50 / 78
四皿目 どら焼きと離婚寸前の夫婦
その8 迷いながら
しおりを挟む
出て行った濡れ女の方を見つめたまま、瑠璃がギリギリと奥歯を噛みしめた。美女が怒るとすごい迫力だ。
「不倫女が! よくも堂々と顔を出せたわね!」
バリバリと音を立てて瑠璃の周囲が氷に包まれていく。蘭丸があわてて、「やめてよ、瑠璃さん」と言いながら、ポットを持ってきて熱湯をかけて溶かしている。
そんな騒ぎの中、マリナがゆるゆると顔を上げた。
「あ、あたし……夫が浮気したとわかっても、嫌いになることができないんです。もう一度やり直したい……。でも、夫が今の女性と暮らすようになって、このまま別居になったら……父親が大好きな鬼之丞に寂しい思いをさせることに……あたし、どうすればいいのか……」
「マリナ、まだ夫を愛しているなら、無理に結論を急ぐことはない」
咲人が静かに言うと、瑠璃も目元をゆるめて、マリナを励ます。
「あたしも、亡くなった夫をまだ愛しているのよぅ。彼が亡くなって五年経っても、全然忘れられないの。もう会えないし、声も聞けないけれど……。マリナさんがうらやましいわ」
「う、うぅ……っ」
マリナは声を上げて泣き出した。
さめざめと泣き、うずくまってしまったマリナの後方で、小さな声が聞こえた。
「かーちゃ?」
目を覚ました小鬼の鬼之丞が、二階から降りてきたのだ。
お店の中に母親のマリナがいるのを見て、つぶらな瞳がうるうると潤んだ。
「かーちゃ! かーちゃあぁぁ!」
わあぁぁっと走り出し、泣きながらしがみつく鬼之丞を抱きしめ、マリナは何度も愛しい息子の名を呼ぶ。
「鬼之丞……! 鬼之丞! ああ、鬼之丞……会いたかったわ」
「かーちゃあぁぁっ、うわあぁぁん、ああぁぁん!」
小さな鬼之丞を抱きしめ、マリナはしばらく動かなかった。
「鬼之丞にも辛い思いをさせて……ごめんね……あたし、本当にどうしたらいいのか……」
咲人が二階を指差し、マリナに優しく声をかける。
「今夜は家へ泊まっていけばいい。鬼之丞も喜ぶ。蘭丸も泊まれ」
「えっ、僕も?」
「マリナだけ泊めるわけにはいかない。俺とマリナと鬼之丞だけで一晩過ごしたことを知ると、彼女の夫が誤解するかもしれないだろう?」
蘭丸が悲鳴のような声を上げる。
「待って! 明さんが誤解したらどうするの? 僕、殺されちゃうよ」
顎に手を当てて考え、咲人が顔を上げて菜々美を見た。
「それじゃあ、菜々美も泊まればいい」
「わ、私も?」
「三人なら明も何とも言わないだろう」
「え、で、でも……私……」
泊まっていけと言う咲人の声が耳の奥で何度もリピートされ、菜々美は動揺して言葉が続かない。
「それがいいよ。咲人くんの家は広いから部屋はたくさんあるし、菜々美ちゃんを襲ったりしないよ。大丈夫だからね」
蘭丸のあっけらかんとした口調に、動揺した自分がおかしくなって、菜々美は明るく、「わかりました」と答えた。
「いいな、楽しそう。あたしも泊まろうかな」
「バアちゃんまで?」
「蘭丸、誰がババアですって?」
瑠璃の目が光り、氷のような風がピンポイントで蘭丸に吹き付ける。
「うわ、冷たいっ、ごめん、瑠璃さん」
咲人が静かに口を開く。
「瑠璃は今夜、仕事があると言ってなかったか?」
「そうだったわ。今夜は猫又のご夫婦から、老け顔作りの特殊メイクの予約が入っているんだった。そろそろ準備しなくちゃ。残念だけど、帰るわね」
ひらひらと手を振り、瑠璃は急いで帰って行った。
菜々美はスマートフォンを取り出し、母の智子へ、『今夜は友達のところへ泊まります』とメールと送る。すぐに母から『楽しんできてね』と返事があった。
それを見たマリナが「あたしも、夫へ連絡を入れておきます」と言った。
愛人宅と家を行ったり来たりしている夫が、もし家に戻ってきて、自分がいないことを心配してはいけないから……と気遣う彼女が健気で、菜々美は深く長いため息を落とした。
「そいえば、濡女のあやかしさんが来たことは知らせないのですか?」
「ええ。それは夫と顔を合わせて、話そうと思います」
マリナはスマートフォンで夫へメールを送った後、返事を気にしていたが、マリナの夫からメールも電話も何も返ってこなかった。
「不倫女が! よくも堂々と顔を出せたわね!」
バリバリと音を立てて瑠璃の周囲が氷に包まれていく。蘭丸があわてて、「やめてよ、瑠璃さん」と言いながら、ポットを持ってきて熱湯をかけて溶かしている。
そんな騒ぎの中、マリナがゆるゆると顔を上げた。
「あ、あたし……夫が浮気したとわかっても、嫌いになることができないんです。もう一度やり直したい……。でも、夫が今の女性と暮らすようになって、このまま別居になったら……父親が大好きな鬼之丞に寂しい思いをさせることに……あたし、どうすればいいのか……」
「マリナ、まだ夫を愛しているなら、無理に結論を急ぐことはない」
咲人が静かに言うと、瑠璃も目元をゆるめて、マリナを励ます。
「あたしも、亡くなった夫をまだ愛しているのよぅ。彼が亡くなって五年経っても、全然忘れられないの。もう会えないし、声も聞けないけれど……。マリナさんがうらやましいわ」
「う、うぅ……っ」
マリナは声を上げて泣き出した。
さめざめと泣き、うずくまってしまったマリナの後方で、小さな声が聞こえた。
「かーちゃ?」
目を覚ました小鬼の鬼之丞が、二階から降りてきたのだ。
お店の中に母親のマリナがいるのを見て、つぶらな瞳がうるうると潤んだ。
「かーちゃ! かーちゃあぁぁ!」
わあぁぁっと走り出し、泣きながらしがみつく鬼之丞を抱きしめ、マリナは何度も愛しい息子の名を呼ぶ。
「鬼之丞……! 鬼之丞! ああ、鬼之丞……会いたかったわ」
