43 / 78
四皿目 どら焼きと離婚寸前の夫婦
その1 味見とどら焼き
しおりを挟む
八月に入った。
「葉月」や、紅葉して葉が落ちる「葉落ち月」や、雁が初めてくる「初来月」、台風が来る「南風月」など、八月は呼び名が多い。
いずれも秋の気配を感じる呼び名だが、蝉時雨の大音響の中、照り付ける日差しが強く、厳しい暑さが続いている。
菜々美は徒歩で通勤していたが、自転車に変更した。帽子を被ってペダルを漕ぐと風が気持ちよく、結界を抜ける時に翡翠のピアスが熱を帯びることにもすっかり慣れた。
「おはようございます!」
扉を開けて『甘味堂夕さり』に入ると、小豆を煮るよい匂いがして、咲人が和菓子の命ともいえる餡を厨房で作っていた。
真剣な眼差しで厨房に立つ咲人の凛々しさは、いつ見ても惚れ惚れする。
「菜々美、早速だが、味見してくれ」
「はい!」
差し水を繰り返し、小豆をコトコトと煮て、上白糖を加えて混ぜ合わせて作られた餡子は今日も三種類だ。
小豆の食感が味わえ、大福や最中、きんつば、どら焼き、たい焼きなどに用いられる『粒餡』、なめらかな食感でさらりとした口当たりの『こし餡』と、色を染めて練り切りやこなし、きんとんなどに使われる『白餡』それぞれを味見する。
いつ食べても、咲人が作る餡は市販の餡の何倍も美味しい。
「小豆の味が濃厚で、実に味わい深いです。今日の餡もいい味ですね」
「そうか」
咲人の目元が少しだけ緩み、口元がゆっくり弧を描く。
菜々美が臙脂の作務衣に着替えて戻ると、小鬼の鬼之丞が咲人に甘えていた。
「パパ、ボクもななたんみたいに、あじみするー」
「ん、鬼之丞も味見がしたいのか」
咲人はスプーンで餡を掬い、鬼之丞の前に差し出した。
「いたらきましゅっ」
小さな両手で餡をおにぎりのように握り、あむっと頬張ると、鬼之丞は満面の笑みを浮かべた。
「おいしー! ななたん、おいしいね」
「うんっ。私も咲人さんの作る餡が、世界一美味しいと思うわ」
菜々美は鬼之丞のぶにっとやわらかな頬を、指先でちょんとつついた。
「ふふ、鬼之丞ちゃんの頬は、お餅のように弾力があって、美味しそうね」
「ボクのほっぺ、おいしそう? えへへ」
嬉しそうに笑いながら、鬼之丞は餡を頬張っている。
「菜々美は、『どら焼き』と『みたらし団子』を作ってくれ。分量はこれだ。俺は上用粉仕立ての餅菓子『ききょうもち』と、寒天を使った涼菓『琥珀羹』を作って店頭に並べる。できたら鬼之丞に味見させてやってくれ」
「わかりました」
「わぁい、ボク、『どら焼き』も『みたらし団子』も、大すき!」
嬉しくてぱあぁぁっと鬼之丞の顔が輝き、黄色と黒の縞々パンツ姿で「どらやき~、おだんご~」と歌いながら踊り出した。
「それじゃあ、まず『どら焼き』を作ります。鬼之丞ちゃん、待っていてね」
菜々美は髪をポニーテールにすると、念入りに手を洗った。
平安時代、あの弁慶が牛若丸のために熱した銅鑼で焼いたという伝承が残っている『どら焼き』は、ふっくらとしたカステラ生地の間に餡を挟み込んだ和菓子だ。
卵を常温に戻し、上白糖と薄力粉をそれぞれふるって、重曹を水で溶いた。それらに蜂蜜を加えて混ぜ合わせ、常温で生地を休ませる。やわらかさを加減しながら、丸く広がるようにフライパンで焼き、ふつふつと気泡が浮いたらひっくり返す。
「いいにおい。たべたい」
鬼之丞がうっとりしている。
「どんどん焼いていくからね」
「葉月」や、紅葉して葉が落ちる「葉落ち月」や、雁が初めてくる「初来月」、台風が来る「南風月」など、八月は呼び名が多い。
いずれも秋の気配を感じる呼び名だが、蝉時雨の大音響の中、照り付ける日差しが強く、厳しい暑さが続いている。
菜々美は徒歩で通勤していたが、自転車に変更した。帽子を被ってペダルを漕ぐと風が気持ちよく、結界を抜ける時に翡翠のピアスが熱を帯びることにもすっかり慣れた。
「おはようございます!」
扉を開けて『甘味堂夕さり』に入ると、小豆を煮るよい匂いがして、咲人が和菓子の命ともいえる餡を厨房で作っていた。
真剣な眼差しで厨房に立つ咲人の凛々しさは、いつ見ても惚れ惚れする。
「菜々美、早速だが、味見してくれ」
「はい!」
差し水を繰り返し、小豆をコトコトと煮て、上白糖を加えて混ぜ合わせて作られた餡子は今日も三種類だ。
小豆の食感が味わえ、大福や最中、きんつば、どら焼き、たい焼きなどに用いられる『粒餡』、なめらかな食感でさらりとした口当たりの『こし餡』と、色を染めて練り切りやこなし、きんとんなどに使われる『白餡』それぞれを味見する。
いつ食べても、咲人が作る餡は市販の餡の何倍も美味しい。
「小豆の味が濃厚で、実に味わい深いです。今日の餡もいい味ですね」
「そうか」
咲人の目元が少しだけ緩み、口元がゆっくり弧を描く。
菜々美が臙脂の作務衣に着替えて戻ると、小鬼の鬼之丞が咲人に甘えていた。
「パパ、ボクもななたんみたいに、あじみするー」
