のままに動く。君を阻む者はいない。人も、獣も、自然現象ですら。これこそ真の自由だ。さあ、手ほどきをしてあげるよ。精霊の聖域で」
手を引かれ、よろめきながら、泉に片足を浸す。まるで、沼に踏み込んだかのようにじわじわと身体が沈み込む。
「まずは練習を兼ねて、一緒にこの国を壊してみよう。簡単だよ。洪水でも日照りでも良いし、全ての水を腐らせても良い。ラフィアの中には怒りと悲しみがとぐろを巻いている。君にそんな思いをさせた人間どもが、この世界が、憎くないかい?」
――さあ、楽しいことをしよう。
耳元で囁かれた言葉が孕む猛毒に気づき、ラフィアは我に返り青年の手を振り払った。
「違う! そんなことはしない。私は精霊なんかじゃない。マルシブ帝国第八皇女ラフィアよ」
そうでなければ、今までの人生はいったい何だったというのか。
「ラフィアは僕の娘だよ。半分精霊だ」
「嘘よ!」
「嘘なんかじゃない。ああ、さっきの質問の答えだけど、アースィムの居場所は知っているよ。僕と一緒に来るなら会わせてあげるから」
ラフィアは堪え切れずに叫んだ。
「信用できない。助けて、ハイラリーフ!」
ちりり、と耳元で微かな音がした。だが、それだけだった。
ハイラリーフが、奇妙なほど沈黙している。ラフィアは、耳飾りに触れて、再度呼びかけた。
「ハイラリーフ」
微風が髪を撫で、耳飾りから水蒸気が溢れ出した。躊躇の末、ハイラリーフが応えたのだ。
泉を挟んだ向こう側に、濃密な水蒸気が集う。やがて、見慣れた赤毛の女性の姿が浮かび上り、ラフィアは詰めていた息を吐いた。
「良かった、ハイラリーフ。お願い、助けて。アースィムを見つけて、三人で逃げるの。私、もう何が何だか……」
「ごめんなさい、ラフィア」
不意に、首筋に冷たく硬質な物を押し付けられた。短剣だ。ラフィアは目を疑う。至近距離に、ハイラリーフの燃えるような赤い瞳。どこか悲し気に歪むその顔にはしかし、決意が浮かんでいた。
「あたしの第一のご主人様は、あんたじゃない。精霊王よ」
絶句するラフィアの側に精霊王が一歩進み出て、心底愉快そうに笑う。
「良くやった、下僕よ。ああ、肉体があるって不便だねえ。刃物を向けられてしまえばもう、動けない。でももうすぐ、その苦痛も終わる。身体を捨てて精霊になろう、ラフィア」
狂気じみた精霊王の指が、ハイラリーフの髪を撫でた。ラフィアは、二人の顔を代わる代わる眺める。不意に、洞穴で耳にしたハイラリーフの言葉が脳裏に蘇った。
――あたし、わからないの。誰かを愛するというのがどういう気持ちなのか。
――宮殿に住む古参の精霊だけが、あたしを可愛がって色々なことを教えてくれた。親ではないわ。でも大切な存在なの。
ああ、そういうことだったのかと腑に落ちる。最初から、ハイラリーフには精霊王の息がかかっていたのだ。
「ハイラリーフ、今までのことは演技だったの?」
「あ、当たり前でしょう? あんた、本当に頭の中がオアシスね。考えてみなさいよ、あたし達が出会った日。あんな小さなオアシスに、精霊が住むと思う? この国に僅かしか残らなかった精霊が、あんな貧相な場所に」
「それは」
「あたしは精霊王の命令に従って、あんたを立派な精霊にするために近づいたのよ。ずっと隠れていても良かったけど、あんたの精霊になる振りをすれば、もっと近くで干渉できるもの。ええ、全部演技だった。そして首尾は上々だった」
全部演技だった。冷酷な言葉が胸に突き刺さり、ラフィアの心に亀裂が走る。
友愛の眼差しも、憎まれ口の裏に見え隠れしていた気遣いも、あの時、洞穴で見せてくれた親密さも。あれらは全て。
「演技だっただけじゃなく、全部嘘だったの?」
首に触れた短剣が、微かに震えた。触れた肌を通じて、一瞬の感情の揺らぎが流れ込む。ラフィアは確信した。ハイラリーフとの関係は嘘から始まったが、全てが偽りだった訳ではない。二人の間には、親愛の感情が確かに生まれていた。しかし彼女には、さらに大切な物があったのだ。
「そう」
ラフィアは短剣の柄を握るハイラリーフの手を柔らかく掴んだ。
「あなたはきっと、愛を知っている。何にも勝る大切なもののため、全てを擲つことを知っている」
それゆえ、彼女はラフィアに刃を向けるのだ。それならばラフィアとて、思うところがある。
幼少期から心の支えであった精霊の恩師は実は父であり、ラフィアに無理強いをせんとしている。親愛なる母は皇帝を欺き、ラフィアに重大な隠し事をしていた。白の氏族の皆からは恐れられ、友と思っていたハイラリーフにも裏切られた。ラフィアに残ったのはただ一人。アースィムだけ。
ラフィアは、ハイラリーフを掴む手に力を込めて、冷淡に吐き捨てた。
「私もあなたと同じ。彼以外の人なんて、どうでも良い」
彼さえ幸せならば、それだけで――。
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