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千年後の世界

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 白と青を基調とした広い部屋にある、ベルベットのソファに、少女はそっと下ろされた。
 今まで触れたことのない柔らかく肌触りの良い布の感触に、少女は手の平でソファを撫でながらも部屋を出て行こうとするデュクスを目で追う。
「――どこへ行くの?」
 彼がドアノブに手をかけた瞬間、少女は広い背中に向かって尋ねる。
「侍女を数人連れて来る。身支度は彼女たちに任せれば大丈夫だから」
「あなたは居てはくれないの?」
 もう少しだけ、その顔を見ていたかった。
 きっと皇帝の前に連れて行かれたら、二度と会えないだろう。
 地下牢か、塔の最上階に監禁されて、また祖国のような扱いを受けるに決まっている。
 デュクスは「一緒に来てほしい」と友好的な言葉を述べたが、自分が歓迎されていないことくらい、わかっているのだ。
「さすがに淑女の着替えに付き添いはできない」
「そう……」
 たかが服を着るだけだというのに、彼はもうこの部屋には留まってくれる意思はないようだ。
 本人にその気がないのであれば、強制することはできない。引き留める理由もない。
 少女は僅かに俯き、そして顔だけでこちらを振り返ったデュクスへわずかにほほ笑んだ。
「ご機嫌よう」
 せめて最後に、彼の姿を目に焼き付けておこう。
 まっすぐに記憶の中の騎士と瓜二つの顔を見つめる。
 出来るだけ長くその顔を眺めていたかったのだが、彼はふいっ、と顔を逸らすと、今度こそ部屋を出て行ってしまった。
 パタン、と扉が閉まり、少女は瞼を閉じた。
 五人の侍女の手によって、少女は隅々まで洗われ、そして黒いドレスを着せられた。
 フリルやレースがあしらわれていたが、黒一色であるせいか、豪華さよりも落ち着いた印象のある上等の布で作られたドレスだった。
 これを着付けた侍女たちは、にこりともせず淡々と作業をし、そして「少々お待ちくださいませ」と言い残して部屋を出て行った。
 その声が少し震えていたことに、少女は気づいている。
 少女が滅びを齎すとされる闇の魔女だということを知っているのだろう。それでも恐怖の感情を押し殺してポーカーフェイスを貫き通したのは、さすがは皇族に仕える者たちだといえるだろう。
 黒い髪と瞳は、世界のどこへ行っても敬遠される。魔力持ちが多い国ほど、その傾向は強かった。
「……どこにいれば良いのかしら」
 ひとりになってやっと小さく息を吐いた少女は、広い部屋をぐるりと見渡した。
 部屋には小さな衣装棚とソファしかない。
 暇をつぶせそうなものが何もなく、手持ち無沙汰になってしまう。
 長い事、自分の作った闇に包まれた世界に閉じこもっていたのだし、一人遊びには慣れているのだが、なぜか落ち着かない。
 とりあえず、隅っこにいよう、と移動し、その場に両膝を立てて座り込む。
 床に敷かれているカーペットも、とても手触りの良いものだった。
「あたたかい……」
 ずっと、地下牢の冷たい石畳の上にいたから、そのぬくもりには違和感があった。
 尻の下がむずむずする。
 ソファに座らされたときはあの青年のことばかり気になって気づかなかったが、あまり肌には合わないようだ。
「ドレスのせい……?」
 ぴらぴらとスカートの裾を上げ下げしていたとき、コンコン、と部屋がノックされた。
 何の音だろう、と扉へと顔を向けるが、何も起こらない。ただ、その裏に人の気配があることはわかった。
「――……」
 コンコン、とまたノック音が聞こえる。
 少女は黙って音のする方を見つめ続けていたが、扉の裏側にいる人物が動く気配はない。
(どうして扉を叩き続けているのかしら……?)