「かーちゃあぁぁっ、うわあぁぁん、ああぁぁん!」
小さな鬼之丞を抱きしめ、マリナはしばらく動かなかった。
「鬼之丞にも辛い思いをさせて……ごめんね……あたし、本当にどうしたらいいのか……」
咲人が二階を指差し、マリナに優しく声をかける。
「今夜は家へ泊まっていけばいい。鬼之丞も喜ぶ。蘭丸も泊まれ」
「えっ、僕も?」
「マリナだけ泊めるわけにはいかない。俺とマリナと鬼之丞だけで一晩過ごしたことを知ると、彼女の夫が誤解するかもしれないだろう?」
蘭丸が悲鳴のような声を上げる。
「待って! 明さんが誤解したらどうするの? 僕、殺されちゃうよ」
顎に手を当てて考え、咲人が顔を上げて菜々美を見た。
「それじゃあ、菜々美も泊まればいい」
「わ、私も?」
「三人なら明も何とも言わないだろう」
「え、で、でも……私……」
泊まっていけと言う咲人の声が耳の奥で何度もリピートされ、菜々美は動揺して言葉が続かない。
「それがいいよ。咲人くんの家は広いから部屋はたくさんあるし、菜々美ちゃんを襲ったりしないよ。大丈夫だからね」
蘭丸のあっけらかんとした口調に、動揺した自分がおかしくなって、菜々美は明るく、「わかりました」と答えた。
「いいな、楽しそう。あたしも泊まろうかな」
「バアちゃんまで?」
「蘭丸、誰がババアですって?」
瑠璃の目が光り、氷のような風がピンポイントで蘭丸に吹き付ける。
「うわ、冷たいっ、ごめん、瑠璃さん」
咲人が静かに口を開く。
「瑠璃は今夜、仕事があると言ってなかったか?」
「そうだったわ。今夜は猫又のご夫婦から、老け顔作りの特殊メイクの予約が入っているんだった。そろそろ準備しなくちゃ。残念だけど、帰るわね」
ひらひらと手を振り、瑠璃は急いで帰って行った。
菜々美はスマートフォンを取り出し、母の智子へ、『今夜は友達のところへ泊まります』とメールと送る。すぐに母から『楽しんできてね』と返事があった。
それを見たマリナが「あたしも、夫へ連絡を入れておきます」と言った。
愛人宅と家を行ったり来たりしている夫が、もし家に戻ってきて、自分がいないことを心配してはいけないから……と気遣う彼女が健気で、菜々美は深く長いため息を落とした。
「そいえば、濡女のあやかしさんが来たことは知らせないのですか?」
「ええ。それは夫と顔を合わせて、話そうと思います」
マリナはスマートフォンで夫へメールを送った後、返事を気にしていたが、マリナの夫からメールも電話も何も返ってこなかった。
10
あなたにおすすめの小説
異世界に転移してしまった私、古民家をもらったのでカフェを始めたら大盛況。国王陛下が頻繁に来るのですが、どうしたらいいですか?
来栖とむ
ファンタジー
ブラック企業で疲れ果てた30歳の元OL・美里(みさと)が転移した先は、見渡す限りの深い森。
そこで彼女が授かったのは、魔女の称号……ではなく、一軒の**「日本の古民家」**だった!
亡き祖母が遺したその屋敷には、異世界では失われたはずの「お醤油」「お味噌」「白いお砂糖」という禁断の調味料が眠っていて――。
「えっ、唐揚げにそんなに感動しちゃうの?」
「プリン一口で、国王陛下が泣いちゃった……!?」
おにぎり、オムライス、そして肉汁溢れるハンバーグ。
現代日本の「当たり前」が、この世界では常識を覆す究極の美食に。
お掃除のプロな親子や、お忍びの王様、さらにはツンデレな宮廷料理人まで巻き込んで、
美味しい香りに包まれた、心もお腹も満たされるスローライフが今、始まります!
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】
佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。
新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。
「せめて回復魔法とかが良かった……」
戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。
「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」
家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。
「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」
そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。
絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。
これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
異世界ママ、今日も元気に無双中!
チャチャ
ファンタジー
> 地球で5人の子どもを育てていた明るく元気な主婦・春子。
ある日、建設現場の事故で命を落としたと思ったら――なんと剣と魔法の異世界に転生!?
目が覚めたら村の片隅、魔法も戦闘知識もゼロ……でも家事スキルは超一流!
「洗濯魔法? お掃除召喚? いえいえ、ただの生活の知恵です!」
おせっかい上等! お節介で世界を変える異世界ママ、今日も笑顔で大奮闘!
魔法も剣もぶっ飛ばせ♪ ほんわかテンポの“無双系ほんわかファンタジー”開幕!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる