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終章
4 自由を求めた皇女はこれから……
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微風が再びアースィムを撫でる。ハイラリーフは少し離れた場所で俯いて、洟を啜っている。
だめなのか。強烈な感情に導かれた祈りは、蒸発する水に乗り水神マージの御許へと届いたはず。それでも願いは叶わぬというのか。
「ラフィア」
無様にも、涙が零れて頬を伝った。雨よりも温かなそれはアースィムの左手に落ち、手のひらの薄い溝に沿って流れ、耳飾りへと触れる。清純に光る雫と青い煌めきが同化した、その刹那。
『ごめんなさい。でもあれは、私の願いだったの』
毎夜焦がれた妻の声に、アースィムは息を吞む。
青玉の耳飾りから、細く水蒸気が放出される。それは、霧散しかけ、慌てたような不器用さで収斂して、次第に生まれたままの女性の姿を形作る。
「ラフィア!」
呼べば、彼女は靄の中で明滅する。全身を覆い隠していた乳茶色の長い髪が鳥の翼のように広がった。金糸の御簾の間から、この世の何よりも愛おしい姿が露わになる。
やがて、彼女を覆っていた水蒸気は全て、象牙のごとき白皙の素肌に吸い込まれ、見慣れた砂漠民の長衣となった。
長い睫毛に縁取られた瞼が震え、清く深い泉のような青い瞳が覗く。
彼女は柔らかく微笑んで砂上に立とうとしたが、上手く力が入らなかったのか、アースィムの胸に倒れ込んだ。
すかさず受け留め、強く抱き締める。懐かしい感触、懐かしい匂い。何一つ変わらない、愛おしい妻の姿であった。
「ラフィア」
耳元で呼べば、くすぐったそうに身じろぎし、ラフィアは少し身体を離す。近距離で見つめ合い、二人は幸せを嚙み締めた。
「待ちくたびれました」
しばらく熱い視線を交わした後に言えば、ラフィアは瞳を潤ませつつ、懺悔した。
「ごめんなさい。あなたを悲しませたくはなかったけれど、私の願いは、アースィムが幸せであることなの。あなたが大切にしている白の氏族を、砂竜族を守りたかった」
「だからって」
「それにね」
ラフィアは、目の縁から濡れた光を零し、笑みを浮かべて耳飾りを撫でる。
「たとえ精神が水に還っても、精霊になれる気がしたの。ハイラリーフのことを信じていたし……アースィムも言ってくれたでしょう?」
何を、と言いかけた唇を、温かく柔らかなものが塞いだ。
ラフィアの唐突な口付けに、驚きが過ぎ去ると、全身を焼き尽くすかのような情熱が燃え上がる。しばらく甘美な熱に身を委ねた。
やがてどちらからともなく唇を離した後、ラフィアは言葉を続けた。
「私のことを、『自分の意思を貫き通せる人』だって。意思が弱ければ、水に還ってすぐに自我が失われてしまう。だけど私はあなたが言う通り、気持ちを曲げない性格なの。頑固なくらいにね。だからきっと、精霊になって帰って来られるのだと信じることができた。アースィムの言葉のお陰でいっそう確信を持てたの」
「確かに言いはしましたけど、危険に身を晒して良いという理由にはなりません」
「だけど私の使命でもあるのよ」
ラフィアは、咲き誇る可憐な花のように、優しく凛とした顔をしている。
「だって私は、白の氏族長アースィムの妻だもの。族長と一緒に氏族を守る責務があるわ」
「あなたという人は……」
どこまでも大胆で素直で、強い心を持つ女性。まるで、夜の砂漠を見守る満月のように、アースィムの心を照らし導き支えてくれる。
「血筋的には皇女ですらなかったし、今は人間でもないし、精霊と名乗るのもしっくりこない。ただ、あなたの妻である。今はそれだけの存在よ。だからこれからもずっと側にいて。できればいつか、人間の身体を取り戻したいけれど」
「どうやって?」