 そのノックの意図がわからない少女は、じっと扉を凝視し続ける。
 そして三度目のノック音が聞こえた後、しばしの間を置いて扉が開いた。
「――入ってもよろしいか?」
 現れたのは見知らぬ青年だった。
 デュクスと同じ騎士服を身に纏った、焦げ茶色の短髪で厳つい顔つきの大男が部屋の隅に蹲っている少女に向かって尋ねてくる。
「私は捕虜なのでしょう。お好きにどうぞ」
 素っ気なくそう返すと、青年は体格とは裏腹に優雅な動きで音もなく部屋の中へと入ってきた。
 だが少女の方に近づくことなく、扉を開けたままそこに立っている。
「レディ、そこで何をしておいでか?」
「なにも」
 素直にそう返すと、大男は一瞬目を眇め、だがすぐに顔から表情を消した。
「皇帝陛下の元へ、ご同行願う」
 大男は自己紹介をすることなく、淡々と抑揚のない声音でそう言った。
 名乗らないのは賢明だ。
 魔女に名乗ってはいけないことを、この男が知っているのか、それとも名乗る必要がないと思っているのかはわからないが、彼の判断は正しい。
 大男の言葉を受け、少女はすくりと立ち上がり、合意した旨を態度で示し、両手を突き出した。
「……なんだろうか?」
 その仕草の意味がわからないのか、大男はわずかに眉根を寄せる。
「皇帝陛下への謁見なのでしょう? 魔封じの手錠なり、足枷なり、付ける必要があるのではありませんか?」
 そんなものを付けたところで、少女にはなんの効果もないのだが、それを教えてやるほど親切ではない。
 だが、敵意はないのだという意思表示をすることは多少なりとも必要だろう。
 この身に宿る魔力は、人知を超えている。
 人は、自分より強い者や、意味の分からない存在に畏怖を覚えるものだ。
 力を封じられた闇の魔女の前で、この国の皇帝が何を言うのか、それを確かめておきたい。
 人の手でもどうにでもなる存在だとわかったとき、この国の皇帝が何を口にするのか、その言葉ひとつでこの国の人となりが把握できる。
(あの国の王は、私の腕を斬り落としたっけ……)
 死なない赤ん坊はすぐに魔封じ鎖を全身に巻き付けられ、祖国の王の前へと突き出された。
 乱暴に扱われても泣きもしないことに、薄気味悪い赤子だと、あの王は言った。
 そして何かする前に両腕を斬り落とせと兵士に命じ、実際に斬り落とされた。
 けれど、当時最強の魔封じとされた鎖は効力を発揮せず、斬り落とされた腕から血の代わりに黒い靄のようなものが湧き出て、小さな腕は再生したのだ。
 それを目の当たりにした王は真っ青になり、赤子を城の奥深くにある地下牢へと監禁した。
 何十にも魔封じを施し、そこで赤子が餓死するのを待とうとしたのだろう。
(結局、私は死ななかった……)
 逆に、当時の国王は病でそのあとすぐ死んだ。
 少女は何もしていなかったのだが、つい数日前まで元気だった国王の死は闇の魔女の呪いだと城中の者が騒いでいたのを、覚えている。
 命知らずな若者が「悪魔は自分が退治する」と、剣を向けてきたこともあった。
 無抵抗な赤子を何度も刺したその若者は、やはり数日後、変死を遂げた。
 赤ん坊を殺そうとした者たちの死に、城の人間たちは恐怖に震えあがり、そして今度は世話を始めた。
 抱きしめられたことなどない。
 地下牢へ連れて来られた侍女たちは、泣きそうな顔を引きつらせ、最低限の世話だけをして去っていく。
 優しい言葉をかけてもらったことは一度もなかった。
『どうして、どうして私が、こんな化け物の世話なんて……』
 震える声で、ひとりの女がガタガタと震えながら哺乳瓶でミルクを与えてくれたことがある。
 生まれて間もない赤子は、人語を理解していた。
 自分が普通の人間ではないことも、もちろんわかっている。
 闇の魔力は底知れない何かを秘めていた。
 千年に一度しかその力を持って生まれる者がいないせいか、闇の魔力はその力を持つ者に様々な知識を与えてくれたのだ。
 そのため、少女は赤ん坊の頃から、賢かった。
 これ以上世話にやってくる者たちを怖がらせないよう、身体が相応の年齢に成長するまで一切言葉は話さなかった。
 普通の赤子を演じることが、彼等に植え付けてしまった恐怖心を増長させない唯一の選択だと、知っていたから。
「レディ。我々はあなたをそのように扱うつもりはない」
 不意に聞こえた言葉に、物思いに耽っていた少女はハッとして大男へと意識を戻した。
「団長より、あなたのことは丁重に扱うように指示を受けている」