「ん、鬼之丞も味見がしたいのか」
咲人はスプーンで餡を掬い、鬼之丞の前に差し出した。
「いたらきましゅっ」
小さな両手で餡をおにぎりのように握り、あむっと頬張ると、鬼之丞は満面の笑みを浮かべた。
「おいしー! ななたん、おいしいね」
「うんっ。私も咲人さんの作る餡が、世界一美味しいと思うわ」
菜々美は鬼之丞のぶにっとやわらかな頬を、指先でちょんとつついた。
「ふふ、鬼之丞ちゃんの頬は、お餅のように弾力があって、美味しそうね」
「ボクのほっぺ、おいしそう? えへへ」
嬉しそうに笑いながら、鬼之丞は餡を頬張っている。
「菜々美は、『どら焼き』と『みたらし団子』を作ってくれ。分量はこれだ。俺は上用粉仕立ての餅菓子『ききょうもち』と、寒天を使った涼菓『琥珀羹』を作って店頭に並べる。できたら鬼之丞に味見させてやってくれ」
「わかりました」
「わぁい、ボク、『どら焼き』も『みたらし団子』も、大すき!」
嬉しくてぱあぁぁっと鬼之丞の顔が輝き、黄色と黒の縞々パンツ姿で「どらやき~、おだんご~」と歌いながら踊り出した。
「それじゃあ、まず『どら焼き』を作ります。鬼之丞ちゃん、待っていてね」
菜々美は髪をポニーテールにすると、念入りに手を洗った。
平安時代、あの弁慶が牛若丸のために熱した銅鑼で焼いたという伝承が残っている『どら焼き』は、ふっくらとしたカステラ生地の間に餡を挟み込んだ和菓子だ。
卵を常温に戻し、上白糖と薄力粉をそれぞれふるって、重曹を水で溶いた。それらに蜂蜜を加えて混ぜ合わせ、常温で生地を休ませる。やわらかさを加減しながら、丸く広がるようにフライパンで焼き、ふつふつと気泡が浮いたらひっくり返す。
「いいにおい。たべたい」
鬼之丞がうっとりしている。
「どんどん焼いていくからね」
10
あなたにおすすめの小説
異世界に転移してしまった私、古民家をもらったのでカフェを始めたら大盛況。国王陛下が頻繁に来るのですが、どうしたらいいですか?
来栖とむ
ファンタジー
ブラック企業で疲れ果てた30歳の元OL・美里(みさと)が転移した先は、見渡す限りの深い森。
そこで彼女が授かったのは、魔女の称号……ではなく、一軒の**「日本の古民家」**だった!
亡き祖母が遺したその屋敷には、異世界では失われたはずの「お醤油」「お味噌」「白いお砂糖」という禁断の調味料が眠っていて――。
「えっ、唐揚げにそんなに感動しちゃうの?」
「プリン一口で、国王陛下が泣いちゃった……!?」
おにぎり、オムライス、そして肉汁溢れるハンバーグ。
現代日本の「当たり前」が、この世界では常識を覆す究極の美食に。
お掃除のプロな親子や、お忍びの王様、さらにはツンデレな宮廷料理人まで巻き込んで、
美味しい香りに包まれた、心もお腹も満たされるスローライフが今、始まります!
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】
佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。
新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。
「せめて回復魔法とかが良かった……」
戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。
「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」
家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。
「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」
そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。
絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。
これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
異世界ママ、今日も元気に無双中!
チャチャ
ファンタジー
> 地球で5人の子どもを育てていた明るく元気な主婦・春子。
ある日、建設現場の事故で命を落としたと思ったら――なんと剣と魔法の異世界に転生!?
目が覚めたら村の片隅、魔法も戦闘知識もゼロ……でも家事スキルは超一流!
「洗濯魔法? お掃除召喚? いえいえ、ただの生活の知恵です!」
おせっかい上等! お節介で世界を変える異世界ママ、今日も笑顔で大奮闘!
魔法も剣もぶっ飛ばせ♪ ほんわかテンポの“無双系ほんわかファンタジー”開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる