うなじの噛み跡

kurage

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二、異邦人

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 オルガが失踪して、五日目の朝。ルーカスは腫れた瞼をこすりながら、シーツの中から顔を出した。
 散らばったオルガの服と、自分の下着が冷たく肌に貼りついている。
「……」
 息を吸い込み、吐き出す。胸の奥に重いものが沈む。両手で顔を覆い、低くうなだれた。
 水場に立つと、冷たい水で体を洗い流す。乱暴に泡立てた手でオルガの服をこすり、すすぎながら、何度もため息をついた。洗い終えた布を干すと、寝床を整え、息を整えるように立ち上がる。
 数日ぶりの街の風は、もう彼の気分を害する臭いはないことを知らせる。
 パン屋の扉を開けると、焼き立ての香りがした。
「おはようございます。すみません、何日も休みを頂いてしまって」
 ルーカスの声に、店主はちらりと目を上げ、静かにうなずいた。
 奥から娘が顔を出す。
「ルーカス、元気になったの。よかった」
 その明るさに、ルーカスは小さく笑い、礼を言った。いつものようにパンを並べ、通りへ出て客を呼び込む。
 久しぶりの姿に、街の人々が次々と声をかけてくる。 若い女性の笑い声が混ざり、パンの香りに溶けていく。
「ルーカス、中でお会計して」
 娘がむくれたように叫ぶ。 店の中に戻ると、外から「もうっ、ルーカスの顔目当てなんだから」という娘の声と笑いがひとしきり弾けた。店の中で、その光景を見てただ穏やかに微笑む。けれど胸のどこかで、まだ誰かの香りが離れなかった。
 昼を過ぎたころ、店主が店番を代わり、ルーカスと娘は休憩に入った。
 店の奥、住宅へと続く扉を抜けると、温かいスープの香りが漂っている。テーブルの上には、店主の妻が用意したスープと、焼き立てのパン。
「あら、ルーカス。もう体調は戻ったの」
 妻が笑顔を向ける。ルーカスは小さくうなずき、スープを口に含んだ。塩気が喉にしみて、ようやく体調が戻ったことを実感した。
 妻が店へ戻ると、静けさの中で娘が言った。
「オルガ君は、大丈夫だった」
 その名を聞いた瞬間、ルーカスの指先がわずかに止まる。 娘は、オルガの失踪を知らない。ルーカスは短く笑って、うなずいた。
 頬を赤らめた娘が、視線を落としたまま続ける。
「もしルーカスが大変な時は、いつでも頼ってね。……私、力になりたいの」
 ルーカスはうつむいたまま、聞こえたふりをしてスープを飲んだ。
「あぁ、ありがとう」
「うんっ」
 その笑顔は、彼の胸の奥までは届かない。
 
 人通りが少なくなり始める頃、大通りの店々が看板を下ろし始めた。ルーカスの勤めるパン屋も例外ではない。
 娘から売れ残ったパンを受け取り、店を出ようとしたところで、店主に呼び止められる。
「悪いが、五日ほど店を閉める。窯がもう限界だ」
 前々から告げられていた窯の不調に、眉尻を下げて静かにうなずいた。
 店を出た彼は周囲を見渡し、ひとつため息をつく。家に帰っても独りきり。その事実が足取りを重くさせ、自然とルードの診療所へ向かっていた。
 診療所は閉まっており、ルーカスは扉をノックする。
 「……誰だ」
 奥から聞こえた声は、聞き慣れぬほど低く、乱れていた。
「ルーカスだ。一緒にパンを食べよう」
 ゆっくりと開いた扉の先には、乱れた髪のルードが立っていた。部屋の奥から漂う強いアルコールの匂いに、ルーカスは思わず眉をひそめる。室内には空き瓶が転がり、いつもの整った空気はどこにもない。
 ルーカスは窓を開け、部屋の空気を入れ替えた。
 ソファに座り込んだルードは、焦点の合わない目でその様子をただ眺めている。
「……元気か」
 かすれた声に、ルーカスは振り返って笑ってみせた。
「あぁ、元気だよ」
 ルードは手にしていた瓶をテーブルへ置き、静かに瞼を閉じた。
 ルーカスはその隣に腰を下ろし、軽く肩にもたれ掛かる。
「ルードさんは、元気じゃなさそうだ」
 返事はない。ただ、隣の体温だけが確かにそこにあった。

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