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ルクレールの過去

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ノアがキッチンに行った直後、ルクレールは目覚めないリラに自分のことを語り始めていた。

「あたし、ホントはオメガが大嫌いなのよ」

リラの目元にかかった髪を優雅な手つきで払い、ルクレールは目元を緩めた。

「だって、あたしがどんなに最新の医療を編み出そうとも、全部無駄になるんだもの……」

かつて王都で暮らしていたルクレールがこの地にやってきたのは、もう何年も前のことだ。
当時、この北部の辺境伯領に番がいるアルファ以外は出入りを制限する、などというルールはなかった。
そのため番がいなかったルクレールも特に苦労することなくこの地に辿り着いたのだ。
北部の辺境伯領は、様々な理由で王都や故郷に居られなくなった者たちが最後に辿り着く場所であり、ルクレールもまたそのうちの一人にすぎなかった。
人嫌いで協調性の欠片もなかったルクレールは、この地で診療所を開くも常に閑古鳥が鳴く状況であり、街の人々も気難しいルクレールに治療を頼もうとはしなかった。
そんな中、ある日突然、ひとりのオメガがやってきたのだ。
笑顔が愛らしいオメガだった。

「薬って、いくらくらいするの?」

極寒の中、薄いローブ一枚を羽織っただけで尋ねてきたそのオメガは、戸棚の薬を指差して尋ねてきた。

「さぁな」

どうせ冷やかしだろうと、ルクレールは相手にしなかった。
やって来たオメガを無視して調合が終わった薬を一包ずつ包んでいく。
王都ではこの作業をすると、包み方が雑だなんだと上官がイチャモンをつけてきたものだ。
贈り物ではないのだから多少雑でも中身が用法通り入っていれば問題ないだろう。というのがルクレールの主張であり、事あるごとに上官と衝突していた。
そんな過去のことを思い出していると、背後からひょこり、と手元を覗き込まれた。

「薬って飲んだことないけど、粉なんだね」
「…………」

なんだこいつ、というのが最初に抱いたそのオメガの印象だ。
それと同時に、ルクレールはあることに気づいていた。
このオメガからはフェロモンの匂いがしない。
つまりは番がいる、ということだ。
本来、庇護欲が強いアルファは自分の番をひとりにはさせたがらない。余程このオメガを信用しているか、はたまたルクレールが理解できない程の放任主義なのか、それとも――。
ぴたり、と動きを止めると、オメガは「あっ」と声を上げて数歩後ずさった。

「ごめんね。邪魔だったよね」

ははっ、と乾いた笑い声をあげたそのオメガをよく見れば、ローブの下はボロボロになった服だけを着ており、靴はなく裸足だった。
今は長い雪の季節だ。
北部出身の人間ですら、裸足でなんて歩かない。

「――お前、どこから来た」

この町の人間の顔は一切覚えていないが、このオメガがこの町の住民ではないことは明らかだった。

「どこからだろう? 土地の名前とか知らないんだ」

多くのオメガは教養を身につけていない。
この国の王族がアルファ一族のせいもあり、オメガは優秀なアルファの繁殖のために扱われてきたからだ。自分の名前すら知らない、という者も珍しくはない。

「じゃあ番はどうした。いるんだろう」

そう尋ねると、オメガの表情が暗くなる。
だからすぐにわかってしまった。
あぁこのオメガは捨てられてしまったのか、と。

「番になっておきながら無責任な奴もいたもんだな」

自身もアルファだからわかる。
この人、と決め、番契約マーキングをしたオメガを捨てるなど言語道断だ。
だが世の中には、そんな無責任なアルファも多く存在している。
ルクレールが王都を離れたのは、そのせいでもあった。

「――他に好きな人ができたみたいだから、仕方ないんだ。それに、あの人の子を生めなかったから、オメガとしての役目を果たせなかったし」

にっこりと笑いながらそのオメガはそう言った。
曇りのないその笑顔を見て、嘘偽りない本心からの言葉だと気づいてしまい、腹の奥に渦巻く黒々強い苛立ちを鎮めるために、ルクレールは口汚く舌打ちをする。