感動の波の中、気になる発言を耳にして、思わずアースィムは首を傾ける。人間に戻ることなど可能なのであろうか。
ラフィアの瞳に、好奇の色がちらりと過る。
「以前読んだのだけれど、カリーマが持っている本にね、人体を錬成する方法が記されているものがあったの!」
「どうやってそんなことが」
「作り方は、とても私の口からは言えないわ」
珍しく言葉を濁したラフィア。カリーマの収集本に載っている情報だ。どうせまた、実在すら怪しい物体でも使用するのだろう。アースィムは苦笑混じりに嘆息した。
「……危ないことはしないでくださいね。俺はどちらでも良いので」
「どちらでも?」
「あなたが精霊だろうが人間だろうが。だってあなたは俺の妻だ。その事実だけでもう、満足ですから」
「アースィム」
二人は再び熱っぽく見つめ合う。際限なく続きそうな甘ったるいやり取りを見かね、ハイラリーフがわざとらしく咳払いをした。
「ごほんっ。ええと、そろそろもう良いかしらね。まったく、感動の涙が冷えたわ」
「ハイラリーフ」
ラフィアはアースィムの腕をすり抜け、ぶつぶつと苦言を並び立てるハイラリーフの手を取った。
「本当にありがとう。精霊王のところでは心ないことを言って傷つけてごめんなさい」
「べ、別に良いわよ。だってあれ、本心じゃなかったんでしょ。おかげで目が覚めたわ。あんな下衆精霊王なんかの手下になっていたのが馬鹿馬鹿しい」
「ハイラリーフ、これからどうするの? あなたはもう自由よ」
「そうねえ」
ハイラリーフは肩越しに背後を振り返り、遥か遠くにぼんやりと広がる地平線を眺めた。
「旅に出るわ。マルシブ帝国には同族がほとんどいないけど、別の国に行ったら仲間が住んでいるらしいから」
「……できればもっと一緒にいたいのだけれど」
「ま、水脈の距離が人脈の距離。あたし達はもう同族だし、会おうと思えば人間同士よりも簡単に顔を合わせられるわ」
「そう。寂しくなるわね」
ラフィアとハイラリーフは束の間見つめ合う。やがて、重たく沈みかけた空気を破ったのは、ハイラリーフだ。
「ああもう! 湿っぽいのはなしよ。あんまりじめじめしていると、自分を見失うわ。精霊は水蒸気が苦手なんだから」
照れ隠しなのだろうか、良くわからないことを捲し立ててから、ハイラリーフは一歩距離を置く。
「とにかく、元気で過ごしなさい。精霊と人間の夫婦なんて障害がたくさんだけど、負けちゃだめよ」
ハイラリーフの言う通りだ。名実ともに完全なる精霊となったラフィアとその夫は、根強い精霊への偏見により、辛い思いをすることもあるだろう。また、いつかは寿命の差が二人を引き裂くことになる。
もし、カリーマの怪しげな書物を元に人体錬成とやらを行ったとしても、それはそれで奇妙な噂が付き纏うはず。
だが、どのような苦難が待ち受けていたとしても、二人ならば必ず乗り越えられる。アースィムは、そう信じている。
「大丈夫。私達ならきっと、何があっても」
アースィムが心中で呟いた言葉と同じことを断言したラフィアに、愛おしさは際限なく溢れ出す。
もう一度抱き締めたい衝動に駆られた時、不意に上空で甲高い鳥の鳴き声が響き、白の聖地に鳥影が落ちた。三人は視線を上げ、阻むもののない蒼天を悠々と舞う鳥を目で追った。
ラフィアは微笑み、感慨深そうに呟きを漏らす。
「幸せになるのも、不幸になるのも、全部自分次第。あの鳥と同じように、自由だわ」
アースィムは同意の印に、妻の手を固く握った。
※
かつて、後宮という鳥籠の中、漠然と自由を夢見た一人の皇女がいた。
彼女は広い世界へと足を踏み出し、苦難と絶望を乗り越えて、真に望むものを手に入れた。
命ある限り試練は続く。しかし今はただ、あの鳥のように、自由をその身に宿し愛情を胸に秘め、どのような財宝よりもかけがえのない日々を慈しんで生きていく。その先に、大きな幸福があると信じて。