「……私が闇の魔女だと、わかってのことかしら?」
「承知している」
「私、こんな形だけれど、国一つくらい簡単に滅ぼせるくらいには力があること、ご存じ?」
 敢えて挑発的に言ったのだが、大男の表情は微動だにしなかった。
「だからこそ、無礼があってはならない」
「私、あなたの名前を知らないわ」
 無礼があってはならない、と口にするのだから、名乗るのが礼儀だろうとワザと煽った。
 闇の魔女の逸話を知ってるなら、余程の命知らずではない限り拒否するはずだ。
 意地悪だな、と自嘲気味な笑みを浮かべていると、大男はしばし黙った後、その場に片膝を折って頭を下げ出した。予想外の展開に、少女は僅かに身を引く。
「目下の者が目上の者より先に名乗ってはいけないのがこの国での礼儀。だが、レディにとってそれが無礼に当たるというのであれば、謝罪する」
 まさかそんなことで騎士として最上級の謝罪をされるとは思わず、わずかにたじろいだ。
「そ、うなの……」
 なんだか悪いことをした気がして、少女はこの国での礼儀を知らなかったことについて謝った。
「ちょっと揶揄っただけ。そんな真面目に捉えられるとは思わなくて……。ごめんなさい」
「申し訳ない。私は冗談というものが理解できない」
 また、大男に謝らせてしまった。
 この男は見た目に反して、愚直で規律に正しく生きてきたのだろう。
「あの、もう顔を上げて……」
 そっと手を差し伸べたときだった。
「何をしている」
 硬質的な声音が室内に木霊し、少女は開け放たれていた扉の前に立っていたデュクスの冷たい双眸を目の当たりにし、思わず手を引っ込めた。
「ハレス。答えろ」
 ハレス、と呼ばれた大男がサッと立ち上がりデュクスへと頭を下げる。
「申し訳ございません。私が不躾だったため、レディに失礼を――」
 最後まで言い終わる前に、ハレスの大きな身体が吹き飛んだ。
 ダンッ、と大きな音を立てて、巨体が壁へと打ち付けられる。
 二倍ほどの体格差があるのに、デュクスはいともたやすくハレスを殴り飛ばしたのだ。
 あまりにも突然のことだったので、少女は状況を理解するまで数秒の時間を要してしまう。
「貴様、彼女に何をした」
 綺麗な青い瞳が鋭く光り、デュクスは壁に背を打ち付けて動けずにいるハレスの胸倉を掴み上げた。
 その拳にわずかながら魔力が籠っている。
 苦し気に唸るハレスを絞め殺しかねないデュクスの豹変に、少女はようやく我に返り彼を止めた。
「待って。私がちょっと揶揄ったせいなの。彼は何もしてないわ」
 少々迂闊だった。
 この国は少女が思っていた以上に規律に厳しい国なのかもしれない。
 ハレスはただ、少女に誠実にあろうとしただけだ。それをこんな形で非難されるのはあまりにも哀れである。
「ちょっと冗談を言って、彼を困らせてしまったの。この国のことを知らなかった私のせいだわ」
 騎士がただの小娘に頭を下げることが何かの規律に反するのであれば、正直に自分の非を詫びなければならない。
 何もしていないハレスが絞殺される姿は見たくはなかった。
「――レディ。あなたはこの男が気に入ったのか?」
 ハレスを締め上げる手はそのままに、デュクスが静かに尋ねてくる。
 その意味をあまり深く考えず、少女は何度も頷いた。
「えぇ! 気に入ったわ! だからその手を離してあげて!」
 そう言い募ると、デュクスの手はハレスから離れ、大きな身体がズルズルとその場に崩れ落ちていく。
「次はない。私の命令に背くことは許さない」
 ハレスに向けられたその冷たい声と瞳に、少女はほっと胸を撫でおろしながらも、少しだけ悲しくなった。
(あの騎士様とは、本当に違う人なのね……)
 もう会えないと思っていたからまた彼に会えたことに胸は高揚したが、デュクスの行動のひとつひとつを見る度、記憶の中との騎士との違いに気づいてしまう。
 似ているのは顔だけ。
 もちろん別人であることは頭ではわかっている。
 見た目がそっくりなだけで、彼はあの青年ではない。そうわかっているのに、あの青年の面影を探そうとしている。
(……バカバカしい)
 少女はふたりから視線を逸らし、どこか宙を見つめた。
 脳裏に浮かぶあの青年はもういない。
 似ているからと言って、デュクスの中に居もしない彼を探してはいけない。
 もし似ているところがあったとしても、それでも彼は、あの青年ではないのだから。
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