「足、見せてみろ」
「え?」
「こんな雪の中を歩いて来たんだろ。診てやる」
「でもお金……」
「金のために医者をやってんじゃねぇよ」

チッ、ともう一度舌打ちをし、ルクレールは呆気にとられているオメガを無理やり自分の膝の上に座らせると、ぐいっ、と細い脚を持ち上げた。
華奢な身体がひっくり返らないよう、薄い背中をがっしりと太い腕で支え、両足を交互に診察する。

「――お前、良くここまで歩いてこられたな。凍傷になってんじゃねぇか」
「……もう、足の感覚がないから」
「…………」

どれだけの日数、裸足で歩いてきたのだろうか。
足の指は所々壊死しかけていて、歩けるのが不思議な状態になっている。
ルクレールはまた舌打ちをして、今度はその身体を横抱きにして抱き上げた。

「え!? ちょっと……!」
「黙ってろ」

言いながら、奥の診察台の上にその痩躯を横たえ、薄いローブに手を掛ける。

「え……、あの……」
「医療行為だ。下心なんてねぇよ」

襲われるとでも思ったのだろう。
戸惑いを見せていたが、ルクレールのその一言で安心したように全身から力が抜けていく。
オメガの身体は痩せ細っており、性器を確認しなければ男女の区別ができない程だった。
ルクレールは眉一つ動かさず、治療が必要な個所に適切な処置を施していく。その間、オメガは大人しくされるがまま、ただじっとルクレールの顔を見つめていた。
二時間ほどかけて身体の洗浄と治療を施し、裸の身体に自分が着ていた白衣を羽織らせる。

「――飯、食えるか」
「いや、そこまでしてもらうのは……」
「俺は医者で、お前は患者だ。患者は大人しく医者の言うことを聞いて、質問に答えりゃ良いんだよ」

ふんっ、とそっぽを向くと、オメガはルクレールのそれが照れ隠しに近いものなのだと悟ったのだろう。目元を潤ませ、こくり、と頷いた。
オメガには名前がないというので、ルクレールが「シキ」と名付け、自然と二人は共に暮らすようになった。
不愛想なルクレールの診療所が賑やかになってきたのはこの頃だ。
シキが外で知り合った人々が診療所に訪れるようになり、ルクレールの不愛想がただ単に照れ屋なだけ、と周囲に知れ渡り街に溶け込んだ頃。
シキは倒れた。
昔のことを語り続けていたルクレールが、そこで言葉を切る。

「――あたしは、あの子が好きだったから、手を尽くしたわ。でも、ダメだった。あたしに出来たのは、番契約マーキングを上塗りすることだけだったわ」

死なせたくなかった。
だが、ダメだった。
アルファの寵愛を失ったオメガは、様々な理由で死んでしまう。どんなに最先端の医療でもどうしようもないこの現象は恐らく、本能的なものに近いのだろうと、ルクレールは自らの長年の研究でその答えに行きついた。

「ノアにはその本能に抗えるだけの宝物ギフトがあるけど、あんたにはそれがないわ。幸い、あんたはまだ誰とも番契約をしていないから、もしあんたがまだ生きたいと少しでも望むなら、あたしがあんたの番になってあげる。ねぇ……どうする……?」

リラが何と返事をするのか、聞かなくても分かり切っている。
それでも尋ねずにはいられなかった。
そっとリラの手首に手を添えたルクレールはしばらく唇を震わせると、静かに手を離し、リラの顔を覆うようにして毛布を被せた。
そのときだった。
バンッ! と大きな物音と共に、誰かが二階に駆け上がってくる。外に居た犬たちもいるのだろう、その気配も感じた。
小さく息を吐き、くるりと長い髪を翻して部屋の扉を開けると、駆けてきたノアを背中に隠し、ルクレールは侵入してきた青年たちを睥睨する。

「てめぇら、誰がこの診療所に入っていいと言った?」

切れ長のルクレールの鋭い眼光と犬たちの唸り声が青年たちに突き刺さる。
そこに居たのは、酷くやつれ貴族とは思えない身なりをしたディラン・ヴィレンツェとドレイク・オストランだった。
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