ラフィアの胸元で揺れる白い花弁から、一粒の露が零れ落ちる。それはきらりと光を放ちながら落下して、大地に染み込んだ。やがて願いと共に天へと還り、水神マージの御許へと届くだろう。
<完>
だめなのか。強烈な感情に導かれた祈りは、蒸発する水に乗り水神マージの御許へと届いたはず。それでも願いは叶わぬというのか。
「ラフィア」
無様にも、涙が零れて頬を伝った。雨よりも温かなそれはアースィムの左手に落ち、手のひらの薄い溝に沿って流れ、耳飾りへと触れる。清純に光る雫と青い煌めきが同化した、その刹那。
『ごめんなさい。でもあれは、私の願いだったの』
毎夜焦がれた妻の声に、アースィムは息を吞む。
青玉の耳飾りから、細く水蒸気が放出される。それは、霧散しかけ、慌てたような不器用さで収斂して、次第に生まれたままの女性の姿を形作る。
「ラフィア!」
呼べば、彼女は靄の中で明滅する。全身を覆い隠していた乳茶色の長い髪が鳥の翼のように広がった。金糸の御簾の間から、この世の何よりも愛おしい姿が露わになる。
やがて、彼女を覆っていた水蒸気は全て、象牙のごとき白皙の素肌に吸い込まれ、見慣れた砂漠民の長衣となった。
長い睫毛に縁取られた瞼が震え、清く深い泉のような青い瞳が覗く。
彼女は柔らかく微笑んで砂上に立とうとしたが、上手く力が入らなかったのか、アースィムの胸に倒れ込んだ。
すかさず受け留め、強く抱き締める。懐かしい感触、懐かしい匂い。何一つ変わらない、愛おしい妻の姿であった。
「ラフィア」
耳元で呼べば、くすぐったそうに身じろぎし、ラフィアは少し身体を離す。近距離で見つめ合い、二人は幸せを嚙み締めた。
「待ちくたびれました」
しばらく熱い視線を交わした後に言えば、ラフィアは瞳を潤ませつつ、懺悔した。
「ごめんなさい。あなたを悲しませたくはなかったけれど、私の願いは、アースィムが幸せであることなの。あなたが大切にしている白の氏族を、砂竜族を守りたかった」
「だからって」
「それにね」
ラフィアは、目の縁から濡れた光を零し、笑みを浮かべて耳飾りを撫でる。
「たとえ精神が水に還っても、精霊になれる気がしたの。ハイラリーフのことを信じていたし……アースィムも言ってくれたでしょう?」
何を、と言いかけた唇を、温かく柔らかなものが塞いだ。
ラフィアの唐突な口付けに、驚きが過ぎ去ると、全身を焼き尽くすかのような情熱が燃え上がる。しばらく甘美な熱に身を委ねた。
やがてどちらからともなく唇を離した後、ラフィアは言葉を続けた。
「私のことを、『自分の意思を貫き通せる人』だって。意思が弱ければ、水に還ってすぐに自我が失われてしまう。だけど私はあなたが言う通り、気持ちを曲げない性格なの。頑固なくらいにね。だからきっと、精霊になって帰って来られるのだと信じることができた。アースィムの言葉のお陰でいっそう確信を持てたの」
「確かに言いはしましたけど、危険に身を晒して良いという理由にはなりません」
「だけど私の使命でもあるのよ」
ラフィアは、咲き誇る可憐な花のように、優しく凛とした顔をしている。
「だって私は、白の氏族長アースィムの妻だもの。族長と一緒に氏族を守る責務があるわ」
「あなたという人は……」
どこまでも大胆で素直で、強い心を持つ女性。まるで、夜の砂漠を見守る満月のように、アースィムの心を照らし導き支えてくれる。
「血筋的には皇女ですらなかったし、今は人間でもないし、精霊と名乗るのもしっくりこない。ただ、あなたの妻である。今はそれだけの存在よ。だからこれからもずっと側にいて。できればいつか、人間の身体を取り戻したいけれど」
「どうやって?」
感動の波の中、気になる発言を耳にして、思わずアースィムは首を傾ける。人間に戻ることなど可能なのであろうか。
ラフィアの瞳に、好奇の色がちらりと過る。
「以前読んだのだけれど、カリーマが持っている本にね、人体を錬成する方法が記されているものがあったの!」
「どうやってそんなことが」
「作り方は、とても私の口からは言えないわ」
珍しく言葉を濁したラフィア。カリーマの収集本に載っている情報だ。どうせまた、実在すら怪しい物体でも使用するのだろう。アースィムは苦笑混じりに嘆息した。
「……危ないことはしないでくださいね。俺はどちらでも良いので」
「どちらでも?」
「あなたが精霊だろうが人間だろうが。だってあなたは俺の妻だ。その事実だけでもう、満足ですから」
「アースィム」
二人は再び熱っぽく見つめ合う。際限なく続きそうな甘ったるいやり取りを見かね、ハイラリーフがわざとらしく咳払いをした。
「ごほんっ。ええと、そろそろもう良いかしらね。まったく、感動の涙が冷えたわ」
「ハイラリーフ」
ラフィアはアースィムの腕をすり抜け、ぶつぶつと苦言を並び立てるハイラリーフの手を取った。
「本当にありがとう。精霊王のところでは心ないことを言って傷つけてごめんなさい」
「べ、別に良いわよ。だってあれ、本心じゃなかったんでしょ。おかげで目が覚めたわ。あんな下衆精霊王なんかの手下になっていたのが馬鹿馬鹿しい」
「ハイラリーフ、これからどうするの? あなたはもう自由よ」
「そうねえ」
ハイラリーフは肩越しに背後を振り返り、遥か遠くにぼんやりと広がる地平線を眺めた。
「旅に出るわ。マルシブ帝国には同族がほとんどいないけど、別の国に行ったら仲間が住んでいるらしいから」
「……できればもっと一緒にいたいのだけれど」
「ま、水脈の距離が人脈の距離。あたし達はもう同族だし、会おうと思えば人間同士よりも簡単に顔を合わせられるわ」
「そう。寂しくなるわね」
ラフィアとハイラリーフは束の間見つめ合う。やがて、重たく沈みかけた空気を破ったのは、ハイラリーフだ。
「ああもう! 湿っぽいのはなしよ。あんまりじめじめしていると、自分を見失うわ。精霊は水蒸気が苦手なんだから」
照れ隠しなのだろうか、良くわからないことを捲し立ててから、ハイラリーフは一歩距離を置く。
「とにかく、元気で過ごしなさい。精霊と人間の夫婦なんて障害がたくさんだけど、負けちゃだめよ」
ハイラリーフの言う通りだ。名実ともに完全なる精霊となったラフィアとその夫は、根強い精霊への偏見により、辛い思いをすることもあるだろう。また、いつかは寿命の差が二人を引き裂くことになる。
もし、カリーマの怪しげな書物を元に人体錬成とやらを行ったとしても、それはそれで奇妙な噂が付き纏うはず。
だが、どのような苦難が待ち受けていたとしても、二人ならば必ず乗り越えられる。アースィムは、そう信じている。
「大丈夫。私達ならきっと、何があっても」
アースィムが心中で呟いた言葉と同じことを断言したラフィアに、愛おしさは際限なく溢れ出す。
もう一度抱き締めたい衝動に駆られた時、不意に上空で甲高い鳥の鳴き声が響き、白の聖地に鳥影が落ちた。三人は視線を上げ、阻むもののない蒼天を悠々と舞う鳥を目で追った。
ラフィアは微笑み、感慨深そうに呟きを漏らす。
「幸せになるのも、不幸になるのも、全部自分次第。あの鳥と同じように、自由だわ」
アースィムは同意の印に、妻の手を固く握った。
※
かつて、後宮という鳥籠の中、漠然と自由を夢見た一人の皇女がいた。
彼女は広い世界へと足を踏み出し、苦難と絶望を乗り越えて、真に望むものを手に入れた。
命ある限り試練は続く。しかし今はただ、あの鳥のように、自由をその身に宿し愛情を胸に秘め、どのような財宝よりもかけがえのない日々を慈しんで生きていく。その先に、大きな幸福があると信じて。
ラフィアの胸元で揺れる白い花弁から、一粒の露が零れ落ちる。それはきらりと光を放ちながら落下して、大地に染み込んだ。やがて願いと共に天へと還り、水神マージの御許へと届くだろう。
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